40話 胎動(5)
イグナーツを退けてから半刻ほど経過して、漸くヴァンが戻ってきた。
協力者を見定めるという任は果たしたらしく、どこか気怠げな様子の男を引き連れていた。
「お待たせ致しました、リスティル様」
ヴァンは丁寧に一礼すると、後ろに佇む男を振り返る。
髭の手入れも大雑把で身綺麗というわけではないが、その割には上等な服を着ているように見えた。
「どうも、御初に。学者のアゼオンと申します」
飄々とした語調で、所作だけはやけに洗練されていた。
いまいち人物像の掴めない男だったが、リスティルは構わずに問う。
「ほう……学者というが、何を専門としている?」
「第三教区ではエルベットの歴史をあれこれと。近辺の神学者としては、まぁ、それなりに名が知れている方です」
そう言いつつも、あまり有名になることは好まないらしい。
面倒そうな物言いは本心に見えた。
「貴方々は聖者の墓標を調査したいとのことで。私を連れていけば何かと便利かもしれません。お役に立てるとまで大言は吐けませんがね」
「ふむ。では報酬に何を求める?」
「調査に同行させて貰いたい。まぁ、学者としての好奇心というところです」
聖者の墓標を目指すには、どうしても過酷な地帯を通り抜ける必要がある。
ヘレネケーゼによる聖域加護の恩恵は限られた範囲のみで、その境より外側となる第三教区東部は危険な環境が広がっていた。
「道案内と護衛、対価としては十分な条件でしょう。それに、この顔も通行証代わりになるので」
「悪くない話だ」
リスティルは納得したように頷く。
神学者を同行させていれば、墓標に立ち入る際にも許可を得やすいだろう。
「皆もそれでいいな?」
グレンは一先ず頷く。
気掛かりな点が全くない……というわけではなかったが、顔が利く人間を同行させることで調査も円滑に行えるのだ。
現時点で拒む理由はない。
ヴァンもリスティルの決定に異論は無く、シズも必要性を理解して頷く。
ユノはいまいち話を理解できなかったようで、首を傾げつつも皆にならって頷いてみせる。
精々、道案内をしてくれるという程度の認識だった。
「ではでは、宜しく頼みます。道中暇でしたら、学術的な話でもするのでテキトーに聞き流していただければ」
「こいつが喜びそうな話があれば良いんだかな」
冗談めかして言うアゼオンに、グレンはユノを指しながら肩を竦める。
堅苦しい学者でなくて良かったと安堵していた。
それでも警戒が解けないことには理由があった。
「リスティル」
「ん、どうした?」
微かな動揺さえ感じさせず、平然と振る舞う。
だが、ここまで一度たりとて、アゼオンを前にしてリスティルは笑みを見せていなかった。
「……いや、なんでもねえよ」
必要があれば、その時に話してくれるだろうと。
誰もが内に何かしらを秘めているのだから、全て話せなどと無理強いするわけにもいかない。
それでも、何故だか引っ掛かりを感じてしまう。
グレンの最も信頼する第六感が、警戒心を手放さないようにと囁いていた。
◆◇◆◇◆
タルラの聖堂にて、眩い金色の髪をした男が一人頭を垂れる。
日々の祈祷は彼にとって唯一の休息であり、その時だけは己の心と向き合うことを許されていた。
――枢機卿序列一位『剣聖』ラインハルト・ハーケンシュタイン。
エルベット神教において……或いは、大陸全土を見渡しても彼に比肩する者はいないと言われるほどの剣士だ。
敬虔な信徒としての一面を持つ裏で、教義に反する相手には悪魔よりも残忍な顔を見せるという。
この時代において、エルベット神教の威信を守り続ける最大の功績者として教皇からの信頼も厚い。
「ラインハルト卿は熱心ですな」
背後から掛けられた言葉に眉を潜めつつ振り返る。
体格の良い老神父――ゲオルグが佇んでいた。
「聖下の不信を買うような真似はしたくないのでな」
「はは、御冗談を」
枢機卿には序列がある。
挙げた功績も当然ながら重要な要素だが、それと同等以上に教皇からの評価が影響している。
純粋な技量において、ラインハルトとアルピナは他の追随を許さない。
それだけでなく、二人にはエルベットの至宝に触れる資質が備わっていた。
「俺にとって、此の地は特別なのだ」
「……神剣『喰命』ですか」
腰に帯びた一振の剣。
