29話 とても息苦しい夜(1)
「いやはや、かの有名な『英雄』に助けられるとは!」
襲撃を受けていた商人は嬉しそうに言う。
周囲には彼の"商品だったもの"が無惨に転がっているが、まるで気にする素振りを見せない。
一人だけ生き延びた奴隷の少女は震えたまま喋ろうとしない。
死から逃れた安堵が、徐々に"死に損なってしまった"ことへの恐怖へ変わっていく。
「窮地を救っていただいたというのに、大した礼もできず申し訳ない」
「見返りを求めて助けたわけじゃないからね」
クリームヒルトは平然を装って答える。
受け取った言葉に対して、返す言葉を熟考する余裕もなかった。
「やはり命あっての物種! 本当に、賊の襲撃を受けたときはどうなるかと」
大切な"品物"が壊されていく様子には焦ったが、自分が生きているのであれば何ら問題はない。
彼の扱うような奴隷は貧しい村を幾つか訪ねるだけで手に入れられる。
失われた命を冒涜するように、奴隷商人は亡骸に唾を吐きかける。
「まったく、役立たずばかりで困ったものですなぁ。だから大した値が付かない」
それが彼の本心なのだろう。
奴隷としてどれだけ価値があるのか、儲けられるのかしか頭にない。
道中で知り合いから買い付けた奴隷の少女も、結局役に立たなかった。
奴隷商人の表情を見て、シズは今後の境遇を嘆いてしまう。
戦いもせず震えていただけの自分が、この後で酷い叱責を受けるのは容易に想像出来る。
これまでは何人かで受けていた鞭も、今は自分にしか向けられない。
少しでも早く奴隷を仕入れて、自分に向けられる悪意を減らしてほしい。
場合によっては命を落とすかもしれない。
痩せ細っていたせいで愛玩奴隷として使われなかったシズは、同じ境遇にある労働奴隷たちが拷問紛いのことをされて命を落とすところを何度も目にしてきた。
時には、それに加担することを強いられたことさえあった。
――死にたくない。
過酷な奴隷生活の中で押し殺してきた感情が、今日は何故だか煩わしいほどに自己主張をしている。
もし失敗すれば地獄でさえマシに思えるような目に遭うことも理解しはている。
だが、貧しいながらも誠実に生きてきた自分が悪人に拐われ、そして奴隷として働かされ売り飛ばされを繰り返すなどもう耐えられない。
壮絶な死を覚悟してでも、今こそ行動すべきだと。
「――あ、あのっ!」
必死に声を絞り出す。
その途端、機嫌良く話していた奴隷商人が悪魔のような形相で振り返り、馬車を指差す。
「命令だ。今すぐ、牢に戻れ」
何か仕出かそうと画策しているなら酷い目に遭わせる。
警告するように睨み付けてきたが、ここで怯んでしまえばそれまでた。
今、この場には『英雄』がいる。
これまで耳にしてきた噂話、そして先程の戦いを見て、救いを求めるべきは彼女しかいないと思っていた。
「私は拐われ――ッ!?」
言葉を遮るように、奴隷商人がシズの腹部を目掛けて容赦なく拳を突き出した。
痛みに耐えられず、苦悶しながら踞る。
「わ、私は……私は無理矢理っ……連れ去られて……」
縋るしかない。
地べたに這い蹲ってでも、必死に手を伸ばす。
心底不愉快といった様子の奴隷商人が再び拳を振り上げるが、それをグレンが制止する。
「話を聞かせてみろ」
厳しい口調でシズに問い掛ける。
奴隷となるには相応の理由があるはずで、罪を犯したり金銭のために売られたりなど様々だ。
そうでなくとも、今の時代であれば女子供が無理矢理連れ去られることは珍しくない。
弱者を庇護する責務など存在しないのだ。
民衆を守るための国も無ければ法も無い。
比較的まともな伯爵領でさえ、奴隷商売が横行してしまっている。
シズは涙を浮かべながら自身の境遇を説明した。
幼い頃に拐われて、それから各地で売られ働かされを繰り返しているのだと。
同じ奴隷がまともな食糧を得られずに衰弱死したり、娯楽として嬲り殺される様子を目の前で何度も見てきた。
「……で、お前が望んでいるのはなんだ?」
再度問う。
同情するような理由があったとして助ける義理はない。
身勝手な正義感に駆られて他人の所有物に手を出して、大陸各地の商人を敵に回す方が厄介だ。
傭兵稼業は信用が第一だ。
当然ながら、扱いが気に入らないという理由だけで助けることは出来ない。
「わ、私は……」
助ける価値があるのか問われているのだろうか。
その険しい表情を見て、シズは思わず目を逸らしてしまう。
その時、微かに溜め息が聞こえたような気がした。
見上げるほどの大男が嘆息したのだ。
慌てて顔を上げ、未だに痛む腹部を押さえながらよろよろと立ち上がる。
