30話 とても息苦しい夜(2)
各々が苦悩を抱えている。
眼前に死を見ているクリームヒルトは、何を思って残りの時間を過ごしているのだろうか。
一方で、眼前に生を見出だした者もいる。
長き奴隷生活から解放されたシズは、今後の身の振り方を考えていた。
「近場の、ある程度栄えた街まで送ることは可能だ」
対面に座るリスティルが提案する。
職を見付けるまでの資金ぐらいは出すことも厭わないが、その先は彼女自身の足で歩んでいかなければならない。
デオン伯爵領は爆弾を抱えている。
送り届けるとすればエルベット神教の庇護下に置かれた地域だろう。
身の安全を保障するまでは出来ないが、適当な街に放り投げるよりはずっと良心的だ。
だが、シズには別の望みがあった。
「その……私を旅に同行させていただけませんか?」
「無理だ」
その願いだけは聞けない。
戦う力があるなら断る理由もないが、シズには技術も才能も無い。
一人では獣の一匹さえ碌に仕留められないだろう。
「拾った命を無為に捨てるような真似は許容出来ない」
間違いなく命を落とす。
旅が賑やかになることは歓迎だが、容易く壊れてしまうような者を連れては行けない。
漸く取り戻した人生は、自分のために歩むべきだ。
そのための協力なら惜しむつもりはないのだが、シズは恩返しとして同行したいらしい。
「お願いしますっ! 身の回りの世話でも何でもします!」
その感情を蔑ろには出来ない。
必死に努力すれば役に立たないわけではないだろう。
今後を考えれば、同行者の人数が増えるのは歓迎すべきことだ。
意見を求めようとヴァンに視線を向けるが、彼の興味はあまり向いていないらしい。
リスティルの視線にさえ、気付くのが遅かった。
「……彼女に相応の覚悟があるなら、お試しで使ってみるのは如何ですかね?」
旅に同行させ、実際に耐え得るのかどうかを見極めればいい。
駄目なら再び考え直せばいいだけのこと。
「まあ、これまでの人生より辛い目に遭うかもしれませんが」
穢れの奉還を目指す以上、凶悪な化け物を相手取ることは避けられない。
討伐自体が目的となることが殆どだろう。
そういった時、非力なシズを庇うために時間を割くようなことは当然だが出来ない。
リスティルの掲げる崇高な目的。
その妨げになるようであれば、ヴァンは同行を許さないだろう。
彼女の意気込みを評価したわけではないが、一先ず様子を見るくらいはしてもいいと考えていた。
「ふむ……そうか」
今後の旅に利益となるか否か。
ヴァンにとって重要なのはそれだけだ。
同行者に求めるものは、リスティルの目的を果たすために役立つ技能のみ。
それ以上の興味は無いと言いたげに、ヴァンは視線をシズから外した。
「少し野暮用を思い出したので……失礼しますねっと」
一礼すると、ヴァンは影の中へと沈んでいく。
シズの処遇より重要なことがあるらしい。
リスティルもそれを咎めるようなことはしない。
「いずれにせよ、置いていけるような街までは暫くかかる。その期間で考えが変わるかもしれん」
互いに、とは口に出さない。
戦闘面以外で役立てるほどの技能があるかは不明だが、シズは首を振る。
「炊事もお洗濯も……戦闘だって、努力して見せます!」
労働奴隷として下地は出来ているつもりだ。
手解きを受ければ、それなりに戦えるようになるかもしれない。
地獄のような日々を送ってきたことを考えれば、厳しい修行だって楽しく感じるかもしれない。
程度は不明だが、少なくとも覚悟は本物だ。
リスティルは表情を和らげると、今後のことについて話し合いを始めた。
◆◇◆◇◆
酷く凍て付いた夜だった。
吐息も微かに震えてしまうほどで、しかし外気が冷えているわけではない。
何が正解であるのか、グレンには知る由も無い。
出会った時点で覆しようのない"運命力"によって確定されている。
どれだけ必死に支えて、どれだけ必死に足掻いても救う手立てはないのだが、それでも最悪の事態だけは考えたくなかった。
考えることを避けていたのかもしれない。
それを彼自身が覚悟してしまえば、クリームヒルトも全てを諦めてしまうだろう。
そうでなかったからこそ、彼女はグレンに『貴方の手で殺してほしい』と我儘を言えた。
それが、彼女に残された最後の理性だった。
