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黒き聖女の黙示録《アポカリュプセ》  作者: 黒肯倫理教団
一章 アーラント教区

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14話 マルメラーデ監獄(8)

――監獄の外に出たのは何年ぶりだろうか。


 ふと、ジェイドはそんなことを思った。

 随分と長い時間をマルメラーデ監獄で過ごしていたように思えたが、正確な日数は半年を過ぎたあたりから数えることを止めてしまった。


 監獄内での荒み切った生活。

 生き延びるために他者を蹴落とす日々。

 中途半端に教養があったために、余計に長く苦しむことになってしまった。


「……」


 もはや抵抗する気力は残されていない。

 監獄の番人に両腕を拘束されて連行されていく。

 あれほど恐れていた死が間近に迫っているというのに、彼の心は空虚だった。


――生き永らえた事に意味は有ったのだろうか。


 以前はもう少し人間らしい感情を持っていた気がした。

 だが、監獄での日々は彼の精神を擦り減らし、今の彼には何も残っていない。


 幾度となく繰り返された処刑の夜。

 連行される囚人を何度も見送ってきたが、今回は逆の立場だ。

 この先の光景を見ることになるのは初めてだった。


 ただ一度、過去に戻れるならば……という空想が無意味なことは知っている。

 過ちを犯してしまえば、取り返しがつかなくなってしまうのも仕方がない。

 不幸だったのは、彼の生まれが悪かったことだろう。


 ジェイドはアーラント教区の辺境貴族の三男だった。

 剣術に秀でているわけでもなく、知略に長けているというわけでもない。

 平凡という括りからは外れているものの、優秀と評されるほどの出来ではなかった。


 物心が付く頃には既に、年の離れた兄たちが優秀な成績を修めていた。

 必死に努力をしたところで差を縮めることは難しく、生まれつきの才能もあってか差は広がるばかり。

 張り合うことが無意味だと気付いた彼は、成人する頃には全てが馬鹿馬鹿しくなって努力を止めた。


 幸い貴族の生まれということもあって金はあった。

 彼が酒に溺れ、女に溺れ、落ちぶれていくのは定めのようなものだろう。

 仕事もせずに遊びまわっていたせいか、いつしか領内で放蕩貴族として後ろ指をさされるようになっていた。


 そんな彼が監獄へ連行された原因は、彼の両親がエルベット神教によって処罰されたことによる。

 ジェイド自身に罪は無かったが、巻き添えを喰らう形で囚人となった。

 貴族というだけで他の囚人たちから恨みを買うことになり、両親は早々に投票で選ばれて処刑されてしまった。


 ここに来て初めてジェイドは才能を発揮した。

 マルメラーデ監獄の仕組みを逆手に取り、気性の荒い囚人たちをまとめて徒党を組んだ。

 貴族として教養を持つだけでなく、領内の酒場を回り女を漁ってきた彼にとって囚人たちの心を掌握することは実に容易いことだった。


 当面の安全は確保されていた。

 計画は完全だった。

 唯一、彼に誤算があったとすれば、この監獄が異常な場所だということだろう。


『――処刑対象者は『穢れの血』に生きたまま喰われるらしいぞ?』


 リスティルの言葉を思い出し、ジェイドは息を呑む。

 今更生き永らえることに執着は無いが、死ぬにしても苦痛を伴うのは御免だ。

 斬首にせよ火刑にせよ、化け物に捕食されるよりはずっとマシだろう。


 そして、その部屋へと辿り着く。

 派手な装飾の施された豪華なドアの奥に血生臭さを感じ、思わず顔を顰める。


「……全てが思い通りになると思うなよ」


 どうせ死ぬなら足掻いてから死ぬ。

 その過程で脱獄の機を窺うことも忘れない。

 投票の対象にされた時点で命は無いようなものだが、彼の心に残された僅かな感情が"生"を手繰り寄せようと必死に腕を伸ばしていた。


 しかし、それも叶わぬ希望だと思い知る。


「――ついに落ちたか、囚人の王よ」


 静かに、感慨深いといった様子で老人が呟く。

 エルベット神教、アーラント教区総督グレゴール大司教。

 彼は机に肘を突いて手を組み、連行されて来たジェイドを見据える。


 その眼光は鋭い。

 鷹が獲物を狙うような獰猛な瞳に、ジェイドは思わず身震いする。


それ・・は聖職者がする表情かおじゃないな」


 地に膝を突きながら、ジェイドは睨み付けるように目を細める。

 未だに投票による呪いのせいで体に力が入らない。


 幸い相手に会話をするだけの理性が残っているらしく、そしてジェイドとの会話を望んでいるようだった。

 目の前にいる『穢れの血』を相手にどれだけ時間を稼げるかは不明だが、試してみない手はないだろう。


「長い間、この時を待ち侘びていた。囚人たちを争わせる投票を利用し、監獄を掌握した者は貴様が初めてだからな」

「僕に会いたかったのなら、さっさと監獄から出せばよかっただろう」

「それでは意味が無い。こうして処刑の対象となり絶望へと突き落とされる瞬間こそが、儂の求める至高の悦楽というものよ」


 渇いた嗤い声が室内に響く。

 弧の字に歪んだ口元から漏れる不気味な声に、ジェイドの背に嫌な汗が流れる。


「悪趣味だな。監獄内にも、お前ほど頭の狂った人間はいなかったよ」

「凡人には美酒の味が分からぬ。感じるだろう? 貴様の胸に渦巻く恐怖の念を」


 心臓が激しく脈動していた。

 呼吸が乱れ、酷く気分が悪い。

 意識しないように目を逸らしていたが、ジェイドの心は恐怖に支配されかけていた。


「囚人の王よ。貴様にとって"恐怖"とは何者か?」


 化け物と問答でもしろというのか。

 ジェイドは声が震えないように深呼吸で落ち着かせ、口を開く。


「恐怖とは"道具"だ」

「くっくっく、貴様らしい。囚人共の掌握に用いたからこその答えなのだろう」


 グレゴールは愉快そうに嗤う。

 予想の範疇に収まっているものの、十分な解であることは確かだった。


「世の哲学者は恐怖を論じてこなかった。幸福だの快楽だのを追及するばかりで、人間の感情というものを疎かにしてしまう」


 だが、とグレゴールは続ける。


「儂は違う。重要なのは情動の落差。悲鳴を上げ、泣き喚く様子。血の気が引いていく様子。体の震え、息遣い、激しく脈動する心臓。これによって齎されるもの――それこそが"恐怖"の存在意義なのだ」


