36話 胎動(1)
――ラムファレル戦跡。
第三教区西部に位置する不浄の戦跡。
かつて隣国との戦争が起きた際には、多くの命が誇りを胸に抱え死んでいったという。
途方も無い犠牲の果てに、今では濃い穢れが立ち込めてしまい、人間が住むには厳しい地帯となった。
あらゆる生命が死に絶え、荒れ果てた空虚な光景が広がるのみ。
日の光さえ差さぬ災厄の地で。
何を求めてか、亡者の軍勢が進撃していた。
禍軍の後方に控えていたのは、全身が蒼白い水晶で構築された骸の将軍。
剣を掲げて指揮を取る姿からは勇ましく、死霊とは到底思えない覇気を感じさせる。
その一挙一動に警戒しつつ、聖十字を掲げた集団が遠方から見据える。
「――捕捉しました。標的と見て間違いないでしょう」
穢れの影響を受けた魔物。
それも、常軌を逸した量を溜め込んでいるのだろう。
その影響はあまりにも強く、支配下にある軍勢の端々まで穢れが満ちているのが確認出来た。
周辺に住まう者たちにとっては大きな脅威だ。
第三教区の秩序を維持するために、危険因子は速やかに排除する必要がある。
対峙するに十分な戦力を与えられてはいるものの、敵将だけは数で圧せるものではないと理解していた。
一騎討ちをすべきは自分だろう。
シェーンハイトは交戦に備え、精神を研ぎ澄ませていく。
「……はぁ、眠いんだけど」
その傍らには、可愛らしい兎のぬいぐるみを抱えた眠たげな少女。
十分な睡眠を取っていないのか、不健康そうな蒼白い肌色をしており、目の下には目立つ隈があった。
――枢機卿序列二位『天魔』アルピナ・フェルメルタ。
第三教区の管轄者であり、エルベット神教において随一の魔術師。
混沌の時代において、第七階梯の高みに辿り着いた唯一の人間が彼女なのだ。
しかし、その真価は莫大な保有魔力にある。
「教皇聖下の予言通り、この地に残留していた怨恨が動き出したようです」
過去何十年、或いはそれ以上の間。
この地の不穏な動きをエルベット神教は監視していた。
それほどの脅威が眠っていたのだろう。
穢れの濃度も極めて高く、魔物としての格も上位に相当するだろう。
眼下には、黄泉の門でも開いたのではと思ってしまうほどに悍ましい光景が広がっていた。
「あれを片付けるだけでいいんでしょ?」
「任務内容はその通りですが……これは聖下からの勅命。最大限の警戒を以て当たるべきかと」
アルピナは慢心している。
敵将の異質さに気付いていないのか、たかが死霊風情と侮っているのだ。
枢機卿が一度の任務で二人も派遣されることは本来あり得ない。
二人が必要とされるような脅威が出現したのだとシェーンハイトは警戒している。
だが、互いに戦場で居合わせるのは初めてだったため、力を測りかねている部分も無いわけではない。
剣士であるシェーンハイトと魔術師であるアルピナとでは、敵の危険度合いも違って見えるのだろう。
「敵軍の端々まで穢れが満ちています。恐らく、敵将は多量の穢れを内包しているかと」
「わたしは感じないんだけれどー?」
アルピナは面倒そうにため息を吐く。
今回のことは死霊の異常発生としか思っていなかった。
穢れが戦跡を取り巻いていることは理解出来る。
過去の対戦では多くの悲劇が起きたというが、中でもラムファレル戦跡は一番大きな衝突があった場所だった。
確かに頭数だけは立派なものだが、アルピナから見て個々の魔力量は幼子と変わらない。
此方も十分な戦力を準備しているのだから、物量だけで押し切られるような心配もない。
脅威に値するとすれば、精々が敵将のみだと考えていた。
「はぁ……真面目すぎ。あんな骨屑共なんて、ちょっと本気を出せば塵だって残らないし」
――こんな風に。
アルピナは自軍に宣言もせず、面倒そうに魔術の構築を開始する。
「アルピナ卿、何を――」
「まあ見ててよ」
立ち昇る魔力は光の柱が顕現したかのように天高く。
空間が歪むほどの波が大地を揺るがしていた。
「――始まりは、世界への疑念」
その術式は緻密で繊細。
一切の綻びを赦さず、ほんの僅かな揺らぎさえ存在しない。
亡者の軍勢を取り囲むように清浄な光が大地から溢れ出す。
「――さて、昏き思索の囚人が」
浄化の光に触れて無事で済む死霊など存在しない。
離れていたとして、光を浴びるだけでも現世から消え去ることだろう。
外界と隔絶された地に亡者の安寧は存在しない。
だが、それほどの規模を誇る魔術ですら下準備に過ぎない。
「――魔に堕ちるのは、必然でしょう?」
クスッと笑うように口許を隠し、そして手を翳し上げる。
構築は完了した。
