ぼくのすきなひと
ぼくは見ている。
いつもこの場所から。
家の玄関から出てすぐ目の前にある小さな石階段のいちばん上の定位置。
ひんやりと冷たいコンクリートがいつだって心地いい。
そこから空を見上げると見える、まあるい光。
これを眺めているのが好きなんだ。
あの人の帰りを待ちながら。
「2013年冬」
〜〜♪♪♪
朝から遠くのほうで聞き覚えのある音楽が聞こえてきて僕は片目をあける。
やれやれ。彼女をおこさないと。
僕は包まっていた温かな毛布の中からスルリと抜け出し、ぐーーっと手足を伸ばして廊下に出る。
ぼくが歩くだけでもギシギシっと響くこの家の木製の廊下はとても冷たい。
肉球がヒヤッ!っとして毛が逆立つのがわかった。
あの人の部屋は狭い廊下の突き当たり。
ドア前にたどり着くと僕は得意のつま先立ちをして、二本足で立ち限界まで手を伸ばす。
正確性はないが、数打ちゃあたる戦法でこうしてむやみやたらに手を伸ばしていると、何回かまあるいドアノブに手が当たってクルっとノブが回る。
それと同時に思いっきりドアに体重をあずけるんだ。
『ガチャ』
我ながらお手の物だ。
へへん。僕はいますぐにでもテレビのおもしろペット大賞に入賞できると思っている。
ゴロゴロと喉を鳴らして隙間からスルリと中に入る。
どうやら爆音のアラームを止めた状態でもう一度眠ってしまったその人は、スヤスヤと寝息をたてて携帯を握りしめながらうつ伏せでねていた。
ベッドの上にある小窓のブラインドから少し差し込んだ光が、その人の長い髪に反射してキラキラと、栗色に光っている。
ピョコンッ!とベッドの上に飛び乗り、枕のうえに広がるその柔らかい髪の毛に鼻を近づける。
ふんわりと優しいシャンプーの香りがする。
ぼくの大好きなにおい。
スヤスヤと眠るその寝息のリズムと、ふかふかの毛布の上からでも伝わるそのぬくもりが心地よくて温かくてなんだかこのまま眠りたくなってしまう。
だめだ!このまま一緒に寝てしまったことが何回あることか。
その後の朝のドタバタした光景を思い出して、げんなりしながらペロリと舌を出す。
誘惑になんとか打ち勝って、ぼくは耳元に手を伸ばしその人をトントンとしてみる。
『ミャオミャオミャーーオ!』
《起きろ、起きてよ、起きろー!》
顔や体を擦り付けてみたり、ちょっぴり耳たぶに爪を立ててみたり。上に乗ってみたりして一生懸命合図しているとようやく
『んん〜〜。。。』と声を出してゆっくりとその人は起き上がった。
ボサボサの頭をかき上げながら、慣れた手つきでひょいっとぼくを自分の顔の前まで抱き上げる。
眠そうな瞼でにっこり微笑んでぼくの顔を覗き込む。
『おはよう、サブロー』
おはよう、ユリちゃん。
今日も、だいすきだよ。
「ユリちゃん」
ぼくがユリちゃんに初めて会ったのは、、、
多分生まれた時からかな。
「サブローはね、生まれたときからちょっとドジで、容量がわるくて、いつもどこか心細そうで、ほっとけなくて、わたしはサブローを守るお母さんになろうって思ったんだよ」
ユリちゃんはそう言ってよくぼくを撫でてくれた。
それから、ユリちゃんが中学2年生の時学校の帰り道にお母さんを拾って育ててきたこと。
お母さんは街でも一番の美人な猫で、毎日のようにいろんな猫が家に求愛にきたこと、
そして、白くて気高いその一帯のボス猫を旦那さんに選んだこと。そしてぼくを授かったこと。
だけどぼくの母さんは心臓が弱くて、ぼくを産んだあとすぐに亡くなってしまったこと。
ぼくには一緒に生まれた兄弟がいて、その兄弟は知り合いにもらわれて行ったこと、を話してくれた。
正直いって子供の頃ってなんにも記憶がなくて、どれもピンとこなかった。
当たり前のようにぼくの目の前にはユリちゃがいてくれたから、お母さんがいなくても兄弟がいなくても寂しいと思ったことはなかった。
ユリちゃんはお母さんと、ふたり暮らし。(あ、ぼくもいれて三人暮らし!)