 ジェイドには訳が分からなかった。

 この思索から導き出される答えはいったい何なのか。

 狂人の思考は常人には測れない。


「つまり――"恐怖"こそ至高の香辛料スパイスということだ。今の貴様は、儂のテーブルに並べられた御馳走なのだよ」

「本当に『穢れの血』なのか。エルベット神教も腐りきっているみたいだ」


 気丈に振舞おうとするが、僅かに声が上ずる。

 今の彼には、声が震えないように意識するだけで精一杯だった。


「……僕のことを喰うのか?」

「勿論だとも。ああ……今宵は酒が、さぞ美味いことだろう」


 そして、グレゴールが立ち上がる。

 彼の手には果物を切るような小型のナイフが握られていた。


――処刑が始まる。


 ジェイドは必死に考えを巡らせる。

 少なくとも、目の前にいる残忍な狂人は楽に殺してくれないらしい。

 まるで高級宿のビュッフェを前にしたように、グレゴールはジェイドの体を観察しながら舌なめずりをする。


 殺す気があるのであれば、もっと殺傷力の高い刃物を選ぶはずだ。

 そうでなくとも、果物ナイフを選ぶ理由などない。

 グレゴールは拷問紛いのことをしたいらしい。


 問答は終わったが、未だに体に掛けられた呪いは解ける気配が無かった。

 足さえ動けば事態を打破することが出来るかもしれない。

 ジェイドは貴族として一通りの剣術を嗜んでおり、一流ではないにせよ腕に覚えがあるのは確かだった。


 歯を食いしばり体を動かそうとする。

 しかし、呪いによって力を奪われた体はぴくりとも動かなかった。


「先ずはその眼球を食してみるとしよう」


 前屈みになって瞳を覗き込む。

 ジェイドは思わず瞼を閉じてしまうが、そこに枯れ枝のような指が添えられた。


「ふむ……囚人の王といえど、恐怖には抗えぬか」


 指で瞼を強引にこじ開けると、躊躇無くナイフを眼球に突き立てた。



   ◆◇◆◇◆



 この世のものとは思えないほどの絶叫が監獄内に響き渡った。

 それは地下の独房で寝ていたグレンの耳にも届くほどで、マルメラーデ監獄にいた誰もが聞いたことだろう。


「……今のはいったい何なんだ」


 一体どのような苦痛を受ければ、こんな痛々しい悲鳴が出てくるのだろうか。

 グレンは顔を顰めつつ体を起こした。


 悲鳴はしばらく断続的に響いていた。

 これでは体を休めようにも気になって仕方がない。

 来るべき時に備えろとは言われたが、それがいつなのかさえ伝えられてないのだ。


 やはり、頭脳としては期待されていないのだろうか。

 未来を見通す力を持つリスティルからすれば、グレンの考えなど想定の範囲内に収まっているのかもしれない。

 傭兵として多くの経験を積んできたが、それはあくまで戦闘に限った話だ。


 旅を続けるのであれば自身も成長しなければならない。

 頭が悪いというわけでもないのだから、きっと出来る事はあるだろう。

 戦力として期待されることは歓迎だが、だからといって今の状況に甘んじているほどプライドが無いわけではない。


 やがて悲鳴が鳴り止んだ頃、独房の扉がノックされた。


「準備が終わったんで呼びに来ましたよっと」


 手早く施錠を解除してヴァンが入ってきた。

 既に荷物を取り返しているらしく、自分の影からグレンの武器や鎧を呼び出して床に置いた。


「……空間収納なんて出来るのかよ」


 空間収納は旅人たちにとって身近な存在である。

 多少値は張るものの、魔道具として専門の店などで販売されているため熟練の傭兵や冒険者などは愛用していることが多い。


