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黒き聖女の黙示録《アポカリュプセ》  作者: 黒肯倫理教団
二章 彩戟のクリームヒルト

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28話 英雄として、人として

 気高き理想と人間としての矜持。

 クリームヒルトは英雄と呼ばれるに相応しい資質を備えている。

 それが彼女の望みであるならば、グレンには止めることが出来ない。


 どれだけ蝕まれようと心だけは呑まれまいとする気概は本物だ。

 魔物狩りの英雄として、戦うほどに穢れが蓄積していくというのに。


 グレンは自身が同じ状況に置かれた時、彼女のような選択をすることは出来ないと思っていた。

 自棄になるのか、他者を害する前に身を投げるのかも分からない。

 穢れによる侵食がどれほど恐ろしいものか、当事者でなければその感覚を理解することは不可能だ。


 少なくとも、クリームヒルトのように抗い続ける道は選べない。

 いずれ力尽きて魔物に変わってしまうくらいならば、勇ましく戦い抜いて何処かに死に場所を求める方がずっとマシだ。

 終わりの無い悪夢に囚われ続けるなど想像もしたくない。


 理性の崩壊、悪食衝動など『穢れの血』は徐々に魔物へと魂が引き寄せられていく。

 半人半魔という性質から恐れられるのも無理はない。

 世界の秩序を保ち安寧を求めるエルベット神教がいなければ、庇護下にない地域ように一帯が濃い穢れに呑まれてしまい、作物さえ育たず、魔物が跋扈する地はもっと多かったことだろう。


