16話 マルメラーデ監獄(10)
監獄に閉じ込められていた日々は酷く退屈だった。
傭兵稼業を生業とするグレンにとって、これほど窮屈に感じることは無いだろう。
長らく待ち侘びた戦いの時。
目の前に佇む怪物は悍ましい殺気を放っている。
対峙するだけで、特異な力を持つわけでもないグレンでさえ濃い穢れの気配を感じ取ってしまうほどだ。
これが『穢れの血』なのだろう。
ヴァンも危険な気配を放っていたが、眼前で嗤っている怪物は別格だ。
「てめえがこの悪趣味な監獄を仕切ってた『穢れの血』か」
「いかにも。儂こそがマルメラーデ監獄の管理者にして『六芒魔典』の一人、シュラン・ゲーテなり」
尊大に両腕を広げて堂々と名乗りを上げる。
自然治癒力が高いのか、既に先ほどヴァンが付けた眼球の傷は塞がっていた。
「聖女が何かを待っているように見えていたが……傭兵風情に何かが出来るわけでもあるまいに」
「なら、試してみるか?」
グレンが挑発するように笑みを浮かべる。
戦闘において絶対的な自信を持つ彼からすれば、図体が大きいだけでは脅威にはならない。
これまでの人生で巨躯の魔物など幾度となく相手にしてきているのだ。
シュランは意外そうにグレンを見つめた後、笑みを浮かべる。
「ならば、聖女の目論見を叩き潰してくれようぞッ」
瞬時に肉迫し、強烈な拳打を叩き込む。
常人であればこれだけで死に至ることだろう。
鈍い音が周囲に響き渡る。
血飛沫が舞う。
迎え撃つようにグレンが放った一撃が、シュランの右手を抉るように斬り付けていた。
「チッ、固いな。さすがに一撃で切り落とすのは厳しいか」
躱すわけでもなく、受け流すわけでもなく。
真正面から迎え撃ってシュランの拳打を受け止めたのだ。
人外じみた膂力に、その場にいた誰もが驚愕していた。
「体表を魔力の皮で覆っているのか。化け物のくせに器用なことをしやがるぜ」
冷静に分析しつつ、シュランを見据える。
力比べではグレンが優勢のようだ。
得物も固い外皮を突破できるだけの切れ味がある。
シュランは警戒した様子で距離を取る。
目の前にいる屈強な傭兵が、自らの脅威足りえると判断していた。
大きく息を吸い込み、グレンが地を蹴って駆け出す。
一気に肉迫すると跳躍して二本の大剣を力任せに振り下ろす。
「――おらぁッ!」
地面が爆ぜる。
先ほどの一合いでグレンの腕力を警戒したのか、シュランは後方に飛んで回避した。
グレンは即座に追撃を仕掛けに突撃する。
両腕から繰り出される苛烈な剣戟。
凄まじい速度で左右から交互に繰り出されては、いかにシュラン・ゲーテといえど防戦一方になってしまう。
恐るべきは、自らの背丈を大きく上回る化け物を圧倒するグレンの力量だろう。
荒い呼吸で大きく酸素を取り込み、休む間も無く次の一撃を放っていく。
鬼気迫る形相で大剣を振るいシュランを追い込んでいた。
シェーンハイトとヴァンはその光景を呆然と眺めることしか出来ない。
あれほど凄まじい連撃を前にしては、手を貸そうという発想さえ浮かばなかった。
無理に割って入ろうとすれば剣戟の巻き添えを喰らってしまうことだろう。
さすがに危険を感じたのか、シュランは魔力を一気に放出させてグレンを強引に引き剥がす。
「チィッ――」
大きく吹き飛ばされるが、即座に体勢を整えて着地する。
先ほどの猛攻でシュランの腕は傷だらけになり、左腕は力無く垂れ下がっていた。
もう一方の腕を構えているが、このまま攻撃を続ければ遠くない内に無力化出来るはずだ。
しかし、グレンも相応に消耗していた。
鉄塊の如き大剣を二本も振り回し続けていたのだから当然だろう。
腕が酷く重いように感じ、打ち合いの衝撃のせいか手も僅かに痺れていた。
この程度であれば問題は無い。
自分よりも先に目の前の化け物が倒れるだろうとグレンは確信していた。
先ほどまでのような猛攻を仕掛けるほどの体力は残っていないが、冷静に立ち回れば確実に仕留められる。
すると、シュランが右腕を構えて魔力を練り始めた。
先ほどまでよりも遥かに多い魔力量に、グレンは警戒した様子で身構える。
