僕はサラブレッド
身内贔屓を差し引いても、僕の父親は社会人として素晴らしい功績をあげている。
一代で築き上げたIT企業は瞬く間に上場し、日本の経済の一端を担うまでにもなっている。父親の自由奔放な発想は次々に新しいアプリを開発し、人々の生活水準を一気に向上させる。ゲームのアプリを考えればそのゲームは馬鹿売れするし、パソコン用のウイルス対策ソフトを作れば、難攻不落と呼ばれるハッカー泣かせの要塞へと変貌する。
老若男女問わず人望は厚く、社会人としての父親を悪く言う人はいない。
そう、社会人としては――という前置きが必要なのだが。
何を隠そう――というにも、隠す気はほとんどないらしいのだが、僕の父親はいかんせん、下半身がとてつもなく緩い男らしい。
最初に僕が気が付いたのは幼少期。まだ、3歳辺りの頃だったと思う。
母親に連れられて街を歩いている時に、大通りを挟んだ向かい側の歩道に父親の姿を見掛けた。かなり綺麗で若い女性をその腕に侍らせて、こちらに気づかず歩いていく姿に純粋だった僕は母親に残酷な質問をした。
「あのひと、だぁれ?」
あの時の母親の表情が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
幼心に、この質問は母親を悲しませるものなのだと強く感じられずにはいられなかった。
母親は困ったような、悲しむような、少し目を伏せて微笑むだけで、明確な答えをくれなかった。
このころ、僕の中での母親のイメージが、不貞を働く横暴な父親に振り回される儚くか弱いものとなった。
それからというもの、周囲の大人たちが囁く言葉に耳を傾ければ、父親の傍らにいた女性がどういう存在かを嫌でも知る事になった。
――また別の女性と
――まったく……一体、何人の愛人を囲っているやら
――いつ隠し子が現れてもおかしくない状況だな
――奥様も咎めるどころか見て見ぬふりとは情けない
――素晴らしい功績をあげている方なのに、プライベートがあれでは……
そういう噂に対して、僕の耳に届いているということは確実に母親の耳にも届いているという事で。
むしろ、わざと聞こえるように噂する連中を僕は睨んだけれど、母親は一環してあの困ったような、悲しむような、それでも口元には穏やかで優しい笑みを浮かべて無言を貫き通す。
子供だった僕にとって、母親のそんな表情はたまったものではなかった。
妻である母親が反論しないのであれば、子供の僕がどうこう言うべきではないと思っている。第一、一度だけ好き勝手言う大人たちに言い返した事があったけれど、結局のところ父親が悪いので軽く言い返されて大泣きしたことがある。
自分からみても、父親はダメ夫でダメ父だ。
仕事と愛人にかまけて我が家を顧みることはなかったし、仕事だ出張だと嘘をついては愛人の元に通って朝方に帰宅する。
でろっでろに酔っぱらいながらも、他の女の匂いを漂わせる父親を、健気に介抱する母親が信じられない。
父親を馬鹿にされるのは仕方がないにしても、こんな父親に尽くしている母親を馬鹿にされるのが悔しくて悔しくて泣きわめいて母親に縋り付いた。
母親は僕を抱きしめながら「大丈夫。ホント、あの人は仕方のない人なの」と、本当に困ったように、今度は照れたように笑うだけで、僕は訳も分からず母親にあんな父親のどこがいいのか、泣いた勢いで聞いた。
すると母親は意外な返答をくれたのだ。
「あの人はね、仕方のない人なの。ああでもしていないと、駄目になってしまうのよ」
あれ以上、どう駄目になるのか教えて欲しかったけれど、母親はいたずらっ子のように微笑むだけで、あとは「内緒」と詳しい事を教えてはくれなかった。
どういう状況であれ、僕は母親と父親の子供であることは確かだったし、母親があの父親で良しとしている事を知って、子供の僕にはどうにもできない事も悟った。
周囲の意見に流されて離婚しないのが、何よりの証拠だと思いながら、僕は父親のようにはなるまいと反面教師として彼を確立し、そして穏やかで優しい母親の元で健やかに成長していったのだ。
◇◆◇
さて、ここで現状を把握した途端、ぶっ倒れるより先にすべての原因となった父親をどうやって殴るべきか検討しだしたのは仕方無い事なのかもしれない。
時は一時間ほど前にさかのぼる。
十七歳になった僕は、それなりに立派な高校生として成長した。
父親の容姿端麗な部分を受け継いだおかげもあって、僕は大層モテる男ではあったのだが、父親のようにはなりたくないという気持ちから、誰かとお付き合いしたことは一度もない状況に陥っていた。
童貞だと言われようが僕は僕の道を行く。
そりゃあちょっとは興味あるけれど、父親のような下半身事情にはなりたくないし、まだまだ責任が取れる年かと言われたらあんな父親でも保護者で、僕は彼の世話にはなりたくない。
まぁ、経済的には父親の世話にはなっているのだけれど、面倒なので表面上はちゃんと息子をしてあげている。
ということで、残念ながら年相応とは言い難い、ちょっと大人びた――というよりは、白けた少年へと成長した僕を見て、母親は「どうしてこうなっちゃったのかしら」と首を傾げているけれど、原因はアンタの旦那だよと声を大にして言いたいところをグッと我慢した。
母親を哀れだと思う事もあるけれど、なんだかんだと母親が父親の下半身事情を許容しているのであれば、ということもあって、僕がマザコン気質になることもなかった。
たぶん、そういうシラッとした性格が容姿に見合っていたのか、いつの間にか友人達の間では「クールな史人クン」になっていた。
どうでもいい。好きに呼んでくれ。「童貞の史人クン」じゃないだけマシだ。
……別に気にしてない。気にしてないっ!
