ドイツ教養小説 (ビルドゥングス・ロマン Bildungsroman) についての考察。 ゲーテからロマン派へ
ドイツ教養小説 (ビルドウンクス・ロマン)についての考察。
教養小説 (ビルドウンクス・ロマン)とは作者が一人の青年を主人公にして其の青春の軌跡を辿らせて、さまざまな経験をしながら成長していくさまを描いた、成長物語、いわば人生案内の小説を言う。発展小説ともいう。
同様の趣旨の小説としては17世紀にすでに、いわゆるピカレスク小説もあるがこれはただ面白おかしく主人公が放浪して
盗みや犯罪を繰り返すというだけのもので内容的な深みは皆無です。
それをもっと精神遍歴的に深めて教養小説の鼻祖となったのが
グリンメルスハウゼンの「ジンプリチシムス」である。
彼はドイツ教養小説の開祖?と言われるゆえんである。
ただし分類すればまだこの作品はまだまだ、ピカレスク小説、、ということになるでしょうね。
これをさらに発展深めて、精神遍歴、精神成長ドラマとして構築したのが、ゲーテである。
その代表作「ウイルヘルムマイスター」がいまでも、教養小説の金字塔であろう。
ただし
というか
当然のことながら
教養小説は現実の人物のリアリズム小説ではない。
主人公はあくまでも作者の投影した理念像であり、
そうした理念の人物が作者の設定した
架空世界で、、遍歴して、経験して、様々な人物と交わりながら、葛藤し、成長してゆくという
いわば、、空想小説?
ファンタジー?が
教養小説なのである。
当然、主人公が出会う人物たちもみんなあらかじめ作家・作者が「かくありなん」という
人物類型として設定した特異な?キャラクターの人物である。
そういう人物と出会って主人公がどういう反応をするのか。
あるいは。どう、精神成長の糧となるのか、
それが主眼ですから、まあこういっては語弊がありますが
作者の拵えた操り人形、、としての人間類型でもあるのです。
作者が作った架空の時代で
架空の都市で、、架空の背景で、
架空の人物たちが
しつらえられた人生経験をしながら
成長してゆく。
出てくる人物はみんな作者の空想・理念の産物です。
リアリズム小説ではありませんから。
例えば、ウイルヘルムマイスターの「ミニヨン」も「老竪琴弾き」もみんなゲーテが空想した架空の人物です。
さてそれでは、
ここで教養小説の金字塔、「ウイルヘルムマイスター」について詳しく見てゆきたいと思います。
ウイルヘルムマイスターの修行時代(第1部)1796年
ウイルヘルムマイスターの遍歴時代(第2部)1821年
ドイツロマン派の淵源は
ゲーテの「ウイルヘルムマイスターの修業時代」と
フランス革命、
そしてシューベルトの『自然科学の夜の側面』だといわれている。
この論拠はさるドイツロマン派の評論家の言だから、私は必ずしも納得しないが、
しかし一つだけ納得することは、
ウイルヘルムマイスターがドイツロマン派に与えた影響だ。
この小説がなかったら、おそらくドイツロマン派も成立しなかっただろう。
これはゲーテの独創ではなく、ドイツの偉大な先輩小説家グリンメルスハウゼンにも拠っていることは明白だろう。その「ジンプリチウスの冒険」(阿呆物語)(岩波文庫)は教養小説として偉大な先駆者だった。
さてしかしゲーテはさすがに、一面荒削りな、粗野な、諧謔的なストーリーテラーであるジンプリチウス(阿呆物語)を遥かに超えて、
主人公ウイルヘルムに近代的な内面性と精神性と心理を付与したのである。
ジンプリチウスは様々な事件に出くわして「困ったり」はするが、彼は「悩んだり」はしていません。
そこには近代的な悩める青年像などはないということです。
ゲーテはそれを昇華して近代的な心理を付与して
そして心理的発展性と成長性を基軸に、精神の発展小説という新ジャンルを確立したのである。
