31話 狂劇(1)
全ては"彼"の糸で吊られて踊らされている。
誰もが自覚無き演者となって、滑稽に歌い続けるのだ。
彼からすれば、如何なる悲劇も娯楽でしかない。
眼下に広がる反乱の光景でさえ愉快な気分になってしまう。
「阿呆共も集まりゃ、楽しませてくれるもんだなァ」
彼は直接手を下したりはしない。
こうして好き放題に操って、その結末を下らないと嗤い飛ばすのが堪らなく滑稽で愉しいのだ。
誰も自分に辿り着けはしない。
漠然と存在を気取られようと、尻尾を掴むことさえ出来ない。
そんな自信があるために今回も間近で見物していた。
デオン伯爵領の陥落。
私欲に目の眩んだ周辺地域の領主を適当に焚き付け、馬鹿な民衆を根も葉もない噂話で扇動し、操りやすい賊の集団に大義名分を与えた。
反乱の原因に伯爵自身も気付いているだろうが、全てを嗾けた存在までは見付けられないだろう。
様々な集団が、様々な目的を持って殺し合う。
きっとハンデルを手中に収める者が現れるまで終わらないだろう。
デオン伯爵が死したならば、衰亡は避けられないというのに。
誰も気付いていない。
皆が平等に不幸になるということに。
伯爵の屋敷に押し寄せる民衆も、抵抗する騎士も、進行してきた兵士も、蹂躙する賊たちでさえ栄光を勝ち取れると心の底から信じているのだ。
その希望すら間もなく打ち砕かれる。
狂劇を閉幕させる主役の到着を、今か今かと待ち侘びていた。
◆◇◆◇◆
ハンデルでも一際目立つ伯爵の屋敷。
その窓から眺めれば、街の様子が嫌になるほど見渡せるだろう。
「安寧もこれまで、か……」
反乱も、襲撃も、侵攻さえも同時に起きているのだ。
何者かが手引きしたことに気付かないわけがない。
以前から気付いて探っていたものの、最後まで正体を明かすことは叶わなかった。
手駒が無能なわけではない。
デオン伯爵が直々に選び抜いた優秀な者たちを向かわせたが、その精鋭部隊ですら消息を絶ってしまった。
用心棒でも雇っているのか、或いは黒幕自身が手練れなのかは不明だ。
情報を持ち帰ることさえ出来なかったのだから、そこらの賊共とは格が違う。
覚悟を決めたように立ち上がると、壁に立てかけていた古びた剣を手に取る。
「久しく握っていなかったが……存外に馴染むものだな」
彼には武人としての矜持がある。
衰えた体でも烏合の衆に後れを取るつもりはない。
命の危機に瀕しても領地から逃げ出すことは出来ない。
それは領主としての責任感から来るものではなく、個人的な理由によるものだった。
「最愛の娘よ――」
地下室に眠る"悪魔"を置いて、屋敷を離れるわけにはいかない。
◆◇◆◇◆
混沌の世界に残された唯一の安寧。
外界から隔離された楽園。
デオン伯爵領の平穏は、今の時代において何よりも貴重なものだった。
穢れの影響が薄く、作物が豊かに育つ肥沃な大地。
鉱山地帯では潤沢な資源に恵まれ、それを用いることで生活を発展させ続けている。
だというのに表立った敵対勢力もおらず、これまで平和を維持してきた。
それが今ではどうだろうか。
戦火に呑まれた交易都市ハンデルは、もはや希望の欠片も残されていない。
救いは無いというのに民衆は逃げ惑う。
建物の中に籠ろうと、扉を蹴破られて嬲り殺しにされるのは時間の問題だ。
もし生き延びたとして、伯爵領の衰亡によって苦境に陥ることは避けられない。
無意味に両手を組む者もいる。
それが何に繋がるわけでもないというのに、不在の神に必死に縋っている。
少しは気を紛らわせているのだろうか。
賊共は略奪の限りを尽くし、不幸にも鉢合わせた民衆は容易く命を奪われる。
周辺地域から送り込まれた兵士たちは、賊も民衆も見境なく剣を向ける。
それも道程の話。
最終的に、各々の目的によって伯爵の屋敷へと行き着くだろう。
多数の騎士が奮戦するも、有象無象だけが敵ではない。
黒旗を掲げた、統率の取れた集団がハンデルの大通りを征く。
罪咎愚章と呼ばれる悪名高い印章は、この日にだけは見たくないものだった。
――黒狼衆。
