45話 鳴動(1)
――第三教区アシュトレル、聖地ヘレネケーゼ。
清浄な力に包まれた神秘の地。
中央の噴水から端々にまで、複雑な魔方陣を描くようにして聖水が絶えず流れ続けている。
賢聖ヘレネス・ゼレイスによって生み出された秘術――聖域加護。
この純白の祭壇は、大災禍以前より効力を発揮し続けている聖地であり、エルベット神教に欠かせない主要な遺物安置場でもある。
祭壇には帝国からも多くの魔道技術者が関わっており、大災禍以前の技術の粋とも言える遺跡だ。
今では再現不可能なほど複雑な術式も刻まれており、無闇に踏み荒らすような真似は出来ない。
双方が愚行を踏み留まれる理由があるからこそ、会談の場としても長い間利用されてきた。
そして今回は、カルネとラースヴァルド将軍の再臨を含め、ヘレネケーゼにて話し合いが設けられていた。
「祭壇に立ち入るのは初めてのようですね?」
緊張した面持ちのシェーンハイトに、カルネが柔らかな笑みを見せる。
生前に何度も訪れていた場所が、此の時代では易々と踏み入れられない場所になっていて、少しばかり可笑しく感じていた。
「……凄まじい聖気に、圧倒されてしまいそうです」
胆力には自信があるつもりだった。
だというのに、立っているだけで息苦しくなってしまうほど。
聖者とは斯くも存在感のある人物なのか。
死してから永き時が経って尚も、その力は衰える様子がない。
自分は賢聖ヘレネスに比肩するような聖者になれるだろうか。
命を擲って後世を護るような、高潔な人物になれるだろうか。
「……あれが媒介でしょうか」
噴水の中心には"慈悲深き賢聖師像"が佇んでいる。
ヘレネスの功績を讃えるために造られた彫像が翳し上げているのは、思わず息を呑むほどの膨大な魔力を帯びた純白の杖だった。
淡い魔力光を常に纏って、祭壇全体を維持し続けている。
陶磁のように艶やかな白色をしているが、その素材は特殊な金属を用いていた。
――聖杖『捧心』
賢聖ヘレネスの魂が込められているとされる遺物。
祭壇を維持するに足る強度を得るため、神剣『喰命』と同じ聖蝕銀と呼ばれる特殊な素材を用いて生み出された。
エルベット神教の四宝に並び得る、莫大な力を内包する大魔法具だ。
献身を超え、己の魂さえ捧げてみせた。
聖者としての格は『原理聖典』の中でも上位と評される。
「大いなる権能を賜った三聖女……私たちを除けば、彼は間違いなく史上最も尊い――」
カルネは穏やかな声色で、嘲るように称賛する。
「――信仰の犠牲者でしょう。誰よりも高潔で、臆病な人」
賢者ヘレネス・ゼレイス。
その魂は未だ眠ることなく、杖の中に幽閉されている。
「彼こそが、ユリスティアの神託によって造られた聖者。信仰心と弱い心を兼ね備えた、とっても都合の良い捧げ物」
「猊下、何を……」
酷く不快な話を聞かされている。
だが、否定すべき妄言だと耳を塞ぐことは赦されない。
相手は歴史の生き証人であって、その時代を知るカルネの言葉を、どうしても遮ることができない。
「大災禍は予見されていて、賢者ヘレネスは聖域加護のために周囲から追い込まれたとしたら……あぁ、なんて素敵な逸話なのでしょう」
カルネは哀れむように聖杖を見詰めていた。
覚悟が伴わない者が死へ赴いて、果てには永劫に囚われる。
なんと哀れで無様な姿。
「ねえ、シェーンハイト卿?」
同意を求めるように、厭らしく嗤ってみせる。
数多の畏敬を集めた三聖女の一人が、エルベット神教の根幹を支えるはずの偉人が、都合良く飾り立てられた逸話の裏を炙り出す。
「『原理聖典』は昏い過去さえも記されている……聖下はそれを知っていて、全てを隠しているのでしょうね」
エルベット神教における四宝、その中でも最重要遺物とされるものが『原理聖典』だった。
何の変哲もない歴史書であれば、ここまで大切に扱われることはない。
破棄もせず、閲覧も許さず、常に懐に抱え続けている。
「そして、聖女ユリスティアの権能――神託の奇跡さえ、独り占めにしようとしている。人々を導くための力を、誰にも話せないような"何か"のために利用しているのです」