 しかし、それはあくまで魔道具に限った話である。

 魔術としての空間収納は非常に高度な技術と知識が必要であり、扱える者は殆ど存在しないのだ。

 施錠の技術といい、戦闘以外でも活躍することが出来るヴァンを少しだが羨ましく感じた。


「ええ、便利ですからね」


 素っ気なく返すと、ヴァンは足元の影へと沈んでいく。


「僕はリスティル様と標的のところへと向かうので、貴方は適当に暴れて看守を引き付けていてください」

「お前だけで『穢れの血』を殺れるのか?」

「問題ありませんよ。それでは」


 自信に満ちた笑みを浮かべて去っていった。

 これまでもリスティルと旅をしているのだから、何度も『穢れの血』を相手にしたことがあるのだろう。


 グレンはマルメラーデ監獄に連行されて来た日のことを思い出す。

 監獄に押し込まれる直前に一瞬だけ見えたグレゴール大司教の狡猾な笑みを彼は忘れない。

 ヴァンの腕を疑うわけではないが、嫌な予感が拭えなかった。


 鎧を身に着け、二本の大剣を手にする。

 体に掛かる装備品の重みが心地よく感じた。


「まあ、どうでもいい。俺は任された仕事をこなすだけだ」


 必要があれば助けに行けばいい。

 グレンは独房を飛び出すと、ちょうど巡回に来ていた看守へと襲い掛かった。



   ◆◇◆◇◆



「一部始終を見届けさせてもらいました、グレゴール大司教」


 勢い良く扉が開け放たれる。

 拷問部屋に最初に足を踏み入れたのはシェーンハイトだった。


 部屋の中央に視線を向ける。

 無様に斃れた亡骸ジェイドは両目と両耳を失い、胴体からも腕と足が切り取られていた。

 肉を剥がされて散乱した骨を不愉快そうに見つめた後、剣を突き出すように構える。


 血生臭い部屋だった。

 一体どれだけの人間を殺せばここまで酷い臭いになるのだろうか。

 掃除は一応されているようだったが、至る所に血の跡が残っている。


 グレゴールは特に動揺した様子もなく、笑みを浮かべて彼女を迎える。


「これはこれは、猊下。食事中を邪魔するとは躾が成っておりませんなぁ」

「畜生と一緒にするなッ!」


 グレゴールの足元の地面が爆ぜる。

 溢れ出る殺気を隠すこともせず、シェーンハイトは戦闘態勢に入っていた。


「エルベット神教、枢機卿序列四位シェーンハイト・ヴァレンティの名において、貴方を邪教徒と見なし排除します」

「おやおや、そうですか。仕方ありませんねえ――」


 強烈な殺気に当てられても、その笑みを絶やすことは無い。

 尊大に両腕を広げ、グレゴールは魔方陣を描く。


「――来なさい、監獄の番人よ」


 シェーンハイトの眼前に二体の化け物が姿を現す。

 片方は血に塗れた麻袋で顔を覆った巨人――ゼレス。

 もう片方は牛のような角を生やした悪魔の巨人――ベレス。


 石像のような灰色の硬質な肌をしており、並大抵の武器では傷付けることさえ困難だろう。

 ゼレスは巨大な鉈を、ベレスは巨大な斧を構えてシェーンハイトへと襲い掛かる。


「シィッ――」


 瞬時に間合いを詰めて剣を一閃。

 鋭く突き立てられるが、返って来たのは鈍い手応えのみ。


 生半可な一撃では足止めにすらならない。

 ただ使役されているだけの雑魚ではないようだった。

 シェーンハイトは後方に飛んで攻撃を回避しつつ、再び剣を構える。


 二体の巨人は凶悪な力を秘めている。

 少なくとも雑兵を揃えたところで意味を成さないのは明白だ。

 マルメラーデ監獄には彼女直属の騎士も滞在しているが、この場に居たとしても役立たないだろう。