「得物の扱いには長けていても、淑女の扱い方は分からないんですねえ」
部屋に転移してきたヴァンが戯けるが、グレンの表情は険しいままだった。
つまらなさそうに肩を竦めるも、正直なところ反応は予想できていた。
「俺はどうすればいい」
「さて……枕元で優しく囁いてあげたら、幸福に包まれながら眠れるかもしれませんね」
その答えにグレンは首を振る。
正解がそこにあるとは到底思えない。
最善を尽くそうとするのは悪いことではない。
グレンが斯く在るからこそ、クリームヒルトも信頼して身を委ねられる。
少なくとも"現在"のクリームヒルトは喜ぶだろうとヴァンは確信している。
悪食衝動を圧し殺してまで理性を保てるほどの綱となっているのだから、彼女の中をグレンという存在が大きく占めているのは間違いない。
だが、本来の彼女が望むかどうかは不明だ。
穢れに呑まれたが故の衝動であるなら悪食と変わりない。
無謀にも、心の奥底で崩れかけている本心を穢れを掻き分けてまで探し出そうとしているのだ。
「……貴方は真面目すぎるんですよ」
口から出た言葉が否定の言葉なのか、或いは肯定の言葉なのかはヴァン自身にも判別が付かなかった。
微かな期待と哀れみが胸で渦巻いて、しかし言葉として形成するには至らずにため息を吐いた。
「後はお任せしますよっと」
どうにも居心地の悪さを感じてしまう。
ヴァンにとって他人の生き死になど取るに足らないことだ。
死を間近に控えた人間のために歩みを止めるほど甘い人間ではないと思っていた。
「……結果を問わず、貴方は最善を尽くしていましたよ」
自分らしくもない発言だ、と呆れつつ影に沈んでいった。
クリームヒルトの本心を推し量れるような経験は誰にも無い。
同じ『穢れの血』であろうと、ここまで精神をすり減らしている者はいないだろう。
衝動に身を委ねていれば心を呑まれることもなく、それこそマルメラーデ監獄で出会ったシュラン・ゲーテのように最低限の人格は残せたはずだ。
穢れとの同化を拒んだが故に蹂躙されていく。
それは、リスティルのために悪食衝動を耐えているヴァンも他人事ではない。
リスティルの旅に付き合うということは、今後も同じような悲劇を幾度となく目にするということでもあるのだ。
目の前にある悲劇ですら、覚悟は出来ていないというのに。
どんな顔をして話せばいいのだろうか。
ベッドに腰掛けたまま、グレンは最後まで苦悩していた。
よほど疲れていたのか、クリームヒルトは村人たちの歓迎でさえ食事も碌に取らないで自室へと向かってしまった。
去り際に『後で話をしたい』とだけ言い残していたが、その様子は明らかに不自然だった。
そのせいだろうか。
やけに落ち着いたノックが、グレンを余計に動揺させる。
「ごめんね、夜遅くに」
その声も落ち着いていた。
本来なら安堵すべきことのはずだが、どこか憂いを帯びているように見えて仕方がない。
「きっと、他にやりようがあるのかもしれないけれど――」
長く旅を共にしたせいだろうか。
その行動に、即座に反応することができなかった。
荒々しい衝撃と共に視界が激しく揺さぶられる。
ベッドに押し倒されたと気付いた時には、既にクリームヒルトが跨がっていた。
「……前に、私が傭兵に助けられたって話をしたよね?」
「ああ、故郷の村を救われたって言ってたな」
魔物の襲撃によって死の危機に瀕していた幼少期のクリームヒルト。
彼女を救ったのは、偶然近くを通りがかった傭兵だった。
剣を振るう理由。
それは、人として在り続けるために精神を繋ぎ止める綱。
焦がれた"傭兵"に少しでも近付きたいという情熱が、これまでの彼女を支え続けてきた。
唯一残したものがその想いだった。
「ねえ、グレンさん……」
吐息の熱が伝わってくるほどに顔を近付ける。
火照った頬、潤んだ瞳。
微かに香る汗の匂いも、恥じらうようなことはしなかった。
グレンの頬に手を当て、滑らせるように首筋、胸元へと動かす。
服のボタンに手を掛けているのだと気付いた時、グレンは咄嗟に彼女の手を取った。
「……どうして?」
分からないといった様子でクリームヒルトは首を傾げる。
拒まれる理由が見当たらないと思っていた。
「幾ら俺でも、それが本心じゃねえってことくらいは分かるつもりだ」
爛れた欲求に呑まれている。
或いは、感謝を歪な形で伝えようとしている。