「まさか、聖下がそんなことをするはずが……ッ」
否定しようとしたシェーンハイトの肩を掴んで壁に押し付け、その白い頬に手を添える。
カルネの瞳が爛々と輝いていた。
「シェーンハイト卿。まだ、自身の変化に気付いていないフリをするつもりですか?」
心の奥底まで、刺し貫くように見通す眼光。
誤魔化しは意味を成さない。
「エルベットの栄華には相応の影が伴っていて、教皇聖下も腹に黒いものを抱えている。貴女も……薄々気付いているはずでしょう?」
苛むように、その白い首筋に指を這わせる。
シェーンハイトの微かな揺らぎを見落とすはずもない。
生前、カルネ自身が同じものを抱えていたのだから。
だというのに――。
「……?」
言葉の真意を理解出来ない。
シェーンハイトには未だに自覚が無かった。
まるで心に蓋でもしているかのように、己の変化に目を向けようとしていなかった。
その様子に、カルネも思わず嘆息してしまう。
「……これは、重症のようですね」
あまりに盲目。
信仰は視界を曇らせ、理性的な人間にさえ死角を生み出してしまうものなのかと。
変化は始まっている。
本人の自覚の有無に限らず、事態は進んでいくことになる。
直近の任務記録に目を通しただけでも容易に理解可能なほど、その信念に揺らぎが生じているのだ。
分岐点となった任務は恐らく"アーラント教区における背信者捕縛及び移送"の項だろうとカルネは推測している。
「シェーンハイト卿。貴女はなぜ、エルベットに剣を捧げるのですか?」
それは執着と言い換えてもいい。
彼女の信仰は常に剣で以て示され続けてきたが、果たして本当にそれを望んでいるのだろうか。
邪教徒に対する侮蔑。
背信者に対する殺意。
まるで大義名分を得るように、敵対する者を最大限憎悪している。
「求めているのは――」
言葉を紡ごうとして、カルネは肩を竦める。
羊が彷徨う姿を眺めるのも悪くはない。
会談も間もなく始まるだろう。
その前に、一つだけ言わなければ……と、カルネは真剣な眼差しで向き直る。
「貴女が心から望むものを、はっきりさせておきなさい」
それは、聖女としての助言。
後の出来事を予期して、ほんの一瞬だけ慈悲を見せる。
どれだけ心が憎悪に蝕まれようと、奥底では変わらぬ部分もあるのだろう。
崇高なる"過去の清算"を掲げようと、その存在は本質的に聖女に変わりない。
カルネは自嘲的に嘆息し、会談に備えて席に着く。
結末は決して覆らない。
覆しようがない。
来るべき時に備えるとしても、精々が心構えだけだ。
それでも、一つだけ。
凛と宣言してみせた少女の姿を思い出す。
『貴様の目論見は、この名に誓って必ず阻んでみせよう』
現世において唯一警戒すべき存在。
或いは、深界の枢軸に連なる柱でさえ煩わしく感じる脅威。
もしそうであったとしても。
運命力の濁流の中で、自身の目論見を見抜いて阻むなど有り得ない。
聖女としての権能、そして枢軸の使徒としての力。
様々な運命の糸に絡め取られた此度の戦争こそ、誰にも惨劇を食い止めることは出来ないだろう。
(ガルディアも、エルベットにも――)
――平等に報いを。
――断罪を。
――因果応報の死を。
――この手を以て、忌まわしき過去の清算を。
「……しなければなりません」
風音で消え去るような、小さな声で呟いた。
真横に控えるシェーンハイトでさえ聞き取れないほどの言葉を、一人だけ、聞き逃すことなく反芻する者がいた。
『最も忌まわしき存在に堕ちたようだな――エルベットの聖女』
嘲笑、そして愉悦。
彼からすれば、今のカルネは可笑しく見えるのだろう。
戦場で幾度となく命のやり取りを交わしてきた相手が、今ではなんと無様なものか。
漆黒の鎧を身に纏った、不浄の騎士が聖女を嗤う。
「……不死者に侮辱される謂れはありません」
『ほう? 本質的には、そう変わりないはずだがな』
ラースヴァルドの言葉にカルネは殺意を露にする。
だがヘレネケーゼで仕掛けようとするほど理性は失っていない。
倒れた燭台の火のように、静かに燃え広がる機を窺っている。
「……何の執着を抱えて現世に?」
