10話 マルメラーデ監獄(4)
晩餐会の会場は薄暗かった。
燭台の蝋燭の上で火が揺らめいているだけで、天井に吊られた装飾過多なシャンデリアに光はない。
暗がりに鼠が紛れ込んでいることには気付いていたが、知らぬふりをして足を踏み入れる。
居心地の悪さを感じつつ、シェーンハイトは形式的に礼を取る。
「失礼します。晩餐会を用意してくださったとのことで参りました」
「ああ、猊下。よく来てくださいました」
グレゴールはニタリと厭らしく笑みを浮かべた。
聖職者らしくない笑みだが、彼の経歴を辿れば聖人そのもの。
もっとも、それは表に出ているものだけの話だが。
近年では黒い噂も囁かれている。
それが真実か否か、それを判断する良い機会だと考えていた。
老齢の大司教は料理が運ばれてくるのが楽しみなようだった。
こういった場に呼んだのだから、何かしら話したいことでもあるのだろう。
少なくとも、彼のような男がただ親睦を深めようとしているようには思えなかった。
「碌なもてなしも出来ず申し訳ない。何分このマルメラーデ監獄は、迎賓目的の施設ではない故」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私も日々任務のために飛び回っている身ですから、こうして腰を落ち着けるだけでも十分な休息になります」
常に大陸各地を飛び回っているシェーンハイトからすれば、こうして一ヶ所に留まって休める時間は貴重だ。
尤も、相手がグレゴール大司教であるため心から休めるという訳ではない。
「近年は『穢れ』の被害が頻発している。ああ、嘆かわしいことです。邪悪に心を奪われて、愛する者すら殺めてしまう」
さも悲しそうに手で顔を覆う。
その内側では、どのような表情を浮かべているのだろうか。
「……そうですね。だからこそ、私の任務が重要となる」
「ええ、そうでしょう。ですから猊下には感謝しているのです。こうして罪人を処刑することで、私もまた徳を積める」
そうして首にかけた十字架を握り、神に祈りを捧げる。
グレゴール大司教の姿は敬虔な信徒そのものだ。
「グレゴール大司教。あの二体の巨人は何者なのですか?」
「巨人? ああ、ベレスとゼレスのことですか。あれらは私の使役する精霊ですよ」
精霊というよりは悪魔だろう。
心の中で呟くが、それは言葉にしなかった。
少しして、部屋のドアがノックされる。
入ってきたメイドたちがテーブルに料理を並べていくと、食欲をそそるいい匂いが鼻腔を刺激する。
「さて、食事にしましょう」
二人は手を合わせ、神に祈りを捧げる。
今日の食事にありつけたことへの感謝、命を頂戴することへの感謝。
エルベット神教の教え通りに祈りを捧げると、シェーンハイトは料理に手を付けた。
「これは……美味しいですね」
シチューを一口飲むと思わずため息が漏れてしまう。
味付けもそうだが、使われている肉も上等なものなのだろう。
食べたことのない味だった。
「この肉は何です? 牛肉とも、豚肉とも違う……」
「ああ、それですか」
グレゴール大司教は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「――マトンですよ。これが好きで、毎晩楽しみにしているのです」
「羊肉ですか。なるほど」
日々任務の為に飛び回っているシェーンハイトにとって、食事は数少ない休息の時間だ。
故に食べ物にも拘っていたが、この肉を食することは初めてだった。
――鼠が嗤う。哀れな枢機卿は、知らずに羊を喰らってしまった。
そんな視線に気づいたのか、あるいは肉の違和感に気付いたのか。
シェーンハイトは手を止めるとグレゴール大司教に話題を振る。
「今回連行してきた者の中には、情状酌量の余地があると私は考えています」
グレゴール大司教は肉を頬張って満足げに頷きつつ、返答を考える。
「ふむ……そうですな。確かにあの区域は、我々の手が容易く届く場所にはない。仕方なく魔物に従属してしまうことも考慮しなければ」
マルメラーデ監獄における断罪は死のみ。
これではあまりにも残酷な判断ではないだろうかと、グレゴール大司教は顎に手を当てる。
しかし、シェーンハイトは首を振る。
「魔物に従属した者のことはどうでもいいのです。彼らは信仰を貫き通して死ぬべきだった。生き永らえることを望むのは、それこそ教義に反していますから」
「猊下は真面目が過ぎますな。それ故に、聖下は安心して任せられるのでしょう……」
――教皇テオ・ロギア・ハートレイド。
大陸に広く信仰されるエルベット神教、それを統べる聖職者の名だ。
その存在は人を超えたとまで言われるほどで、現に彼の齢は百を超えるという。
まさに信仰の賜物。
シェーンハイトから見て、教皇は神々の祝福を受けた聖人だ。