まぁ、そんな僕が学校から帰宅すると、母親がいつものように出迎えてくれた。
経済的には不自由していない、むしろ高水準の環境で生活させてもらっているため、母親は専業主婦だ。
僕も大きくなったことだし、ハウスキーパーでも雇って、働きに出てもいいんじゃないかな? と一度提案したことがあるけれど、母親は「私が専業主婦をしているのは、なにも貴方の為だけじゃないのよ」とウフフと笑われた。
――え、もしかしなくて、ダメ親父の為?
あまり帰ってこない父親の為であれば、母親はどれだけ尽くし上戸なのか。考えるだけで怖いのでそれ以上の詮索はやめた。
そんな感じで高水準の生活とはいえ、他の一般家庭と何一つ変わらない親子のひと時を過ごしている時にそれは起こった。
母親の足元が急に光り出して、母親を包み込むように光の円柱が出来あがる。母親も驚いて目を見開いたものの、動いたのは僕の方が早くて、何事かと母親に手を伸ばした瞬間、僕と母親は眩い光に包まれて、こつ然とその場から姿を消してしまったのだ。
光が徐々に消えていき、チカチカする目をこすりながらも、しがみ付いた手の先に居るはずの母親に声をかけようと口を開いた時だった。
「この女が……あの方の伴侶ですか?」
二人しかいないはずの空間で第三者の声が飛び込んできた。
現状把握のためにあたりを見渡せば、白いローブを羽織った複数の人間が自分達二人を取り囲んでいる。そのうちの一人は、お姫様だと言わんばかりのドレスを身に纏っているが、残念ながら男の僕にそのドレスの素晴らしさを語る語彙力はない。ただ、淡いピンク色で胸元がざっくりと開いた、歌舞伎町に舞う夜の蝶たちの方がよほど品のあるドレスを着ているんじゃないかと思える感じの下品さはある。
まぁ、未成年の僕には歌舞伎町のドレス事情など、テレビでの情報でしか知らないのだけれど。
足元には青白い光がゆっくりと消えゆく魔方陣のようなものが書かれていて、四方は窓ひとつない冷たいレンガの壁にポツポツと光が灯っている。その光も蛍光灯のような明るさでもなければ、ろうそくのような暗さでもない、絶妙に調光されたうすぼんやりとした光の玉に見える。
ぱっと出てきた感想は、数年前に完結した長編ファンタジー映画のような世界だという安直なものだった。そして次に押し寄せてきたのは現実にはありえない現状への不安。
まさに自分が思っていたようなファンタジー映画に、そのまま放り込まれた気分になって、それも突然の事すぎて不安しか頭をよぎる事はない。
どこぞのテーマパークだって、アトラクションへ向かう道筋があり、胸を高鳴らせながら人ごみの中を分け入っていくという段取りを取ってくれるのに、まるで異世界に召喚された気分だ。
「間違いないでしょう。召喚条件は何度も確認しましたので」
あ、前言撤回。これ、本当に異世界に召喚されたパターンだわ。
下品なお姫様(という言い方もアレだが)の問いに応えたローブ姿の男を見ると、まるで品定めしているように僕の隣を見ている。そしてようやく僕は自分以外にも人が居る事に気が付いたのだ。
いくら高校生でも、周囲から大人びていると言われても、物事には限度というものがある。
落ち着こうと思っても、現状が未だに理解できていない僕ではこれが精一杯だ。動揺を隠しきれない僕がすることは、保護者である人にすがるような視線を送る事だけで。
「か、母さん……」
きっと母も同じ気持ちでいるに違いないのに、自分の事でいっぱいいっぱいになっていた僕は震える声で呼ぶ。
そして、少しだけ驚いた。
いつも儚げだと思っていた母は、僕の手をぎゅっと握りながらもこちらを見ずにスッとした視線を周囲の人物に向けていたのだ。
僕はこの顔を知っているな、とボンヤリ思った。
無鉄砲な父を気遣う儚げで悲しげに微笑む女性ではなく、僕という子供を守る母親の凛とした姿だ。
「母ですって……!?」
僕の言葉に反応したのはお姫様だった。
割り込んできた悲鳴にも似た大声に、思わずビクリと肩を揺らすも、繋がれた手は離されることなくギュッと握りしめられている。