彼が求めているものが分かったような気がした。
「私は……私は、こんなところで死ぬつもりはありません!」
自らを鼓舞するように、宣言するように。
こんな惨めな人生を受け入れる気はないのだと。
奴隷に身を落とされようと、反抗する力もないほどに餓えようと、決して心まで蹂躙されるつもりはない。
それを聞き終えた時、グレンは肩を竦めて後方に視線を移す。
リスティルの様子を見れば、自分が何かをせずとも助けるつもりでいるのは明白だ。
助ける価値は求めないが、相応の気概が無い者まで無闇に救うつもりはない。
だが、少なくとも今回は手を差し伸べて後悔するような相手ではなかった。
後の判断はお前に任せた、と。
「年頃の娘にこれほど惨めな道を歩ませるとは、許容し難いな」
リスティルが歩み出る。
既に何が真実であるのか理解しているのだから、躊躇する必要も無い。
彼女の未来予知は"この事情"を知っている。
「強引に連れ去って、みすぼらしい服を着せて働かせるなど言語道断。嫌気の刺すような牢獄で、わざわざ檻を作ることに何の意味がある?」
リスティルに詰め寄られ、奴隷商人は慌てたように釈明する。
「連れ去るだなんてとんでもない! 確かに出所はそうかもしれませんがね、それが偶然巡ってきただけであって――」
相手は自分たちでは手が出ないような賊を容易く葬るほどの実力者たちだ。
敵対するわけにもいかず、かといって損失をこれ以上増やすわけにもいかない。
しかし、どれだけ嘘を積み重ねてもリスティルの前では意味を成さない。
「汚れといえど、やはり商人。横の繋がりを持っているのは当然だろう。徒党を組んで貧しい村を襲い、必要に応じて奴隷を供給し合っていることを忘れたとは言わないだろうな?」
「……ッ!」
当然ながら、一人で村を襲撃して成功するはずがない。
調達する際には同業者を集め、後で各々の取り分を話し合うことになっている。
そういった契約を結んでいるのだから言い逃れできるはずもない。
全てを見透かされても未だに言い訳を探そうとする奴隷商人に、今度はグレンが畳み掛ける。
「伯爵領で商売をするには"許可証"がいるんだが……持ってないなんて言わせねえぞ?」
この地は秩序が保たれている。
安寧を保つための制度もあり、悪行に対する刑罰もある。
奴隷商売自体が禁止されているわけではないが、厳正な審査を経てデオン伯爵から行商許可証が発行されるのだ。
でなければ、貧しい村に住む人々が危険に晒されてしまう。
抵抗する力のない村々を狙うのは奴隷商人だけではない。
場合によっては賊共の資金源となって、その規模を拡大させてしまう恐れもある。
リスティルが奴隷商人の背景に言及した時点で許可証を持ってないということは確信出来た。
これほど領内の治安維持に熱意を注ぐデオン伯爵が、汚れの商人に易々と許可証を与えるはずもない。
奴隷商人が返す言葉を失った時、シズの首枷が外れて地面に落ちた。
機嫌の良さそうなヴァンが拾い上げ、わざとらしく首を傾げる。
「おや、こんなところに落とし物ですかねぇ。隷属の首輪なんて、そう簡単に外れるものでもないですし」
許可証でもあれば彼の所有物であることを証明出来るはずだ。
たとえ紛失したとして、伯爵の屋敷にでも行けば執務記録を確認することも可能だ。
後ろめたい事情でも無ければ焦ることもないというのに、奴隷商人は酷く狼狽している。
あまりの往生際の悪さにグレンが詰め寄ろうとした時――クリームヒルトが口を開いた。
「これ以上、私に嫌なものを見せないでほしい。でないと……」
奴隷商人の首に剣を突き付ける。
よほど苛立っているのだろう。
残された時間を自覚してしまったからこそ、こうして無為に過ごしていることが耐え難い。
「……でないと、このまま首を切り落としたくなる」
殺気で切っ先が震えている。
その凄まじい剣幕に、奴隷商人が腰を抜かしてへたり込んだ。
◆◇◆◇◆
その後、奴隷商人は自らの悪行を認めてシズの解放を受け入れた。
彼の弁明と反省を信じられるはずもないが、少なくとも命を取るまではしなかった。
これから近隣の村まで、運が良ければ魔物と遭遇せずに辿り着けるかもしれない。
よほど疲れていたのだろう。
荷車で揺られながら、シズは荷物に凭れて穏やかに寝息を立てていた。
「……ッ」
結果に対して、クリームヒルトの表情は暗い。
積み重ねてきた『彩戟』の技が、掲げてきた『英雄』としての意志が、そして抱えてきた『人間』の心が消えかけている。
先ほどの濁り切った魔力が頭から離れないでいた。