過激な思想を持った戦闘狂の集い。
表向きは傭兵団として名乗っているが、エルベット神教によって危険因子と認められているほど。
特徴的な黒旗を見れば、賊共も恐れを成して道を譲る。
他領土から侵攻してきた兵士でさえ撤退を視野に入れてしまう。
この戦乱で勝利を得る者が誰なのか、既に決まったかのように思われていた。
だが、それで満足するほど黒幕の"彼"は甘くない。
それを示すかのように、濃密な穢れの気配が近付いていた。
始め、民衆はその姿に希望を抱いた。
輝かしき栄光の凱旋。
今回もまた、死線を潜り抜けて魔物の首を掲げに来たのだろうと。
凛とした佇まい。
太陽の光を受けて煌めく深緑の髪。
剣を握る姿を見れば、この戦火ですら鎮圧してくれるのではと期待してしまう。
一人の幼子が、縋るように駆け寄って懇願する。
この悲劇を終わらせてほしいと。
伯爵領に平穏を取り戻してほしいと。
誰もが『英雄』に縋るだけ。
彼女の本質になど興味を持たず、都合の良い時にだけ祭り上げる。
逸話は数知れず、境遇まで知る者はいない。
だからこそ無警戒だった。
幼子もまた『英雄』クリームヒルト・ファルベ・シュタフェライという絵に描いたような存在に縋っていた。
これまでよく耐えたと言わんばかりに、その剣を以て領民を救ってくれるのだと信じていた。
喉元に手を伸ばし、容易く首をへし折った。
状況を理解する猶予も無く、次の犠牲者が生まれる。
悲鳴を上げる間も無く、次の犠牲者が生まれる。
逃げる隙すら無く、次の犠牲者が生まれる。
穢れに支配された肉体は殺戮を求めていた。
極限まで餓えを耐え凌いでいたせいか、余計に悪食衝動が色濃く浮き出ている。
理性は疾うに失われた。
戸惑う者たちを容赦なく狩り殺し、濁った魔力に酩酊する。
今の彼女を人間と評することは到底出来ない。
人々が『穢れの血』を半人半魔と呼ぶのであれば、今のクリームヒルトは何者なのか。
抗い続けたばかりに人間性を排斥されて、器を満たすのは穢れのみ。
考える暇は無い。
次の瞬間には、デオン伯爵の屋敷から大きな火柱が上がった。
それが意味するものは至極単純。
バルバロイ・フォン・デオン伯爵が敗北したということだ。
栄華を誇ったハンデルの街が、無惨にも炎に包まれていく。
決して癒えぬ傷を刻み込まれていく。
何の因果か、これまで一帯は穢れの影響が殆どなかったが、徐々に穢れが領内に集まってきていた。
全てを仕組んだ者は、この狂劇を人知れず楽しんでいることだろう。
姿も見せず、自ら手を下すこともせず、裏で糸を手繰るように。
だが、全てが彼の操る駒というわけではない。
炎に包まれた街を、勇ましい咆哮と共に駆ける者がいる。
せめて一人だけでも救うのだと、覚悟を決めた男がいる。
「――退きやがれッ!」
道を阻もうとする者は容赦無く叩き潰す。
屈強な戦士ですら見上げるほどの体躯に、さらに身の丈ほどの大剣を二振り。
殺気の滾る眼光は、それだけで弱者を圧し殺すほど。
様々な組織、集団が入り交じって酷い有り様だ。
この状況を正しく理解出来ている者など一人とて居ないだろう。
それで構わない。
既にハンデルは陥落している。
次の支配者が何者になろうが知ったことではない。
後の事は、この馬鹿馬鹿しい惨劇の演者たちが責任を負えばいい。
彼ら彼女らが行き場を失ったとして、そこまで背負う義理は無い。
だから、今はクリームヒルトだけを考えていればいい。
そうすれば、この通り――必ず会えると分かっていた。
「……クリームヒルト」
その名を呼ぶ。
濁りきった彼女を直視することさえ辛かった。
恨むべきは自身の無力さか。
或いは、世に穢れを齎した元凶か。
もし何かが違えば、この結末は避けられたのだろうか。
ヴァンの言う通りに甘い言葉でも囁けば、幸せな眠りに就けたのだろうか。
答えは否だ。
それはクリームヒルトの本心ではない。
悩む必要は無いはずだ。
では、どうすればいいのか。
グレンは大剣を地面に突き立て、素手で身構える。
――無理矢理にでも引き摺り出してやるッ!