技術も何もなく、ただ純粋な暴力を押し込めた危険な一撃。
怪物の視線が随分と低い位置に向けられていることに気付き、咄嗟に叫ぶ。
「――ヴァン、リスティルを護れッ!」
刹那、膨大な魔力を込めた拳が地面へと叩き付けられた。
「くッ――うおッ!?」
厚く頑丈な床が一気に崩れ落ち、グレンたちは瓦礫と共に落下していく。
予想以上に浮遊感は長く続いていた。
グレンは先ほどまでいた部屋が監獄の真上に位置していたことを思い出す。
危険な高さだ。
監獄の天井は随分と高かった記憶がある。
体力に余裕のあるグレンならともかく、負傷しているシェーンハイトはまともに受け身すら取れないはずだ。
「くそッ」
急いで周囲を見回すと、瓦礫の影にシェーンハイトの姿が見えた。
近くにあった瓦礫を足場にして、勢い良く飛び出す。
邪魔な瓦礫を強引に斬り払い、真っ逆さまに落下していくシェーンハイトを抱き留める。
「な、何を――」
「少しだけ大人しくしてろ――」
暴れようとするシェーンハイトを強引に抱き、落下の衝撃に備える。
そして、着地。
鈍い衝撃が足に伝わり、遅れて痺れるような感覚が訪れた。
遅れて無数の瓦礫が周囲に落ちて激しい音を響かせる。
自分の体が頑丈なことに感謝しつつ、グレンはシェーンハイトを抱き留めるために空中で手放した大剣を探す。
身の丈もあろうかという巨大な剣は探すまでもなく地面に転がっているのが見えた。
「~~~~~ッ!?」
シェーンハイトは困惑した様子でグレンの腕に抱かれていた。
なぜ、敵であるはずの自分を助けたのか。
彼をマルメラーデ監獄に連行したのは他でもない彼女だというのに。
間近で見る凛々しく端正な顔立ち。
風貌は野性味があり、しかし確かな理性の色も窺える。
彼女を抱き留める逞しい腕の感触に、生まれてから殆ど異性と親しい距離になったことのないシェーンハイトの心を揺さぶる。
自分の中にある感情を形容する言葉を彼女は持たない。
幼い頃からエルベット神教に貢献するように育て上げられた彼女は、こういった物事には酷く疎いらしい。
そんな様子に気付くこともなく、グレンはシェーンハイトを地面に降ろす。
「さて、奴はどこだ……?」
砂埃が巻き上がり、視界は酷く悪い。
あれほどの化け物であれば、この状況でも特攻してくるかもしれないと周囲を警戒する。
監獄内が騒がしい。
どうやら中央部の広場に落ちたらしく、周囲では何事かと囚人たちが目を覚ましたようだった。
このままでは、ベレツィの村人たちを戦いに巻き込むことになってしまう。
「よっと」
少し遅れてヴァンが現れる。
傍らにはリスティルを連れており、しっかりと役割をこなしているようだった。
「警戒は怠るなよ。手負いの獣が一番危ねえからな」
「言われずとも分かってます」
ヴァンはリスティルを庇うように立ち、シェーンハイトは再び治癒を再開させる。
僅かな時間だが体勢を立て直すことは出来た。
だが、一向にシュランが姿を現さない。
逃走したのだろうか。
そんな疑問がグレンの頭に浮かんだ時――。
「――ガァアアアアアアアアアアッ!」
臓腑を震えさせる程の悍ましい咆哮が響き渡る。
遅れて、無数の叫び声が至る所から聞こえ始めた。
気味の悪い水音と吐き気を催す血生臭さ。
血飛沫は至る所で撒き散らされ、砂埃の奥から床を伝って血が流れてきていた。
「いったい奴は何をしてやがるッ!?」
嫌な予感がしていた。
化け物の気配が、先ほどまでよりも膨れ上がっている。
響き渡る断末魔の叫びは、考えるまでもなく囚人たちのものだろう。
「まさか――」
リスティルの顔に初めて焦りの色が浮かぶ。
何の意図を以て囚人たちを襲っているのか気付いたらしい。
砂埃が晴れると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
床一面を血溜まりで赤く染め上げ、しかし、そこには一つの死体も転がっていない。
ただ満足げに嗤う化け物の姿だけがそこに存在していた。
「囚人を喰らいやがったのか……ッ」
グレンは焦ったように周囲を見回す。