白を基調とした鞘の中に、途方もない力を秘めた刀身が隠されている。
「寵愛を受けた聖女ではない……強い権能は無くとも、彼女は災禍を退け続けた」
三聖女はエルベット神教の黎明期を支えた偉大な存在。
今もなお多くの逸話が語り継がれている彼女たちと違って、『原理聖典』に記されたまま功績を広められることなく眠る聖者も多い。
それほどまでに、三聖女とは特別な存在なのだ。
ラインハルトは何よりも彼女を崇め、その再来を心待ちにしていた。
「聖女タルラこそ、此の時代の我々が目指すべき在り方だ」
エルベットの四宝の一つ――神剣『喰命』こそ、タルラが振るった剣である。
己の身を削るほどの激しい消耗を対価として、手にする者に莫大な魔力を齎す。
万が一、彼が神剣を抜く必要が生じるとすれば、目の前には世界が滅亡するほどの脅威が迫っていることだろう。
「私はラインハルト卿がどのような逸話を聖下より賜ったのか知りませぬ故……聖女タルラとは、どのような人物なのですかな?」
ゲオルグの問いに顔をしかめる。
質問されたことが気に障ったわけではない様子だったが、微かな苛立ちが見て取れる。
「自己犠牲の極みだ。その末路こそ知らないが、他の聖女とそう変わらないことだろう」
高位の聖職者ほど『原理聖典』に記された内容を知ることが出来る。
教皇より直接語られる逸話は、信徒たちにとって山のように積み重ねた金貨よりも価値があった。
その中でも、ラインハルトはタルラについて多くを知りたがっている。
その理由を打ち明けるほど砕けた間柄ではないと、それ以上は語ろうとしなかった。
「三聖女といえば……『殉教者』カルネが蘇ったとの報せがありましたな」
「シェーンハイトが護衛の任にあたっているらしいが、役者不足も良いところだ」
「随分と手厳しいですな」
枢機卿に任命されるだけあって、シェーンハイトの技量には目を見張るものがある。
流麗に舞うような剣閃の中に、時折現れる苛烈な剛の一太刀。
協力者が居たとはいえ『六芒魔典』の一人を討ち取った功績は評価すべきだろう。
「エルベット黎明期を支えた三聖女……中でもカルネ卿は我々と同じ枢機卿だ。護衛とは名ばかりで、何方が御守りをされていることか」
幾多の戦場を蹂躙してきた大魔術師。
アルピナも似たような立場ではあるものの、語り継がれる逸話だけでも偉業の規模が違いすぎていた。
「聖者の墓標……第三教区は、アルピナ卿の管轄でしたな」
果たしてカルネは何を成すために蘇ったのか。
混沌の時代を切り開くためには聖女の持つ権能が必要不可欠。
それを見届ける立場にあるアルピナとシェーンハイトにも良い影響があることだろう。
「もしかすれば……アルピナ卿もいずれは聖女と崇められるかもしれませぬ」
「あれは子供だ。至宝を扱えはするが、自在に操れるような器ではない」
ラインハルトは即座に否定する。
魔術師としての技量は卓越しており、戦場における能力は大きく評価しているつもりだった。
それでも認められないのは、枢機卿を名乗るに相応しい"品格"を感じられないからだ。
「アルピナ卿ほどの魔術師を子供扱いとは……」
「まだ幼い。幼すぎるのだ」
ラインハルトはどこか呆れた様子で、タルラの聖堂を後にする。
「功を焦って、ガルディアに刃を向けるほどにはな」
「まさか……」
信じられないといった様子だったが、ラインハルトが無益な冗談を吐くような性格だとは思えない。
凄惨な戦火の足音が、徐々に迫ってきていた。
◆◇◆◇◆
――第一教区リ・エルシュ、レナド聖堂。
かつて『叡光』の呼び名で崇められた賢者の名を冠する、落ち着いた灰色を基調とした聖堂。
飾り立てる装飾は最低限で、夜になれば僅かばかりの燭台の火が揺らめくばかりである。
此の場所は信徒に向けて解放されてはいない。
教皇が枢機卿を始めとした聖職者を招き、何かしらの用事がある際に使用されることが多かった。
「……驚きました」
シェーンハイトがぽつりと呟く。
先程まで確かに第三教区にいたはずだったというのに、今は第一教区に移動している。
戸惑いを隠せないシェーンハイトに、カルネは優しく微笑みかける。
「私は空間……より詳しく説明するのであれば"世界"そのものに干渉することが出来るのです」
「『遺失魔術』ではなく?」
