19話 プロローグ
世界各地に絶望が蔓延していた。
誰もが死の運命を間近に感じながら、細々と生き永らえる日々。
最低限の体裁を保てない地域は分裂を繰り返し、貴族たちも己の領地を守るために独立を選択した。
もはや国家として成立している地域の方が稀有だろう。
それでも人間同士の争いが絶えないのは、我が身の可愛さに抗えない性なのだろう。
人々は十分な食糧を得ることさえ厳しい状況だ。
飢餓に耐え、恐怖に耐え、屈辱に耐える。
死を畏れるあまり気が狂ってしまう者も少なくはない。
救済を乞う者たちは一心に祈り続けている。
いつの日か、世界から穢れが消え去る時が訪れるのではないかと。
それ故に、エルベット神教は大陸に広く信仰されている。
アーラント教区を始めとした直轄地域は彼らの庇護下に置かれるからだ。
危険が全て避けられるわけではないが、主要な教区では最低限の秩序と安寧が約束されている。
だが、混沌の時代に抗う者たちも存在する。
強大な軍事力を保有する大国や、知恵を武器に己の領地を経営する優れた領主。
或いは、過酷な世界を鍛え上げた技術のみで渡り歩く歴戦の猛者。
穢れの影響を受けた手合いと対峙出来る者は限られている。
そして、その中に稀代の英雄と呼ばれるものがいた。
――『彩戟』クリームヒルト・ファルベ・シュタフェライ。
率先して最前線に立ち続け、数多の災禍を打ち払ってきた剣士の名だ。
勇猛果敢な剣の軌跡。
それは色鮮やかな魔力光を描き、敵味方を問わず全てを魅了する。
しかし、民衆は知らない。
理想の英雄像だけを無責任に押し付けているだけだということに。
彼女を侵食する闇は、既に深部まで達している。
◆◇◆◇◆
――デオン伯爵領、中央交易都市ハンデル。
今の時代にしては栄えている街だった。
喧騒が絶えず、行き交う人々の表情も随分明るい。
露店市場に並ぶ自然の恵みを眺めていると、過酷な世界での旅路が嘘のように思えるほどだった。
瑞々しい野菜や果実や、鮮度の良い川魚。
肥沃な大地に囲まれているからこそ、こうして裕福な暮らしを送れるのだ。
「ふむ、なかなか賑やかな街だ」
リスティルは楽しげに周囲を見回していた。
鬱屈とした監獄を漸く抜け出して、彼女としても気分が良いのだろう。
何よりも活気に溢れていることが嬉しいらしい。
興味津々といった様子で品物を眺める姿は年相応のように思えるが、グレンは彼女の正体を知っている。
大災禍によって秩序が失われつつある世界において、唯一残された希望の光。
自らを聖女と称し、傲慢不遜な笑みを絶やさない自信家の少女だ。
「しかし、これだけの活気を維持するのは大変だろう」
「ああ、ここの領主はよくやってる方だ。何年か前に依頼を受けたが、まさに心血を注いで領地経営をしている男だった」
――バルバロイ・フォン・デオン伯爵。
環境に恵まれた領地を持て余すことなく、堅実な施策によって隅々まで行き届いた経営をしている人物だ。
各主要地を結ぶ交易の中心地であることも合わさって、特にこのハンデルの街は栄えていた。
デオン伯爵領は非常に恵まれている。
穢れの影響が浅いために緑豊かな草原地帯が残されており、水源となる河川や湖も清潔に保たれている。
中心部から外れると荒れ果てた大地が広がっているが、その一帯には大きな炭鉱などがあって資源に困るようなことも無い。
各地を結ぶように街道を整備してあるため、肥沃な草原地帯からは作物を、炭鉱地帯からは資源を上手く流通させている。
それこそ、領内だけを見れば大災禍以前の光景を維持出来ているといっても過言ではない。
街の様子を眺めながら、リスティルは訝しげに目を細める。
「少しばかり違和感があるな。私の見た未来に、今の状況から結び付くように思えない」
彼女の未来予知は万能ではない。
あくまで今後起きるであろう事象、その可能性の一端を覗き見ることが出来るだけだ。
見えた光景の全てが真実となるわけではなく、選択次第では本来歩むであろう道筋から大きく逸脱することも有り得る。
だが、それにしても抱いた疑問を拭えなかった。