歳は、24さい。【えすててぃしゃん】とかいうお仕事をしているんだって。
朝はとっても早く出て、夜はとっても遅く帰って来る。
いつも仕事から帰ってきたユリちゃんは、なんかボロボロで、力を使い果たしてきた感じ。
今日も玄関をあけたユリちゃんを見上げると、ストッキングが電線してて、朝あんなにきれいに整えて出たはずの髪も乱れててて、入念に塗ってたマスカラがほとんど目の下に落ちて、真っ黒パンダ目だ。
【えすててぃしゃん】ってそんなに大変なものなんだなぁ。
玄関に出迎えに行ったぼくをみてユリちゃんは少しホッとしたような顔をして、ニコッと笑って抱きしめた。
一日かけて毛づくろいした自慢の毛並みがぐしゃぐしゃになるほどぼくを撫で回して、顔を近づけて頬ずりする。
それをされるとファンデーションとゆうやつがついて、真っ白なぼくの体がオレンジ色になっちゃうんだけどなぁ。。。とか複雑に思いを馳せながらも、そのユリちゃんの愛情表現が嬉しくて、ゴロゴロと喉を鳴らす。
そしてユリちゃんは必ずお風呂に入って倒れこむように眠り、またいつものように朝はやく出て行くんだ。
「ユリちゃんの家族」
ユリちゃんの家族はね、お母さんともう1人お父さんもいたんだよ。
ぼくが物心ついたときからユリちゃんはお父さんとよく喧嘩をしていて、ぼくは怒ってばかりのお父さんが怖くてユリちゃんのうしろにいつも隠れてた。
お父さんはユリちゃんにとても厳しかった。
女がそこまでボロボロになるまで働く必要があるのか、仕事ばかりせずにはやく結婚しろ、
ユリちゃんは、喧嘩のあといつも1人で部屋で泣いていた。膝を抱えて、声を押し殺して。
きっと、泣いてることお父さんやお母さんに知られたくなかったんだよね。
ぼくはそばにいって、涙で濡れたユリちゃんの手の甲をペロリと舐めた。
しょっぱくて、なんだか苦い味がしたよ。
そんな時はユリちゃんは泣き疲れてぼくを抱きしめたまま眠った。
泣かないで、ぼくがずっとそばにいてあげるよ。
ある日から、ユリちゃんみたいに毎朝お仕事に出かけて行くはずなのに、お父さんだけ出かけずに毎日毎日お家にいるようになった。
お父さんのことはちょっぴり怖いぼくだから、普段あまり近づかないようにしているんだけれども、さすがに気になってリビングの入り口からじーっと観察してみた。
ソファーに座って、足をオットマンに放り出してゴルフ中継を見ながらスルメを食べているお父さん。
ユリちゃんはあんなに【えすててぃしゃん】を頑張っているのに、一体なんなんだ?!この人は。
ぼくの恨みがましい視線に気付いたのか、お父さんがパッ!と振り返った。
『なんだチビ助!いたのか!』
お父さんはぼくをいつまでもチビ助と呼ぶ。ぼくにはサブローという名前があるのもおかまいなし。
子供のころ体が小さかったからチビ助。
なんとも勝手な独自のネーミングで呼びつけてくる。
お父さんは自分の食べていたスルメを割いて、ぼくの方に差し出した。
『食べてみるか?』
ぼくはそのスルメというものに興味があった。なぜならユリちゃんもよくビールという飲み物を飲みながら、それを食べているから。ちょっとほろ酔いになってご機嫌な声で
『ビールにはやっぱりスルメだよ、サブロー』なんて話していたのも聞いているから。
ユリちゃんを泣かせるこやつから、何かを恵んでもらうのはちょいと不本意だけど、まぁ、ちょっと味見でもしてやるか。
トコトコトコとお父さんのいるソファーに近づく。
あと一歩、スルメにありつける瞬間にお父さんはぼくの体をヒョイっと抱き上げて自分のお腹の上に乗せた。
『ニャーニャニャー!』
《おい、騙したな!卑怯だぞ!》
ぼくは抗議してその体の上からスルリと降りようとする。
『ちょっと待て!待て!お前に話しておきたいことがあるんだよ!』
お父さんは僕の両肩を抑えて顔をまっすぐ見て、それから落ち着いた声で話し出した。
『ユリはお前に、随分助けられているみたいだな。
俺はあいつを怒らせるようなことばかり言ってしまうけどな。。。
あいつは仕事ばかりして、大切なことを見失ってる。春には桜が咲いて、秋には葉っぱが色づいて、夏には新緑がまぶしくて、そんなその時その時にしか感じられない、生きているうえでのささやかな喜びを俺は感じてほしいんだよ。俺は今まで気づけなかったから。』
お父さんはどこか寂しそうだった。
そして、怖いと思っていたお父さんのぼくの肩に置いた手はとてもあたたかったんだ。
「2014年春」
それから冬が終わり、春が来た。
相変わらずユリちゃんを朝はやく起こし、見送って一日毛づくろいなどして過ごす日が続いた。
お父さんは相変わらず仕事には行かず、家にいた。
あの日以来、お父さんはぼくに優しくて、ユリちゃんやお母さんは絶対与えてくれない人間のお菓子やおつまみをコッソリ分けてくれたりした。
時々、お父さんがお腹をさすっては苦しそうにしている姿をみた。
だけど、お母さんやユリちゃんが帰ってくると、不思議と何もなかったように過ごしているので、ぼくもそう気には止めていなかった。
そんなある日の朝、バターンとトイレから音がして見に行ってみるとお父さんが倒れていた。
苦しそうにお腹を抱えてうずくまっている。ちらりと見えたお父さんの横顔は真っ青ですごい汗の量だ。
駆けつけたお母さんは悲鳴のような声をあげて、どこかへ電話し始めた。出勤準備をしていたユリちゃんがかけつけ、苦しむお父さんに近づけず動けなくなっている。
どうやら状況がよく飲み込めていないらしい。ただ、立ちすくんで、青ざめて体は小刻みに震えている。
「お父さん!おとうさぁぁん!!!」
お母さんがお父さんに覆いかぶさるようにして泣き喚いている。
それからサイレンの音とともに白い車がきて、お父さんはどこかに運ばれていった。
その日はユリちゃんも、お母さんも戻ってこなかった。