そこでようやくお姫様らしき人物が僕の姿を観、そして品定めするかのように全身に気持ち悪い視線を投げかけたかと思えば、ねっとりとした笑みを浮かべて小さく首をかしげた。
「あら、あの方に似た息子なのね。ふふふ、いいわね、素敵よ」
気色悪さに、ぞくぞくと寒気が走った。
走り出したら止まらないというか、お姫様を取り巻く周囲がそんな言葉を聞いても平然として居られるのも気味が悪い。
掌が汗ばんで、文字通りパニックになっていながらも平静を取り繕っていると、僕を満足そうに見つめていたお姫様が急に真顔になって、次の瞬間には興味を失ったように僕と母から視線を逸らし「牢へ」と短く命令を下して遠ざかって行ったのだ――。
◇◆◇
現在進行形で僕の気持ちはパニック状態が続いている。
けれど冷静さも少しずつ取り戻して来ているが、自分と母親を監視する目が恐ろしくて、隣にいる母親に声をかける事すらままならない。
心臓は相変わらずバクバクいっているし、終始無言を貫く母親にも不安と脅威が入り混じっているしで、視線をせわしなくキョロキョロと動かすしかない。
挙動不審になっても仕方がないとわかっているものの、落ち着いて物事を整理して考え出した途端、自分の考えが果たして正しいのか、はたまたは母親と同じ夢でも見ているのではないかと、何度も頬を抓って確かめる。
頬の痛みから現実だとわかってはいるが、それよりよほど自分達が座り込んでいる牢床の冷たさの方が現実味を帯びているのかもしれない。
牢と言われたからてっきり薄暗い冷たい雰囲気の場所だと思っていたけれど、そこそこ明るさはある。が、想像していた通りというか、レンガの壁に囲まれ、鉄格子の向こうには甲冑を身に着けた兵士みたいな人が二人、こちらに睨みを利かせている。
兵士二人の間にはこの牢まで降りてきた長い階段が続く扉が、その口を閉ざした形であるのを知っている。
ここまでやってくる際、白いローブを被った男に「抵抗するならば容赦はしない」と言われただけでここまでやってきた。
物々しく、兵士が十人くらいで僕たち親子を囲んでここまでやってきたのだから、ある意味丁重な扱いをされたのだと思っている。
さて、ようやくここまできて自分の置かれた状況が見えてきた気がするが、疑問も同時進行で浮かんでくる。
一つ、ここは僕の住む世界とは違う異世界である可能性が非常に高い。が、僕たちを召喚した理由が分からない。
二つ、というより、僕が召喚されたというより、あの魔方陣は確実に母を召喚するためのものだった。僕は巻き込まれたというか、自分から巻き込まれに来た形でここにいる。
三つ、母を見てお姫様が「あの方の伴侶」と言ったので、間違いなく僕のクソ親父の事だと思われるが、お姫様とクソ親父の関係を知りたいとは思わない。
四つ……これが一番危惧している事なのだが……母親が一言も話さない。
ホント怖い。ホントに。
普段は本当におっとりした、物静かな人で、馬鹿みたいに声を上げて笑うところを見たこともなく、ふふふっと控え目に微笑む儚い人だ。
母親として息子の僕を叱る事もあるが、それでも怒鳴り散らすようなヒステリックな怒り方をする人ではないし、静かに語りかけるように諭して、そして悲しい顔を見せられる。それがどうしようも幼心に苦しくなって、自分が悪い事をしたと反省し謝罪すると、柔らかく抱きしめて許してくれる、本当に良妻賢母という四文字熟語は母の為にあるものだと、今日この時まで疑うことなどなかったのだが――。
「……ふぅ」
初めて聞こえた母の深いため息に、僕は小さくビクッと体を揺らしたものの、恐る恐る母の機嫌を伺うように見つめると、母は僕を見て小さく微笑んだ。
「ごめんなさいね。驚かせたわね」
それは明らかに込み上げてきたであろう自分の感情を押し込め、息子を気遣ういつもの母の笑い方だ。
「あ、いや……あの、だ、大丈夫?」
「ええ、大丈夫。貴方こそ平気?」
「うん。僕は大丈夫。あの……」
ようやく母と会話できることに、緊張が解れたものの、自分を睨みつける二人の兵士が気になってチラリと視線を向けたのだが、そんな僕の気持ちを理解してか、母は笑いながら言った。