腕を組んで真剣に思案する姿を見て、グレンは焦れたように尋ねる。
「それで、いったい何を見たんだ?」
「……反乱だ」
小さく、行き交う人々に聞こえない程度に呟く。
その声は市場の喧騒に呑まれて、傍に立つグレン以外には届かない。
「そりゃ物騒だが……原因が見当たらねえな」
グレンは改めて街並みを眺める。
何度見ても街道を行き交う人々の表情は明るい。
これほど希望に満ち溢れているというのに、反乱などという血生臭い言葉は似つかわしくないと思えた。
「どうせ、裏で疚しいことでもしてたんじゃないですか?」
ヴァンは呆れ気味に言う。
そこには、何故だか侮蔑するような棘を持っていた。
彼は貴族という存在にあまり良い印象を抱いていないらしい。
その言葉には、微かに敵意のようなものが含まれている。
恐らく、デオン伯爵は公に出来ないような後ろめたい事を隠していたのだろうと予想していた。
「そうは思えねえんだがな。少なくとも、話した限りだとまともな人間に見えた」
グレンは以前、このハンデルの街に立ち寄ったことがある。
その際にデオン伯爵から直々に頼まれ、近辺で暴れていた凶暴な魔物の討伐依頼を請け負ったのだ。
見た限りでは領民のことを第一に考える善人にしか見えなかった。
しかし、ヴァンの発言を否定できるだけの自信は無い。
あくまで仕事を引き受けただけであって、特に親交のあるような間柄ではないからだ。
表面を取り繕う程度のことは貴族であれば誰でもやっているだろう。
「はぁ……面倒ですけど、ちょっと探ってみますかね。リスティル様の護衛は頼みましたよ」
そう言って、ヴァンは一礼すると去って行く。
当然リスティルに対しての行為だが、少なくとも護衛に関しては安心して任せられると判断されているようだった。
初対面の時と比べれば随分とマシになっただろう。
以前であれば、いつ寝首を掻かれるか分からないほど殺気を向けられていた。
まだ揶揄するような言動は変わらないが、それは普段の様子から彼の性格なのだろうと諦めている。
尤も、今の時代であれば不自然ではないのかもしれない。
過酷な環境に置かれて歪に成長してしまった人間をグレンは何人も見てきている。
それと比べれば、手綱を握られている状態のヴァンは大人しい方だ。
少なくとも、リスティルが期待に応え続ける限り問題は無い。
聖女として相応の器を持っていることも肯ける。
だが、ヴァンの狂信が実像を通り過ぎてしまった時、何かしらの危険が生じる可能性があることは警戒しておくべきだ。
そんなグレンの心境なども知らず、リスティルは楽しげに市場の新鮮な食糧を眺めていた。
彼女からすれば心配するほどの事ではないのだろう。
「お前は肝が据わってんな」
その言葉にきょとんとした様子で振り返るが、すぐに普段通りの不遜な笑みを浮かべる。
市場を眺める事に夢中で言葉の意味を特に考えなかったらしい。
大した奴だと呆れつつ、グレンは肩を竦めた。
市場を巡り歩いていると、リスティルが果物屋を前に立ち止まる。
視線の先には真っ赤な林檎が籠に入れて並べられていた。
「どうした、急に立ち止まって」
「ああ……少し思うところがあってな。伯爵領の外では、こうして瑞々しい果実を得られる者はほとんどいない」
手に取ると、甘酸っぱい香りが鼻腔を擽る。
艶やかな光沢を眺めていると、なぜだか幸せな気持ちになってくる。
デオン伯爵領は特別な地だ。
これまでリスティルは大陸各地を旅してきたが、その度に貧しい村ばかりを見てきた。
飢えを耐え凌ぎながら必死に生きている者たちを知っているのだから、こうして感傷に浸ってしまうのも無理はない。
「全てを背負おうとするんじゃねえ。お前が特別な存在だってのは分かるが……それでも、いずれ潰れるぞ」
「それくらいは理解している。だが、私は聖女だからな」
だからこそ、リスティルは己の責務を強く自覚している。
他人では代役が務まらない。
強く在らねば、過酷な旅を続けることは出来ない。
そうして、無言で林檎を見つめる。
ずっしりとした重みを感じ、悩ましげに溜息を吐いた。