そんな彼に期待されているからこそ、彼女は『穢れ』を強く憎んでいる。
「ふむ……手が止まっているようですが?」
目を細めてグレゴール大司教が言う。
もてなしには素直に応えるべきだと、暗に意味しているようだった。
シェーンハイトは微かに震える手で肉を掬い、口に運ぶ。
決して不味いという訳ではない。
よく煮込まれたスープの中で、どこか悩ましい味わいがそこにはあった。
だが、彼女の内側にある何かが拒んでいた。
理性でも感情でもない。
しかし、信頼に足るであろう直感が、その肉を飲み込むことを拒んでいた。
「猊下。この肉は、最高の食材になるように手をかけているのですよ」
「……というと?」
「恐怖を与えるのです。常人であれば体験することも出来ない、とてもとても悍ましい恐怖を」
ゾクリ、とシェーンハイトの背を嫌な感覚が走り抜けた。
何故だろうか。
脳裏に浮かぶのは羊の姿ではなく、必死に命乞いをする人の姿。
「――ああ、素晴らしいと思いませんか? この噛み締めるほどに溢れ出す旨味は、ただの肉では再現できない」
ただの恐怖を受けた肉は怯え切って硬くなってしまう。
それ故に、動物や魚を捌く時には"締める"という作業があるのだ。
しかし、グレゴール大司教の与える恐怖は並の物ではない。
希望と絶望とを織り交ぜた最上の恐怖を与えることによって、愚者は良い味を出すのだ。
「グレゴール大司教、この肉は――」
「――マトンですよ。さあ、残してしまうと命を粗末になってしまう」
その嘘を糾弾することは出来ない。
背後にある扉では、二体の巨人が鉈と斧を交差させて道を閉ざしている。
逃げ道はない。
このもてなしを受けないという選択肢は無いように思われた。
シェーンハイトは再び肉を掬い、恐る恐る口に運ぶ。
噛み締めるたびに旨味が溢れ出す。
肉質自体は柔らかく、しかし程よい弾力を持っていて小気味良い。
咀嚼を終えて、強張った顔で嚥下する。
食堂を通っていく肉の感触に身の毛がよだつが、対面に座るグレゴール大司教は笑みを浮かべているだけ。
しかし、なぜだろうか。
悍ましさが喉元を過ぎ去ってしまえば、あとに残るのは上質な肉の余韻。
美味しいと感じてしまうのは料理人の腕が良いからだろうか。
意に反して、体を充足感が満たしていた。
これは羊肉なのだと言い聞かせるが、スープに浮かぶ見慣れぬ肉は、やはりそうは思えない。
「美味しいでしょう? 貴女であれば、きっと喜んでくださると思っていたのですよ」
確信を持って、グレゴール大司教は笑みを浮かべる。
シェーンハイトには見所がある、と。
「……せっかくの晩餐会ですが、気分が優れないので退席させてもらいます」
恐怖を感じていた。
グレゴール大司教の言う通り、実際に羊肉なのかもしれない。
常識的に考えれば、人肉などという狂気じみたものが晩餐会に並べられるはずがないのだ。
しかし、この心の奥底から湧き上がってくる黒い感情は何なのか。
それを否定する言葉をシェーンハイトは持たない。
退室するや否や、急ぎ足でトイレへと駆け込む。
便座に手を突いて、荒い呼吸を整えるように深呼吸をする。
そして焦燥に駆られたように人差し指と中指を立て、それを口腔の奥へと押し込んだ。
「――うぇえええええッ」
苦しみ悶えるように嘔吐する。
食べたものが食道を逆流する不快感よりも、得体の知れない肉を糧とすることの方が耐えられなかった。
何度もえづきながら、やっとの思いで全てを吐き出す。
その気持ち悪さのせいか目元から大量の涙が溢れていた。
思い込みであればいいのだが、もしスープの具材に人肉が用いられていたならば、それを飲み込んだ自分自身もエルベット神教の教義を犯したことになってしまう。
涙を拭い、口元を拭う。
未だに不快感が残っていたが、徐々に呼吸は戻ってきていた。
――グレゴールは危険だ。
その結論に行きつくのは当然のことだろう。
むしろ、彼自身がそう見做されることを望んでいたようにさえ見える。
これが全て勘違いであればいい。
スープに使われていたものは羊肉で、自分がその味に感動しただけのこと。
後の想像は邪推に過ぎず、ただ疲れていただけ。
だが、先ほどの体験は事実だ。
心の奥底から湧き上がるような黒い感情は、あの羊肉によって呼び起こされたのだ。
もし、あれが人肉であるならば――。
「この施設は、いったい――」
アーラント教区、辺境に位置するマルメラーデ監獄。
疑問を抱いたシェーンハイトは、密かに行動を開始する。
◆◇◆◇◆
「……これは、愉快なものを見てしまいましたね」
ヴァンが嗤う。
ベレツィの村でのことを思えば、シェーンハイトの醜態は彼にとって極上の餌だった。
体調が悪かったのか、他に理由があるのかは分からない。