「大丈夫よ。彼らは見張っているだけだもの。会話してはダメというのなら、さっきの時点で注意してくるわ」
そういうものなのか? と、疑問が思い浮かんだが、そんなものかと無理矢理納得して自分の考えを母にぶつけてみることにした。
「あのさ……母さん」
「なぁに?」
「……僕、今から変な事言うかもしれないし……その、でも今の状況だから信じてほしいって言うか……」
急に異世界かもしれないと話しだして、母親が僕を心配するのは困る。だからなんと伝えようかと前置きをダラダラと話しだしたところで、母親は困ったように微笑んで。
「ああ、まず私から言わせて頂戴」
「あ……え……?」
「史人を巻き込んでしまってごめんなさいね。私の落ち度だわ」
母の言葉の意味を理解できずに内心パニックになっていると、彼女は困ったように頬に手を当てて、まったく、と憤り始めた。
「あれだけ巻き込むなと言っていたのに、結局のところこういう結果になるんだから腹が立つわね。まぁ不可抗力と言うのかもしれないけれど、私を巻き込んだ時点でどう落とし前をつけてくれるのかほんっっとうに見ものだわ」
独り言のように――実際、独り言だったのだが、ぼやき始めた母が宇宙人のように思える。
彼女が何を言っているのか本当に意味が分からず、理解の範疇を越えていた。
まだブツブツと文句を口の中で転がしながらも、僕に向き直った母は改めて教えてくれた。
「今から言う事は無理にでも理解してちょうだいね。理解が無理なら、そういう設定だとでも思ってくれたらいいわ」
「えっ? えっ?」
「ここは地球とは違う別の世界――異世界ともいうべきところかしらね。に、私が召喚されたようなのだけれど、貴方を巻き添えにしてしまったわ」
自分の想像していた事を肯定されるだけには飽きたらず、母はまるでこの場所を知るかのような発言に開いた口がふさがらない。唖然とし続ける僕をよそに、母の説明は続く。
「最初に私たちが来た、召喚の間にいたお姫様(笑)は、たぶんお父さんの愛人の一人だと思うの。おおよそ、異世界にお父さんを引き留めたいお姫様(笑)が私を呼び寄せたっていうところかしら?」
「ちょっ、まっ、えっ!? 母さん!? 何言ってるの!?」
「史人、理解できなければそういう設定と――」
「そうじゃなくて! これお父さんのせいで合ってるの!?」
立てた板の上に水を流すかの如く、流暢に説明しだした母親の言葉をさえぎるのは骨が折れる。
むしろ(笑)まで丁寧に説明するのはどうかと思う。
それでも叫ぶように自分の疑問を投げかければ、とうとう今まで黙って観ていた兵士の一人が「煩いぞ!」と声を張り上げる。
本来の僕であればここで反射的に「すみませんっしたー!」と叫んで謝るところだが、肝が据わっている母親に似たのか、兵士の叫びを無視して母親を凝視する。
「母さんは、この状況が父さんのせいって思ってる……っていうか、父さんのせいだってわかってるってこと?! 異世界っていうわけのわからない状況も理解できてるって!?」
「あら? 貴方も理解できてるのね」
焦る僕の気持ちを差し置いて、母はのほほんとした口調で告げる。
高速で首を縦に振りながら「おおよそ母さんが説明してくれた事と同じことを考えていた」と言うと、「さすが私の息子ね」と嬉しそうに笑ったのだが。
「いや……だからって親同伴で異世界って、小説でさえ、とんでもな設定過ぎるし……あ、いや、母さんが召喚されたって事は子供同伴って事か……?」
「どっちかって言えば後者ね」
口に出しながら自分の中の情報を整理していると、母はうんうんと頷きながら正しい方を教えてくれる。
それからまた兵士が「おい! 煩いって言ったのが聞こえないのか!」と罵ってきた為、しばらく口を閉じて考え込んだ後、今度は普通の声量で母親に質問した。
「この状況は、母さん全部理解できてるって事?」
「ええ」
「えっと……この状況は、一応マズイことなんだよね?」
「そうね。一般的に見ればそうかもしれないわね」