「ええ。それが、私の聖女としての力なのでしょう」
魔術師とは本質的に異なる力。
世界のあらゆることに干渉する大いなる力を、エルベット神教では権能と呼んでいた。
「神々の寵愛を受けているのです。特に……聖女ユリスティアは神託により全てを見通す力を持ってました」
災害を予見して兵を出動させたり、鉱脈を見つけ出して鉱山街を築いたり。
その恩恵を受け続ける限りエルベット神教の栄華は揺るぎないものとなっていたことだろう。
「三聖女と大層な呼び方はされているものの……聖女としての格は彼女が最も高いでしょうね」
「全く以てその通りだ」
聖堂の大扉が開き、月明かりを背に教皇が姿を現す。
眩暈がするほどの重圧を感じさせる鋭い眼光を受けて、カルネは穏やかに微笑み返すのみ。
対照的に、シェーンハイトは顔を上げられないまま跪いていた。
「そう堅くならずともよい。今宵は……偉大な聖女の帰還を喜び、エルベット神に感謝を捧げるのみだ」
胸元まで長く蓄えた立派な髭を掻きながら、教皇が細く息を吐き出す。
言葉とは裏腹に、聖堂内には剣呑な空気が漂っている。
「カルネ卿。一つだけ、我が無礼を許せ――魂脈鑑定」
「聖下、何を――」
唐突に魔術を発動させた教皇に、シェーンハイトは驚き顔を上げる。
翳した手のひらには、紅く光る魔方陣が浮かんでいた。
「やはり、そうか……」
酷く落胆したように、失望の眼差しをカルネに向ける。
シェーンハイトに向けた時と違い、そこには感情らしいものが混ざっているように見えた。
「御心配なさらずとも、聖下の畏れるようなことは何も起こらないでしょう」
カルネは依然として微笑み続けている。
何も悪いことなど起きない。
むしろエルベット神教にとって利益となることを、これから提案しようと考えているのだ。
「聖女カルネよ。現世に蘇って何を成すつもりだ?」
「忌まわしき過去の清算を。そして、世界に救済を齎すのです」
カルネの言葉が、何故だかヒヤリとした不気味さを伴って二人の鼓膜を震わせる。
そこで漸くシェーンハイトは気付く。
偉大な先導者である教皇はカルネを恐れているのだと。
余計に状況が理解出来ない。
聖女の再臨は喜ばしいことのはずだというのに、教皇の抱く不信が伝播したように震えが止まらなくなってしまう。
「ガルディア帝国に天罰を。清浄なる世界を築くには、過去の清算は避けて通れませんから」
それが世界のためになると信じて疑わない。
生き永らえることが唯一の喜びである混沌の時代に、人間同士で殺し合えというのだ。
流石に許容できないと、シェーンハイトは焦ったように口を開く。
「どうか非礼を御許しください。戦争は……エルベット神教の衰退を招いてしまいます」
「ヘレネケーゼの奪還こそ私の悲願。本来であれば、かの聖域加護は第三教区全域に行き渡るはずでした」
「互いの兵を無為に散らせてまで、争う必要があるというのですかッ!」
思わず声を荒げてしまう。
ガルディアとの諍いは鎮静化して、友好的とまではいかずとも交流があることを知っている。
エルベット神教の上層部は、どうにも身内の利益のみを優先しすぎているように感じていた。
教皇に視線を向けるが、険しい顔で嘆息するのみ。
「ガルディアとの戦争は無益だ……とも、言い難い」
「聖下ッ!」
穢れを寄せ付けぬヘレネケーゼの加護は、現在では第三教区とガルディアに跨がった妥協点に展開されている。
幾度の会談で調整されてきたものの、基本的には分け合うという形で落ち着いていた。
「第三教区を穢れから護るには、ガルディアを討ち滅ぼすしかないのも事実。カルネ卿が望むのであれば……」
「よく理解していらっしゃるようで」
カルネは嫌に毒気のある顔をして、教皇に提案する。
「それでは、聖下。『原理聖典』を見せていただきましょうか」
「……何をいう」
教皇は一際険しい顔で尋ねる。
たとえ聖女であろうと、その要求を呑むことはできなかった。
「当然、見せられないでしょうね。シェーンハイト卿がいる状態では尚更……」
笑みを絶やさないカルネに、教皇は微かな苛立ちを見せていた。
シェーンハイトは第三教区でのやり取りを思い出す。
『今夜――教皇の隠し事を、一つだけ暴いて差し上げましょう』
激しく信仰心を揺さぶられる。