これを後世、ドイツ教養小説(ビルドウンクス・ロマン}と呼ぶ。
ゲーテはさらにルソーや当時の文学先進国で会ったイギリスの小説類も参考にしています。
事実ゲーテはルソーを愛読していたようです。
ここにストーリー性と心理描写と、ロマンの香り高い情調と、主人公の魂の成長を兼ね備えた
偉大な長編発展小説が誕生したのである。
それまでもこうした一人の主人公が冒険流転の生涯を送り様々な経験をするという小説は確かにあった。
「マリアンヌの生涯」1741年 マリボー作 仏
「トム・ジョーンズ」1749年 フィールディング作 英
「ジル・ブラース物語」1735年 ルサージュ作 仏
「モル・フランダース」1722年 ダニエル・デフォー作 英
「ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯」 作者不詳 スペイン など、幾つでもあった。
しかし決定的に違うのは、これらの主人公自身の精神的成長に何の変化もないことだった。
というか、主人公は世間の荒波にもまれてただ、悪賢くなっただけ、世間知を身につけただけであり。
精神的に成長したとか、心理的に円熟したとか、人生観世界観が変わったとか全くないのだった。深い精神性や心理描写も発展性も全くない。
むしろドイツ的な教養小説からは無関係ながらルソーの「エミール」とか「告白」の方がよっぽど発展小説としてビルドウンクス的ですよね。そして性的な自叙伝?としての「ムッシュー・ニコラ」とか、「カサノヴァ回想録」などのほうが教養小説的には合格点?でしょうね。
ただしこれらはあくまでも教養小説を書こうとして描いたのではなくて結果的にそうなった?ということでしょう
ゲーテは意識して発展小説を書こうとして描いてるわけですから、
それがゲーテの「ウイルヘルムマイスター」の偉大さとの決定的相違だろう。
さてこうして、「ウイルヘルムマイスター」第1部は当時のシュレーゲルやノヴァーリスに圧倒的な支持を持って
受け入れられたのだった。
彼らはその断章、「アテネウム」や「花粉」などで常にマイスターを論じかつ賛嘆した。
といっても彼らはそのロマン性だけを賛嘆したのであり、
一面的な熱狂でもあった。
したがって、マイスター第二部のような「空想から現実へ回帰」というのでは、彼らは見向きもしないであろう。
なぜなら第二部ではウイルヘルムは「塔の結社」に入って現実世界での社会奉仕が強調されたからである。実世界での実務、奉仕、共同、協力と、実業、友愛、、
これはロマン派の情調重視からは遠いものになってしまった。
対するゲーテもまた、『ロマン派は病的だ』として批判したのだった。
ウイルヘルムマイスター第2部はウイルヘルムたちが新大陸へ移住を決意することで終わっている。
空想から現実へ。無為から労働へ。それがゲーテの結論だった。
ロマン派たちが、すきなのはあくまで第1部である。ウイルヘルムの遍歴と彷徨。
演劇への情熱、
様々な人物との出会いと葛藤、そして初々しい恋、人生の不可思議や
謎の老竪琴弾きと不思議な少女ミニヨンが織り成すあのファンタジーワールドこそ本領だったのだ。だから第一部の結末は演劇の放棄ですからこの結末も非常に不評でした。
マイスターの前半部だけが彼らの称揚でした。
憧れと郷愁、そして、あえかな憧憬、まだ見ぬ国イタリアへの想い、
運命の転変にもてあそばれる薄倖の少女ミニヨン。(のちにオペラ、ミニヨンの原作となります)
そしてウイルヘルムへのほのかな愛に生きたミニヨンはその短い生涯を閉じる。
随所に抒情詩をさしはさみ、ロマン性を醸し出すその手法はのちのロマン派作家の模倣するところともなったのである。
こういう歌物語形式と、次々に挿話を積み重ねてゆくというストーリー運びも、また模倣された。お手本となったのである。
