第99話 ボルドルーンサガ
年代記、或いは編年史。歴史書の類に分類される書物。
記される理由は後世への伝達の義務感、独自史観の表現欲、歴史への純粋な興味等様々であるが、作者の想像や脚色は極力排されており、それらが多く含まれるものは歴史文学として区別される。筆者や編纂者がいる以上、必ずしも正当性を保障されたものでは無いが、歴史資料としての価値は確実に存在する。
祖父メルハンが円卓の上に置いた古びた本、ボルドルーン年代記。
表題の意味にフィオン達は首を傾げ、各々が予想を出し合うが、的外れであると言わんばかりに老人は溜め息を付く。
「ボルド、ルーン……ルーン? ボルドの神秘、かね? 魔道書って訳かい?」
「それだと年代記には繋がりません。知らない名前ですが王朝名か時代の名前か、それでしたら年代記と言うのも解りますが……」
「……どちらも違うわい。嘆かわしい事じゃ、最近はもう学び舎で教えておらんのか? これはウェールズの言葉が訛ったものじゃよ」
珍しく的を外したヴィッキーとシャルミラ。二人揃って引き下がり場を譲る。
メルハンは身を乗り出し、フィオンの前に置かれた本に指を伸ばしながら説明する。皺だらけの痩せた指はボルドルーンを、ボル・ドルーンの二つに分けた。
そのまま意味に関しても、フィオン達のよく知る名前を口にする。
「ウェールズの言葉でボル・ドルーン……円い卓という意味じゃ。つまりこいつは円卓の年代記、脚色や余計な思惑は少ない……まだ物語になる前の、散文じゃな」
物語になる前の円卓の騎士の記録。年代記に書かれているからと言ってそれだけで全てが正しいという訳では無いが、それでも今のフィオン達は嫌でも興味を駆り立てられる。
表題はウェールズ語だったが、中身は全てフィオン達の慣れ親しんだ文字。
誰が言うまでも無くフィオンはパラパラと頁を捲り、とある場面を探しだす。斜め読みで探す場面は件の決戦、円卓の騎士達の結末、カムランの丘。
曽祖父メドローがモードレッドであると言うのなら、その結末は何か知らないものになっているはず。
「……言っておくがそいつは発禁書じゃ、ドミニアが定めたな。恐らくは現存しておる最後の一冊、破くでないぞ?」
「発禁……つまり、書かれてるのは本当に国にとって面倒な……!
フィオン、見つかったのか? 俺にも見せてくれ」
目的の頁に辿り着き、フィオンは食い入る様に文字に目を走らせるが、眉間には段々と皺が寄っていく。
間違いなく、カムランの丘の決戦に関しての頁。そしてそこにははっきりと、
『アーサー王とモードレッドはカムランの丘で戦った』と、明記されている。
これではフィオン達の知る通り、物語と何ら変わりない内容。曽祖父メドローがモードレッドであり存命していたという事実には、どう考えても繋がらない。
「……ジジイ、こりゃどういう事だ? まさかこっからモードレッドが……大ジイが勝って生き残るなんて事に……」
「まあ待て、早とちりをするでない。……例え話を行う、解り易い様に話すが……聞き難い内容になる。わざとやる事じゃ、我慢して聞くように」
わざと聞き難く、しかし解り易い例え話。
何を言っているのか今一フィオン達には解らないが、一先ずはメルハンの話に耳を傾ける。このまま年代記を読むにしても全て読むには余りに長過ぎ、掻い摘まむとしてもどこを読めば良いか解らない。
祖父は一つ咳払いをしてから話始める。フィオンとクライグを登場人物とし、一つの目的を達成するべく邁進していく話を。
「フィオンとクライグが魔獣の討伐を請け負ったとする。今からその準備をしていく……。魔獣の討伐の為に下調べを行い、魔獣の討伐の為に作戦を立て、魔獣の討伐の為に装備を整え、魔獣の討伐の為に日程を組み、魔獣の討伐の為に……」
「……あの、メルハンさん? その……何度も言わなくてもわか――」