四宝の中で唯一、教皇のみが触れることを許された聖書。
ただ逸話を書き記しただけの代物であれば、こうまで狼狽するはずはない。
だが、教皇の体からゆらりと魔力が立ち昇る。
息苦しいほどの重圧。
信仰によって永き時を生き、人間を越えたとも噂されてはいたが、それでも目の前に佇む教皇は常軌を逸している。
「聖女……いや、枢軸の使徒よ。傲慢が赦されるのは、エルベットの不利益にならぬ限りと知れ」
異質な気配。
しかし『穢れの血』と違って悍ましさは感じられない。
称えるならば"神"の一文字のみ。
「聖女を殺めるおつもりですか?」
「たとえ人の身であろうと、我が魂の格は劣らぬだろう。元より……聖女ユリスティア以外に用は無い」
その言葉だけはカルネの気に障ったらしい。
笑みが絶え、冬期が訪れたように凍てついた顔をする。
「聖下は昔から御変わり無いようで。だからこそ、停戦協定を餌に私を差し出したのでしょう」
凍てついた眼をして、口元だけはそっと微笑んで見せる。
シェーンハイトは呆然と尋ねる。
「それはいったい……どういうことなのですか」
教皇は否定の言葉を吐かなかった。
黙するのみで、それは明らかに肯定にしか見えない。
カルネの逸話には誤りがある。
広く知られているような、信仰を抱いて戦場で散っていった殉教者という称号。
多くの尊敬と崇拝を集めた彼女が、実は教皇に売り渡されたのだという。
「聖下……ッ」
――教義は絶対的なものである。
――それを掲げるエルベット神教こそ正義である。
――反する者は邪教徒であって、粛清すべき悪である。
決して覆されてはならない前提条件。
ほんの僅かでも揺らいだならば、これまで振るい続けてきた剣にさえ疑いをかけてしまう。
「信仰心は懐疑心の対極。盲目こそ美徳であって、これまでのシェーンハイト卿は、さぞ模範的な信徒だったのでしょう」
もしエルベット神教の利益のために弾圧された者たちがいたならば。
これまで斬り伏せてきた中に、そんな無念を抱えて死んでいった者がいたならば。
「ヘレネケーゼはエルベット、ガルディア双方に領有の理が通る場所。この争いに意味があるのかと……疑う者は、そもそも戦場に立つようなことがないのでしょうね」
カルネは自嘲するように笑う。
自分もまた正義を疑わずに参加していたのだと肩を竦めた。
「ガルディアとの戦争は……たとえ勝利を得ようと我々に甚大な被害を齎すことであろう。枢軸は何を求め、人間を争わせるつもりだ」
「そこまで語る義理はありません。私の無念は晴らされ、神々は望む結果を得られる――」
カルネの瞳が妖しく光る。
微かに漏れ出した狂気にシェーンハイトは身を震わせる。
「――聖女の殺害を命じることも出来ないでしょうから。無力に眺めていればいいのです……そう、これまでのように」
既にカルネ再誕の報せは信徒の間で広まっている。
もし手を下してしまえば、教皇にとって不都合な事が積もりすぎてしまう。
「心配なさらずとも、ヘレネケーゼ奪還は必ず成し得てみせましょう」
「それを上回る災禍を招くというのにか」
「そこから先は……聖下の手腕に、全て任せるということで」
それが最後の慈悲なのだろう。
語らぬ胸中の全てを悟った上で、教皇は嘆息する。
「存外に理性は残っているようだな」
「さて、どうでしょうか」
悪戯っぽく笑みを浮かべつつ、今度はシェーンハイトに視線を向ける。
未だ、心を激しく揺さぶられた酩酊から正気を取り戻せていないらしい。
呆然としつつも、我に返るために解を求めて反芻していた。
「彼女のことは気に入りました。補佐官として不足は無いでしょう」
枢機卿序列四位。
異名も得ていない短い経歴だが、それでいて誰よりも多くの任務をこなしている熱心さ。
それが今では、目の前で濁った眼をして体を震わせている。
「彼女が最後にどのような解を見出だすのか……『原理聖典』でさえ、予知できていないのでしょう?」
教皇は再び黙するのみ。
深界の枢軸は、いったい何処まで内情を見透かしているというのか。
「精々、無様に足掻きなさい。災禍を退けたならば、ほんの少し……一息吐くくらいの安寧は赦されるでしょう」
大いなる邪悪を背に聖女が嗤う。
慈悲は身を潜め、狂気のみが全てを支配していた。




