第140話 光明、清風が走る
「――ぁ、気がつきました。クライグ様、大佐が……」
夜半、第五軍の本営中央、ベッドの上に横たわっている男が、薄っすらと目を開ける。視点はふらふらと彷徨った後、見覚えのある女性に気付き、瞳に光が戻る。
見守っていたシャルミラはクライグに声を掛けつつ、男の額から布を取り水桶に浸す。ひんやりと湿ったそれが再び当てられ、男はか細い声が発す。
「……ここ、は……? 中尉、私は……生きている、のか?」
「まだ寝てて下さい。傷の方はアメリアが治してくれましたけど……軍医が言うには血が足りてないらしいです。暫くは安静にお願いします」
起き上がりかけたまだ全身に包帯の目立つ男――ベルナルドはクライグに抑えられ、力無くベッドに戻る。眩暈を覚え視界が定まらない。言われた事は頭に入るものの、自身の生存が信じられなかった。覚束なく伸びた腕は自身の胸元を探り、察したシャルミラが口を開く。
「まるで致命傷を避け、縫う様な傷だったとか。そしてこれが大佐の胸元から、シャツのポケットから出てきました」
目の前に、赤く四角い物が出される。ベルナルドは手を伸ばすものの焦点が定まらない。はたと気付いた指先は、ベッドの傍の机を指差す。
「中尉、一番上の引き出しから青い小箱を頼む。私にはそれが必要だ」
淡々とした抑揚のない、まるで氷の様な声。耳慣れた声音にクライグは笑みを浮かべ、素早くそれに応える。言われた通りの場所からガシリと、鷲掴みにされた長方形の小箱が、ズイッと差し出された。
「ありがとう、まずはこれが無ければ……。ふむ……良好だな」
予備の眼鏡を掛け、そのままベルナルドはシャルミラの持つ――血塗れた手紙を受け取った。命と手紙があるという状況は疑念の全てを解消させた。体は兎も角、精神面はすっかり元通りに、寧ろ表情には明るいものさえ見える。
「さて閣下は何と……血が滲んで読み難いな、我がものながら忌々しい」
ベルナルドの言葉は、レーミスの心に響いていた。どの辺りで正気を戻したのかは定かでないが、少なくとも後半は演技であったらしい。霧があるとは言え万が一の人目を考えたのであろう。手加減をしていたのかは、定かではない。
霧が晴れた後、気を失い倒れていたベルナルドを、フィオンが上空から発見しグラスの背に乗せ本陣まで運ばせた。負傷者の治療に当たっていたアメリアが逸早くこれを手当てし、一命を取り留めていたのである。戦の方は昨日に引き続き敗北となっていたが、これさえあれば――ベルナルドは主君からの言伝を、覗き見ようとしている二人にも伝える。
「閣下の改竄は解けたとの事だが、戻るよりもあちらにいる方が……状況を動かせると踏んでいる。私としては早く戻って来て貰いたいものだが……まぁしかし、これならば明日は――」
レーミスは引き続き、第一軍の指揮を執り続けるつもりであった。無論一切勝たせようとは思わず、さりとて露骨に負けさせては怪しまれるので、のらりくらりとした用兵をする、と手紙には明記されている。その間に西軍は他の戦線に力を入れ優位を作り、じりじりとこの内戦を制せよと、命令口調で書かれていた。
主君の変わらぬ威勢の良さに、重傷を負わされた男は心地良さそうに、笑みを浮かべ一字一字を噛み締める。
「第一軍に手抜きをさせている間なら……やっぱ加勢するのは中央ですか? ベドウィルさんのところが勝てばここは一気に」
「それが妥当ではあるがこれだけでは……もう少し具体的な情報が欲し……!」
まるで聞かれていたかの様に、机の横に置かれている、魔操具の通信機がガタガタと動き出す。ペッと吐き出された紙には求めていた情報がびっしりと、他でもないレーミスから送られてきた。
シャルミラに手渡されベルナルドはそれに目を通す。
「危険かもしれないと解っていても……やはり便利なものですね。レーミス様にはあの事は……」
「まだ伝えられてはいない、こちらにお戻りなられてからだ。万一にも漏洩させてはならないからな。さて……いやしかし……これは……」
追加の指令に目を通すベルナルドの、目と口は苦々しく歪む。どうやら頼りになる主君は、こういう事には不得手の様子。戦に強いという事が必ずしもその逆に通ずるという訳ではない。
思えば、彼女は正面切っての戦いは滅法得意なものの、虚実や絡め手の類は好んで使う事は少なく、そういったものは自身がいつも担当していた。この内容のままに明日の戦が展開されるのなら、今は休んでいられる場合では無い。
「大佐? レーミス様はなんて……と言うかちゃんと寝てて下さいよ。アメリア達は今怪我人のところ回ってますけど、戻って来たらもう一度治癒を……」
気遣うクライグに、ベルナルドは鋭い声を飛ばす。既に時刻は夜半過ぎ、明日の戦で彼女に合わせるとなれば、猶予はそう残されていない。
「中尉、伝令を呼んで来てくれ。閣下の御意向を……ぁーいや、まずは閣下の身に何が起こったのか説明が要るか。ならば、まずは近衛達にだけでも……うかうか寝てはいられんな、供を頼む」
起きて早々、ベルナルドは青白い顔のまま仕事に励む。体にはもちろん良くないがそれは精神面で最高の栄養であった。彼女の意思の元に働くという事こそ、彼にとっての生き甲斐にも等しいのだから。
夜の兵営を駆けずり回る氷の男は、いっそ楽しげである様だった。滅多に見せぬ笑みを浮かべ、陣のあちこちへ自ら赴き、明日の邂逅を心待ちにする。
平原には待ちに待っていたかのように、爽やかな風が吹き始めた。