口を挟みかけたアメリアだが、一先ずフィオンは頭に手を置き黙らせた。いきなりボケたという事でも無い限り、この話し方には何か意味があるはず。
主語や目的語が解り切っているのであれば、聞き易さや読み易さを重視して、それらが省かれる事は別段珍しくも無い。語り部の詩であろうとも、多くに読まれる書物、文章――――物語でもあろうとも。
五人は少々耳障りにも感じながら、メルハンの話を黙って聞き通す。全ての言葉に魔獣の討伐の為にと喧しく付けられ、更に延々と続いていき…………魔獣がいると目される森、漸く話はそこへ差し掛かる。
「……二人は魔獣の討伐の為に森に踏み入り、魔獣の討伐の為に探索し……そしてとうとう……『フィオンとクライグは森で戦った』。……話はこれで終いじゃ」
唐突に打ち切られ、直ぐに察しが付いたヴィッキーとシャルミラは顔を強張らせるが、言いたい事に思い至り、愕然とする。
『フィオンとクライグは森で戦った』これが先程の年代記の記述、
『アーサー王とモードレッドはカムランの丘で戦った』にどう関係するのか。
フィオンも話の要点に気付くが、口はわなわなと震えだす。その様な呆れる理由で、捻じ曲げられて良い訳が無いと。
「おい、ジジイ……ふざけてんのか? つまりさっきのは…………は? そんな、下らねえ……勘違いって……」
「早とちりするな、勘違いによるものでは無い。……さっきの箇所から三、四頁前に戻り、そこからじっくりと読んでみれば全て気付く。悍ましい悪意にな」
カムランの丘から数頁戻り、フィオンは言われるがまま文字に目をなぞらせる。
モードレッドに関する記述は、そう多くない。僅かに書かれているものは、忠勇の騎士、勇猛で栄誉ある騎士等、まるで叛逆の騎士とは正反対のものばかり。
そして彼ら円卓の騎士達の敵は、敵対勢力がブリタニアの外から招いた傭兵部隊、アングロ人やサクソン人が暴走したものであると、誰にでも解る様に明記されている。
「お前も解るじゃろ? しっかりと読めば、読み間違える事は有り得ん内容じゃ。その上で『アーサー王とモードレッドはカムランの丘で戦った』だけが今広まっておる物語に、都合良く使われておる…………つまり、そういう事じゃ」
年代記を持つ手はわなわなと震え、フィオンの顔からは生気が抜けていく。
文字の羅列が伝える事は、平坦な事実。円卓内部での不義の決裂も、大陸への遠征やそれによる留守を突いた謀反も、その様な逸話は欠片も無い。
円卓はブリタニア内部での騒乱を鎮めたと、緩やかに締め括られている。
ヴィッキーはフィオンの変調には気付きつつ、今は真実をしっかりと確認すべきであると、メルハンに念を押して確認する。
「つまりこいつは……創作によってモードレッドの立ち位置が、いや……裏切りそのものが後付けってことかい? カムランの丘では深手を負ってる様だが……どう読んでもアーサー王とは味方で、敵はアングロサクソンじゃないか。随分とまあ何と言うか……ッチ、露骨だね」
「そういう事じゃ。読み物としては面白いものでは無い。年代記のままでは客受けが悪いと、どこぞの吟遊詩人か物書きか、或いは国が脚色したんじゃろう。つまらん幕切れは……ウケんからな」
円卓の騎士の物語を彩る数々の事件。悲恋の美女を巡っての円卓の騎士同士での決闘、王以上とさえ謳われる無双の騎士、一か八かの起死回生を賭けた大陸遠征による大国との決戦。そして幕切れは、王が絶対の信を置く能臣による叛逆の死闘。
年代記にそれらは影さえも無く、呆気無く、幕を閉じている。
何者かによる恣意的な解釈、改竄、歪曲。
理由は定かでは無い。金銭や売名等、現実的な利益を得る為だったかもしれないが、こうした方が面白いという、物語への純粋な追求だったのかもしれない。
