第134話 策、成れり
翌日、じとりとした空気が平野にこもる。両軍がこぞって火計対策に水撒きをしており、その癖一帯の水はけは悪く、さらに風が殆ど無いものだから空気が淀んでいた。早朝にも関わらず息を吸っても、鼻と喉にはぬるい湯が通るよう。堪らず誰しも腰の水袋に手が伸びるものだから、水の魔操具は引っ切り無しに稼働し続け、一帯の湿度は増していくばかりだった。
前日の焼き写しのように、兵達は隊列を整えている。違いは両軍の両翼、南北がそっくりそのまま入れ替わっている事のみ。西軍が北の第五軍と南の第六軍を交代させたのに合わせ、東軍もまたぴったりと後を追う様に、配置を替えていた。
南部の戦線。漆黒の鎧に身を包んだ騎士が、再び、自らが育て上げた第五軍団の前に馬を進ませる。それは兵達のよく見知った姿そのものであり、居丈高に発せられる凛々しい声は――敵意に満ちていた。
「性懲りもなくまたも我が前に姿を曝すか、反逆者共! 昨日の無様をもう忘れたか? それとも揃いも揃って命知らずか恐れ知らずか……。良い、その根性だけは褒めてやろう。――さぁ感謝に咽び泣き、この地の肥やしとなるが良い!」
記憶と想いを封じられた姿は、凛々しくも痛々しく、身内にも等しかった者達を絶望に突き落とす。敵対者として、トリスタン六世――レーミスは斧槍を高らかに掲げた。背後の白い軍勢、第一軍団が粛然と動き始める。率いる者一人でここまで変わるものか。ストーンヘンジでは多勢ながらに敗退を喫した弱軍は、今はその気配は欠片もない。並び立つ盾と槍に一糸の乱れ無く、踏み出す足に一切の縺れ無く、正しく万民が畏怖すべき、王の軍勢と称するに相応しい。
対する第五軍は、声も発せずに足が退く。槍どころか弓を合わせる前から敗退を顕にしていた。改竄を解く策に関し、兵達には何も知らされていない。漏洩し敵に対策を取られてしまっては元も子も無く、予想通りに陣の配置換えは敵に筒抜けであった。間者が入り込んでいる事は間違いない。
「ッ……下がる時は左右と息を合わせよ! 足並みを乱せば自身が危険になるぞ。無理に踏み止まれとは言わんが……せめて閣下に我らの、意地を見せよ!」
号令も無くじわじわと下がる自軍を、ベルナルドはせめて声を張り上げ、隊列を揃えさせ瓦解を防ぐ。戦線が崩壊してしまってはやはり策どころではなく、それまでは何としてでも耐え凌がねばならない。
矢を降らされ槍に突き押され、黒の軍勢は為す術もなく下がって行く。昨日とは違い統率こそ取れているものの、戦いの形にはなっていない。
前線は見る見る内に後退し、戦場の南端には件の森が――無数の鳥が飛び立つ様に、ダークエルフ達の矢が暗がりから放たれた。
「っふん、芸の無い連中め。――左翼横隊、構えよ!」
号令一下、第一軍は速やかに盾を掲げ、驟雨の如き矢を防ぐ。これを見越し第一軍は、左翼の部隊だけ重厚な盾を予め用意していた。耳を突く甲高い音がしきりに上がるものの、苦悶に歪む声は一つも聞こえない。