「……僕達? 母さん? は、これからどうなるの?」
色々理解したいことはほかにもある。
けれど一番大事なのは、この後どうなるか、だ。
異世界に来たなんてとんでもない設定は物語のだけにしてほしい。
第一、勇者として召喚されましたという雰囲気でもなければ、むしろ速攻処刑してやるぜの雰囲気がビンビン感じられる異世界なんて長居したくない。
帰れるのかどうかも知りたければ、この後どうなっていくかの不安も膨らみ始め、縋る思いで母を見れば、彼女はあの儚げな雰囲気を一切纏わず、母親らしいキリリとした表情を見せた。
「今晩、鯖の味噌煮を作ろうと思ってたのよ」
「……うん」
なぜ今のタイミングで夕食の献立なのかはわからないが、こういう時の母には意味を問わずに辛抱強く話を聞くのが一番だ。
クズ父が唯一教えてくれた女性の扱い方は「女は話を聞いてほしい生き物だから、我慢強く聞け」である。
「史人、鯖の味噌煮好きよね?」
「……うん」
「早く帰らないと、鯖、痛んじゃうのよね」
「……うん」
「あとね、今日は通販で頼んだ品物も届く予定なのよ。不在通知って嫌いなの私」
「……う、ウン、ソウダネ……」
クズ父に今すぐ尋ねたい。
母の扱い方としてはこれが正解ですか? と。
「という事でね、帰りましょう?」
「……うん…………え!?」
ニッコリとほほ笑んだ母親はおもむろに立ち上がり、鉄格子の方へ近づくと兵士の二人を見つめる。
動揺する僕を横目にみた母親は、兵士に向き直り笑みを浮かべた。
「今から迎えが来ますので、そこの扉から離れてくださいね」
たおやかな、しかしながらあまり抑揚のない言葉遣いで母が兵士二人に告げれば、兵士二人は母の言葉を理解できずに鼻で笑いながら「何を……」と呟くも。
母はそんな二人を無視して、寂れた天井を見上げながら、少しだけ声を張って――。
「ノア、私はここよ」
そう呼びかけたのは、父の名前だった。
一瞬の静寂が駆け抜けたかと思えば、先ほどまで何の変哲もなかった鉄の扉が上部からドロリと溶け出す。
それに慄いたのは近場に居た兵士二人で、慌てて逃げ出すも扉は変形を止めない。
やがてそこにはぽっかりと穴があき、そこに立っていた人物に僕は驚いた。
地球ではなんの珍しくもない、少し高級めいたスーツを着こなした長身の男性。
少し赤みがかった茶色の髪と青い瞳は生れつきだと聞いている。
明らかに日本人ではないと知っているものの、その容姿はこちらの世界の方が馴染んでいる。
「……と、父さん?」
なぜここに、という呟きを発する間もなく、父はうつむいたまま鉄格子につかつか歩み寄り、母の目の前に立つと「どけ」と小さく告げる。
母はその命令口調に素直に従い少し後退すると、父は鉄格子に指先で触れ、途端に飴が溶けたようにドロリと鉄溜りをその場に生成した。
複数の鉄格子を溶かしたかと思えば、自分達が出るより先に入ってきたのは父だ。
ここに来るまで俯き加減で顔色が見えなかった父が、ようやく顔をあげたかと思えば、今にも泣きだしそうな表情で母親と対峙している。
「心配した」
そう言って母を掻き抱いた父は、心底ほっとしたように母の首筋で息を吐く。
母はそんな父を当たり前のように受け入れ、少し震える父親の背中をそっとなでて。
――感動のシーンなんだろうけれど、両親のラブシーンは思いの外キツイ、という事だけは伝えておきたい。
そうして父を慰めているうちに、遠くから足音が複数聞こえてくる事に気が付いた僕は、思わず立ち上がって二人きりでロマンチックに浸っているだろう両親を現実に引き戻した。
「再会を喜んでるところ申し訳ないけど! 誰か来る!」
僕が叫べば、父も母もハッとした顔をしたのだが、父は母から離れる事なく僕を見ると「何だ、お前もいたのか」と今更な事を言う。
「今更!」
とりあえず声にだして抗議すると、母は自分に抱き付いたままの父から距離をとり、僕に振り返った。
「大丈夫よ」
母が大丈夫というのなら大丈夫なのだろうが、一抹の不安はまだ消えない。
自分が動揺しているより遥かに早く、足音の集団はここへやってきてしまったのだ。