不可思議な謎の人物設定そして抒情詩を折々さしはさみ挿話を次々に積み重ねてゆく、
こうしたお膳立てはまさにロマン派の最も好むところだった。
それが第二部ではさあ、もう夢見ることはやめて手仕事で汗を流して働きましょう、というのではこれは、もうノヴァーリスなどは拒否反応だろう。
しかしこのウイルヘルムマイスターは以後絶大な影響をドイツ小説界に及ぼし続けたのである。
ジャンパウルの「巨人」1803年
ノヴァーリスの「ハインリッヒフォンオフターディンゲン」(青い花)1802年
ヘルダーリンの「ヒュペーリオン」1799年
ホフマンの「悪魔の霊液」1815年
アイヒェンドルフの「予感と現在」1815年
ケラーの「緑のハインリッヒ」
メーリケの「画家ノルテン」1832年
シュティフターの「晩夏」
ティークの「フランツシュテルンバルトの遍歴」1798年
ブレンターノの「ゴドヴィ」
などなど、みんな大なり小なり影響を受けている。
さてしかし、こうしたゲーテ的な教養小説は、後年、写実主義小説家からは
こう批判された。
「主人公は現実味もなく、作者のただの操り人形ではないか」とね。
確かに、、そうなのですが、
だが現実しか描かない、
ほんとにいた人物しか描かないというならそれは小説というよりは
ドキュメント、史伝、伝記でしょう。
作者の理念や空想はダメとなったら
これほどつまらない小説も無いでしょ?
市井の庶民のつまらない日常生活しか描けないまるでどっかの国の
「私小説」みたいですよね。
こんなのイヤですよ。
些末の日常生活のリアリティだけ、、って、
みじめで?暗くって?夢も希望もなくって、
最悪でしょ?
そうじゃなくって、もっと、
「空想の翼を広げて、、今日よりは、私の心よ
どこまでも虚空の彼方まで飛んで行け、」(ヘルダーリン)
小説の醍醐味って本来がこうですよね。
さて教養小説とは?
こうした内容の小説は世界中に似たようなものはあるがもっとも開花したのがドイツの近代小説群である。
ここでは幾つかを取り上げて特に其の結末について見て見たい。
ドイツ教養小説の代表といえばこの本、「ウイルヘルムマイスターの修行時代・遍歴時代」である。演劇を目指した芸術へのあこがれの青年がそれから次第に人生経験を積んで実業こそが人生の意味だと悟るという物語です。
この小説では主人公ウイルヘルムは最後に青春の迷妄やら、空想的な人生観を脱却して、一人の実務者として人生の諦念に至り、仲間とともに新天地アメリカ大陸へ移住するところで終わる。
いかにもゲーテらしい青春の幕引きでは有ろうか。
アイヒェンドルフの代表作、「予感と現在」(ahnunk und gegenbald)では、
主人公フリードリッヒは遍歴と人生経験を重ねて成長してゆくが
さてその時代背景とか登場人物はみんな架空であり、
実話?ではありません。
曖昧模糊とした雰囲気と、夢と現実らしき?が入り乱れて、
写実小説から見たら、まるで完全なおとぎ話です。
戦争も描かれますが。その戦争もまるで空想戦記?です。
また明らかにゲーテに影響された「男装の美少女」エルヴィンも登場しますし、
抒情詩もいっぱいあちりばめられています。詩のほうがメイン?かと思うほどいっぱいあります。
若いアイヒェンドルフがウイルヘルムマイスターの圧倒的な影響下にこの小説を捜索したことは明白です。
といってゲーテの真似だけで終わっていないのがさすがですがね。
描写も彼独自のものです。
そして最後、フリードリヒは
友人とも別れて、青春の狂乱を棚上げし、自分は一人森の中の修道院に
修道士として入っていくところで終わっている。
彼の仲間たちは新天地アメリカにわたろうと準備してフリードリッヒを誘ったのに、
彼はそれを断って静かな瞑想生活を選んだのである。
いかにも正統派ロマン主義者アイヒェンドルフらしい終わらせ方ではないだろうか?