「森は相手にするな! 人狼共に備え長槍で探るに留めよ。中央と右はそのまま、腰抜け共を戦場から追い出してやれ!!」
森からの援護も虚しく、戦線は更に押し進められていく。ワーウルフ達も草地に伏せ機会を狙うものの、種が割れていては打てる手は無かった。
このままいけば昨日と同じく、第一軍が中央の戦場へ雪崩れ込むに至る。これに合わせる為か中央では、ガレンスは右翼側に出張りベドウィルをそちらへ引っ張っていた。二人の一騎討ちは遠くこちらにまで響き、その苛烈さを嫌でも伝える。こちらの決壊に合わせての対応は、望めないだろう。
「右に馬を回しておけ、今日は手緩くはいかんぞ。投槍兵と弓兵を――?」
レーミスの口を塞ぐように、一矢が飛来する。それは事も無げに叩き落されるが、次いで――無数の矢が、彼女一人に襲い掛かった。それは最早鳥ではなく森からアーチ状に長い身を伸ばす蛇の様であり、黒い雪崩となって一騎だけを飲み込む。騎乗していた黒馬が斃れ、騎士は地に投げ出された。
「閣下!? 誰か、誰か盾を――!?」
黒い柱の下から、黒冑がゆっくりと立ち上がる。草地に流れる血は全て馬のものであり彼女自身は、襲い来る全てを斧槍で払い落としていた。安否を気遣った兵は戦慄に口を塞がれる。
「狼狽えるな、この程度でやられては哂い者よ。……既に指令は発したぞ。木偶の様に突っ立ってないで早く動け」
どよめきながらも兵達は動き出し、レーミス自身も矢を防ぎながら森から後退する。柱の様に一点に集中された矢は彼女に傷一つ付けれてはいない。尚も降り注ぐものの間合いに入る端から、全てが叩き落とされ地に積もる。払い一つで十の矢が折れ落ち、返しの一つで更に二十の矢が砕け散る。まるで彼女を包む様に、目には見えない金剛の壁がある様だった。
――とは言え、足は地を擦り動くのがやっとであり、漆黒の騎士は文字通りに釘付けにされている。目を見張る様な絶技ではあるものの、決して片手間で成し得ている訳では無く、彼女の神経の全てはそちらへ向いていた。
兵の一人が、短く声を上げる。喉の詰まったような、何かに怯えた耳障りな声。
レーミスは視線は動かさず、兜のバイザーの隙間からそれに気を掛ける。その様な場合では無いにも関わらず、武人としての本能が危険を伝えていた。マントの端を矢が掠め、風に扇がれたかのようにたなびく。たかが矢の一本でそうなる訳も無く風の正体は――空を滑る様に駆け迫る、蒼炎の獅子であった。その背には二人、青年と少女が乗っている。
「ほぉ――目晦ましか」
レーミスは動じる事無く、最小限の動きで斧槍を取り直し獅子へ構え直す。グラスの接近に伴い矢の雨は止んでいた。如何にダークエルフ達に神箭の手練れが揃っていようとも、ここまで肉迫してしまえば誤射が危ぶまれる。
轟音を伴い斧槍が空を切る。冷静に振る舞ってはいるものの、まんまと策に乗せられた彼女の、煮え滾る心を表しているようだった。
グラスの背のフィオンは怖気を堪え、渾身の力で盾を合わせる。
――どうして俺なんだ? そもそもグラスに乗るってんなら、イーヴァンの方が適任なんじゃないか?