幸いにもクラウスとユリィは上手く隠れていたようで、柱の影から顔を覗かせて無事であることを伝えてきた。
ベレツィの村人たちにも多くの犠牲が出たことだろう。
辺境の村で細々と暮らし、魔物の襲撃を受け、最後には冷たく黴臭い監獄で惨い死を迎える。
そんな人生の末路に、きっと彼らは己の不運を強く呪って死んでいったはずだ。
グレンの中に黒い感情が渦巻く。
目の前の化け物は決して赦すべきではない。
己の全力を以て、叩き潰さなければならない相手だ。
囚人たちを喰らったことでシュランの肉体は大きく変貌していた。
体表が赤黒く染まり、ドクドクと脈打つように蠢いている。
その体躯も一回りほど大きくなって、巨大な拳は大岩の如く硬化していた。
当然ながら、先ほどまでの戦いで与えた傷は全て塞がっていた。
ヴァンとシェーンハイトがグレンの横に並び、武器を構える。
二人とも戦闘を継続する余裕はあるようだった。
「俺が真正面から打ち合う。隙を見て援護してくれ」
二人は黙って頷く。
この場で異議を唱えるほど愚かではない。
グレンは強烈な殺気を露にし、一気に駆け出す。
「うおおおおおおおおッ!」
気迫に満ちた咆哮と共に、化け物へと向かっていく。
苛烈な戦いにこそ己の価値を感じられる。
これほどの強敵を打ち倒せたならば、マルメラーデ監獄で溜まった苛立ちも解消されることだろう。
だが、油断はしない。
自身の力量を弁えた上で冷静な判断を下すことが出来るからこそ、グレンは傭兵として生き延びてこられたのだ。
故に、最初の一合いは渾身の一撃を叩き込む。
囚人を喰らったシュランの変貌を見るに、人間を喰らうことで力を増幅させられるのだろう。
魔力を限界まで練り上げて、鉄塊の如き大剣二本を振り下ろす。
「――魔双撃ッ」
鈍い音が響いた。
シュランは腕を交差させて盾にすることで防いでいたが、大剣は深々と傷を付けて半ばほどまで進んでいた。
切断まで至らなかったのは、先ほどの変異によって骨格が異常発達していたことが原因だった。
大剣を引き戻そうとするが、化け物の腕に食い込んだまま動かない。
深く抉られた腕に強引に力を入れて逃がさないつもりらしい。
「力比べをしようってのか? 面白えッ!」
グレンは全身に力を込めて押し返そうとする。
ギチギチと不愉快な音が耳にこびり付いてくるが、構わず強引に捻じ伏せに掛かる。
巨大な化け物の体躯が徐々に仰け反っていく。
グレンの人外じみた膂力によってシュランの巨躯を圧倒しているのだ。
歯を軋らせて踏ん張り、もう一息だと思ったその時――。
「うおッ――!?」
シュランの魔力が爆発的に高まったかと思うと、今度は徐々にグレンが劣勢になり始めた。
体格差と内包する魔力量の差、そして『穢れの血』であるか否か。
大災禍によって齎されたのは混沌だけではないのだと化け物が嗤う。
だが、グレンも意地の張り合いだけは負けていない。
酷く消耗した体で、ギリギリのところで力を拮抗させていた。
両者の動きが制止した時、隙を窺っていたヴァンが仕掛ける。
「――影縫縛鎖」
ほんの一瞬だけシュランの動きが制止する。
先ほどよりも力が増幅しているために僅かな時間稼ぎしかできないが、グレンにとっては十分すぎる時間だ。
即座に態勢を立て直し、大剣を固く握り直す。
直後、後方から疾風の如く飛び出してきたシェーンハイトが剣を突き出す。
「――蒼閃」
鈍い音が響く。
強靭な外皮によって刃は阻まれるが、その重く鋭い突きは化け物の巨躯を大きく仰け反らせた。
そして、同時にグレンは一気に大剣を引き抜く。
シュランは致命的な隙を晒した。
それを逃すわけにはいかない。
両手に握り締めた大剣を引き戻し、右腕を狙って勢い良く突き出す。
「――牙突」
今度は深々と、化け物の右腕の関節に突き刺さった。
骨が固いのであれば関節を狙えばいい。
それは『穢れの血』が相手であろうと変わらない。
「うおおおおおおおおッ!」
咆哮し、強引に傷口を広げていく。
あまりの激痛にシュランが絶叫するが構うことは無い。
グレンは容赦なく巨大な腕を斬り飛ばした。