それだけは絶対に受け取ってはならない。
二人とも、それを望むようなことは有り得ない。
緩んだ理性によって間違った望みが生まれてしまった。
抱くことで本当に救われるのであれば迷うことはなかった。
彼女に求められて喜ばない人間の方が稀で、グレンも魅力を感じていないわけではない。
だが、違う。
クリームヒルトはそれを望んでいない。
「でも、私は……」
グレンに流されるつもりはなく、決してその手を離すことはしない。
「グレンさん……ッ」
無理矢理にでも続けようとした。
ただ悲しげな表情を浮かべるグレンに、それでも"人間としての自分"を刻み付けたくて手を伸ばそうとする。
届かない。
強固な意思が、愛情が、クリームヒルトの手を阻んでいる。
「なんで……」
残っている時間は少ないというのに。
彼の献身に応えられるものなど、この程度しか持っていないというのに。
「どうしてッ!?」
何を返せばいいのか分からない。
悲しさと無力さで頭が埋め尽くされた時、両肩を捕まれて激しく揺さぶられる。
「――それを受け入れたら、俺もお前も不幸になっちまうんだよッ!」
奥底で抗い続ける理性に届くように悲痛な叫びを上げる。
見返りなど求めていない。
孤独に抗い続けてきたクリームヒルトを前にして、ただ手を差し伸べたいと思っただけ。
救う手立ては無くとも、気を和らげるくらいは出来る。
万が一の際に介錯する力量もある。
それで心が休まるのであれば、付き添わない道理は無い。
納得のいく答えに辿り着けなければ無様に朽ちていくだけだ。
だが、クリームヒルトは漠然としたものしか思い浮かべられず、心を形容出来ないでいる。
駆り立てる焦燥が溢れる感情を羅列して、やがて導き出した答えは――。
「――分からないよ」
蝕まれた心に、振り絞る力さえ残っていなかった。
そこには悲しみも嘆きも無い。
諦念すら感じない。
全てを忘失した彼女に、耐え難い"悪食衝動"が押し寄せる。
「おい、どうした……?」
先程までとは明らかに気配が違う。
それこそ、存在そのものが変質してしまったかのように。
恐れていた事態を目の前にして、グレンは自身の覚悟が不足していたことに気付く。
理性が残っていることを願ってしまう。
言葉を返してくれることを願ってしまう。
無感情な瞳を見ても、最後まで諦めたくないと思ってしまう。
「……?」
腹上に跨がったまま、茫然とグレンを見つめる。
無限にも思えるほどの静寂が息苦しい。
少しして、クリームヒルトは愉しそうに口角を上げた。
本来の彼女であれば決して見せない、悍ましい嗤い方をしていた。
昏い魔力が吹き荒れる。
◆◇◆◇◆
「――目を覚ませ、グレン!」
唐突に聞こえた声に、意識を暗闇から引き摺り出される。
重い目蓋を持ち上げると、鬼気迫る表情をしたリスティルがいた。
「……俺は間違えたのか?」
自分が何故、無様に転がっているのか分からないはずがない。
獣が暴れたのかというほどに部屋の中は荒れていた。
家具の類いは壊し尽くされ、壁には大穴が開けられている。
微かに残る穢れの残滓が答えを示していた。
「リスティル。いったいどうすれば……あいつを救ってやれたんだ」
呑まれる寸前に見せたクリームヒルトの顔が忘れられない。
唯一残された人間らしさが追い出されたかのように、一筋の涙が頬を伝っていた。
拭うことも叶わぬまま、意識を闇に沈められてしまった自分の無力さが堪らなく悔しかった。
そんなグレンの姿に、リスティルも思わず目を伏せてしまう。
胸が酷く締め付けられるようで、直視出来ない。
「俺は――」
休んでいる暇は無い。
至るところを負傷しているようだったが、そんなことを気にしている場合ではない。
「リスティル。この先は"知っている"のか?」
痛む体に鞭を打って起き上がる。
十全ではないが、動けない程ではない。
自分の果たすべき役割を放棄するわけにはいかないのだ。
「この先は様々な可能性が絡み合っている。私には断言出来るだけの情報が無い、が……」
未来予知を覆し得るほどの存在が介入している。
僅かな手助けにしかならないが、どこへ導けばいいのかは知っている。
「急いでハンデルに向かうとしよう。まだ、終わらせるわけにはいかない」
その先で何を成すかは、グレン自身に委ねられている。




