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黒き聖女の黙示録《アポカリュプセ》  作者: 黒肯倫理教団
二章 彩戟のクリームヒルト

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26話 翠嵐鳥(5)

 ファウスマラクトの生態は不明な点が多い。

 変異元の魔物が分かれば何かしらの対策を立てられたかもしれないが、その見た目からして近辺の魔物でないことは確かだった。


 傭兵として大陸各地を巡り歩いてきたグレンだが、あのような姿をした怪鳥に心当たりは無い。

 どこか気温の高い森林地帯から渡ってきたのだろうか。

 色合いを見た限りでは、少なくとも好戦的な魔物でなかったことは確かだろう。


 グレンは欠伸を噛み殺して体を起こす。

 窓の外を覗くと、ちょうど地平線のあたりが微かに色付き始めていた。

 手早く支度を整えると、皆より先に馬車の準備を始める。


 穢れの影響を受けた魔物は手強い。

 それも、並大抵の戦士では容易く命を刈り取られてしまうほどに。

 苛烈な戦場に身を置き続けていると感覚が麻痺するが、あれほどの化け物を相手取れる人間は今の時代にどれだけいるのか。


 たとえ素質があったとしても成熟する前に命を落としてしまう。

 或いは、不運な巡り合わせによって剣を取る齢に達するまでに野垂れ死ぬ。

 傭兵として名の知れ渡っているグレンでさえ、一歩間違えれば今頃は魔物の血肉にされていたかもしれないのだ。


 クリームヒルトは残酷な運命を前に力尽きていいような人間ではない。

 彼女は今の時代に必要とされる本物の『英雄』として、民衆の前に立って導くことが出来る。

 穢れに呑まれ異形の怪物と化すなど決してあってはならないのだ。


 救う手立てはない。

 希望が無いことも理解している。

 グレンに出来るのは彼女の気を紛らわせることが精々だ。


 起床してきたクリームヒルトの顔色を見て、それを思い知ってしまう。


「おはよう、グレンさん」


 声だけはやたらと気丈に、しかしその笑みはぎこちない。

 微かに香る汗と服の皴を見れば、まともに眠れていないことは明らかだった。


 クリームヒルトは眠気覚ましに井戸から水を汲み上げると、両手で水を掬って顔を洗う。


 十分な休息が取れていない。

 穢れの侵蝕に怯え、僅かな時間でさえ意識を手放すことさえできずにいる。

 この精神状態では眠れたとしても悪夢にうなされてしまう。


 これほどの恐怖をどれだけ抱え続けてきたのか。

 苦痛を和らげるために自分は何ができるのか。

 聞きたいことは沢山あったが、寝起きの彼女にそれを求めるのは酷だろう。


「……ファウスマラクトは油断できねえ相手だ。もう少し休んでおけ」

「ありがとう。でも、大丈夫」


 手を固く握り締め、自分の意識が健在であることを確かめる。

 今日もまた朝日を拝む頃が出来た。

 ようやく地平線から顔を覗かせた太陽を見て、眩しそうに目を細める。


「"私"が生きている間に、悔いが残らないように……」


 一つ、心に決めたことがある。

 全てをなげうってでも成し遂げたい目標。

 そのためならば、彼女は最期まで抗い続けるだろう。


 心は晴れないが、笑みだけは絶やさずにいた。


 そうして馬車の準備を終える頃に、リスティルがヴァンと共に宿から出てきた。


「昨夜は世話をかけたな。この通り、今は問題ない」


 腕を組み、普段の彼女らしい自信に満ちた表情を浮かべる。

 それだけで安堵してしまうような力強さがあった。


「それならいいんだが……」


 グレンはリスティルを見据える。

 視線が合っても、彼女は笑みを浮かべるだけでそれ以上は答えようとしなかった。