「……おい、リスティル」
「ん、なんだ?」
グレンは何となくだが彼女の心中を察していた。
これまでの旅路で、ある程度は人となりを把握できている。
リスティルは手に持った林檎を愛おしそうに眺めていた。
こういった物は荒廃した地域では縁が無い。
それを珍しく思ってしまう気持ちも、多少は理解出来なくもない。
「お前、その林檎が食いたいんだろ?」
グレンの指摘に、リスティルは驚いたように体を震わせて首を振る。
だが、先ほどから市場の食料品を眺めてばかりいるのだから流石に気付いてしまうだろう。
どこか期待するように、視線は林檎とグレンを行き来していた。
「……ったく、仕方ねえな」
そう言って、グレンは林檎を取り上げると懐から革袋を取り出す。
傭兵稼業で大陸を渡り歩いてきたため、金銭に困るようなことは早々無い。
「おい店主。こいつを一つくれ」
「あいよ、毎度あり!」
語気の心良い店主に、ついでに値段より多めに硬貨を握らせる。
すると興味を持ったように笑みを浮かべると、周囲を警戒しつつ声を潜めて返してきた。
「お客さん、何が知りたいんだい?」
「デオン伯爵についてだ。何かきな臭い噂を聞いたことねえか?」
情報収集はヴァンの専売特許ではない。
傭兵稼業に努める中で、依頼内容によっては必要に応じて調査をする場合もあるのだ。
店主は少し考え込むと、心当たりがあったらしく人差し指を立てた。
「……ここ最近は色んな人が噂話してるなぁ。どこかの村を飢饉で潰したとか、平民の娘がデオン伯爵の屋敷に連れ去られたとか。悪魔を飼っているとも聞いたな」
「随分突拍子もない噂だが……証拠はあるのか?」
「それが、一切出てこないんだ。証人を消して上手いこと隠蔽しているって噂だけど……」
そう言って、店主は肩を竦めた。
彼としても半信半疑らしく、断言までは出来ないらしい。
店主は一際警戒した様子で周囲を見回す。
街道を行き交う人々は、特に二人のやり取りに注目しているような様子はなかった。
それを確認すると、もう少し近くに寄るようにグレンに手招きをする。
「……最近、不穏な噂があるんだ。近々反乱が起こるとかで、ハンデルに住んでる人たちも怯えてる」
それを聞いて、グレンは先ほどのリスティルの言葉を思い出す。
少なくとも反乱が企てられていることは間違いないらしい。
その原因が店主の言う通りの悪評であれば納得出来るが、どうにも流れている噂は信じ難い内容だ。
流石に伯爵領内の村が飢饉で潰れてしまうというのは、現状を見る限りでは考え難いだろう。
もし町娘が連れ去られたのであればデオン伯爵に同情の余地は無い。
だが、屋敷内に悪魔を飼ってるという噂を聞くと彼が『穢れの血』ではないかと邪推してしまう。
マルメラーデ監獄での一件を考えれば、監獄の番人のような魔物を使役している可能性は否めない。
それが事実であれば看過出来ない事態だろう。
グレンの記憶に残るデオン伯爵の姿は、領民のことを一心に考える良い領主だった。
過去に請け負った仕事も、領内の村付近に移り住んできた魔物を討伐してほしいという内容で別段おかしい点は無い。
噂の真偽は定かではないが、もし反乱が起きてしまえば伯爵領一帯は衰退していくと確信していた。
デオン伯爵の私兵は、大規模な反乱を鎮圧出来るだけの戦力が無い。
基本的に肥沃な土地を活かした施策で成り立っているのだ。
もし領内に穢れの影響を受けた魔物が現れたとしても、グレンのような流れ者の傭兵もしくはエルベット神教に依頼することが多い。
伯爵領が衰退するとなれば、周辺地域にも多大な影響を及ぼすことだろう。
その波は大陸全体にまで広がるかもしれない。
食い止めるには噂の真偽を確認する必要がある。
店主に感謝を告げ、二人は街道から外れる。
露店で買った林檎を手渡すと、リスティルは機嫌良さそうに受け取った。
刺繍の入ったハンカチを取り出して表面を磨くと、小さな口で林檎に噛り付く。
「美味いか?」
「ん、なかなか良い味だ。褒めてやろう」
嬉しそうに林檎を咀嚼する姿は年相応だが、やはり可愛げがない。
