43話 邂逅(3)
「目論見を潰されて、さぞ不愉快なことでしょうね」
恍惚と、身悶えするほどの悦に浸りながら呟く。
他を魅了する容貌こそ神秘を纏っているものの、内に孕んだモノは邪悪極まりなかった。
彼女の手は歪みに向けられていた。
深界と現世が交わう唯一の通路を、カルネは有無を言わさず遮断したのだ。
「貴女は少しばかり危険なので。あまり探られると、枢軸も困ってしまうみたいです」
事態を終息させるために不足しているのは情報だ。
深界に意識を繋ぐことで、リスティルは大災禍後における混沌の多くを紐解こうとしていたのだ。
彼女とて、万象を把握しているわけではない。
カルネは全てを見通した上で思惑を阻んだ。
その使命は果たされてはならないのだと。
決して逃してはならない好機だった。
次を待てるほど楽観出来るような状況でもない。
苛立ちつつも、その矛先を違えぬようにとリスティルは深呼吸する。
「……お前は、見事に枢軸の犬に成り下がってしまったようだな」
「さて、どうでしょうか」
カルネは冗談めかして肩を竦めるが、リスティルの表情は変わらない。
無意味な問答は必要としていなかった。
「確かに、私は深部まで魂を蝕まれています。ですが……」
その瞳が妖しく光を帯びる。
内に孕んだ狂気は、自身が生前抱いていたものだと確信していた。
「この憎悪こそ私の存在証明。貴女もそう思いませんか?」
「濁りきった心で、聖女の肩書きを背負えると思うな」
それこそ赦すわけにはいかない。
リスティルは心底見下したように、侮蔑の視線を向け続ける。
「……貴女には分からないでしょうね」
ほんの一瞬だけ寂しげに、しかし次の瞬間には不敵な笑みが戻る。
「穢らわしいこの世界には浄化機能が必要であって……そのために選ばれた者こそが、この私なのです」
同じ枠組みに囚われない上位存在。
罪に罰を与えるだけの単純にして傲慢な因果の執行者。
「崇高な使命のため――枢軸の使徒として、貴女の頭を押さえ付けに来たのです」
「ほう。地に伏せるのはどちらだろうな?」
剣呑な空気が漂う。
リスティルが仲間たちの前で殺気を露にするのは初めてのことだった。
だが、グレンが割って入る。
「どんな関係か知らねえが、この場で殺り合うってのはナシだ」
リスティルは明らかに感情的になっている。
貴重な機会を失ったことだけが要因となっているようには見えない。
まして相手は高位の聖職者だ。
どう見ても末端の司祭には見えず、敵対するには多くの危険が伴うだろう。
手配書でも出されてしまえば今後の旅に支障が出てしまう。
というのは、尤もらしく自身に言い聞かせる建前でしかない。
「久し振りだな、シェーンハイト」
カルネの後方に控えていたのが見知った女性だったから、などと惚けているわけではない。
エルベット神教に利益があるならば、彼女は容赦無く剣を振るう人物だ。
「貴方は……」
声をかけて漸く気付くほどに、シェーンハイトは憔悴しきっていた。
疲弊しきった様子で、まともに剣を振るえるかさえ怪しい。
マルメラーデ監獄で独房へ連行される際にも、彼女は似たような顔をしていた。
その時よりもさらに酷く見えるほどで、そんな状態の相手と命のやり取りをするほど下衆ではない。
自身も徘徊する怨嗟との交戦で酷く消耗した状態だ。
先ほどの奮闘を無意味にされてしまったことへの怒りはあれど、シェーンハイトには関係の無いことだ。
グレンが割って入ったことで落ち着きを取り戻したのか、リスティルは自嘲するように溜め息を吐く。
「何のために枢軸に従っている?」
その問いに、カルネは優しく微笑む。
「忌まわしき過去を清算する……死の間際に抱いた激情こそが、現在の私を動かしているのです」
「……やはり、戦争を引き起こすつもりだな」
返ってきたのは肯定だった。
その背景に存在する感情を知っているからこそ、リスティルは残念で仕方がなかった。
「大災禍は現世に混沌を齎しましたが、代わりに血生臭い戦争の殆どが消え去りました。穢れという明瞭な脅威を前にして、自らの矮小さを思い知ったのでしょう」
