13話 マルメラーデ監獄(7)
独房は監獄の地下に位置していた。
鈍色の枷を掛けられたグレンは大人しくシェーンハイトの後ろについて行く。
「暴れるかと思っていましたが……案外、冷静なのですね」
シェーンハイトは意外そうに呟く。
グレンの容貌から、連行する際に暴れるのではと警戒していたらしい。
夜深いというのに帯剣することも忘れず、監獄の騒ぎに駆け付けた。
「あの場で抵抗するとしたら、監獄の番人や囚人共も相手にしなきゃならねえからな。そこまで素人じゃねえよ」
「私一人であれば、相手に出来ると?」
レイピアの柄に手を添え、グレンを睨み付ける。
彼女はエルベット神教の枢機卿として相応しいだけの技量を持っている。
大陸各地を飛び回って『穢れの血』を相手にしているだけあって戦闘経験も豊富だ。
剣呑な空気が漂っていた。
だが、グレンは何一つ気にしていない様子で欠伸をする。
「随分酷い顔してんじゃねえか。目の下に隈が出来てるぞ?」
そう言われて、シェーンハイトは自身の下眼瞼をそっと撫でる。
グレゴール大司教との晩餐会から嫌な感覚が抜けず、まともに寝付けていなかったのだ。
僅かな体の震えをグレンは感じ取っていた。
「そんな面した奴に殺されるほど、傭兵稼業は甘くねえ。この枷だって、有って無いようなもんだ」
グレンは呆れたように溜め息を吐くと、金属の枷を見せ付けるように突き出す。
そして、徐々に腕に力を入れていく。
「……ッ!」
シェーンハイトはその光景を愕然とした表情で見つめていた。
金属製の厚みのある枷が、ギチギチと悲鳴を上げて捻じ曲がっていくのだ。
常人では想像もつかない光景だろう。
グレンは強引に枷を外すと、それを地面に投げ捨てた。
「俺を殺すつもりなら相応の準備をしてこい。事情は知らねえが、余計なことに気を取られている内はやめておくんだな」
気づけばレイピアの柄に添えていた手は外れていた。
グレンの言う通りだった。
今のシェーンハイトには手練れを相手にできるほどの余裕が無い。
――この男は危険だ。
シェーンハイトは警戒しつつ対峙する。
寝不足なのが祟ってしまったのだろうか。
枷を外そうとした時点で攻勢に出られなかったことで自由を与えてしまった。
しかし、いつまで経ってもグレンが仕掛けてくる様子はない。
その表情には余裕の色さえ窺えた。
未だ得物を持つシェーンハイトの方が有利な状況ではあるものの、この場は完全にグレンが掌握している。
「牢に連れていくんだろ? さっさと行こうぜ」
「な……なぜ、逃げないんですか」
シェーンハイトには理解できなかった。
何故、グレンは逃げようとしないのだろうか。
「生憎、俺の雇い主はまだ監獄に留まりたいらしいからな」
その言葉の意味するところをシェーンハイトは察することが出来ない。
彼にかかれば脱獄することなど容易だろう。
だというのに、この監獄に留まろうというのだ。
グレンは知っている。
もし今の状況がリスティルにとって不都合であれば、ヴァンに命じて強引にでも打破するはずだろう。
そのため、こうして悠然と構えていられるのだ。
衝動的な行動を取ったわけではない。
ジェイド派閥の人間を減らすというのは理に適っており、早々に止められてしまったことは想定外だったが考え方は間違いではないはずだ。
殺しに躊躇いは無い。
相手が魔物だろうと人間だろうと、グレンは傭兵として仕事をするだけ。
快楽殺人者というわけではないが血を見ること自体は慣れてしまった。
「……そうですか」
シェーンハイトは特に追及することなく再び歩き出す。
抵抗する意思がない以上、彼女にできるのはグレンを独房へと連行することのみ。
だが、枷を掛けても強引に外されてしまうのだから、牢に入れたところで閉じ込められるというわけでもない。
意図を探りたいところだが、それよりも今はグレゴール大司教の方が重要だ。
マルメラーデ監獄は明らかに異常な場所である。
エルベット神教の重役である彼が異端者だとすれば、放置するわけにはいかない。
そして、独房へと到着する。
グレンはシェーンハイトの方を一度だけ振り返り、そして中へと入っていった。
独房は監獄と同様に厚い金属製の扉になっていた。
一度入れば簡単には出られないだろう。
リスティルたちのことを信用してはいるものの、こうして牢に閉じ込められるとなると僅かに嫌な想像をしてしまう。
処刑されるのは御免だ。
まだ契約から日が浅く、ある程度の素性を知っているが全てを知っているわけではない。
未だ、グレンは試される立場にあるのだろう。
