第135話 甘き泥
「一体こいつは……どういう事なんだ……」
絞り出すようなイーヴァンの声が、テントの中に通る。しんと静まり返った薄灯りの中、それは彼が思っていたよりも強く響いた。
誰に向けたものでもない。それは皆解っているものの、作戦に携わったフィオンとアメリアは、どうしても顔を上げられない。グラスは人魂の形体でふよふよとしているが、いつもよりはほんの僅かに、揺らぎが小さい様にも見える。
レーミスの改竄を解く策は、遂行はされたものの成果には結び付かなかった。昨日ほどではないにせよ、今日の戦いも敗退に終わっており、このままズルズル行けば兵達の士気を折ってしまうだろう。そうなれば如何に兵数が残っていようとも、戦いを続行する事はできなくなる。
「……塞いでおっても何も始まらん。まずは原因を考え次の策を立てるとしよう。わしらには、前を向く義務があるのじゃからな」
落ち着いた声で諭しながら、ベドウィルは皆の顔をゆっくり見る。年長者であり総大将である彼の存在は、安らかで大きな大樹の様だった。
「とは言え……お嬢ちゃんの治癒はしっかりとわしを癒やしてくれた。治癒士に掛かった事は何度かあるが……いや、大したもんじゃよ。ネビンで改竄を解いてくれたのもはっきりと覚えておる。はてさて、何が悪かったのやら」
帰参した時には老将は夥しい傷に覆われていたものの、今はその痕も無い。アメリアの治癒はしっかりと働いており、それは益々作戦の失敗に疑念を生じさせた。
ベドウィルにより少しだけ和らいだ空気の中で、そうやく皆の顔から緊張が解ける。まだフィオンとアメリアの二人だけは少し影が濃いものの、一先ずは顔を上げ前を見やる。
「私は……ちゃんと触ってちゃんと力を使えて、いたはずです。ほんの一瞬だったけどたしかに……成功したと、思ってました」
アメリアが触れていなかった、とは考え難い。嘘を付いているとは到底思えず、この大一番でその様な事をする性格でもない。それは沈痛に伏していた気配だけでも痛々しいほどに皆解っていた。付き合いの長いフィオン達も、まだ日の浅いベドウィル達も、誰も彼女を疑ってはいない。
少女もそれに気付き、深く胸を撫で下ろした。肩の力は取れてくれたようだ。
――場が整うのを待っていたかのように、ベルナルドは懐から紙束を取り出す。手早く皆にそれを渡し、一呼吸置いてから話始める。
「君達に協力してもらった時のものだが……なにぶん数が少なかったのでね、ずっとお蔵入りだったのだ。その後の分を合わせそれなりの数になったものがついさっき届いた。目を通して欲しい」
渡された紙には、アメリアの力で改竄を解いた際の、細かなデータがずらりと並んでいた。解けるまでの時間、解けた際の反応、その後の容態――年齢や男女、更には人種にまで分けられた欄がびっしりと目に飛び込む。アメリアが直接解いた人数はそれ程でもなかったが、その後の身内や親族の説得によるものが加えられ、資料は膨大な情報となって纏められている。
「……見た感じでは何と言いますか……老若や性別で何か差異がある様には見えませんが――ぁ、そういう事ですか」
逸早く見終えたシャルミラは、二枚目に記載されている文字に気付く。
『特記事項、回復難行者』――記載を読む限り、アメリアが関わった中には見られなかったが、どうやら改竄を解くのに苦労した者達が相当数いたようだ。ずらりと、先程のものに加え該当者の出身地や職業、果ては趣味趣向等にも調査は及んでいた。
「はー……ここまで調べて……。それで、これで解った事とかは」
「クライグよ、ついさっき届いたって言ってたろ、つまり……今から考えるって事だよな? それにしてももう少し早く出して欲しかったが……」
自身達の憔悴を考えれば、ベルナルドには少しでも早くこれを教えて欲しかった。レーミスがこの資料の者達と同様なのかはまだ解らないが、幾許かは心が楽になっていたはずである。
「私もそうはしたかったのだが、役に立つかも解らないものをおいそれと出す訳にはいかん。それで益々混乱してしまっては収拾がつかないだろう。……何か気付いた事があれば教えてくれ、どんな些細なものでも良い」
皆は黙々と資料に目を注ぎ、改竄の解くのに苦労した者達の情報を確認していく。オリバーは文字を読むのに少々難しいところがあり、フィオンと一緒に精査していった。
「出身地……バラバラ、だよナ? 職業モ、なにか纏まりがある様にハ……見えないんだガ」
「だな、どうにも肉体労働者が多いみたいだが……鍛冶師に工事夫、あとは料理人が少し多いってくらいか? でも漁師や狩人にはほとんどいねえ。……軍人もちらほらだが、数と合わせりゃそうでもない、か……」
「なるほド、確かにこりゃサッパリだナ。こういうのは俺達向きじゃないようだガ……向こうも苦労してるみたいだナ」