日が暮れる頃にはエルツの村に到着するだろう。
人間として残された最後の感情が、理性を押し退けるように本能を訴えかけている。
「グレンさん……ちょっとだけ、我儘を聞いてほしいな」
苦痛を耐え凌いで、抱え続けてきたクリームヒルトが吐露する本音。
手を貸せるのであれば、差し出さないはずがない。
「俺に出来ることなら何でも言ってくれ」
「……ありがとう」
無理強いをしてしまっていることは分かっている。
だが、譲れない信念がある。
心を落ち着かせるための深呼吸でさえ、震えを自覚してしまうほどだった。
そして、悲痛な表情を浮かべて懇願する。
「酷な事をお願いするようだけど……私が理性を失ってしまった時は、貴方の手で殺してほしい。貴方に殺されたい」
グレンの言葉を聞きたい。
安心して最期を迎えられるようにしてほしい。
彼ならば安心して身を委ねられる。
頷いてくれるだけで全ての憂いが消え去る。
卓越した技量もそうだが、純粋に人間としてグレン・ハウゼンという男に惹かれていた。
既に死期は間近に迫っている。
ここで煮え切らない態度を取れるはずがない。
それは彼女が最も望まないことであって、この場でグレン自身も覚悟を決めなければならない。
「……俺は傭兵だ。何があろうと、交わした契約は絶対に破らねえ」
だから、とグレンは続ける。
「後のことは全部任せとけ。お前は……お前自身が、本当に望むことだけを考えていればいい」
クリームヒルトは他人を愛しすぎる。
それ故に、抱える必要の無い苦痛まで手を伸ばしてかき集めてしまう。
きっと、彼女は他に心の底から望んでいることがある。
それは『英雄』としてではなく、一人の人間としての願望だ。
それを叶えずに最期を迎えてしまえば、死後安らかに眠ることなど到底出来ない。
死に行く者の我儘くらい、許されていいはずだ。
始めから希望は無い。
出会った時点で手遅れなほど侵食が進んでいたのだから、確定された事項を覆すなど不可能だ。
生への執着が、却って煮え切らない状態を作ってしまった。
絵空事を描いたところで無意味なことはグレン自身が一番理解している。
それを語り続けることが如何に残酷なことかも知っている。
割り切れない部分も無いわけではない。
最期まで諦めるつもりはないが、現実的に考えると不可能な状態で、無理に延命し続けるのも酷な話だ。
ヴァンの言うように"後顧の憂い"を絶った上で本心を引き出すことが大切だろう。
「私が望むことを……」
クリームヒルトは深く考え込む。
何が必要なのか、何を求めているのか、何をすれば満足出来るのか。
「……ありがとう。考えてみるよ」
自身の残された時間を悟っている。
魔力が濁ってしまうほど深部まで侵食され、今は辛うじて気迫によって耐え凌いでいるものの、夜を越せるかさえ怪しいくらいだ。
返答は日が暮れるまでに。
自分が消えてしまう前に。
現世に残すべきもの、現世から持っていくべきものは決まっていた。
エルツの村に着く頃には、朱色の空に影が差し始めていた。
◆◇◆◇◆
英雄の凱旋を村人たちは割れんばかりの大歓声で出迎えた。
ファウスマラクトは討たれ、植え付けられた『悪意の種』もリスティルによって取り除かれたのだ。
命を脅かされて震える夜を過ごしていたのだから、感謝の念を伝えずにはいられなかった。
以前のクリームヒルトであれば、笑みを返す程度の余裕はあった。
今の彼女にとっては頭痛を引き起こす煩わしい騒音でしかない。
それでも手を震わせながらも挙げて村人たちに応えようとして、しかし表情は強張っていた。
日が沈む頃で良かった、とクリームヒルトは胸中で呟く。
辺境の村で迎える夜は薄暗い。
明かりさえなければ、歯を食い縛って耐えている姿を見せずに済む。
それに……と、グレンを横目で見やる。
(彼は、私みたいな紛い物じゃない)
自分は『穢れの血』であって、これまでの功績も胸を張れるようなものではない。
力に目覚めて魔力量が上昇していなければ、少なくとも彼の傍らで剣を振るうことさえ許されない程度の傭兵でしかない。
元より直接的な戦闘は不得意だった。
斥候としての仕事が主であり、剣を振るうことはあっても今のように真正面から打ち合うなど考えもしないほどだ。
技術に自信が無いわけではなかったが、それでも名を馳せるような猛者と比べると生まれ持った才能に差がありすぎた。
どれだけ鍛錬を積もうと魔力が少なければそこまでだ。
凶悪な魔物を打破し得るほどの一撃を放つには、それこそ凡人が命を捧げても届きはしない。