リスティルは戦力を欲しており、それに見合うだけの仕事が出来なければ捨てられる可能性もゼロではない。
(運命力、か……)
運命を変えるには相応の規模で行動しなければならない、とはリスティルの言葉である。
彼女は目的を持って行動しているが、それを成すためにもグレンが必要なのかもしれない。
今後のことを考えれば、他にも戦力として仲間を探す必要も出てくるだろう。
その過程で、グレンは自分がどこまで通用するか疑問を抱いていた。
ヴァンは『穢れの血』としての力を使いこなしており、その技量は疑うまでもない。
腕に自信はあるものの、グレンは生身の人間であり特別な力を持っているわけではないのだ。
無論、相手が『穢れの血』であろうと恐怖を抱くことはない。
グレンの目的は故郷を襲った悲劇、脳裏にこびり付いた不快な笑い声の持ち主を探し出して殺すことだ。
復讐のために捧げてきた人生。
傭兵として大陸各地を巡り、鍛錬を積みながら情報を集めてきた。
そうして辿り着いた地がアーラント教区であり、もしかすれば手の届く範囲に仇敵がいる可能性もある。
用心しなければならない。
もし"奴"が変わらず悲劇を生み出して楽しんでいるのであれば、きっとどこかで眺めているはずだ。
その時は何を投げ出してでも殺すのだと決めている。
「まったく、貴方は何をやってるんですか」
呆れたような声が聞こえたと思うと、部屋の影からヴァンが姿を現した。
唐突な出来事にグレンは驚き、思索から現実へと引き戻される。
「悪いな。ああする以外に方法が無かった」
グレンが暴れなければクラウスが殺され、ユリィは凌辱されていただろう。
もし奇跡的にクラウスが救出に成功したとしても、結局は投票の対象にされて命を落としてしまう。
即座に監獄の番人が現れたのは想定外だったが、シェーンハイトが騒ぎに駆け付けたことで素手で相手をせずに切り抜けることが出来たのは僥倖というべきだろう。
「けどよ、問題は無いんだろう?」
「それはそうですけど……リスティル様を一人にするわけにもいかないので、これ以上の諜報は断念せざるを得ませんね」
肩を竦め、壁に寄り掛かる。
監獄内部を常に監視していたわけではないため事情は分からないが、グレンがリスティルの意図を阻まないように行動したことは理解できていた。
「まあ、構いませんよ。僕の方でもある程度は情報を集められたので」
「何か分かったのか?」
「ええ、まあ色々と」
これまでの諜報活動で最低限必要な情報を得ている。
それを知っているからこそリスティルもグレンを止めなかったのだろう。
マルメラーデ監獄の闇は、ヴァンにとっても驚愕を隠せないものだった。
「この監獄を作ったグレゴール大司教……あれは間違いなく『穢れの血』です」
「おいおい、仮にもエルベット神教の大司教だろ? まさか邪教に染まっているとは思えねえが……」
アーラント教区を統治するグレゴール大司教は敬虔な信徒として有名である。
同時に罪人や異教徒を憎み、森の深くにある監獄で処刑しているとも噂があった。
そんな人間が『穢れの血』だとは到底思えない。
それに、グレンは一度彼の姿を見たが普通の人間にしか見えなかった。
ベレツィの村人たちを苦しめていたモルデナッフェの群れの主は、一目見て邪悪に染まっていると感じ取れるほどに嫌な気配がしていた。
「食べてるんですよ、罪人たちを。処刑と称して」
「見たのか?」
「当然。悪食は『穢れの血』の多くが目覚める衝動ですからね」
ヴァンは今宵の処刑者が喰われるところを目撃している。
この情報が流れたら、果たして囚人たちはどのような反応をするだろうか。
グレンはぎょっとした様子でヴァンを見つめる。
簡単に言うが、それを言うならばヴァンも悪食に目覚めているのではないか。
「……お前も人を喰うのか?」
「食べませんよ。美味しそうだと思うことはないわけではないですけど、僕はリスティル様に仕える身なので――」
ヴァンは否定するが、ふと思い出したように笑みを浮かべる。
「――まあ、一度だけ食べたことはありますけどね」
その笑みの邪悪さに、グレンは思わず息を呑む。
一体誰を食べたのだろうか。
血縁者か、友人か、仇敵か、あるいはそれ以外の何者か。
グレンは傭兵として各地を巡り歩いている時に何度も悪人を見てきた。
その笑みはどれも下卑たものだったが、ヴァンのそれは違う。
根底にある"悪"が大きく異なっているのだ。
身の毛のよだつような邪悪。
その笑みが孕んだ狂気はグレンには理解し難い。
「さて、と……僕はリスティル様の護衛をしなければならなくなったので、行ってきます」