そこに莫大な魔力を注ぎ込むことで、常軌を逸した規模の魔術を展開させる。
天を覆い尽くすほど広大な魔方陣。
闇空に光で描かれた緻密な幾何学模様に、何節とも知れぬ魔術言語が組み込まれていた。
ある種の芸術といっても過言ではない。
やがて天涯より現れたのは、数多降り注ぐ煌星。
抗うことさえ許されず、何かを成せるわけでもなく、光壁で囚われた亡者たちに逃れる術は無い。
彼らが何の執念を抱えて現世に取り残されたのかは知らないし、知るつもりもない。
アルピナにとって重要なのは敵を滅することのみだ。
シェーンハイトは思わず息を呑む。
彼女だけではない。
この場に居合わせた皆が呆然とその光景を眺めることしかできなかった。
「これが、アルピナ卿の大魔法……」
不遜な言動に見合った実力。
現に彼女は個として成せる領域を遥かに凌駕している。
どれだけ神に愛されたら、これほどの力を得られるのだろうか。
大地を焼き尽くすほどの熱量を持った光が爆ぜる。
その余波は遠く離れた自軍にも届くほどで、地揺れに足を取られる騎士もいた。
「勘違いしないでほしいんだけどさぁ。これ、第六階梯だから」
呆れた様子で肩を竦める。
魔術を全力で行使するのであれば、今よりも強力なものを放てるのだと。
まさに序列二位として相応しい実力者だ。
並大抵の努力では、この境地には届かないだろう。
ただただ驚愕するばかりだったが、戦場で気を休めている暇は無い。
「……総員、戦闘体勢ッ!」
「え、うそっ!?」
これで終わるような戦いであれば自分は呼ばれていないだろう。
シェーンハイトは無数の気配を察知して素早く抜刀する。
凄まじい速度で、敵軍のいた方角から何かが迫ってきていた。
視界に映ったのは無数の騎兵。
煤けた骨馬に跨がって、骸骨の騎士が襲来する。
「あの魔術を耐えた……というわけではなさそうですね」
光壁で囲まれていた一帯から亡者の気配が消え去ったのは確認した。
だというのに、どこからか湧き出したかのように姿を表したのだ。
騎兵の後ろには、地を這い襲い来る亡者の群れ。
生者の気に群がるように我先にと向かってきていた。
引き込まれてしまえば命は無い。
とはいえ、この場に居るのはエルベット神教の精鋭だ。
死線は幾度となく乗り越えている。
「――攻撃開始ッ!!!」
聖銀製のレイピアに魔力を込めて疾走する。
先陣を切るのは彼女の役割だ。
「――断空」
膨大な魔力を刀身に込め、水平に一閃。
先頭を行く骸骨の騎兵を薙ぎ倒すように嵐が吹き荒れ、消し飛ばしていく。
「――煌矢、氷鎚、炎塊、暴風刃、雷鳴波」
後方から無数の魔法が飛来する。
この場にいる魔術師はアルピナ一人であり、全ては彼女によるものなのだ。
絶え間無く打ち続ける姿は、戦を指揮するものにとって恐怖を与えることだろう。
味方としてはこの上なく心強い存在だ。
シェーンハイトが抉じ開けた隙間をアルピナが強引に広げ、そこへ全軍が突貫する。
自我の薄い相手など恐怖を感じない。
襲い来る敵を次々に斬り伏せ、シェーンハイトは更に加速していく。
凶悪な『穢れの血』を相手にするよりは、虚ろな亡者の方がずっと容易いだろう。
質の低い兵では頭数を揃えたところでたかが知れている。
だが不自然なことに、この程度の手合いですら穢れを身に宿している。
「まさか……」
崩れ落ちた骸骨は跡形も無く霧散していく。
それが何を意味しているのか、結論を出すには十分な要素が揃っていた。
――敵将が兵を生み出している。
召喚され使役された魔物は実体が無い。
肉体は魔力によって形作られており、戦闘不能に陥れば消滅する。
アルピナの第六階梯魔法は全てを焼き尽くしたはずだった。
もし敵将が耐え凌いでいて、直後にこれほどの数を再度召喚したのであれば。
いったいどれほどの魔力と穢れを身に宿しているというのか。
「敵将を狙います。援護を」
さすがに無限に湧き出してくるというわけではないだろう。
いずれ底をつくかもしれないが、悠長に待っていてはこちらが消耗してしまう。
「血の契約に従い、聖務を執行せよ――さあ穿て、気高き星槍」
光の槍が戦場を突き抜ける。
アルピナの放った魔法は亡者を蹴散らしながら道を切り開いていった。
当然ながら、それだけが狙いではない。
敵将まで一直線に、あわよくばそれすらも穿つ。
凶悪な魔物ですら容易く屠るほどの威力を誇る第五階梯の魔法だったが――。
「――ッ!」
迎え撃つように敵将が剣を振り下ろす。
剣閃から紫炎が迸り、光の槍を叩き落した。
だが、それで十分だ。
これだけの隙があれば敵将まで辿り着ける。