いずれにしても夢見がちな青春はやがて終わる。
そうしてこの世知辛い現実の仲で、一人の生活者として汗水たらして生きていくしかないのである。
ケラーの『緑のハインリッヒ」では、
主人公は遍歴のはてに、ふるさとの小さな村に帰り、
そこで市長?になって、郷土のために尽くそうというところで終わっている。
若き日には画家になろうとしたハインリッヒは大都会での生活に疲れ果てて
故郷で現実のつましい暮らしに戻るのである。
ヘルダーリンの「ヒュペーリオン」hyperionでは、
いかにも古代ギリシャの熱狂的な崇拝者らしい、ヘルダーリンらしい結末となっている。
独逸を、彼は「乏しい国」という。芸術が咲き誇り、賢者たちが談論に花咲かせた古代ギリシャに比べて
独逸はあまりにも文化が乏しいからだ。
主人公ヒュペーリオンは祖国独立戦争に参加するも其の戦争の悲惨さに絶望し、あまつさえ最愛の理解者理想の女性、ディオティーマも亡くなってしまい、一切に失望した彼は、
故郷のギリシャに帰り、其の地で一人の隠者として自然のなかを、さまよいつつ日々を送るのである。
「阿呆物語」(ジンプリティシムス)では主人公のジンプリティシムスは独逸三十年戦争の修羅場を放浪しながら、辛酸を嘗め尽くして、人生のすいも甘いも嘗め尽くして悟るところがあり、インド洋の果ての絶海の孤島で、一人の隠者として静かに余生を送るのである。
ボルテールのアレゴリー小説「カンディード』も、フランス版教養小説であろうか?
カンディードも戦争や放浪の中で、世の辛酸を嘗め尽くして、
やがてトルコの、一寒村で、百姓になるところで終わっている。
議論を吹っかける師に対して、カンディードは言う。
「それよりも、とにかく、私たちの畑をまず耕しましょう」
それにしてもこの作品はまだどっちかといえば完全なるピカレスク小説の分類でしょうね
ヘルマンヘッセの「シッダルタ」では、
聖なる悟りを求めて、求道する、青年としてシッダルタを描いているが、
やがて年老い、さまざまな見聞のはてに、
追い果てた彼の目には涙がこぼれ、
安らぎとともに、
真言「オーム」を称えるところで終わっているのである。
ほとんどの、教養小説なるものが、多く、青春の終わりの頃で、筆をおき、その後の人生については暗示だけにとどめたのは、象徴的である。
たとえばアメリカ大陸に渡るというところでとどめたからといって、主人公はアメリカでもさまざまな苦労に逢うだろうし、悲惨な死を遂げると読者は想像することも可能である。
つまり言うまでもなく人生はそこでとどまることなく棺のふたを覆うまで続くのである。
現実はとてつもなく巨大で、青年らしい、ロマンは、やがて打ちのめされるのは必定であろう。
肉体は年とともに老いていくし、夢もかすんでいく。
青年は中年威杏里老いさらばえた老人になる。
やがては夢も希望もない、無味乾燥な中年男になってしっまうのが関の山だ。
それが大方の青年の辿る人生行路である。
画家になりたい。音楽家になりたい。そういう青春のビルドウンクスロマンであっても、
あるいは途方もない恋を夢見たり、
大冒険に憧れたり、
革命を叫んだり、
しかしやがて、それも自然崩壊して、
所帯じみた中年男が出来上がるわけである。
と、、そこまでも描くか?っていう話しですよね。
教養小説が、主人公の魂の成長過程を描くという趣旨であるならば、
誰だって青春の終わりによってある一定の魂の完成に達するわけですから
つまり大人の階段は、青春の終わりとともにそれなりの完成を見るわけでしょう。
だからそこまでの完成プロセスを描けばそれでOKでしょう。