 グレンは枢機卿ゲオルグの言葉を思い出す。


『当然、理性を失った彼女を殺す覚悟がお有りでしょうな?』


 有るわけがない、とは言えなかった。

 いざという時にグレンが介錯してくれるという安心感は、クリームヒルトにとって精神を繋ぎ止める最後の希望でもあるのだ。

 もし理性を失ってしまった状態で野放しになってしまえば、それこそ彼女が一番望まない末路を迎えることになってしまう。


 エルツの村へ向かう馬車の中で、クリームヒルトは荷車で揺られながら寝息を立てている。

 時折うなされるように声を漏らすこともあり、休息には程遠い。

 それでも起きていて思い詰めてしまうよりは楽だろう。


 眠りに落ちて、次に目が覚めることはなく魔物へと変貌するかもしれない。

 そんな恐怖と人知れず戦い続けてきたのだから、こうして事情を理解している仲間がいるだけでも彼女にとっては大きな救いだ。


「リスティル。何でもいい、救う手立てはないのか?」


 何かしらの手段があるならば、形振り構わず尽力するつもりだ。

 穢れに対処する知恵を、ほんの少しの手掛かりでも得たい。


 だが、リスティルは首を振る。


「……蝋燭の火は吹けば消えるが、激しく燃え盛る家を前にしては、どれだけ胸一杯に息を吸い込んでも足りはしない。穢れに関しても似たようなものだ」


 穢れの蓄積が少量であれば、まだ救済の余地はある。

 しかし『穢れの血』として目覚めるほどに侵食が進んでしまえば、たとえリスティルであろうと救う手立てはない。


 クリームヒルトは微かに火が燻っている焼け跡のような状態だ。

 力を行使したとしても、返って余計な揺さぶりをかけて危険な状態に陥ってしまう。


「残念だが、私は万能ではない。何か条理を覆すような触媒でもあれば……しかし……」


 そんなものが都合良く手に入るのなら既に試している。

 例えば神代の遺物であったり、深界の■■に連なる『■■■■■』の破片でもあれば試す価値はあるだろう。


 ふと、リスティルは違和感を抱く。

 何か記憶の奥底で、霞が掛かっているかのように思い出せない領域が何故だか存在する。


「制約が掛けられているというわけか……どこまでも忌々しい」


 リスティルは苛立った様子で歯を軋らせるが、今はそんなことを考えている場合ではないと思い直す。


「先ほどのファウスマラクトを参考にするならば、清浄な魂を穢れの寄り代として用いることで延命することは不可能ではない、が……」


 亡者たちは解放されることなく、永劫の苦しみを味わい続けるのだ。

 誰かを救うために穢れに抗っているというのに、自分のために誰かを犠牲にするなど彼女が望むはずがない。


 穢れに蝕まれることの恐怖。

 それを知っているはずのヴァンは、何故だかニヤニヤと笑みを浮かべ始めた。


「あぁ……悩む必要なんて、端から無かったということですか」


 肩を竦め、大袈裟に「やれやれ」とため息を吐く。


 クリームヒルトを穢れから救い出す手段があるのだろうか。

 微かな期待を抱くグレンに対し、ヴァンは相変わらずな様子で言い放つ。


「別に、魔物になったっていいじゃないですか。貴方が殺せば、それで後顧の憂いな――」

「――てめぇッ!」


 憤ったグレンが胸ぐらを掴むが、ヴァンはヘラヘラと嗤うのみ。

 下らない冗談に付き合っている暇はない。

 そう思っていたが、強烈な殺気に当てられても笑みを絶やさないでいた。


「血の気が多い人ですねえ……ああ、貴方は『狂犬』でしたか」


 獣を宥めるように手をヒラヒラと動かし落ち着くようにと言う。

 普段通りの腹立たしい様子ではあるものの、彼なりに何か伝えようとしているらしい。

 苛立ちを抑えつつ、グレンは手を離して深呼吸をする。


「……で、お前の言いたいことは何だ?」


 口調は兎も角として、ヴァンも同様に『穢れの血』なのだ。

 最期をどのように迎えるべきか、彼なりに思うところがあるのだろう。


「満足できるような最期を用意すればいいんです。財宝でも、地位でも名声でも、死に場所でも――」


 俗物が欲しがるような代物を彼女が欲するだろうか。

 英雄として戦いの中で死ぬことを彼女が望むだろうか。

 ヴァンが列挙するような幕締めがクリームヒルトに相応しいとは思えない。


 彼女の実像が掴みきれていないのだろうか。

 そんな悔しさを抱いているグレンに、ヴァンが呆れたように肩を竦める。


「まあ、要するに。自身が納得できればそれでいいんですよ。彼女が何を望んでいるのか……それを考えるのは、まあ、僕の役割ではないですがね」


 その身を蝕む穢れから解放できなくとも、人間としての理性を失う前に"満足"できればいい。

 その死が悲劇的なものであったとしても、彼女は安らかに眠りに就けるだろう。


 混沌の時代において、それを望むのは強欲だろうか。

 誰もが道半ばで倒れていく世界。

 ある者は魔物に、ある者は流行り病に、ある者は――。


 不幸な末路など枚挙に暇がない。

 考えるだけ無駄だろう。


 クリームヒルトに視線を向ける。

 未だに恐怖に囚われ続ける日々が続いている。

 彼女を助け出すだけの知恵がないことに歯噛みしつつ、自分の成すべき事を思案する。


 最善は穢れの侵食から解放することだが、現時点では不可能だ。

 次善で、せめて憂いなく送り出すことが出来れば。