その前提を残虐に覆してしまったのが"穢れ"だった。
当初は自力では到達不可能な領域に足を踏み入れたことに歓喜したが、力の本質を理解していくにつれて恐怖が膨れ上がっていった。
――これは頼っていい代物じゃない。
虫が巣食うような、或いは蔦が這いずるような感覚。
自分の魂を蝕むにつれて出力は上がり、同時に人間らしい理性は崩れ落ちていく。
力を制御できないか模索した時期もあったが、成果は何も得られなかった。
やがて抗い難い"悪食衝動"に駆られるようになって気付く。
自分は既に人間ではないのだと。
道徳を失って悪逆に生きる者もいれば、理性すら失って魔物と化す者もいる。
半人半魔という解釈は間違いでないのだろう。
クリームヒルトは堪えようのない食欲を抑えるのに必死で、人間ならばそんな大罪を望むはずがない。
もしかすれば、『英雄』として生きることを望んだのは『穢れの血』であることを否定したかったからなのかもしれない。
こうして剣を振るい続ければ人間として認められるのだから容易いことだ。
逃げ道であると理解しつつも、向き合うことを恐れて目を背けてしまっていた。
誰かを助け、感謝をされ、それが当然だと言わんばかりに優しく笑みを返す。
それを繰り返しているだけでいい。
人間で在り続ける方法は至極単純だった。
ほんの一瞬でも気を抜いてしまえば過ちを犯してしまうかもしれない。
命を冒涜するような悍ましい所業に手を染めてしまうかもしれない。
夜明けを迎えられるか不安で眠れない日ばかりだった。
限界は疾うに超えていた。
縋る藁さえ無い状態で濁流に呑まれていた時、ようやく身を委ねられる相手が現れたのだ。
(グレン・ハウゼン……あぁ、貴方を思い浮かべるだけで体が熱くなる)
民衆に"与える側"だったクリームヒルトに手を差し出してくれた初めての相手だった。
恵まれた体格を限界まで鍛え上げ、身の丈もあろうかという大剣を手に凶暴な魔物と渡り合う。
穢れの力さえ必要としない真の強者を前にして、微かな羞恥を伴った高揚を感じていた。
既に村人の声は聞こえていなかった。
漠然と「感謝されているのだろう」ということだけは理解していて、これまでの彼女がしてきたように応えるのみ。
どこか歪な彼女の様子に、感じ取れるほど向き合ってくれる村人は一人もいなかった。
「……いつの時代も、こんなものか」
リスティルがため息を吐く。
目の前の光景に何か思うようなところがあったのだろう。
どこか残念そうに、憐れむように眺めていた。
「私は先ほどの娘と話をしなければならない。グレン……お前には、酷な役割を押し付けることになる」
既に察していた。
リスティルとて全知全能の存在ではないが、それでも今のクリームヒルトを見れば一目瞭然だ。
――夜明けは無い。
せめて最後は安らかにあれと。
幸せな夢を見ながら消えていけるなら、きっと少しはマシだろうと。
当然ながら覚悟は決まっていない。
グレンだけではない。
リスティルもヴァンも、本当にこれが正しい結末なのか納得できていない。
もしこの場に条理を覆し得る触媒でもあれば違っただろう。
そうでなくとも、何らかの手段によって魔物化を食い止めることが出来たかもしれない。
現実は非常だ。
確定された運命を前にした人間は無力だ。
ただ茫然と過行く時間を見守ることしか出来ない。
奇跡など存在しない。
都合の良いように縋って命を落としていった者を飽きるほど見てきた。
祈る暇があるならば、その手を解いて無意味に足掻いた方がマシだとさえ思えるほど。
「俺は、何をすればいい」
問い掛けるも、リスティルは困ったように黙するのみ。
今回ばかりはヴァンも茶化すようなことはせず、寂しげに目を逸らしていた。
理性を繋ぎ止められるのであれば、自身の血肉を分け与えることに抵抗は無い。
だが、それはクリームヒルトが望まない。
後に何らかの触媒を得て穢れから解放することに期待して、非道な方法で延命をするのか。
それもクリームヒルトは望まない。
彼女が本心から望むものが分からない。
それを尋ねたとして、今の状態では本当に望んでいるものかさえ分からない。
人間として在り続けるために『英雄』として剣を振るい続けてきたのだろうか。
人間として在るが故に『英雄』として剣を振るい続けてきたのだろうか。
本質が何処にあるのかさえ判断に困ってしまう。
尊重すべき"クリームヒルト"は何なのか。
それをグレン自身の中で選び、そして行動しなければならない。
「お前は――」
今夜は、とても息苦しい夜になりそうだ。




