37話 胎動(2)
『――枢機卿二名が事に当たって、みすみす取り逃したと』
冷えきった声が馬車の中に響く。
シェーンハイトは暗い面持ちで、ただ肯定するしか出来なかった。
目の前にあるのは通信用の魔道具である水晶だ。
空間魔法の一種と言われているものの、これ自体が過去の遺物であるため原理を解析するには至らない。
先の空間では、底冷えするような目付きをした老齢の聖職者が座っていた。
『ラインハルトを向かわせるべきだったか』
「……申し訳御座いません、聖下」
肩を震わせ、下唇を噛む。
任せたのは失敗だったのだと、忠誠と畏敬を捧げる教皇に言われてしまったのだ。
彼女がこのような失態を犯すのは初めてだった。
枢機卿の序列は純粋な戦闘力によって決まっている。
順に四位・三位であるシェーンハイトとゲオルグに大差は無いものの、残り二名には卓越した技量と天賦の才があった。
アルピナは魔術師として最高峰の実力を誇る。
凡百の魔術師をかき集めたところで届かないほどの無尽蔵の魔力。
そこに幼少期から魔術書を読み込んで蓄えた知識が組み合わさり、他の追随を許さない戦略的魔術師となった。
彼女が前線に出たならば、如何なる戦争も瞬く間に片付いてしまうことだろう。
数を揃えたところでまるで意味を成さないのだ。
それ故に、隣接する国家も表向きは友好的に振る舞わざるを得ない。
そのアルピナすら凌ぐのが、混沌の時代において"最強"と謳われる男。
枢機卿序列一位『剣聖』ラインハルト・ハーケンシュタインだった。
幾度か手合わせをしたことがあったが、彼の凄まじい剣戟を前にして一度たりとて勝てた試しがなかった。
心に昏い感情が渦巻く。
日々熱心に信仰を捧げ、鍛練を怠ったことなど無いというのに。
『接敵して気付いた点を報告書にまとめなさい』
「……畏まりました」
与えられた任務に失敗した。
その事実をひたすらに悔いるが、それに囚われ続けているわけにもいかない。
失敗した事実を消すことはできないが、その後の行動によって最大限の信頼を取り戻すことも重要だ。
不死者にして『穢れの血』でもある敵将。
剣の腕も術師としての力量も底知れず、エルベット神教に対し明確な敵意を抱いている。
これほどの脅威を放置するわけにはいかないだろう。
『して、アルピナ卿の容態は?』
その問いにシェーンハイトは顔を曇らせる。
顛末を報告するというのに、この場にアルピナは在席していなかった。
「命に別状はありません。恥ずべきことですが……不死者に情けをかけられ、治療は十全に施すことができました」
水晶越しだというのに、ひりついた空気が感じられた。
この報告が教義に反するものであると理解している。
だが、それ以上に――。
「アルピナ卿は馬車に隠ったまま、呼び掛けにも応えません」
『怖じ気付いたと?』
「……恐らくは」
恐怖に支配されてしまったのではないか。
常勝を誇るアルピナにとって、敗北を味わうのは初めてのことだった。
「魔術に絶対的な自信を持っていた彼女が敗れた……年相応の感性を持っていれば、恐怖を抱くのも仕方がないかと」
『そうか』
返ってきたのは無感情な一言のみ。
だが、そこに失望が多分に含まれていることを感じ取ってしまう。
『この後の事だが、卿にはある人物の護衛を任せたい』
「ある人物とは?」
『会えば解る。第三教区、及び周辺地域における彼女の使命。その補佐官として付き従いなさい』
シェーンハイトは無言で頷く。
ここで挽回しなければ、枢機卿としての地位も揺らいでしまう。
名声などには興味はないものの、信仰の証としてこの肩書きには思い入れがあった。
だが――。
『卿の信仰を見詰め直す、良い機会となるだろう』
「私はッ――」
言葉を紡ぐ前に通信が遮断される。
己の信仰に偽りはないはずだ。
教皇に認めてもらえないとなれば、どうすればいいのか分からなくなってしまう。
教義に忠実であれと、その一心で『穢れの血』を殺め続けてきた。
凶悪な魔物にも臆することなく挑み続けてきた。
邪悪な存在を打ち滅ぼすことは枢機卿四名に共通する崇高な使命だ。
討伐数のみに絞るのであれば、シェーンハイトが頭一つ抜けている。