 心残り無く、彼女の死を見届けられるだろう。


「……こんな、クソみてえな話があるかよッ!」


 苛立ちを露にする。

 どう足掻いたところで死は免れないのだ。

 少しでも"マシな末路"を用意しろと、救いは無いのだと。


 それも当然だろう。

 デオン伯爵領を訪れた際、あのリスティルが『希望は無い』と断言したのだ。

 如何なる命も見捨てず、傲慢にも聖女を自称する彼女が、未来予知を駆使しても助け出す手段を見つけられなかった。


 頭では理解している。

 リスティルでさえ諦めてしまうほどの状況では、ヴァンの提案こそが賢明だろう。

 クリームヒルトの死が既に確定された未来であるならば、こうして憤っている時間さえ惜しい。


 何が出来るのか、何をするべきか、何をしなければならないのか。

 考えるほどに息苦しくなってしまう。


 傭兵として優れた技量の持ち主だが、弱者を切り捨てるような言動の割には非情になりきれない。

 情に厚いグレンを好ましく思う一方で、リスティルは今後の旅路に微かな不安を抱く。


「……」


 その力量は紛うことなく一級品。

 自身に一切の甘えを許さず、死線に自ら飛び込んでまで鍛え上げてきた歴戦の傭兵。

 個として最高峰の実力を誇る彼ならば、どれほど凶悪な『穢れの血』が相手でも遅れを取ることはない。


 だが、行動を共にすることで気づいてしまう。

 グレン・ハウゼンという男は"他人を愛し過ぎてしまう"故に、独りで戦い続けてきたのだと。


――『狂犬』の異名も、苛烈な剣戟も、必死になるだけの理由があったからだ。


 普段の彼は評判とは裏腹に理性的だ。

 剣を握る時も、自らを鼓舞するように声を荒げる割に状況判断は至って冷静。

 これまでの彼が異名に相応しい戦いを見せたのは、ベレツィの村を襲ったモルデナッフェとの闘い、そしてマルメラーデ監獄での一件のみ。


 リスティルは躊躇してしまう。

 苦悩するグレンに"仇敵が伯爵領の反乱に関わっている"と伝えていいのだろうか。

 中途半端に気移りした状態ではどちらを追うにしても不満を残してしまう。


 悩んだ末に口を開こうとした時――行く先から、少女の悲鳴が聞こえてきた。


「――ッ!?」


 真っ先に動いたのはクリームヒルトだった。

 悪夢から跳ね起きて即座に意識を覚醒させると、着崩れた服を整える暇も無く馬車から飛び降りて駆け出した。



   ◆◇◆◇◆



 取るに足らない使い捨ての労働奴隷。

 まともな衣食は与えられず、枷に掛けられて檻の中で管理される日々。

 弱り切った体が限界を迎えて倒れたとして、弔う者は誰もおらず、屍は乱雑に捨て置かれるのみ。


 そんな奴隷の少女――シズにとって、今の状況は悪いものではないのかもしれない。

 地獄のような日々に幕を閉じられるのであれば、ある意味では救いとも考えられなくもないのだろう。


 御者台に座る肥えた男に怒鳴られながら、薄汚れた服を着た者たちが奮戦していた。

 抗う力も無く、惜しむほどの人生でもないのに、それでも死は怖いのか狂ったように食らいつく。


 目の前で必死に抵抗する奴隷たちは、どれもボロ切れを身に付けているだけで武器さえ持たず、その体も痩せ細って貧弱だ。

 その姿はさぞ滑稽に映っていることだろう。

 馬車を襲撃した賊たちは薄ら笑いを浮かべながら容易く葬っていく。


 混沌の時代において……死は隣人であり、畏怖の対象であり、娯楽であり、救済である。

 死すら許されずに餓え続ける労働奴隷からすれば、目の前の賊共でさえ自らの飼い主よりマシに思えてしまう。


 ふと少女が溢した笑みに、間髪入れずに怒声が飛ぶ。


「貴様ぁっ! そんなところで突っ立っている暇があるなら戦えっ!」


 奴隷商人からすれば、商品が壊されたとしても自分さえ生きていればそれで構わないのだ。

 馬車に繋がれた痩せこけた馬でさえ、奴隷と比べればよっぽど大切らしい。


 また何処かで仕入れればいい。

 貧しい村など幾らでもあるのだから、そこで少しばかり"拝借"すれば今回の損失など気にもならない。

 どうにかして逃げ延びることが出来ればいいのだが、手練れの賊を相手に抵抗する手段はなかった。


 死を前に錯乱した奴隷が悲鳴を上げ、直後に喉元を切り裂かれて崩れ落ちる。

 激痛と息苦しさ、悔しさ、涙が溢れ、そして絶望に染まる。

 もがくように伸ばした手さえ蹴り飛ばされ、間もなく瞳から光が失われた。


 そこで初めて、シズの中で天秤が恐怖に傾いた。

 奴隷としての生活も耐え難いが、いざ目の前に死が迫ると体が震えてしまう。


 本当に望んでいたものは"解放されること"なのだと。

 意識を逸らすことでギリギリ保っていた平常心が、やはり眼前に迫る死を前にして動揺してしまう。


 一瞬の恐怖さえ耐え抜けば苦痛に呻いたり飢餓に喘いだりする必要もない。

 それを理解していても、本人でさえ自覚していないほどに微かに残された執着が"死にたくない"と叫ぶのだ。


 それに応えるように、英雄が咆哮する。


「――っぁぁあああああああッ!」


 自らを鼓舞するように、彼女らしくもない荒々しい声を上げて大地を駆け抜ける。

 剣に帯びた魔力は、淀んだ川のように濁って、獰猛な獣のように苛烈に唸る。


 残されたものが理性なのかさえ判別が付かない。