「何が悲しくて傭兵が依頼主に奢らなきゃならねえんだか……」
「ふふん、当然の供物だ」
グレンは呆れたように肩を竦める。
まだリスティルが林檎を食べている最中だったが、構わず本題へと移った。
「デオン伯爵について、何か未来予知で分かることはねえか?」
「そうだな……私が見た限りでは、そんな悪評が立つような行動はしていなかったように思える」
普段は自信に満ち溢れているリスティルも、今回ばかりは確信が持てないらしい。
伯爵領内では彼女の予測を外れた現象が起きている可能性が高い。
「……既に、以前見た光景から大きく外れているかもしれない」
「どうにか修正できねえのか?」
尋ねるが、リスティルは困ったように首を振る。
「……どこかで穢れを回収する必要があるな。そうすれば、その時点から起きるであろう事象を観測できるだろう」
未来予知は穢れを回収した時点から見た未来の光景を覗き見ることが可能だ。
もし予定されていた道程から外れてしまったとしても、再度未来予知を行うことで修正出来る。
問題は、未来予知から外れてしまうような"何かしらの要因"が今回の一件に関わっていることだ。
「前にも言ったが、私の未来予知は万能ではない。様々な要因に左右される稚拙なものだ。あくまで覗き見た断片的な情報から推測しているに過ぎないからな」
確定された未来を覗けるのであれば苦労はしない。
リスティルが観測出来ないような存在が絡んできたならば、大きく搔き乱されてしまう恐れがある。
「運命力ってやつが関わってんのか?」
「……まずは未来予知の原理について、一度説明した方がいいかもしれんな」
リスティルは腕を組んで思案する。
こればかりは、確信を持って話すことは難しいらしい。
「これは推測だが……私が未来予知を行った時点で、世界の歴史は本来歩むであろう筋道から外れ始める」
「どういうことだ?」
リスティルの未来予知は今後起きるであろう事象、その可能性の一端を覗き見る。
それによって得られる情報は必ずしも事実であるとは限らない。
「未来を観測するという行為自体が条理から逸脱しているんだろう。恐らく、その時点でズレが生じている」
それ故に、得られる情報は不確定なのだろう。
未来の情報を持ったリスティルが行動することで世界には大小を問わず様々な変化が齎される。
それは彼女の旅に同行するグレンやヴァンにも言えることだった。
「万能ではないってのはそういうことか」
「その通りだ。だからこそ、私は運命力というものを畏れている」
リスティルは嘆息する。
確かに未来予知は役立つが、全てを鵜呑みにしてはならない。
常に予測した展開が覆される可能性を最大限警戒して行動する必要がある。
「……未来予知によって情報を得たとしても、それを覆すだけの力が不足していたら意味は無い。今回の反乱も事前に食い止めることは不可能だ」
「デオン伯爵に接触をしてもか?」
「不可能だ。いくらグレンでも、数千人もの反乱軍を抑え込めと言われたら厳しいだろう?」
その言葉には頷かざるを得ない。
個としての力がどれだけ優れていようと内乱となれば多勢に無勢だろう。
反乱が起きることを把握していたとして、それを食い止めるには相応の規模で行動する必要があるのだ。
この世界の出来事には全て運命力が定められている。
現時点において反乱を止めることは不可能だ。
「なら、デオン伯爵領に来た目的は何なんだ?」
「――"英雄"だ」
最後の一口を齧ると、リスティルは満足げに腹を擦る。
林檎の味が随分と気に入ったらしい。
「説明するよりも実際に見た方が早いだろうな。一度ヴァンと合流して、その後にハンデルの正門に向かうとしよう」
今回の目的は反乱を食い止めることではない。
それよりも優先すべき重要なことがデオン伯爵領で起きてしまう。
リスティルの覗いた未来から逸脱してしまうような行動をしている輩も警戒しなければならないだろう。
既に無視出来ないほどの差異が生じてしまった。
その目的を果たすために行動をしつつ、同時に穢れを回収して観測し直さなければならない。