そう言うと、ヴァンは影の中へと消えていく。
グレンは大きく息を吐き出すと、そこで初めて自分が緊張していたことに気付いた。
――やはりこいつは危険だ。
初対面での印象は、行動を共にするにつれて薄れていた。
しかし今、その内に秘めた邪悪に触れたことでヴァンの闇を再確認する。
もう独房の中に留まっているつもりはないらしい。
じきに巡回に来た看守がヴァンの脱獄に気付くことだろう。
グレンの出番は近い。
監獄から逃れることは容易い。
問題は、リスティルが如何にしてジェイドを退けベレツィの村人たちを救うかだ。
彼女はグレンの制止も聞かず一人で囚人たちに声をかけて回っていた。
何か意図があってのことだろうが、次の投票を切り抜けられるとは思えない。
いざとなれば護衛についたヴァンがリスティルを救出するだろうが、それでは目的を成し遂げることはできないのだ。
リスティルはグレンと共に行動をしていた。
次に狙われるのは間違いなく彼女だ。
来るべき時に備えるため、グレンは壁にもたれて目を瞑る。
彼は傭兵であって、戦力として期待されているからこそ仕事の依頼を持ち掛けられたのだ。
独房で出来ることは万全の状態で待機することのみ。
窓が無いため時刻は分からないが、体感では夜明けぐらいだろうか。
思い出したように眠気が出てくると、微睡みに意識を預けた。
◆◇◆◇◆
翌日、夜。
月明かりが煌々と監獄内部を照らしていた。
再び訪れた処刑の刻に囚人たちは身を震わせる。
随分と冷える夜だった。
マルメラーデ監獄を取り巻く森には霧が立ち込めていたが、囚人たちが知る由もない。
昨晩の騒動のせいか監獄内の人々には緊張感があった。
今晩処刑されるのは、筋骨隆々な大男と行動を共にしていた幼い娘。
ジェイド派閥の者たちは憐れみつつ彼女を見ていた。
これまで多くの人間が処刑されてきたが、ここまで幼い娘が対象となるのは初めてのことだった。
だが、ジェイドの指示は絶対である。
彼らにとっては自分の身の安全の方が優先だ。
監獄の番人が、分厚い金属の扉を開けて入ってきた。
片方は血に塗れた麻袋で顔を覆っている。
その背には多くの命を奪い赤く染まった巨大な鉈を背負っている。
もう片方は牛のような角を生やした悪魔のような容貌。
その背には生き物を容易く肉塊へと変えられる巨大な斧を背負っている。
彼らをジェイドは笑みを浮かべながら待ち構えていた。
番人は監獄内の機関でしかない。
上手く利用すれば昨夜のように自分の身を守る道具として利用することも出来るのだ。
そして、リスティルに視線を向ける。
艶やかな金髪が月光を受けて煌びやかに揺れていた。
柴水晶のような瞳は監獄の番人の持つ投票箱へと向けられている。
作り物めいた美貌を惜しく思わないでもない。
もう少し成長していれば性奴隷として飼ってやらないこともなかったのに、とジェイドは残念に思っていた。
彼の飼っている女性は、長い監獄での生活によって疲弊しきっている。
リスティルのような活力に溢れた表情は魅力的に思えていた。
しかしグレンの同行者である以上、欲に負けて見逃してしまえば手痛いしっぺ返しをくらってしまうかもしれない。
――故に、処刑する。
ジェイドは投票箱の前に立つと、両腕を広げて宣言する。
「さあ、今晩の投票を始めようか!」
そして、囚人たちが投票を始めていく。
リスティルはその様子を黙って見つめていた。
彼女の顔には微かな笑みが浮かぶ。
「可哀想になあ。恐怖で頭がおかしくなったか」
ジェイドがその様子を嘲笑う。
過半数の徒党を組んでいる以上、彼の安全は絶対である。
それが分かっているからこそ傲慢な振る舞いをすることが出来るのだ。
囚人たちはリスティルに一瞬だけ視線を向けて、魔道具の前に立って投票する。
皆の投票が恣意的に一人に向けられているのだから、後ろめたさを感じてしまうのも仕方のないことだろう。
その様子が可笑しく感じたのか、ジェイドは高らかに笑い出した。
「大人しく僕に従っておけば死なずに済んだものを! さあ、投票結果を見てみようじゃないか」
結果は分かっているがな、とジェイドは不敵に嗤う。
マルメラーデ監獄において身の安全を保障する"数"を彼は持っている。
彼が指差せば、それだけで誰かの命を奪うことが出来るのだ。
監獄の番人が魔道具を起動させる。
無感情に、無慈悲に、ただ投票結果通りに処刑を行うだけだ。
今宵の処刑対象者に選ばれたのは――ジェイドだ。
「ば、馬鹿な……ッ」
呆然とその場に崩れ落ちる。