隣人と手を取り合わなければ、夜明けを望むことさえ許されない世界。
蹴落として生き永らえたとして、独りで次を乗り越えられるはずもない。
「皮肉にも、平等な死の恐怖の下に置かれて……漸く、誰もが望んでいた真の安寧が到来したのです」
血を流すことによって得られるものは無い。
混沌の中で欲を出せば、デオン伯爵領と同様の末路を辿ることになる。
そう遠くない内に大陸各地に悪影響を及ぼすだろう。
「不健全な安寧だ。そんなもの……到底、許容出来ない」
死を隣に意識して過ごすことは、果たして生きていると言えるだろうか。
大災禍以降の世界を肯定するカルネの心情がリスティルには理解し難い。
「貴女が赦さずとも、事実として調和が取れているのです。その上で、執行者として私が存在している」
その先は問うまでもなかった。
彼女は自らの信念の下に、こうしてリスティルと対峙しているらしい。
「枢軸は……"エルベット神"はガルディアの滅亡を望んでいるのです。ヘレネケーゼ奪還によって齎される更なる調和を前に、教皇聖下は全ての条件を承諾されました」
そこに不利益は無い。
枢軸の力を以て、『原理聖典』に記された逸話のように聖女の奇跡を示すだけ。
結果として一つの国が混沌の餌食となるが、ただそれだけで第三教区に安寧が訪れる。
「あの腑抜けめ……ッ!」
リスティルは酷く憤った様子で歯を軋らせる。
それ以外に選択の余地が無いことも、当然知らないわけではない。
「貴女では戦争を止められないでしょう。優秀な手駒を幾つか揃えたところで、先の運命を覆せるほどではありません」
強国の王が非情に命じれば、辺境の村一つなど容易く滅ぼすことが出来る。
年端のいかぬ村娘が大層な志を持ったとして、何かを成せるわけでもない。
エルベット神教は強大だ。
その力を戦争に向けたならば、妨げられる者など存在しない。
対等に渡り合えるほどの力を手にしない限り、運命の波を塞き止めることは不可能だ。
しかし、リスティルは首を振る。
「私は聖女だ。貴様の目論見は、この名に誓って必ず阻んでみせよう」
絶対的な自信を持って断言する。
何度も過つわけにはいかない。
伯爵領では反乱を食い止めることが出来なかった。
決して慢心があったわけではない。
それでも、シャーデン・フロイデという逸脱者に多くの事象を掻き乱され、結果的に全てが後手に回ってしまった事実は拭えない。
「この――リスティル・ミスティックの名において、な」
これはカルネへの警告であって、仲間たちへの宣誓でもある。
放たれた言葉には、確かな力が込められていた。
微かな動揺が表出していた。
迷いなき眼光が、カルネの心に張り巡らされた茨の奥まで穿っている。
「貴女に何が成せるのか、見せてもらいましょう」
カルネは愉しげに笑みを浮かべると、シェーンハイトに振り返る。
「彼らとは見知った間柄なのでしょう?」
「ええ、そうですが……」
シェーンハイトは精神的にも肉体的にも疲弊しきっている。
黒い加虐心を擽られつつも、カルネは胸の高鳴りを抑えて僅かばかりの慈悲を与える。
「一晩の休息を赦します。忙しくなる前に、出来るだけ鋭気を養っておくように」
聖女らしく微笑んで、次の瞬間には足下に魔方陣が展開される。
「……リスティル。忌まわしき過去に囚われた亡霊という意味では、私も貴女も大差ありません」
否定をする暇も与えず、何処かへと転移する。
動き出した歯車を止めるには相応の規模で対抗しなければならない。
戦争が起きる。
それも、今の時代に不相応な大戦だ。
多くの命が失われ、その分だけ世界は混沌に蝕まれていくことだろう。
未来予知を基に行動するにしても、馬鹿らしくなってしまうほどの無理難題だった。
そんな状況下で何を成せるのか、グレンは真っ先に思い浮んでいた。
「長旅続きでまともなモンを食ってねえんだ。この辺りに良い店はねえか?」
嫌気が差すほどの悪路を踏破して来たのだ。
聖者の墓標へ向かうため、時間を惜しんで過酷な道を選んできた。