 村人たちから"悪心の種"を取り除いた魔術と、直後に起きたリスティルの異変。

 視覚的な変化は起きていないものの、明らかに彼女の精神に何らかの影響が及ぼされたはずだ。

 そうでなければ、彼女のような人物が急に調子を崩すはずがない。


 開示することが出来ないのだろうか。

 今更になって素性を疑うような間柄ではないが、深刻な問題を抱えているようであれば話は別だ。


 少なくとも、現状では他者に頼るほどのことではないのかもしれない。


「さて、支度を終えたらすぐに出発するとしよう。あまり時間は無いからな」


 想定される反乱の規模は大したものではないが、それでも油断は禁物だ。

 デオン伯爵ほどの人物が易々と打ち破られるとは思い難いが、万が一そうなってしまった場合、人間が安心して暮らすことのできる場所が一つ減ることになってしまう。

 凡俗が領内の安寧を維持できるほど今の時代は甘くない。


 デオン伯爵領を少し離れてしまえば、穢れによって荒れ果てた大地がどこまでも続くのみ。

 それ故に、この地を失うわけにはいかないのだ。


 間近に迫る危機の一つ、『翠嵐鳥』ファウスマラクトの討伐に向かう。



   ◆◇◆◇◆



 屋敷の執務室にて、デオン伯爵は夜通しで羊皮紙の束と向き合っていた。

 目を通しては乱雑に放り捨てる姿は貴族らしくもない。

 武人気質な彼からすれば、わざわざ人目の無いところで他愛のない所作にまで気を遣うのは馬鹿げていると感じてしまうのだろう。


 それよりも、今は眼前に迫る危機を如何にして退けるかが重要だった。


「……蛮族どもめ」


 眉を顰め、酷く苛立った様子で舌打つ。

 報告書には民衆を偽りの情報で扇動しているであろう組織の名が記されていた。


――黒狼衆フェアダムニス


 大陸各地を巡り歩きながら生活する流浪の衆。

 首領を筆頭に手練れ揃いであり、下手をすればそこらの貴族領よりも大きな戦力を保有しているほど。


 表向きは傭兵団を謳っているものの、その実態は各地で略奪を繰り返す蛮族集団だ。

 所属する者の多くは何らかの理由によって人里を追われているようで、中にはエルベット神教の原理聖典クライス・ロレンテクストによって不吉の象徴とされている蒼溟そうめい族まで紛れているという。

 伯爵領自体はエルベット神教の影響が薄いが、それでも災いを運んで来るような種族と好んで関わろうとするものは少ないだろう。


 確かに定住可能な地を求めるのは不自然ではない。

 彼らのような略奪集団からすればデオン伯爵領ほど魅力的な地は他にないだろう。


 ただの賊と侮るには強大すぎる。

 伯爵領近隣の領主に隙を見せないようにするだけでも骨が折れるというのに、さらに民衆を扇動して撹乱しようとしているのだから堪ったものではない。

 馬鹿げた噂でさえ抑え込むのが厳しいのは、或いは領民でさえデオン伯爵の首を狙っているからなのだろうか。


 曰く、妻や娘が屋敷に連れ去られたと。


「馬鹿げた妄言だ」


 曰く、安寧は一部地域に対する過剰な搾取で成り立っているのだと。


「蒙昧な愚者め」


 曰く、屋敷に悪魔を飼っているのだと。


「……悪魔など、断じて余の屋敷にはおらぬ」


 荒々しく羊皮紙の束を机に叩き付け、微かに息を震わせる。

 それを言及する者は排除しなければならない。


 彼は"それ"を愛している。


 しばらく黙ったままでいたが、徐に立ち上がると執務室を後にする。

 既に緊急の要件は全て目を通し終えた。

 激務に追われて荒み切った心を癒すために屋敷の地下へと向かう。


 そこは絢爛豪華な屋敷にはとても似つかわしくない場所だった。

 冷たさを感じさせる石造りの通路は酷く物々しい。

 