昨夜、ベルナルドが示した策は、至極単純なものであった。ダークエルフ達の矢を援護兼陽動とし、グラスがアメリアを乗せレーミスに接触するというもの。交差する際にはどうしても矢の援護は途絶える事になり、その一瞬に必ずや彼女は反撃してくるだろう。その一撃を凌ぐ為にも護衛役の同伴は必須。
それに指名されたフィオンは、何故自分なのかと首を傾げた。決して断るつもりは無いのだが、適任者は他に幾らでも、それこそグラスの主であるイーヴァンの方が相応しいだろう。ただ一撃を防ぐだけとは言え、相手が相手である。
氷の様な男は溜め息一つ、氷の様に口を開き、しかし心の通った言葉を連ねた。
「ヒベルニア候には指揮官としての役目がある。ウェールズ候も私もそれは同じ、持ち場を離れる事はできん。クライグに前線を張らせる訳にもいかない。となれば……いや、君より腕の立つ者は確かに軍の中に幾らでもいるが……では彼女を、誰かに任せて良いのかね?」
試すような問いに、答えるまでも無かった。誰かに委ねる事も託す事も、決して納得できない。隣に座るアメリアもまた、無言で頷きを返してくれた。
「――だったら、しっかりと君が守りたまえ。こういった任務には心の問題も大きいものだ。……彼女の秘密を守る為にも、この方が良いだろう」
――ただの一合で、盾は無残に砕け散る。鉄の枠組みは曲がりひしゃげ、硬い材木は枯れ葉の様に散り散りになる。全身に雷のような衝撃が走り、何かが鈍く軋む音がぎしりと、腕から脳へ伝わった。
「ッ゛――アメリア、後は頼んだ!」
――それでも、フィオンは一撃を耐え凌いだ。腕が残っている方が不思議な程ではあるが、五体は無事に残り、振り切られた斧槍の懐に達する。
鎧に身を包んだアメリアは、全力で腕を伸ばす。力を伝える為に指先だけが露出しており――交差の刹那――確かに漆黒の鎧の肘を、金属の無い関節部に少女の指は届き、触れた。
はっきりと手応えを感じ、炎の獅子はそのまま風の様に駆け抜ける。二人はその背にしがみつきつつ、やり遂げた事に感慨を交わし合う。
「やったよフィオン! これでレーミスさんが正気に戻れば、ここの戦いは……」
「あぁ、こっちが有利になるだろうな。我ながらよくやったもんだ。……心配すんなって。こういうのは泥沼に嵌まっちまう方が、色々悲惨になっちまう。早く終わらせる方が死人は少なくて済むんだ。……お前がやってる事は絶対に、誰かを救ってるよ」
ほんの僅かに、自身の行いの是非を考えたアメリアだったが、それは一瞬で消え失せる。振り返った少女は心配そうに、遠のいていく黒の騎士を見やっていた。
「あそこで元に戻っちゃったら、周りは皆敵だよね。……大丈夫かな?」
「それこそ心配すんな、蟻の中に虎がいる様なもんだろ。待ってりゃ堂々と帰ってくるだろうさ。俺達はそれまで……火消しと怪我人の救助と、あとは矢の運搬と……まぁ、やる事は変わんねえか」
大任を終え肩から力を抜きつつ、二人はグラスに運ばれ第五軍団の下へと帰って行った。あとはレーミスの帰陣が成れば、この戦場の趨勢は――
「…………?」
二人の背を見送った黒の騎士、レーミスは小さく首を傾げる。何ら体に不調は無く森からの鬱陶しかった矢も止んでいる。馬はやられたものの四肢に付けている魔操具は無事であり、別の馬に付け替えれば何ら問題は無い。
「閣下、御無事ですか? 一体今の奴等は何を……」
「……さてな、冷やかしか何かの時間稼ぎか、詮索するだけ無駄だろう。……機を逸したか、少し立て直されてしまったな」
炎の獅子の背に乗っていた二人に、レーミスは何ら――見覚えがなかった。バイザーを上げ戦線を睨み、冷たい目つきで、黒の軍勢を淡々と観る。
「まだ何か手を隠しているかもしれん。ガレンスと耄碌では時間を掛ける程にこちらが有利。まだ二日目、焦る必要もないか。……適当に削っておけ。指揮官ではなく兵を狙い更に指揮を挫いてやれ」
フィオン達の思惑を嘲笑うように、漆黒の騎士はそのまま手堅い用兵を発揮し、第五軍団を蹂躙していった。目論見を外したベルナルドは歯噛みし守勢に徹するものの、ただ被害を抑える事しか出来ずに、斜陽を迎える。
平原の戦いは二日目を終え、今日もまた、兵の総合力でならば最優と名高き第五軍団は、民達からも最弱と嗤われる第一軍団に敗北した。