「しかしこれが有ったなら……何故モードレッドは、メドローさんは行動しなかったんです? これ一冊だけで勝てるかどうかは解りませんが、味方に付く人は大勢出るはずなんじゃ……」
「気付いた時にはとっくに、物語の方が世間に浸透しておった。……親父殿は何もせず、わしが行動を起こそうとしても全て止められた。国や軍を恐れてかと思ったがどうにもそんな様子では無く……最期まで、何を考えておるかわしには解らず、不気味じゃったよ」
クライグの質問に沈痛に答え、メルハンは年代記をフィオンの手から引き離し、静かに仕舞い込む。
明らかになった叛逆の騎士モードレッドの正体。それは何の事は無い、円卓の盟主アーサー王に忠義を誓う、一人の騎士に過ぎなかった。記述が少なく、カムランの丘にてアーサー王に従事し戦ったという一点を利用され、物語を劇的に締めくくる為、徒花に仕立て上げられただけの、忠勇の士であった。
フィオンの手には力無く、双眸は朧気に円卓を見るのみ。傍らの少女は心配し呼び掛けているが、それには応えず、僅かに動く口は祖父へと、呪いを放つ。
「ジジイ……てめえ、これを…………いつから知っていた? いや…………知ってて俺を……軍人にしようとしたな? それは…………どういう意図だ?」
質量の有る言葉。書斎の空気は重力を上げた様に、声色によって重みを増す。
問われた祖父のみならず仲間達もフィオンを、まるで魔獣でも見るかの如く警戒する。既に答えの繋がっている青年は、徒手空拳の両手に狼の牙よりも禍々しい、憎悪を握り込んでいた。椅子に座ったまま顔は俯き、微動だにせぬまま狩人の男は、殺気を侍らす。
それを一身に浴びる祖父は、歯噛みしながらも答えを絞り出す。
それが最後の撃鉄であると――――気付けぬままに。
「ッ……この国は、事実上の軍事国家じゃ。円卓の騎士なんぞ民におべっかを使っておる武装組織に過ぎん。親父殿が死んで漸く自由になったが、わしは既に老い過ぎていた。お前を軍に送り込み地位を持たせてから真実を公表しようと……しかし、やはり国はわし等の事を把握しておった、そのせいで躓いて…………お前にとっても悪く無い話であろうが!? 成功していれば出世は約束されて……」
フィオンは動かない。恐怖に駆られたとは言え正直に話してくれた祖父に、僅かばかりの感謝さえも抱いている。
しかし――――それも直ぐに消え失せた。
老人の言い訳は耳に入らず、己が心を呪言で覆う。
「……し……が……。ど……て…………俺……? どう、して……」
心を埋め尽くす絶望と怨念。政争の具として良い様に使われていた己が半生と、失敗した途端、ボロ雑巾の様に捨てられた人生。
幼き日の心に確かに宿っていた騎士達への憧れと、軍人を志した憧憬の火さえ、今は酷く、醜いものに感じられる。
それを省みる青年は、呪詛を撒き散らしていた。
「どうして……俺が……どう、して…………オレが? ドウ、し……て……」
「フィ……フィオン? 大丈夫? ……しっかりして! フィオン!!」
せめてその発端、如何様にしてモードレッドの名誉が歪められたのか。
そこに一縷の希望を託していた青年は――――望みが途絶える。
下らない利己心、浅はかな金銭欲、下種な功名心。それらによって玩具とされた己の曽祖父、更にそれが波及した事で狂わされた自身の生に――――
捻じ曲げられた物語、その濁流の犠牲者は、運命に良い様に操られる。
「ドウシテ、俺が…………。ドウシッテ…………俺がッア? どウしィ、デッ!! ――――――俺ガア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」
「ヒィッ!?」
憤炎が上げる。
円卓は一足で踏み砕かれ、メルハンは胸倉を掴まれ声を発する間も無く、短い悲鳴と共に本棚に叩き付けられた。
復讐の矢と化したフィオンは己を操っていた人形師に、運命の操り人形に身を堕とし、祖父に怒りを叩き込む。