「ノア様!」
先ほど召喚の間とやらで出会ったお姫様(笑)が、ぞろぞろと兵士やら魔導師っぽい人達を引き連れてやって来て。
父を見つけた途端、ぱぁっと表情を明るくしたので、もうお姫様(笑)と呼ぶ事にする。
母の腰に手を回したまま離れない父に、お姫様(笑)は悪びれる様子もなく歩み寄ってくる。
「こちらにいらっしゃったのであれば、ちゃんとお迎えしましたのに」
頬を赤く染めながら、僕と母の事など目に入っていない様子のまま話すお姫様(笑)。
正直、そこまで神経図太いのもなかなかだと言いたくなるのだが、あいにく僕はそこまで愚かになれる自信はない。
何度も言うけど僕の父親はクズだ。
女にはだらしないし、家にもろくに帰ってこない。
けれども仕事では鬼と呼ばれているし、自分に害だと思った連中には、身内でもドン引く対応をして見せる。
今の僕からは父の背中しか見えないし、決して見習いたくも追いかけたくもない背中だけれど、危うきには近寄らず――そういう背中をしている。
空気が読める子に育ててくれた母に感謝するしかない。
「これは……どういうことだ?」
父親の静かな声が響いた。
ただそれだけなのに、空気が一気に冷える。
警戒していた兵士たちも、表情を凍らせ、身動き一つ取れない状況になっている。
お姫様(笑)さえも、歩みをピタリと止めて、あれほど歪な愛情表現をしておきながら、顔面蒼白になって父を見つめている。
「あ……の……ノア、さま」
絞り出すような声でお姫様(笑)が声を掛ければ、父は静かに彼女を見て――けれど、父は視線だけで彼女が続ける可能性がある言葉を射殺した。
そんな身の毛もよだつ、むしろ誰の得にもならない空間を作り出してから数秒後、すでに溶けて原型の無い扉の向こうからまた複数の足音が聞こえてきた。
その音に少しだけ張り詰めた空気が緩んだところで、第二陣が登場だ。
「クリスティーナ!」
そう叫んで入ってきたのは立派な口髭をはやした五十代くらいの男性だ。
その男性を先頭に、入りきれないほどの兵士たちが背後に並んでいる。口髭の男性は妙に立派な装いをしており、お姫様(笑)に向かってズカズカと大股で歩み寄れば、固まる彼女の頬を勢いよく平手打ちした。
ビックリするほどいい音を響かせた彼女は、頬を打たれた衝撃であろうことか僕の方に吹っ飛んできた。
思わず避けると、冷たい牢の床にベチャッと倒れ込む。
女の子が吹っ飛んできたなら受け止めろと思われるかもしれないが、彼女は僕達を牢に放り込んだ張本人だ。
実際、振り返った母親がさりげなく親指を立てて、SNSの如く「いいね!」としてくれたので、たぶん正しい判断だ。
複数の兵士が「姫様!」やら「クリスティーナ様!」と叫んで彼女の元に歩み寄ろうとしていたのだが、彼女の頬を打った男が「黙れ!」と粛清する。
甲冑を来た連中が、揃いも揃ってピタリと動きを止めたのは圧巻だ。
というか、お姫様(笑)はクリスティーナという名前らしい。
覚えるつもりは毛頭ない。
とりあえず、彼女の意識も吹っ飛んでいるらしく、近くにいて目を覚まされては怖いので、両親の間近まで歩み寄れば、口髭の男性は地面に這いつくばって土下座をして見せた。
「大変……っ! たいっっへんもうしわけございませんっ!!」
本当に申し訳なさそうに謝罪を繰り返す口髭の男性に、周囲の兵士たちに動揺が広がっていく。
「お、王!」
「なぜこのようなものに頭を下げられるのですか!」
「おやめください!」
……わぁ、王様の土下座だったんだぁ。
異世界にまでやってきたのだ、王様の土下座ではもう驚かない。
周囲に咎められても土下座を辞めない王様だったが、あまりに父や母を見下す発言を繰り返す兵士たちに怒りを覚えたのか、立ち上がって兵士たちに怒鳴り散らした。
「馬鹿者!! お前達は、それでもこの国の民か!! このお方をどなたと心得る!!」
「……水戸黄門?」
王様の口上に思わずボケが出てしまった。
「お黙り、うっかり八兵衛」
「ゴメンナサイ」
母のそういうノリがいいところ、嫌いじゃないです。