しかし、その直後に強烈な衝撃がグレンの体を襲う。
シュランの振り抜いた左腕によって大きく吹っ飛ばされてしまう。
あまりの痛みに受け身を取ることもままならず、グレンは瓦礫に叩き付けられた。
「がはッ――」
意識が飛びそうになるほどの衝撃だった。
辛うじて繋ぎ止められたのは、普段から過酷な鍛錬を積んでいたおかげだろう。
酷く体が重い。
激痛で体の感覚が曖昧になっていた。
視界も上手く焦点が合わず、これでは戦況の把握が出来ない。
あれほど強烈な一撃を叩き込まれて、即座に復帰することは厳しいだろう。
常人であれば木っ端微塵に弾け飛んでいたはずだが、驚異的な肉体強度で以て辛うじて耐えることは出来た。
だが、それ以上には繋がらない。
一方で、ヴァンとシェーンハイトは焦りを感じていた。
目の前にいる巨躯の化け物と唯一互角に渡り合えるグレンが脱落してしまったのだ。
もしかすれば命を落としてしまったかもしれないとさえ考えていた。
「不味い……」
ヴァンは『穢れの血』の力を行使すれば逃げ回るくらいは可能だ。
人間を相手であれば十分すぎるほどの戦力だが、『六芒魔典』のシュラン・ゲーテが相手では直接的な戦闘において些か突破力に欠ける。
それはシェーンハイトも同様だ。
思わずリスティルの方を振り返るが、彼女もまた厳しい表情をしていた。
敵は想定を上回る怪物だった。
ある程度は傷を負わせたものの、放っておけば逃走してどこかで身を休め、再び悪事を働くことだろう。
それだけは避けなければならない。
かといって、グレンが倒れた今では討伐する手段が無い。
このまま交戦を続ければ、下手をすれば皆が殺されてしまうかもしれない。
「貴様の目論見は潰えたようだなぁ?」
シュランが嗤う。
唯一脅威だと感じていたグレンを排除して余裕を取り戻しているようだった。
腕の切断面から大量の血を流しているが、その状態でもヴァンとシェーンハイトを相手できると考えているらしい。
「……」
リスティルは目を瞑り、黙って腕を組む。
万策尽きてしまったのだろうか。
その場の誰もが彼女の次の行動に注目していると。
「……いつまで寝ているつもりだ、グレンッ!」
監獄内にリスティルの叱責が響く。
しかし、反応は無い。
「私は大陸最高の傭兵を雇ったはずだ! そうだろうッ!?」
二度目の呼びかけが響く。
どこか縋るような声で必死に叫んでいた。
痛々しささえ感じられるほどに、彼女らしくもない様子で声を上げ続ける。
すると、瓦礫の奥から物音が聞こえてきた。
「……ったく、少しくらい休ませてくれてもいいだろうが」
ゆっくりとグレンが起き上がる。
額から大量の血を流して、体もふらついて満身創痍。
だが、その瞳に宿る闘志だけは健在だった。
――『狂犬』グレン・ハウゼン。
その異名を思い出し、ヴァンは思わず息を呑む。
自分であれば、きっと立ち上がれないであろう酷い傷を負っているというのに。
手負いの獣のように彼の闘志は増すばかり。
「馬鹿な……」
ここに来て初めてシュランは"恐怖"を感じていた。
人間であることを捨てて『穢れの血』となったというのに、ただの人間を恐れるなど有り得ない。
事実として、シュランは目の前の男を恐れている。
大剣を固く握り締め、一歩ずつ足を進める姿。
それが死刑宣告のように感じ、思わず恐怖が表情に出てしまう。
グレンは大剣を構え、獰猛な笑みを浮かべて駆け出した。
既に体はボロボロだったが、その気迫で以て力を振り絞る。
頑丈な石床を割るほどの力強い踏み込み。
剛腕によって振るわれるのは鉄塊の如き二本の大剣。
放つのは、強烈な殺意を込めた至高の一撃。
「喰らいやがれ――剛撃ッ」
大きく跳躍して、残る魔力を全て注ぎ込んで振り下ろす。
シュランは咄嗟に腕で守ろうとするが、片腕が斬り飛ばされている状況では不十分だ。
巨大な腕ごと頭部を叩き潰し、グレンは嗤う。
確かな手応えを感じて着地すると、遅れてシュランが力を失ったように崩れ落ちた。
悪趣味な怪物は二度と動くことはない。
そうして、監獄に静寂が訪れた。