干し肉や固いパンを齧るのには慣れているとしても、そろそろまともな食事が欲しいと思ってしまう。
シェーンハイトならば、近辺の店も知っているかもしれない。
「……そういえば、前に約束していましたね」
マルメラーデ監獄で別れる際、次に会うときは食事でも……と誘ってきたのは彼女の方だった。
しかし、"二人で"という言葉が付いていたことを思い出し、グレンは後方を振り返る。
すると、リスティルは分かっているとばかりに頷いて口を開く。
「どこぞの聖女ではないが……我々も各自で休息を取るとしよう。私も色々と考えをまとめておきたい」
敢えて個別行動になるよう計らった。
ル・レクシスは第三教区内では極めて重要な街で、特に敬虔な信徒が多い場所だ。
一人で出歩いたとして、身の危険を感じるようなことは無いだろう。
或いは、未来予知で問題がないことを把握しているのかもしれない。
護衛を必要としていないのであれば、邪魔にならないようにするのが従者の務めだ。
「なら……僕は、少しでもマシな宿でも探しておきましょう」
近場の宿は巡礼者に向けたものが多い。
堅苦しさのない、居心地の"マシな"宿を探すのは一手間だ。
「では後程」
ヴァンは丁寧に一礼して、すっと足元の影に沈んでいく。
それを見届けると、リスティルはシズとユノに向き直る。
「長旅続きで少し疲れただろう。近くの商店でも見て回るといい」
懐から銀貨を適当に取り出して、シズに与える。
当然ながら、ユノのお守りはしなければならない。
「食事でも娯楽でも、身に付けるものでも構わん」
「ですが……っ」
気軽に手渡されるにしては量が多いと感じていた。
それこそ、奴隷時代の彼女を買ってなお余るくらいだ。
しかし、リスティルは首を振る。
「無理強いはしない……が、たまには羽目を外すのも大切だ。この時代はどうにも息苦しいからな」
死と隣り合わせの生活。
大半の娯楽が失われ、街を歩いても楽器の音色一つ聴こえてこない。
シズの背景を考えればこそ、息抜きをさせる必要もあった。
「街を散策することも良い経験になるだろう。ユノにも色々と見せてやるといい」
馬車の長旅に飽き飽きしていたユノが目を輝かせる。
一番幼い彼女には、余計に息抜きをさせないと今後に支障が出るだろう。
二人を見送り、リスティルはグレンに歩み寄る。
そして、小声でそっと耳打ちする。
「……よく話を聞いてやれ。カルネの補佐を務めるにあたって、心を病むような……酷い光景を幾度も目の当たりにしているはずだ」
内部事情を探れ、というわけではないらしい。
リスティルは本心からシェーンハイトを気遣っている様子だった。
「当然だ」
即答すると、満足げな表情で踵を返す。
そして、聖者の墓標にはグレンとシェーンハイトの二人が残された。
「せっかく聖女様がたが自由をくださったんだ。肩の力抜いて楽にしようぜ」
「……ええ、そうですね」
冗談目かして言うグレンに、シェーンハイトは緊張が解れたように笑みを返す。
周囲を警戒することさえ怠っている様子で、それほどまでに余裕がなかったのだろう。
やっと気を張らずに過ごせる。
安堵から脱力するも、あまり不甲斐ない姿を見せるのは避けたかった。
「土地柄、あまり洒落た場所は無いのですが……肉類の扱いに定評のある店を知っています。傭兵の貴方でも、きっと満足できるはず」
「なら、そこに決まりだ」
ル・レクシスの街で、各々が僅かな休息を過ごす。
今だけは、不安になるようなことを考えないようにしていた。
◆◇◆◇◆
「ちょっと……ま、待ってください!」
慌てた様子でシズが声を上げる。
建ち並ぶ商店に目を奪われて、ユノが自由にはしゃぎ回っていた。
「ねえ、シズっ。こっちに光る杖があるよ!」
「わっ、なんか爆発した!」
「みてみて! これすっごくおいしそうっ!」
よほど観光が楽しいのだろう。
この年頃の幼子が、声を掛けたくらいで止まることはないのだとシズは思い知らされる。
「……まったく、もう」
無邪気さを前にして怒る気も起きない。
声を荒らげたところで、かえって自分まで周囲からうるさく思われてしまうかもしれない。