「召装――天麗衣」
淡く輝く純白のドレスがシェーンハイトの美貌を彩る。
清浄な光が宿る戦闘衣を身に纏い、蒼い魔力光を帯びた術式が体に浮かび上がった。
暗い戦跡を駆け抜ける姿は閃光のように眩く。
アルピナが切り開いた道を全力で駆ける。
「――参りますッ」
瞬時に肉迫し、魔力を込めた鋭い突きを放つ。
敵将は悠然と佇み剣閃を品定めするように眺めていた。
衝突する寸前に身を僅かに反らして躱すと、興味深そうに息を漏らした。
『エルベットの飼い犬共と思っていたが、これは中々に……』
愉快だと嗤う。
心の奥底を覗かれるような気味の悪さを感じ、シェーンハイトの背筋を冷たい汗が伝う。
即座に身を翻して距離を取るが、追撃は来なかった。
「……ただの魔物ではないようですね」
不死を司る魔物の類は数多く存在する。
生きる屍や骸骨、死霊など様々だったが、彼らは共通して自我が希薄だ。
対峙している相手には人間らしい思考を感じられる。
『貴殿は何者だ? 聖女はどうした?』
「……聖女?」
後方に控えているアルピナのことではないだろう。
彼女は"聖女に最も近しい存在"とされているが、あくまで枢機卿序列二位の魔術師だ。
『カルネ・ヴェル・プリ―スタの名を、エルベットの騎士が知らぬはずもなかろう』
髑髏の目に炎が灯る。
どこか狂気を感じさせるような焦燥が揺らめいていた。
「その方は聖地ヘレネケーゼ奪還作戦の際、殉教しました」
『馬鹿な……ッ』
明らかに動揺している。
だが取り乱したのも一瞬のことで、手にした禍々しい剣をシェーンハイトに向ける。
『どれほどの時が流れたのか……忌々しい犬共は健在のようだが。我が呼び起されたというのであれば、成すべき事は残っているということなのだろう』
強烈な殺気が膨れ上がる。
目の前の将軍は不死者であると同時に『穢れの血』でもあるらしい。
どれほど邪神の寵愛を与えられたら、ここまで堕ちることが出来るのだろうか。
あまりにも危険すぎる。
生前の記憶か、エルベット神教に対して明確な憎悪を抱いている。
「私の信仰にかけて、貴方をこの場で討ちます」
脅威は排除しなければならない。
そのつもりで魔力を練り上げていくシェーンハイトだったが、その様子を敵将は嗤う。
『貴殿の剣には迷いがある。魔力には不純物が紛れている。その信仰は果たして本物なのか?』
「不死者の戯言に耳を貸すとでも?」
動揺を誘うつもりなのだろうか。
その程度で揺らぐと思われているのであれば心外だ。
水晶の髑髏からは表情が窺えないはずだというのに、蔑むような嘲笑うような、そんな雰囲気が感じられた。
『やがて判る。エルベットは信仰を捧げるに値しないのだと、な』
飛来した魔法を手で振り払い、視線をアルピナへと向ける。
『アレには驕りが見える。規模こそ目を見張るものはあるが、聖女の魔術とは根本的に練度が違うのだ。強者を屠るには密度が足りぬ』
事実として彼は容易く捌いて見せたのだ。
あれほどの魔術を叩き落すなど考えられないことであり、さきほどの第六階梯をどのようにして耐え凌いだのかも想像が出来ない。
『密度というものは、即ち――穿て、死神槍』
昏い色をした槍が浮かび上がる。
奈落を覗いた時のような、茫然と意識が吸い込まれるような闇。
危険だというのに、何故だか目を離すことが出来ないほど美しい造形をしていた。
その穂先はシェーンハイトに向けられていた。
「――ッぁあああああ!」
恐怖を掻き消すように魔力を練り上げる。
これを退けるには全身全霊で迎え撃つ必要があった。
飛来する死神の槍を、剣で滑らせるようにして弾く。
だが、その軌道は即座に修正される。
一度構築した魔法を即座に上書きしたのだ。
次の標的は後方で魔術を構築していたアルピナだ。
「――さあ穿て、気高き星槍」
迎え撃つように魔法を発動する。
多少慌てつつも、その完成度は非常に高い。
光と闇の槍が衝突し――闇が突き抜けた。
「アルピナ卿ッ!」
「ぐぅッ――」
アルピナの脇腹を大きく抉り、後方に控えていた騎士までも巻き込んで爆ぜる。
明らかに致命傷だった。
『では、この辺りで失礼しよう。次は、次こそは正しき戦場で相見えることを所望する』
「……ッ」
悠然と背を向け歩き出したというのに、シェーンハイトは仕掛けることが出来なかった。
悪しき者に情けをかけられたのだ。
アルピナの傷は酷く、十分な治癒魔法が扱えるのはシェーンハイトのみ。
もし戦闘が続いていたなら間に合わないだろう。
「私は……ッ」
無様に膝を折り、己の弱さを悔いることしか出来なかった。