 とても安らぐような場所ではない。

 戞々と靴音が響くばかりで、付き従う者すらいない。

 ここにはデオン伯爵領の"闇"が隠されている。


 そして、一つの部屋に辿り着いた。


 気付けば石造りの壁は見る影もなく、濃い穢れの気配が辺りを包んでいた。

 壁には悍ましく脈動する無数の術式が刻まれており、その全てが部屋の中央に張られた結界に力を供給している。


「……ユノ」


 その名を呼ぶ。

 しかし、返事は無い。


 結界の中には声も届かなければ、伯爵の姿を見られることもない。

 一方的に干渉することが可能な隔離魔法だ。

 彼はとある男と取引をして、この部屋を生み出したのだ。


 それ自体は重要ではない。

 善悪も問わない。

 何者にも邪魔されることのない()()さえあれば、正直なところ領地も不要なのだ。


 今の時代を生き延びるには力が必要となる。

 穢れに染まっていく世界で、脅威を退けるだけの武力がなければならない。


 いつまでも続くことではないと理解しつつも、デオン伯爵は足を止めるわけにはいかなかった。


 浅黒い肌。

 闇色をした角と翼。

 爛々としたあかい瞳。


 その姿を見れば、誰もが"悪魔"だと思うことだろう。

 伯爵領に流れている噂も、全てが偽りというわけではない。



   ◆◇◆◇◆



 敗走した傭兵たちは皆が口を揃えて言う。


――あの怪鳥は人が相手にできるようなものではない。


 大空を支配する勇猛な翼。

 地を這う小さき者たちを狙う獰猛な瞳。

 一度目を付けられてしまうと、その先に待っているのは死のみだ。


 強大な穢れを身に宿した魔物は変異する。

 その原因が個体差によるものか、或いは恣意的な何かが働いているのかは不明だ。

 唯一分かっていることは、今の時代において人間は捕食される側であるということ。


 エルツの村でも多くの鉱夫が戦いを挑んで命を落とし、そして戦う力無き者は巣に連れ去られて餌食となった。

 憎悪することさえ馬鹿馬鹿しい。

 抗うことの出来ない災禍を前にした時、人間は縋るように手を組んで膝を折り、そして畏れるしかないのだ。


 デオン伯爵領の繁栄に貢献し続けてきた炭鉱地帯も、今ではファウスマラクトの縄張りとなっている。

 ここを除いた場合、付近で鉄鋼や石炭の採掘が可能な地は無い。

 奪還できなければ長期的に見て致命的な物資枯渇を招いてしまうだろう。


「――だからこそ、私たちが確実に仕留めないとね」


 眼下に広がる凄惨な光景を眺め、クリームヒルトは不愉快そうに眉を顰める。


 露天掘りによって造られた、巨大な渦状の窪み。

 かつては鉱夫たちが煤に塗れながら働いていた此の地は、今では荒れ果てて見る影もない。


 腹部のみを貪られた死体が山積みにされていた。

 まるで命を冒涜するように。

 人間も家畜も、魔物でさえも、全ての命が平等に腐乱した状態で哀れな姿を晒している。


 それが臓物を好む食性によるものか、或いは何らかの習性によるものかは定かではない。

 しかし、犠牲者と親しくしていた者たちがこの光景を見たとき、一体どのような感情を抱くのだろうか。


 怒りに震える余裕は無い。

 死者を弔う暇も無い。

 ただ、眼前の"恐怖"から一刻も早く離れるために身を翻すしかない。


――『翠嵐鳥』ファウスマラクト。


 翡翠のような透き通った羽。

 丸々とした胴体は黒く厚い羽毛に覆われている。

 どこか不気味さを感じさせる眼を細めると、畳んでいた翼を大きく広げる。


 外敵の接近に気付いたのだろう。

 採掘場の中央で羽を休めていた怪鳥が、勇ましく翼を広げて大空へ飛び立つ。


「――来るぞッ!」


 険しい表情を浮かべ、グレンは身構える。

 想定していたよりも動きは速い。

 砲弾の如く飛び込んで来たファウスマラクトを、大剣を交差させて受け止める。


 想像以上に強い衝撃がグレンを襲う。

 遠目では胴体が柔らかな毛に包まれているように見えていたが、実際に刃を当ててみれば、返ってきたのは鋼のように鈍く頑丈な手応えだった。


 仲間たちが散開したのを横目に確認すると、力任せに後方へ受け流す。

 ファウスマラクトは体勢を崩して地面に翼を擦るように踏鞴たたらを踏むが、身を捻りながら地を蹴って空へと戻っていく。


「チッ、よほど地面が嫌いらしいな」


 あの頑丈さで空を飛ばれ続けてしまうと、確かにそこらの傭兵では成す術が無いだろう。

 金属のように硬質な糸を編み上げたような綿毛で胴体部分が覆われているのだから、遠くから矢を射たところで傷一つ付けられない。

 デオン伯爵が自分たちを頼ってきたのも頷ける。