 しかし、悲鳴を上げた少女がいて、馬車を襲撃した賊がいる。

 それだけは確かに理解出来た。

 英雄として何をすべきか、考えなくとも体に馴染んでいる。


 だが、クリームヒルトの脳内を満たしているのは極めて単純な欲求のみ。

 抗い難い空腹だった。


 悪食衝動に身を委ね、自身が『穢れの血』として生きることを受け入れれば、少なくとも理性を喪失するまでには至らない。

 半人半魔として彼女は生き永らえることが可能だ。

 何らかの要因によって肉体が変異する危険もあり、また精神を蝕まれて狂気に染まることもあるが、ある程度の自我を遺すことも不可能ではない。


 彼女は最期まで人間として在り続けることを望んでいる。

 穢れの侵食に抗うことで、却って悲惨な末路へ進むことになってしまった。


 まさか『英雄』と鉢合わせるとは思いもしなかったのだろう。

 場数を踏んでいるからこそ、遥か高みに存在するクリームヒルトを前に賊共は動揺を隠せない。


 交戦は刹那に終わる。

 気迫に満ちたクリームヒルトの剣戟。

 大地を震わせるほどに荒々しく、斬り上げるように二度振るわれた。


 濁流の如く押し寄せる膨大な魔力。

 生半可に守りを固めたところで耐え凌げるはずもなく、真っ先に狙われた賊は無惨に崩れ落ちる。


 戦う覚悟も決まらないままに命を落とし、その表情は驚愕に染まっている。

 数では未だ優位を保っているが、四散して逃げ延びる可能性を狙うくらいが精々だ。


 だが、クリームヒルトの剣はそこで止まってしまう。


「……褪せた」


 酷く震えた声で呟いた。


 迷いは剣筋を鈍らせるが、彼女はその比ではない。

 堕落した状態で剣を振るうことが赦せない。

 自分から立ち上る濁った魔力から視線を逸らして"人間"を称することが赦せない。


 険しい表情で、顔半分を覆うように手を当てる。

 呼吸も荒い。

 熱量を帯びた何かが上がってきて、汗が吹き出す。


 それなりに場数を踏んできた賊がそれを見逃すはずもない。

 死の危機から一転してこれほどの好機となるとは思いもしなかっただろう。


 当然ながら、混沌の時代は甘くない。


 大地を荒々しく駆ける音がする。

 第六感が警笛を鳴らすほどに恐ろしい雄叫び。

 対峙するのも馬鹿らしくなってしまうほどに常識から外れた鉄塊の如き大剣、それを二振りも構える巨躯の戦士。


 気迫に満ちた踏み込み――大地を抉るほどに強く踏み抜いて、見た目に反して瞬時に間合いを零にする。

 賊も決して小柄なわけではないのだが、下手をすれば子供と大人を比べるような体躯の差が存在していた。


 見下ろす表情は悪鬼そのもの。

 視線だけで圧し殺されてしまいそうなほど。

 クリームヒルトの乱入が賊にとって不運であったなら、グレンの乱入は抗いようのない災害に遭ってしまったようなものだろう。


 弱り切ったクリームヒルトへ悪意を向ける賊が憎い。

 煮え滾る大鍋のように溢れ出す強烈な殺気が、その場に居合わせた全てを強張らせる。


 賊の中には殺気に満ちた眼光に耐えられず崩れ落ちる者までいた。

 慌てて武器を捨てて許しを請う者や、あまりの恐怖に背を向けて無様に逃げ出す者もいた。

 恐怖を押し殺してグレンに挑む者もいたが、微かにも存在しない可能性に命を賭して何の意味があるのだろうか。


 これは賊に襲撃された馬車を助けるための戦いではない。

 クリームヒルトの辿るであろう理不尽な道程への怒りや悲しみ、無力感、無常さ。

 全てに整理が付かず神経質になっていた今、賊共の愚行に苛立ちを抑えられず癇癪を起こしているのだ。


 剣筋は荒々しく理性の欠片も感じさせない。

 技術も何も存在せず、そこにあるのは純粋な暴力のみ。

 普段の彼よりはよっぽど『狂犬』らしい戦い方かもしれない。


「――グレンさんッ!」


 悲痛な声が間近で聞こえてようやく我に返る。

 気付けば、自分の背にクリームヒルトがしがみついていた。


 足元に賊の無残な肢体が転がっていた。

 どのような思いで死んでいったのかさえ分からないほど、幾度となく魔力を込めた技で叩き潰されている。


「お、俺は……」


 自分らしくもない、とグレンは困惑する。

 馬車から飛び出していったクリームヒルトを追ったところまでは覚えていたが、それ以降は記憶がはっきりしない。

 少なくとも良い行いでなかったということは彼女の顔を見ればすぐに理解出来た。


「私が……私のせいで、こんな悲しい思いをさせてたんだね」


 彼をこうまで苦しませてしまっている自分が悔しくて仕方がなかった。

 助かりたい、縋りたいと思う一方で、これ以上辛い思いをさせたくないという自分も存在している。


 与え続けられるだけの状態が息苦しい。

 自分の背負う絶望を肩代わりさせてしまっている状態が酷く悲しい。

 クリームヒルトの呟いた言葉が、グレンに重く圧し掛かる。


 遅れてリスティルたちが合流する頃には、少しは頭を冷やすことが出来ていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 前作から読ませていただいておりましたが、相変わらずブラックすぎる世界観とそれに抗う人がかっこいいですね! これからも期待しております
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