そんな親子漫才を繰り広げた後、王様は僕にも父親の正体を教えてくれた。
「このお方は、二千三百年前にこの世界を魔王からお守りくださった、初代勇者であり、我が国が崇拝する神ノア・シリウス様だ!」
「えぇええええええぇぇぇぇっっ!?!?!?!」
あ、やべ。
叫んだの、僕だけだ。
◇◆◇
今日一日ものすっごい疲れた。
あの後、兵士たちが父の周囲で平伏し、どうにか混乱する状況をおさめてもらい、父は王様にその後を丸投げして、母と僕の手を掴むと次の瞬間にはあっさりと我が家に帰ってきた。
目を白黒させている僕を横目に、母は「あ、夕飯の準備しなきゃ」と、何事もなかったかのように夕飯の支度を始めるし、父はそんな母に面白いくらいべったりとくっついたまま、会社に電話してしばらく会社休むから一週間くらいのスケジュールキャンセル、という暴君みたいなことを言い出した。
母そんな父を叱るどころか居ないものと放置し、僕に振り返って「とりあえずお風呂入って来なさい」と日常的な事を言い出す。
動揺しつつも、言う事を聞いておいた方が無難だろうと素直に風呂に浸かり、あがるころには珍しく三人で夕飯を食べる事になった。
父親が居る夕飯など珍しく、だからといって会話が弾むこともなく、結構気まずいながらも食事を終えれば、意外と自分はごはんが食べられる程度には神経が図太いのだと自身で飽きれる。
全ての片づけが終わったところで、ようやく今回の全貌を知らされる事になったのだが。
「えっと……整理させてね。今から二十三年前――向こうの世界で言えば二千三百年前? に、母さんが聖女としてあっちの世界に呼ばれた?」
「そう」
「で、父さんは、向こうの世界で選出されていた勇者様?」
「そうよ」
「その他の仲間と一緒に魔王を倒したまではよかったけど、母さんが力尽きて永い眠りについた、と?」
「ええ」
「で、地球に帰りたがっていた母さんの為に、父さんは母さんが眠っている間にこっちにくる方法を探して、こっちで生活をしていた……ってこと?」
「そうね。会社を立ち上げたのもその頃だったかしら?」
母親が確認するように父親を見ると、父は「ああ」とかなり短い返事をする。
アメリカ人とか適当な事を言っていた父が、実は異世界人だったというのもビックリだ。
自分がハーフであるという認識はあったけれど、まさか地球人と異世界人のハーフとは思うまい。
こちらの戸籍とかお役所的な事はどうしたのかっていうのは、笑顔で誤魔化された。
が、一応、父が婿養子で入っている形であることだけは知っているので、最終的にはそういうことだ。
父と僕が名乗っている名字も母の名字だし。
「で……なんやかんやと目を覚ました母さんを連れてくるときにも一悶着あって? それを機会に向こうでは父さんだけじゃなく母さんも神格化されて……? こっちの世界に戻ってきたのが十七年前……僕が生まれたから?」
「あら、そこはちゃんとこっちに帰ってきて結婚してから貴方を授かったのよ。順番は間違えてはないわ」
「あ、そう……」
そうよね? と確認するように父を見た母に対し、父は艶っぽい瞳を向けながら「そうだね」と優しい声色で返事をする。
さらっと言ってるけど、すごい怖い。
何が怖いって、例え異世界でも神格化されるようなことしちゃってる人間が両親だって事だ。
「……さっきから思っていたけど、父さん……すっごく気持ち悪い」
「……父親に気持ち悪いとは失礼だな」
ようやく文章での返事に安堵したらいいのかは分からないが、異世界にいったことよりも動揺していることが僕にはある。
さきほどから僕と母親、二人だけで会話しているようにも思えるのだが、当然この場に父もいる。
が、父が居る場所が問題で、座る母を後ろから抱きしめ、実の息子の前であろうが平然と母親の首筋にチュッチュと唇を這わしている。
ほんと、目の毒だからやめてほしい。
他人ならガン見するけれど、身内と思うと居た堪れない。
やめて、童貞には毒過ぎるよ。
……童貞は関係ないだろ! 自分で言っててむなしい自覚あるっ!