 背後に採掘場を抱えた状態は危険だ。

 即座に仲間の位置取りを確認しようとした時――ファウスマラクトの魔力が爆発的に膨れ上がる。


 翼を荒々しく羽ばたかせると、辺りを暴風が吹き荒ぶ。

 咄嗟に身を低くしてやり過ごそうとするが、嵐と見紛うほどの魔力が襲い掛かってきているのだ。


 体格に恵まれたグレンであればいざ知らず。

 他の三人では暴風をやり過ごす術が無い。

 採掘場の上は平坦な荒れ地となっているため、ヴァンが身を隠せるような影も見当たらなかった。


 暴風が吹き止んだ直後、身を起こすよりも早くファウスマラクトが視界の端を横切るのが見えた。

 先ほどの暴風に耐えられなかった三人が採掘場の方へと落下していく。


 その狙いはヴァンでもリスティルでもない。

 大量の穢れを溜め込んだ上質な餌(クリームヒルト)だ。

 空中に放り出されて無防備な姿を晒している彼女は格好の獲物だろう。


 だが、クリームヒルトも素人ではない。


「――紫旋しせん


 身を捻るように回転させながら一閃。

 紫色の魔力光が弧を描くように走り、ファウスマラクトの攻撃を受け流す。

 しかし、硬質な羽毛に阻まれて斬り付けるには至らない。


「かったいなぁ……」


 軽やかに着地をする。

 前衛を務めるような装備ではないが、『穢れの血』として目覚めて以降の戦いは彼女の剣を確実に磨き上げていた。

 憔悴しているとはいえ、魔物に易々と喰われるような生温い道は歩んでいない。


 ファウスマラクトは急旋回をして再び襲い掛かるが、その巨大な背に一つの影が落ちる。


「やらせねぇよッ!」


 一人、採掘場の上で暴風を耐え抜いたグレンがファウスマラクトの頭上から襲い掛かる。

 微塵も臆することなく、露天掘りによって出来た深い窪みへと身を躍らせたのだ。


 体を張り詰めた弓のように反らせ、両の手に握った鋼鉄の大剣を力一杯に振り下ろす。


「――魔双撃ッ!」


 巨大な鉄塊を不意に叩き付けられ、ファウスマラクトは衝撃に抗うように羽ばたくも地に落ちる。

 狙ったのは翼なのだから当然だ。

 場合によっては、ヴァンの秘策に頼らなくてもいいかもしれないとさえ思える手応えだった。


 鈍重な音と共に落下し、遅れてグレンが衝撃をいなすように着地した。

 弱っているであろうファウスマラクトにクリームヒルトが追撃を仕掛けようとするが、それを腕で制止する。


「殺れなくはねえが……」


 眼前の光景は、常人からすれば想像したくもないものだろう。

 根元から圧し折られた翼を引き摺るように、しかし瞳は爛々と今でも輝いている。

 追い詰められたようには見えない。


 周囲に嫌な空気が漂っていた。

 原因は無残に転がる腐乱死体ではない。

 それ自体も吐き気を催すほどに悍ましいものではあるのだが、目の前のソレ・・は本質的に異なるのだ。


 世界に蔓延る災禍の根源――"穢れ"とは、何らかの事象を生じさせるという点では魔力と同じだが、存在としては明らかに別物だ。


「……魔物風情が、これほどの穢れを溜め込むとは」


 リスティルが感心したように呟く。

 目の前で起きているのは、一介の魔物が発現させるには過ぎた代物だ。

 少なくとも、それだけの評価をするに値する何か・・を行使しようとしている。


 最初の異変は、どこからともなく聞こえてきた小さな水音だった。

 戦いで昂った頭に、何故だかひんやりと染み入るように雫が落ちる。


 この荒れ果てた炭鉱地帯に水源などない。

 伯爵領の中央部に近ければ有り得たかもしれないが、今この場では決して聞こえるはずのない音だった。


 眼前に広がる無数の腐乱死体。

 人間も動物も、魔物でさえも等しく無残に転がされた冒涜的な墓標。

 それが氷のように溶けて液状になっていくのだ。


 赤黒い液体がファウスマラクトへと流れていく。

 死後の安寧すら赦されない。

 墓の下で家族や友人の幸福を祈ることさえ出来ず、亡者の魂は途絶えぬ苦痛に悶えながら怪鳥の一部となって現世に縛り付けられるのだ。




――幸福は望まない。


――弔いも必要ない。


――目覚めなくとも構わない。


――ただ、この悪夢が終わることを切に願う。




 下手を打てば、この悍ましい血沼に引きずり込まれるかもしれない。

 終わり無き絶望に囚われた者の中には、他者にも不幸を齎すのだと血に染まった翼から血走った目を覗かせる。

 一つ二つで済まないあたり、よほど酷く精神を蝕まれたのか……或いは。


 惨烈な翼を大きく広げ、ファウスマラクトが甲高く鳴いた。

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