多くの邪教徒を討ち滅ぼしてきた。
己の信仰を証明するために、教義に従って戦い続けてきたはずだった。
信仰が届かない。
これほどの孤独を感じることが、これまでの人生で他にあっただろうか。
腰に帯びたレイピアに手を添える。
認められるためには、より多くの功績が必要だ。
聖十字卓議会に名を連ねる者の一人として剣を振るわなければならない。
もっと多く邪教徒の首を捧げなければ。
「いや、違う……」
それは崇高な使命ではあるが、深く囚われるべき事柄ではない。
血に塗れた信仰など望んでいないのだ。
「私は迷っている……?」
哀れな子羊のように宛もなく。
思い返してみれば、近頃は教義に対して微かにだが疑念を抱いているような気もする。
盲目的に教義を重んじることは出来ない。
倫理観に反する命令に対して、エルベット神教の繁栄のためと従うのは本当に正しいのだろうか。
「私の信仰は……」
見詰め直すべきなのだろうか。
胸元に手を添えて、震える息を吐き出した。
◆◇◆◇◆
戦跡から二日程の移動を経て、中央区に位置するガニヴァル聖堂へと帰還する。
煤汚れの一つさえ見当たらない白亜の聖堂は、空高く上る太陽の寵愛を一身に受けて眩い。
第三教区におけるエルベット神教の拠点でもあり、多くの巡礼者が訪れる聖地でもある。
本来はアルピナが指揮を取るべき場所なのだが、未だに敵将から受けた傷は癒えないらしい。
到着したというのに、声をかけても返事はなかった。
「アルピナ卿、失礼します」
客車の扉を開けると、そこには何やら魔術の構築をしているアルピナの姿があった。
抉られた脇腹も未だ痛むはずだというのに、目の下に大きな隈を作っている。
それでも、体に障ると咎めることはできない。
「まだ……ぜんっぜん、足りてない……ッ」
思わず見惚れてしまうほどに、彼女の真剣な表情は美しい。
普段の怠惰な姿からは想像も付かない顔をしている。
「……ん。なにか用?」
視線に気付いたのか、やや不機嫌そうにアルピナが尋ねる。
「聖堂に到着したので……。ところで、卿は何を?」
「見れば分かるでしょ」
面倒そうに溜め息を吐く。
彼女が行っているのは、手のひらの上で魔力球を維持しているだけの、魔術師としては極めて初歩的な鍛練だった。
シェーンハイトの剣術は魔力に重きを置いたものであるため、過去には同様の鍛練を積んでいた。
「魔術師は己の内に秘めた力を自在に操れないといけない。波風一つ立たせずに魔力球を維持するには、熟練した魔力操作が必要になる」
その極致と言うべき魔力球が目の前に浮かんでいる。
微かな歪みさえ存在しない。
強大な魔術を行使することに比べれば、この程度はアルピナにとって朝飯前だろう。
「……シェーンハイト。密度ってなんだと思う?」
魔力球を圧縮するように押し込んでいく。
規模は二回りほど小さくなったが、容易く馬車を吹き飛ばすほどの魔力量が込められている。
密度が高まるにつれて微かに波打つような動きを見せ始めた。
「人間に鉄塊を持ち上げるのが難しいみたいに、魔力を扱うにも"筋肉"が必要になるの」
魔術の根元となり、魂の根源でもある。
魔力とは内包する量に差はあれど全ての生命が保有するものだ。
「体系化された魔術っていうのは便利なのよね。術式の中に、密度を高めるための補助魔法とかが組み込まれてるから――光球」
同様の魔力球を、今度は現在の魔術体系に沿って生み出す。
様々な術式が絡み合って安定した魔力球が出来上がった。
十分な威力を期待できるはずだったが、アルピナは不満そうにしていた。
「非常に安定しているようですが……?」
「手軽なだけで応用が利きづらくてさー。安定させるための補助術式も多いから、魔力の消耗だって釣り合ってないし」
でも、とアルピナは続ける。
「十分な修行を積める人間なんて今の時代にはほとんどいないから、誰でも扱える体系化された魔術が人気なのかもね」
術式を覚えて構築するだけ。
魔術師として要求されるのは、ある程度の知識と魔力量のみ。
代わりに高位の魔法を扱える魔術師が少なくなってしまったのは仕方のないことだろう。