ヴィッキーとシャルミラが頭を突き合わせ、更にラオザミもそれに加わり意見を交わしている。だが傍目から見ても解る通り、知恵者達も頭を捻らせている様だった。
「……頑固者が、解けにくいって事かい? 料理人はどうか知らないけど、鍛冶師や職人ってんならそういうのが多いだろう。改竄はどうか知らないが、その類の魔導はそういう奴らに効き難く、逆に一回決まっちまえば中々解けないって話だよ?」
「それは職業偏見では……全ての職人が頑固者という事はないでしょう。効き難い者が逆に解け難いというのであれば、ダークエルフ達は魔導のそれに、耐性があると聞いた事が……」
「うむ、我らにはたしかにそういう者が多い。だが今回のものは皆一様に誑かされ……我も多くを説得したが誰もそう苦労をする事は無かった。これを見る限りダークエルフ達に回復難行者とやらは……一人もいなかった様だな」
「益々解んないねえこいつは。……なるほど確かに、藁をも掴む気持ちだったけど……これを出されても逆に困るばかりだ。フィオンは兎も角、アメリアにだけこっそり教えるとかの方が良かったかもね」
敢えて聞こえぬ振りをして、フィオンは席を立ちテントの端の木樽に寄る。昼と比べて夜は少々冷えが強く、頭を使っては渇きを覚える。樽の中には水の魔操具で蓄えられた清水が、鏡の様に湛えられていた。
「漁師はおらんようじゃが、この船乗りというのは何じゃ? 他に船を使うものと言えば……定期船やら旅客船の方かの?」
ベドウィルの問いにベルナルドがサッと答えるが、共に難しい顔が浮かぶ。資料を見る限り何か共通点はありそうだが、それが中々見えてこない。
「その通りです。主にはヒベルニアと本土を繋ぐ船の者達になります。丁度スコットランドとウェールズやエクセターの間を往来する船もこちらに来ておりまして……逆にそれらの者達には、該当者はおりませんでした」
同じ様な職種や業種においても、持ち場や所属によって回復難行者の数はがらりと変わっていた。どうも都会で働く者にその傾向は多く、田舎の者達には少ない様だが、太い線引きができる程では無い。
特にヒベルニアには対象者が少ない様だが、その地の主もまた頭を抱える。
「改竄に関しては殆ど任せっきりにしてたからなあ、ちっとも知らなかった。……まぁ俺が説得に当たった所で、大した役には立たなかったろうがな」
「そう嘆くな坊主よ。能天気よりはマシだが自虐的なのも良くない。確かに……お前が顔を出した所で借銭や貸し借りの件を蒸し返されるだけだったろうがな」
「……こういう時は無理にでも主を立てろ。公の場って訳じゃないが、俺にも沽券ってものがな」
「立てれるものがあるならばそうするが――今はせいぜい茶柱とお前の猫背と……他に何か、この場で立てれるものがあるか?」
「獅子が猫背を注意するなっての。何かあるまで黙ってろ」
重苦しくなりそうだった場に、イーヴァンとグラスは軽い掛け合いを交わす。夜の考え事は自然と下を向きがちになる。それを思っての配慮であろう。
フィオンは樽から水を掬い、杯を満たす。ほんの一口飲めれば良かったが少し多く注いでしまった。そのまま口に運び杯を呷り――アメリアの声が聞こえた。
「定期船なら、私達がヒベルニアから帰ってくる時に乗ってきました。とっても大きな船で皆で……。普通は自然の風だけで進む、んですよね? でもあの時は風はそんな強くは」
「その通りじゃな。ものにもよるが大型の船には大抵魔操具が付いておる。お陰でヒベルニアとうちとの間は随分快適になったものよ。風と潮流任せのみではどうにも、自然の気紛れに振り回されてしまうからのお。わしの若い頃は……」
脳裏に過ぎる。まだ誰も欠けていなかった頃の思い出――今はそれに浸っている暇は無く、冷たい水と共に流し込む。今目を向けるべきは目の前の――
「あの船……魔操具が付いてるからってかなり乗賃が高かったね。速かった事は否めないが、もうちょっと安くしても良いんでないかい? そんなにヒベルニアの財政は逼迫してんのかねえ?」
ヴィッキーの圧にイーヴァンがどよされ、場はほんの一時和らぎが通る。本気のものではないだろう。塞がりかけの議論を彼女なりに、あくまでらしく気遣ったまでの事。
それを背後に聞き、フィオンは違和感を感じる。口に付いていた杯が、何故だか急に――フッと己の手が、それを離した。杯が落ち、水が撒かれる。
「――魔操具……?」
そこらに当たり前に満ち、皆の生活を支えている、最早なくてはならない必需品。このテントの明かりも、兵士達に振る舞われる料理の火も、今己の喉を通っていったひんやりとした飲み水も、全ては魔導の産物でありそれを齎しているものは――吐き気がする。
腹の中に、泥を感じた。