命を奪う覚悟は決まっている。
だが、その前に少しだけ足掻かせてもらう。
穢れに呑まれたクリームヒルトが、まだ奥底で足掻いていると信じたい。
最期まで希望を捨ててはならない。
必死に穢れの侵蝕から抗い続けた彼女の勇姿を、易々と裏切るような真似は出来ない。
名を呼ばれたことに気付いたのか、或いは上質な獲物の気配を悟ったのか。
緩慢な動きでグレンの方に顔を向けた。
その瞳に理性は無く、ただ爛々と光る狂気のみが存在していた。
「……ッ」
覚悟はしていたが、改めて対峙すると思い知ってしまう。
人間にとって、世界にとって『穢れ』とは悪いものなのだと。
これまで力を上手く利用する者たちが多かったために、その恐怖が僅かに薄らいでいた。
穢れの影響が濃い地帯は不毛の大地となる。
魔物は変質して凶暴化する。
人間は本質さえも強引に捩じ伏せられて『穢れの血』となってしまう。
リスティルが果たすべき使命。
漠然としていた考えが鮮明になっていく。
だが、精神は乱してはならない。
今すべき事は、クリームヒルトに声を届けること。
二度目の失敗は許されない。
ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、体表を覆うように魔力を展開する。
己を過信しているわけではない。
無手で挑むことは有り得ないことだと、彼自身が一番理解している。
それでも、成さなければならない。
「全部……受け止めてやるッ!」
剣戟の全てを捌く。
相手の力量は一級品で、理性を失おうと剣筋の鋭さが落ちるようなこともない。
一つでも間違えば死に繋がるだろう。
武術の心得は無い。
素手で剣を受け止めるなど馬鹿げた話だ。
それを成し遂げるには、より強固で安定した魔力外皮が必要となる。
クリームヒルトは地面を這うように駆け出す。
瞬時に肉迫すると、重心を低くして突き上げるように剣を押し出す。
恐らくは、彼女の剣戟の一つ『紅棘』だろう。
濁った魔力を帯びた剣を、グレンは記憶を頼りに弾き飛ばす。
軌道は読めていた。
手の甲で確実に逸らした筈だった。
それでも、彼女の秘技は受け流せない。
黒い棘が脇腹を抉るように穿つ。
魔力で貫くことを目的とした技なのだろう。
剣自体は、その軌道を思い浮かべるための補助でしかないらしい。
傷は浅い。
魔力外皮によって阻まれ、僅かに血が滲む程度だ。
十全ではないが、この場で用いるには最低限の耐久を備えているようだった。
間合いは無いに等しい状況。
それを好機と手を伸ばすが、クリームヒルトは即座に後方に跳び、続く一撃を放つ。
弧を描くように振るわれた剣から、魔力波が空間を断ち切る。
間合いという概念を覆す剣閃――『碧波』。
磨き上げてきた『彩戟』の技術。
純粋な暴力によって敵を叩き伏せるグレンとは異なった系統の剣術だろう。
剣術にも理があるように見えるが、それ以上に魔力と絡めた特異な戦い方が際立っている。
初めから剣で打つことを目的としていない。
その本質は魔術に近いのだろう。
扱いに長けているからこそ、グレンの魔力外皮を一目見て、その欠点を把握出来た。
しかし、恐れる必要は無い。
旅の記憶が確かな形となってグレンの身を守っている。
絶え間無く浴びせられる濁った剣戟。
体中を打たれる痛みなど、クリームヒルトの感じていた苦痛より遥かにマシだろう。
全てを気迫で以て耐え凌ぐ。
体中を引き裂かれ、魔力外皮の斑を突かれ、哀れな姿に心を痛めようと。
機を逃さないように、決して意識を逸らすようなことはしない。
そして――。
「――ぁぁああああああッ!」
一瞬の隙を突いて押し倒す。
両手首を抑え込み、暴れられないように。
血の滲んだ体で、意識も薄らいでいる。
それでも、成すべき事だけは違えるつもりはない。
「目を覚ませッ!」
返事はない。
押さえ込まれていようと、強烈な殺気が途絶えることはなかった。
相手が『穢れの血』であろうと力比べで負けるつもりはない。
鉄塊の如き大剣を振るい続けた腕は、傭兵として最も信頼出来る武器だ。
声が届くまで決して離さない。
濁った魔力が爆ぜる。
酷く息苦しい。
ファウスマラクトとは別格の、純粋な穢れに包まれていく。
視界が黒く蝕まれていく。
恐怖を強引に想起させられる。
濁流に呑まれ、光を喪失する。
此れが世に混沌を齎した"穢れ"の本質なのだ。
獰猛な獣とて、唸る大海に放り投げられたら無様に藻掻くことしか出来ない。
如何に武勇を誇ろうと、所詮は条理に縛られた生命でしかないのだ。
だが、グレンはそれを受け入れない。
全ての悲劇を覆す、などという傲慢な考えは持たない。
それでも、目の前で助けを求め続けているクリームヒルトだけは、決して諦めないのだと誓った。
なればこそ、心の奥底にまで届くように吠える。
「――本当の望みを、お前の言葉で聞かせてくれッ」
叫ぶように声を絞り出すと、直後に目を見開く。
「グレン……さん……?」
微かに声が聞こえた。
穢れの嵐が静まり、視界が一気に晴れる。
そこには、心の底から安堵した様子で、嬉しそうに涙を流すクリームヒルトの姿があった。