だが、晩餐会でのシェーンハイトは随分と弱々しく感じられた。
今奇襲をかければ殺せるだろうかと思案するが、今やるべきは情報収集だ。
グレゴール大司教は怪しい。
そもそもこのような監獄に長く滞在している時点で狂っているのだが、それ以上に言動が気になった。
「声も聞こえれば良かったのですが……」
ヴァンは独房の中で溜息を吐く。
今は看守が巡回している時間であり、迂闊な行動はできない。
そのため彼は、視覚のみを転移させてシェーンハイトを追っていた。
この程度の監獄など、ヴァンにとっては造作もない。
抜け出そうと思えば何時でも脱獄が可能だ。
当然、リスティルとグレンを回収することも忘れない。
だが、リスティルはベレツィの村人たちを救うことに執心らしい。
そんな聖女然とした振る舞いに感涙しつつ、ヴァンは次の機を窺う。
「次はもう少し、深い事情まで探ってみましょうか」
笑みを浮かべると、独房の壁に身を委ねてしばしの休息を取る。
◆◇◆◇◆
監獄内はいつも以上に剣呑な空気が漂っていた。
互いの様子を窺うように、ベレツィの村人たちが部屋の隅を陣取って対峙している。
「ありゃ、どうしようもねえな」
グレンは呆れたように肩を竦める。
せっかくモルデナッフェから解放されたというのに再び従属を選んだジェイド派の村人たち。
正直、彼らを助けようという気は起らない。
従属することで安全な環境を手に入れたためか、彼らには余裕の色が窺えた。
反対に、身を潜めるように沈黙を貫くのは反対派の村人たちだ。
そこにはクラウスの姿があるが、ユリィはいない。
「……チッ」
事情を聴きたかったが、クラウスに接触することは反対派に肩入れをするということ。
そうなった時、ジェイドは容赦なくグレンを吊り上げることだろう。
大柄なグレンは何かと目立ってしまう。
ヴァンのように情報を集めるという訳にもいかず、苛立ちが募るばかりだった。
ジェイドから与えられた猶予も、いつまでも続くものではない。
焦りが募るばかりだ。
戦闘においては並外れた才を発揮するグレンでも、この監獄では不自由極まりない状態を強いられてしまう。
だが、同じく目立つであろうリスティルは、そんな彼を気にも留めず自由に歩き回っている。
時折、他の囚人と会話をしているような様子も見られる。
成すべきことを見つけたのだろうか。
積極的に声をかけて回っているようだが、それでジェイドを超える派閥を作れるとは思えなかった。
仕方なく立ち上がると、グレンは監獄内を歩き始める。
このマルメラーデ監獄は特殊な造りだ。
頑丈な石造りの囚人広場に全員が押し込まれており、余程暴れたりしなければ独房に押し込まれるようなことはない。
手枷さえされないのだから、窮屈さで悩むようなことはなかった。
見張りの監守もいないわけではないが、基本的に監獄の外で警戒に務めているのみだ。
監獄内では比較的自由な生活が可能だが、脱獄をするには苦労するだろう。
そう、苦労をするだけだ。
グレンは思案する。
ヴァンは『穢れの血』によるものか、自在に転移をすることが可能らしい。
その能力を用いれば彼自身が逃げ出すことは容易いだろう。
今現在は、その能力を活用して諜報に務めている。
リスティルが逃げ出すとすれば、ヴァンが手助けをすれば容易に実現できる。
そして、グレン一人が残されたとしても強引に推し通ることも難しくない。
気がかりなのは二体の巨人と特異な力を持つ魔道具だが、脱獄のみを考えるのであれば、それらを相手にしなければならないわけではない。
「素手……は、さすがに通用しねえか」
幾ら膂力に自信があるといっても、石像のような硬質さを感じさせる巨人を相手に拳のみで相手を出来るとは思えなかった。
そう思うと、常に背負っていた大剣が恋しく感じてしまう。
「ったく、体が軽くて仕方ねえな……」
愚痴りつつ歩いていると、ふと物陰に見知った姿を見つける。
偉そうに足を組んで木箱に座るジェイド。
そんな彼にしなだれかかっている女たちの中に、クラウスの娘のユリィが混ざっていた。
ユリィは媚びるように猫撫で声で、ジェイドの甲斐性を誘っている。
つい先日までただの村娘だった彼女が、今では立派に商売女らしい甘え方を会得しているようだった。
苛立ったように歯を軋らせる。
ベレツィの村で言葉を交わしたユリィは、今と違って人間らしい情を感じた。
今の彼女はただの売女に成り下がってしまった。
生き延びるために魂を売ったのだ。
グレンからすれば、その選択は吐き気がするほどに許せない。
だが、それも彼女の人生だ。
ユリィの選択について、部外者である自分に口を挟む権利などないだろう。
ましてマルメラーデ監獄での現状を考えれば、彼女の方がずっと賢いとも言える。
どこかやるせなさを感じながら、グレンはその場を後にした。