 しかし、シェーンハイトはエルベット神教において枢機卿の肩書を持つ。

 その技量は『穢れの血』を相手取るに相応しいだけのものを備えており、事実として彼女は自らの勝利を疑わずにいた。


「召装――天麗衣ハイル・クライト


 シェーンハイトの体を淡く輝く純白のドレスが彩る。

 華美な装飾を施されたそれは、数多の怪物を葬る際に用いられた戦闘衣である。

 露出された肩や首筋、脚などに蒼い術式が浮かび上がる。


「――蒼閃」


 魔力を込めた鋭い突きが放たれる。

 ゼレスは巨大な鉈を盾に受け流そうとするが、あまりの威力に後方へと弾き飛ばされてしまった。

 続いてベレスが襲い掛かるも、シェーンハイトは先ほどまでとは比べ物にならない速さで無数の斬撃を放った。


 確かな手応えを感じる。

 力を開放した状態の彼女は大陸でも屈指の実力を持つ剣士だ。

 枢機卿の名に恥じない凄まじい剣捌きで監獄の番人を圧倒していく。


「ふむ、見事なものだ」


 にも拘らず、グレゴールの笑みは絶えない。

 自らの配下が圧倒されているというのに、ただ後方で眺めているだけだった。


 明らかに不自然だった。

 彼ほどの実力者であれば、後方から魔術で支援することは大した負担にはならないはず。

 だというのに動きを見せないグレゴールに、シェーンハイトは疑念を抱く。


「――断空」


 膨大な魔力を刃に収束させ、一閃。

 拷問部屋に魔力の嵐が吹き荒び、監獄の番人をまとめて弾き飛ばした。

 その余波は部屋の壁を破壊するほどで、魔力が収まる頃にはグレゴールの後方にあった壁が完全に消滅していた。


 青白い月明かりが室内に差し込む。

 噎せ返るような血の臭いが、空間が開けたことによって僅かに緩和され始めた。


 グレゴールは足元に転がる監獄の番人に視線を落とす。

 剣を弾くほどに硬質な肌が、先ほどの一撃によって派手に抉られている。

 恐らくはシェーンハイトの最大の一撃だろうと彼は予想していた。


「凄まじい一撃ですな。まさか猊下が監獄の番人を無力化できるとは」

「処刑を受け入れなさい。その身を穢れに落とした時点で、貴方の死は確定しています」


 剣を突き出すように構え、鋭く睨み付ける。

 監獄の番人と同時に襲って来られるのであれば厄介だったが、グレゴール単体であれば脅威にはならない。

 先ほど動きを見せなかったのも使役系の魔術に特化した『穢れの血』だからだろうと推測していた。


 シェーンハイトは既に多くの『穢れの血』を処刑してきた実績を持つ。

 そんな自分を相手に何もせず後方で傍観しているほどの余裕があるとは思えなかった。


「猊下……いや、小娘よ。貴様は勘違いをしているな」

「なに……?」


 グレゴールの放つ気配が一変する。

 体中を刺すような強烈な殺気と、粘着くような禍々しい穢れの奔流。

 彼を前にすると、思わず剣を持つ手が震えてしまうほどに。


 そして、その影が大きく膨張していく。

 監獄の番人も人間より二回りほどの体躯を誇っていたが、それとは比べ物にならない。

 優に五メートルは超えているであろう、巨大な怪物へと姿を変貌させた。


 シェーンハイトは思わず息を呑む。

 幾度となく『穢れの血』との死闘を繰り広げてきたが、ここまで凶悪な気配を感じたのは初めてだった。


「――儂こそは『六芒魔典ヘクサグラム』が一人、シュラン・ゲーテなり」


 大きな口から瘴気を吐き出し、怪物が嗤う。

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