『解らぬ。未だ記憶さえも十全ではない。混濁から脱け出すには、もう暫く掛かるやもしれんな』
そこに偽りは無い。
重要な"何か"のために甦ったことは覚えているものの、本来の目的は記憶の奥底に眠ったままだ。
『此の身には果たすべき使命が残されているのだろう。不死に堕ちようと、現世に甦るだけの理由がな』
確かなことは、この時代を生きる帝国の民にとってラースヴァルド将軍の復活は希望の光そのものだということ。
その名に誓って、民衆を導くことこそ己の責務ではと考えていた。
不死者たる将軍は帝国にとって最大戦力だ。
その切っ先を向ければ、たとえエルベット神教であろうと警戒せざるを得ない。
そして、その柄を握る者こそ、強大なガルディア帝国を統べる"王"という存在だった。
「双方に、逸話より英傑が……何方も何らかの使命を持って、死後の世界より甦った」
眼光は鋭く、口元は強欲に歪む。
混沌の時代において尚も野心を抱いて、エルベットの寝首を掻かんと機を窺っている愚者。
「祝福すべきか、はたまた憂うべきか……」
カラカラと嗤う老齢の男。
その身は痩せ細って力無く見えるが、内側ではギラギラとした思惑を抱えている。
「さぁ、此度で決めるのであろう?」
――ベルセス・フォン・ゼレイス。
ガルディア帝国を統率する者。
だが、彼自身は王家の血筋ではない。
大災禍以後、途絶えた王族の血筋の代替として生まれた貴族院の議長だ。
そして同時に、賢聖ヘレネスの末裔でもある。
カルネは興味深そうに彼を見据える。
「面影こそ残っていますが……高潔なヘレネス様とはまるで別人のようですね」
魔術師としてもそれなりの実力を持っているらしい。
常に何重もの精神防壁を張り巡らして、不本意な干渉は決して許さないのだと示していた。
この場に臨むベルセスの気迫に、シェーンハイトは思わず息を呑む。
精神干渉をこれほどまでに警戒している人物は初めてだった。
その心中に至るまでに何があったのか、興味を抱くも無礼は働けない。
魔術師として、最低でも第五階梯には到達しているだろう。
練度次第では首を取られかねないと一挙一動を警戒する。
「……貴族院の使者が来ると聞いていましたが」
シェーンハイトは平然を装ったように尋ねる。
本来であれば、ヘレネケーゼでの会談にベルセス自らが足を運ぶようなことは有り得ない。
同様に、この地に教皇が態々足を運ぶようなこともない。
「最期の対話となるのだ。互いに、凝り無く臨まねばならんだろう」
その言葉を聞いて、シェーンハイトはカルネに視線を向ける。
言葉の真意を読み取るのは容易い。
一度戦争が始まってしまえば、今回ばかりは和平に持っていくことは不可能だ。
だが、カルネはふっと微笑み――。
「――此度の戦争こそ、下らない因縁を断つものになると期待しております」
宣告を受け止める。
多くの命が失われるというのに、大層愉快そうに。
「既に第三教区も準備を進めています。シェーンハイト卿、貴女の補佐官はとても優秀ですね?」
「……なんてことをッ」
シェーンハイトは即座に通信用の魔道具を取り出して、エルヴィスを問いただす。
全権を委ねるという判断は誤りだったのだろうかと。
『あぁ、猊下。帝国との会談はいかがでしたか?』
「暢気な……貴方は、自分が何をしているのか分かっているのですか!?」
エルヴィスは信頼に足る人物だと思い込んでいた。
事実として彼が任務を違えたことはなく、常に優秀で在り続けていた。
だからこそ、認識がズレてしまっていた。
『理解していますとも。エルベットの威光を示すべく、アルピナ卿と共に戦争の準備をしているだけですから』
「しかし、それでは――」
『――猊下?』
咎めるような声色だった。
まるで背信者や邪教徒に対して、侮蔑を以て対峙している時のように。
だが、それ以上のことを口にしないのは、エルヴィスからの僅かばかりの情けでもあった。
そこで漸く、ズレてしまっていたのは自分だったと気付く。
誰もが信念の下に戦争を始めようとしている。
信徒たちも、命を散らすことに恐怖はあれど死への抵抗は無い。
誰もが正しき信仰を抱いている中で、自分だけが揺らいだまま剣を震わせているのだ。