あと、僕に対する態度と母に対する態度の温度差と言ったら。
「……父さん、熱でもあるの?」
母さんにベタベタするとか怖すぎる。
愛人はどうしたんだよ愛人は。
僕の心配とは裏腹に、父は母をギュッと抱きしめながら当たり前のように言う。
「父さんはいつだって母さんにお熱だ」
「……母さん、父さん病気みたい……心療内科?」
「落ち着きなさい史人。貴方には見せたことないけれど、お父さんはこれが普通なのよ」
「えっ!?」
曰く、父は昔から(異世界に居た時から)母に執着するほど母ラブで。
曰く、母が眠りについても(実際は父がウザかったし、当時帰る方法が分からなかったので保身で眠りについた)父は諦めきれず、地球へ帰る方法や年月が経ってもちゃんと帰れる場所を用意するくらい愛しちゃっていて。
曰く、地球に帰る事を条件に父は母に脅迫という名の結婚を迫り、帰りたかった母はそれを承諾。が、愛しすぎて母にウザがられてショックを受け。
曰く、僕が生まれるともっと父が蔑ろにされ、拗ねた父が「構ってくれなきゃ浮気してやる!」「どうぞどうぞ」という流れがあったらしく。
つまり、よそで子供だけは作るな。それを守れば好きにしてくれ。という、今まで歴代の愛人はすべて母親公認だったわけで。
捻くれた父は母が嫉妬どころか、どんどん無関心になって行く事にますます浮気を繰り返し。
挙句の果てには異世界のお姫様(笑)にまで手を出した結果、今回の異世界への誘拐事件につながるわけで。
と、ここまで説明した母がおもむろに立ち上がると、急に愛情を向ける相手が腕の中からいなくなった事に父は不満そうに母を見上げるも。
母はニッコリと微笑んで父に刑の執行を下した。
「愛人は何人作ってもよいし、貴方が帰って来たい時にいつでも私はここにいますと言いました。貴方がどうしようもなく不器用な事は知っているもの。けれどお約束の一つとして、決して愛人を私に近づけない、私に迷惑を掛けないといいうものがあったの、覚えていらして? ええ、覚えていないとは言いませんよ。貴方はちゃんと約束を守って節度ある愛人関係を結んでいらっしゃったもの」
「節度ある愛人関係って……」
愛人関係の時点で節度なんてない。
しかし、歪すぎる両親の関係を目の当たりにして口を挟むことなんて出来やしなくて。
蛇に睨まれた蛙の如く、体を硬直させて顔面蒼白させた父は「あぅあぅ……」と情けない声をあげたものの、母は容赦なく切り捨てた。
「一週間お仕事休まれたそうね? そうね、では一週間……今から私に指一本触れるなゲスノア」
やばい、怖いどころかちょっとチビった。
母がこれほどまでに怒りをあらわにしているところはなかなか見ない。
死刑執行の鎌を振り下ろされた父は固まったまま、濁流のように涙を流し始めるも、母は情を残さず無視して僕の方に歩み寄る。
「さぁ、今から美和ちゃんのところに遊びに行くけれど、史人も一緒にどうかしら?」
美和ちゃん、とは母の昔からの知り合いで、僕もお世話になっている女性だ。
実際、母とそれほど年齢は変わらないらしいのだが、美和ちゃんは僕を実の子のようにかわいがってくれる。
未だ独身にしてはもったいないくらい可愛らしい人だ。
ふらふらと近寄ろうとする父を、視線で諌める母を目の当たりにし、この腑抜けた父の元に置いて行かれるのは不安だった僕は、二つ返事で頷いて。
「じゃあ準備してらっしゃい。美和ちゃんのところで、貴方にもう一つの話を聞かせてあげる」
「え? 何?」
「美和ちゃんが私と聖女対決した話、どう?」
「なにそれ! 詳しく!」
異世界がどうなったとか気になる事は色々あるけれど、どうやら儚げだと思っていた母は意外と強かで、クズだと思っていた父は歪な形ではあるが一途であったらしい。
そんな二人の間に生まれた僕は、結局のところとんでもないサラブレッドだったようで。
その後――美和ちゃんも異世界に行って、乙女ゲームの如くイケメン達を虜にしていたとか。
何がどうなってか、今度は僕がまた異世界に呼ばれちゃうとか。
まぁ色々あったけれど、それは次の機会ってことで――。
実は美和ちゃんとお母さんの話が先にあっての、このお話でしたが、なぜかこっちが先に仕上がりました。
気が向けばそっちのお話も書きたいなと思ってます。