魔道具によって抵抗できないように体の力を奪われるのは、幾度となく見た光景だ。
それがまさか、今晩、自分に降りかかってくるとは思いもしなかったらしい。
リスティルは笑みを浮かべていた。
よほど愉快だったようで、口からは小さく笑い声が漏れている。
「無様だな。先ほどまでの威勢はどうした?」
ジェイドへと歩み寄り、その肩に手を置く。
彼は未だに状況を理解できていないらしかった。
「僕は……僕は囚人の過半数を従えているんだぞ! こんなこと有り得ない!」
ジェイドは混乱していた。
絶対的な力を持っていたはずだというのに、この結果はどういうことなのか。
予想外の事態が起きてしまい、強張った顔で投票箱に視線を向ける。
「有り得ない……有り得ない有り得ない有り得ないッ! こんなの不正だッ! そうだろう!?」
「現実を受け入れろ、と言いたいところだが。まあ貴様の指摘もあながち間違いではないな」
リスティルは笑みを浮かべ、囚人たちの方を振り返る。
この場にいる多くの囚人たちが熱狂していた。
そして、彼らは声を揃えてリスティルの名を称える。
「この監獄では"数"が絶対的な力なのだろう? 私はただ、盤上を覆しただけさ」
そのために囚人たちに声をかけて回っていたのだ。
自分の見た未来通りに事が進み、リスティルは満足げに笑みを浮かべる。
「貴様には伝えていなかったことが二つある」
「なに……?」
ジェイドは首を傾げる。
この幼い娘が何をどうすれば数を支配出来るのか。
「一つ、私は未来を知ることができる。これを証明するためには時間が掛かったが、それだけで大半の囚人は私への協力を申し出てくれた」
「未来を知る、だと……?」
そんなもの、遺失魔術ですら聞いたことが無い。
出任せを言うなと言いたげな様子で、ジェイドは血走った目でリスティルを睨み付ける。
しかし、それは事実だ。
リスティルは未来の可能性の一端を知ることが可能であり、監獄内で起きるであろう事象の情報を半信半疑な囚人たちに握らせた。
聖女としての能力を証明するには時間が必要だったが、グレンが機転を回したことによって数日の猶予を得られたのだ。
ジェイドは頭が回るものの、それ以外は落ちぶれた貴族というだけ。
未来予知が可能な聖女リスティルと残虐なジェイド。
どちらを頂点に据えるべきかは考えるまでもないだろう。
「私は囚人全員の解放を約束している。こんな監獄で生き永らえることより、よっぽど魅力的な話だと思わないか?」
「くっ……」
ジェイドには囚人を解放できるほどの力が無い。
これほど魅力的な提案をされて、条件を呑まない人間はまずいないだろう。
リスティルには、その提案を実現させるだけの力がある。
そう思わせた時点で盤面は覆ったのだ。
ジェイド派閥の人間も、ベレツィの村人たちも、もとよりジェイドに不満を抱いていた囚人たちも、皆がリスティルを選んだ。
その結果がこれである。
ある意味では、ジェイドの不正だという指摘は間違っていないだろう。
「クソッ! どいつもこいつも、嬉しそうに尻尾を振っていたくせに僕を裏切りやがって!」
ジェイドは憤るが、囚人たちの視線は冷たい。
権力を失った彼には何も残らないのだ。
「それともう一つ。これは私の配下に調べさせたことだが――」
リスティルはジェイドの顔を覗き込み、これ以上ないほど邪悪に嗤う。
「――処刑対象者は『穢れの血』に生きたまま喰われるらしいぞ?」
「は、はは……」
リスティルの言葉に、ジェイドは乾いた声で笑う。
これまで大量の囚人を犠牲にしてまで生き延びてきた。
その末路がこれなのか。
全てが終わった。
もはや抵抗する術は無い。
投票は絶対であり、一度選ばれてしまえば覆すことはできない。
馬鹿げた話だ。
これまで無様だと笑い飛ばしていた者たちと同じ状況に陥るとは思いもしなかったらしい。
リスティルがジェイドから離れると、監獄の番人が彼に迫る。
この後、ジェイドは化け物に生きたまま喰われるのだ。
彼には想像も付かないような苦痛が待ち受けていることだろう。
絶望に染まっていく様子を囚人たちが嘲笑する。
ジェイドが監獄の番人に連行されていく。
その様子を満足げに眺めつつ、リスティルは次に為すべきことをするために準備を始める。
「ヴァン、そろそろ荷物を取り返してきてくれ。時が来たらグレンを呼んで行動を開始する」
「分かりました」
リスティルの影からヴァンが返事をする。
既にマルメラーデ監獄の間取りは把握している。
いつでも逃げ出せる状況で、同時にいつでも攻め落とせる状況でもある。
そうして、リスティルの計画が動き始めた。