枢機卿の肩書きを持つからには、相応の使命が課せられる。
それを果たせないのであれば除籍されるのみ。
自身が聖十字卓議会に名を連ねる資格を持ち合わせていないのではと、シェーンハイトは戦慄いていた。
愕然として肩を震わせる彼女を嘲るように、ベルセスは目を糸のように細めて嗤う。
「剣に意思は要らぬというに……エルベットは焼きを入れることさえ不自由しているのか」
組織としての利益を考えるだけでいい。
下された命令に対し忠実であればいい。
「そのような歪な剣で、何を成そうというのだね」
帝国にはラースヴァルド将軍という戦力がある。
既に一度、ラムファレル戦跡では二人の枢機卿を退けたという実績もある。
勝利を疑って後込みする理由など無い。
ヘレネケーゼの占有こそ、混沌の時代を生き延びるための唯一の術だ。
優秀な手駒が揃っているというのに、打ち込まないなど愚の骨頂。
「我が偉大なる祖先――ヘレネス様の遺した祭壇は、ガルディアに返還してもらうとしよう」
帝国の唱えるヘレネケーゼ領有の理由こそ、賢聖ヘレネスの出自にある。
彼は高貴な血筋ではないものの、名高い魔術師として知られており王家との繋がりもあった。
元より帝国の生まれであり、エルベットの信徒になる以前からの関係だ。
ヘレネケーゼ建築から幾分か前には、領内での功績を讃えられ子爵の位を与えられたほど。
ベルセスが貴族院の長として統治しているのは、彼自身の能力も加味されているが、同時にヘレネスの末裔という肩書きが大きく影響していた。
「混沌の時代を生き延びるには、高潔な分割より……貪欲な占有こそ必要であろう?」
聖女ユリスティアの神託によって選ばれた地。
そして、その供物として選ばれた賢聖ヘレネス。
双方に領有を主張する大義名分があり、しかし、分け合うという選択肢は選べない。
現実として、エルベットは第三教区の東部が聖域加護の領域外だ。
他の主要な教区はこれよりさらに東方にあり、聖域加護があるとはいえ隔絶された状態だ。
往き来するにも命の危険が伴うほど。
ガルディアは帝都アルベラム以西が聖域加護の領域外となって、凶悪な魔物の跋扈する地帯となっている。
帝都こそ名高い城塞として知られているが、それ以外の領地は放棄されたも同然。
大災禍を生き延びた帝国の民は、帝都で静かに身を寄せあっている。
このままでは共倒れになってしまいかねない。
そんな結末を予期していたからこそ、聖地を巡る戦争が起きた。
『此の因縁に決着を付けねばならぬ……と、いうことなのだろう』
ラースヴァルドは大きく息を吐き出す。
何故だか、心に掛かった黒い靄が晴れない。
『我に異論は無い。再び戦場で、貴殿と命の奪い合いを出来るのだからな』
今度こそ戦場で決着を付けられる。
それこそラースヴァルドにとって至上の喜び。
己の持つ何もかも全てを擲って"正しき結末"を与えるのだ。
不本意な終わりを迎えるなど許容できない。
朧気な記憶の中で、その強い執念だけが浮かび上がってきていた。
『だが……』
過去では、如何にしてヘレネケーゼ争奪戦争に決着が付いたのか。
表面上だけでも和平を結ぶに至るには様々な困難が予想される。
妥協点を探るくらいでは収まらないほど、互いに命を奪いすぎていた。
――重大な何かが欠落している。
戦場こそ彼の生涯であって、史実などに興味があるわけでもない。
それでも喉奥に支えた違和感を吐き出そうとせずにはいられなかった。
「民は朽ち果て祖国の礎となれ……とは、将軍の仕えた先王の言葉。違えることはあるまい?」
如何に不死者であろうと帝国の民には変わりない。
祖国に剣を捧げたラースヴァルドには、国益を損なうような真似は出来ない。
帝国を統治者たるベルセスは、大義の下に凶悪な剣を握っているのだ。
嘆きも悲しみも、将軍の表情には一切現れない。
漆黒の鎧を身に纏う骸骨の重騎士であって、端から見れば感情を持っているのかさえ不明瞭だ。
しかし、シェーンハイトは戦慄く。
不死の身に宿す強者の覇気。
陽炎のように揺らめくそれは、まるで感情に呼応しているかのように、静かに明滅を繰り返していた。