「密度……あの骸骨みたいに威力を限界まで高めるには、補助術式に頼らず自分で支える必要があるの」
体系化された魔術は、代わりに一定の規模でしか発動できない。
凡百を相手取るのであれば事足りるだろうが、エルベット神教が対峙する敵は強大だ。
補助術式に頼らない独自の魔法。
一対多における場合であれば、内包する莫大な魔力で猛威を振るうことが出来る。
その全てを個に向けるには、人間の体は非力すぎた。
「要するに。わたしの魔法は突出した個に通用しない……通用しなかった」
アルピナも補助術式に頼らない独自の魔法を行使できる。
発動規模で比肩する人間など存在せず、あの不死者でさえ同じ芸当を成すことは敵わないだろう。
それでも、魔法を構築するための純粋な力量で劣っていたのだ。
そこにあるのは恐怖ではなかった。
怒りを糧に更なる高みへと挑まんとする力強い瞳。
生まれ持った魔力は底知れず、技術を磨けば追い抜かすことだって不可能ではない。
――幸福だ。
恍惚と笑みを浮かべる。
脇腹の痛みなど彼女にとって些末な問題だ。
目の前にシェーンハイトがいなければ、湧き上がる悦びに身悶えしていたことだろう。
「安心しました。てっきりアルピナ卿は――」
「なに。あの骨屑を恐れているとでも思ったの?」
その発想に至ったシェーンハイトを嘲るように肩を竦める。
あれほど見事な手本を目の当たりに出来たのだから、感謝こそすれ恐怖など抱くはずもない。
それ故に、残念で仕方がなかった。
「シェーンハイトさあ……それは、その恐怖はあなたのものじゃないの?」
「……それは、どういう?」
まさか、自分が怖じ気付くはずもない。
もう一度対峙したとして、その剣が鈍るような不安もない。
だが、アルピナが敵将から"恐怖"を感じ取った事実はない。
本人が気付いているかは不明だが、そこに見出だしたのは他ならぬシェーンハイト自身だ。
「アレとなにを話していたのか知らないけど……ひどい顔をしてるし」
思い出すのは、戦跡で交わした僅かな言葉。
眼球は朽ち果て消失したというのに、敵将の目元には魂の奥底を覗き込まれるような悍ましい闇が揺らめいていた。
――貴殿の剣には迷いがある。
――魔力には不純物が紛れている。
――その信仰は果たして本物なのか?
「恐怖を連想したシェーンハイトのほうが、本当は恐れているんじゃ――」
「私はッ!」
必死の形相でアルピナの肩を揺さぶる。
信仰を認める言葉が欲しい。
教皇の失望も、自身へ向けられたものだと理解してしまったのだ。
醜くも不死者への恐怖をアルピナに押し付けて、自分は平気だと思い込もうとしていた。
平然としていられるはずだった。
報告した際もひどい顔をしていたのだとしたら、どれほどまでに。
「私は……私は、本当に愚かだ……ッ」
己の全てを捧げると誓った。
この信仰こそが存在意義であり、寄り代であった。
死が怖いわけではない。
信仰が否定されることを恐れているのだ
微かな違和感が、我が物顔で巣食っている。
「ちょっと、おどかさないでよ……」
アルピナは戸惑いながら乱れた服を直す。
鬼気迫る表情を浮かべる姿はらしくもない。
彼女の知るシェーンハイトは、冷徹で泰然、信徒としても敬虔で信仰に一切の迷いがない。
そのはずだった。
自身の信仰を疑ってしまうほどに、彼女の内に何かが潜んでいるのかもしれない。
「……わたしと比べれば、信仰心はあるんじゃないの?」
誠実に、忠実に、枢機卿としての任務に当たる日々。
命のやり取りを交わさない日の方が、シェーンハイトにとっては珍しいくらいだった。
対して、アルピナは教義に忠実ではない。
本人もその自覚はあるのだが、それを引いてもエルベット神教に十分な貢献をしていると思っていた。
大規模な交戦の際は必ずと言っていいほど駆り出されている。
アルピナからすれば、シェーンハイトほど模範的な信徒はいない。
何が彼女の心を揺さぶっているのか。
「……手間を取らせてしまいました。私は任務の支度をします」
答えが見つからないまま、険しい顔をしながら離れていく。
どうにも危うさを感じさせる様子だったが、アルピナは引き留めることもできなかった。