そこから先は読者が類推すればいいだけのことだと思いますよ。
あの教養小説のお手本とさえいえるゲーテの
「ウイルヘルムマイスター」も
主人公が様々な経験と遍歴を経て、
空想から実務へ
演劇から実業へ
という展開と悟りを経て、
仲間とともに新大陸アメリカへ
いざ、これから渡ろうか、というところで幕を下ろしています。
アメリカにわたってもさまざまな々苦労や試練があるでしょう
がそれはどうぞ読者が類推くださいね、ということです。
さてこのようなドイツ教養小説の系譜としては。
その歴史をざっと前史から振り返ってみると、、。
古くは
ニーベルンゲンの歌 英雄伝説系
パルチバル
ジンプリチシムス(阿呆物語)グリンメルスハウゼン
メシアス クロップシュトック 史劇
ロマン派以降では
アルディンゲロと幸福の島 パウルハインゼ
ヴィルヘルムマイステルの修行時代
ファウスト
詩と真実 ゲーテ
青い花 ノヴァーリス
ヒュペーリオン ヘルダーリン
巨人 ジャンパウル
生意気盛り
フランツシュテルンバルトの遍歴 L,ティーク
ヴィリアム・ロベル氏の話
ゴドヴィ、ブレンターノ
ドロレス伯爵夫人 アヒムフォンアルニム
悪魔の霊液 ETAホフマン
予感と現在 アイヒェンドルフ
ビーダーマイヤー時代では
画家ノルテン メーリケ
晩夏 ナハトゾンメル vonシュティフター
農夫ウーリ ゴットヘルフ
天と地の間 ルートビッヒ
緑のハインリッヒ ケラー
写実主義時代以降では、
飢餓牧師 ラーベ
貸し方借り方 フライターク
ツアラツストラかく語りき。ニーチェ
マルテの手記 リルケ
ペーターカーメンチント ヘッセ
シッダルタ ヘッセ
デミアン ヘッセ
ブッデンブローク家の人々 トーマスマン
魔の山 同上
審判・城・アメリカ カフカの三部作
フェービアン ケストナー
特性のない男 ムージル
などなどとこのように連綿と続いているのである。
もっと言えば、わが日本の少女漫画もその路線ですよね?
その典型が「キャンディ・キャンディ」でしょう。
みなしごとして修道院の前に捨てられた女の子が、その後いろんな人と出会い
愛しまた憎み、経験を重ねて成長してゆく。
女の子の成長物語、、。
これってまさに「ビルドウンクスロマン」そのまんまでしょう。
このように教養小説の流れは連綿として現代にまで引き継がれているのですね。
まとめに代えて
あくまでも私の私見では、これまでの教養小説のベスト5は以下の通りです。
第1位 ウイルヘルムマイスター 修業時代・遍歴時代 ゲーテ作
これを超えるものはありません。完璧です。これからも、
これを超える作品は在りません。
第2位 予感と現在 アイヒェンドルフ作
これはほんとに正統派の教養小説のお手本みたいな作品です。
そういう意味で素晴らしい作品です、過不足がありません。
第3位 悪魔の霊液 ホフマン作
懊悩と求道。霊肉相克、人生の修業を完膚なきまでに描いた作品です。
完璧です。
第4位 青い花 ノヴァーリス作
これはゲーテに対抗してロマン主義の宣揚を宣言した作品です。
ポエムの勝利を宣言しているのです。それが実現するかしないか、そんなことは
もうどうでもいいのです。
第5位 ヒュペーリオン ヘルダーリン作
ギリシャの理想に燃える青年がたどる人生行路を詩的に描いているy作品です。
その理想と現実の相克は悲しくも美的です。
以上マイベスト5でした。
が、、、
ここに漏れた作品が全く、だめといってるわけではありませんので誤解のないように、
ここに挙げなかった作品もそれぞれみんな味わい深い作品ばかりですから、
ぜひ読んでご自分なりのマイベスト作品をみつけてくださいませ。