自由にさせつつも、程々に手綱を握れるように練習しなければと気合いを入れ直す。
デオン伯爵領で同行を許されてからしばらく経っていた。
リスティルの身の回りの世話をしつつ、ユノの面倒を見たり、日々の炊事洗濯を行うのが彼女の主な仕事だ。
そのためか、服装もメイド服を与えられている。
長旅に耐えられる強度があり、さらに着心地も良い上等な品だ。
この服一式で自分が何人買えるのだろうと、初めの内は身に付けることさえ躊躇ってしまうほどだった。
与えられた仕事はしっかりとこなさなければと、常に気を張って行動している。
些細な雑用であっても、役立てることなら何でもするつもりでいた。
旅の仲間たちは皆が常人離れした"何か"を持っていた。
リスティルは聖女を自称するに足る風格を備えていて、未来予知という奇跡を起こす。
グレンは剣を生業とする傭兵の中でも逸脱した技量を誇り、ヴァンは半人半魔の『穢れの血』だ。
そして、目の前で無邪気にはしゃいでいるユノでさえ、底知れない魔術の才を秘めている。
「あのとき……」
彼女だけが見た光景。
徘徊する怨嗟を前にして、年不相応な言動を見せたユノの姿。
その直後に行使された炎槍の雨は、魔術階梯に当て嵌めるならどれほどのものなのか。
『――気になるか、小娘?』
「ひっ!?」
いつの間にか背後に回っていたらしいユノが、シズの腕を引いて耳元で囁く。
やはり思い違いではなかったのだと戦慄く。
「ユノじゃない……あなたは何者ですか」
『愛されず、祝福を受けず、産声を歓迎されなかった者……だが、妾もまたユノであることには相違ない』
返答は要領を得ない。
別人格のようなものだろうか、とシズは唸る。
その生い立ちを知っているからこそ、何らかの形で精神に異変を来しているのだろうかと勘繰る。
訝しげなシズの視線に、ユノは苦笑しつつ答える。
『血筋は大樹の根のように。しかし、やがては幹のように集束する。古より続く強大な運命力によって定められた不幸を、此の幼身に背負っておる……と、いうことだ』
徐に手を翳すと、小石程度の小さな火球を生み出す。
何も知らない者にとっては児戯のようだが、見る者によっては密度に愕然とすることだろう。
当然ながら、シズが見ても火球を構築する魔力の流れや術式の精密さまで読み取ることは不可能だ。
それを求めているわけでもなく、彼女にとってもただの手遊びに過ぎない。
『だが、まぁ……少なくとも、妾は害を成す存在ではない』
「ええと、うーん……」
曖昧な説明だが、少なくとも危険は感じられない。
それに、もしユノが脅威であるなら非力な自分などすぐに殺されているだろうと理解していた。
『心配せずとも、妾も自由に出られるわけではない。此の身はユノ・フラウ・デオンの支配下にあって、本気で拒まれてしまえば喋ることさえ困難なのだ』
ユノの憂いた顔を見るに、事実のように思えた。
憑依、侵蝕など様々な状況を考えてみるが、どれもしっくりと来ない。
知ったからといって何かを出来るわけではない。
とりあえず事態を飲み込んで、後の事はリスティルに相談しようと考えていた。
『あの聖女とやらに枢軸の気配を感じる。現世に不浄の力が蔓延しておることも警戒すべきではあるが……穢れとは力の根源であって、邪悪な意思そのものではないのだ』
洪水や噴火の類を恐れるのと、悪意を持った隣人が潜んでいるのとでは訳が違うだろう。
より明確で悍ましい脅威が迫っていた。
混沌の時代など、未だ序章に過ぎないのだと。
そこまで口にしたところで、不意にユノの目蓋が微睡むように閉じた。
幾何か寝惚けたように瞬きを繰り返して、年相応の顔付きを取り戻す。
「……あれ?」
先程までの記憶はないらしく、呆けた様子でシズの顔を見詰めていた。
その直後、ユノの腹が空腹を訴えるように可愛らしく鳴いた。
「えっと……屋台でも見て回りましょうか」
「うん!」
弾む声色で返事をすると、ユノは意気揚々と歩き出した。
その元気な姿を見ている限りでは、不吉な存在を背負っているとは到底思えなかった。




