セイドリック
貴方は、誰。
ただ漠然とした、けれど一刻も早く核心を突きたい衝動に駆られた。ねぇセイでしょう。私が愛した、私を愛してくれたセイでしょう。私に私をくれたセイでしょう?
今自分が口に出した言葉が信じられないのか目を見開いている殿下。どこからどう見てもセイ以外には見えなくなってしまったその姿で、貴方は自分はセイではないと否定するのだ。
「……何故、俺は…」
セイと同じ姿をしている、だからセイだ。セイとは姿が違う、だけどセイだ。私はセイと同じ姿を求めているのか、それとも同じ魂を求めているのか。分からないけど、でも同じ姿だけの殿下に縋れないということは後者なのかもしれない。セイにもう一度笑いかけてほしいのに、名前を呼んだら笑顔で「ん?なーに?」って尋ねてほしいのに。殿下にそれを求めることは出来ない。
でもセイではなくてもセイが何か関わりがあることは確かなんだ。もう一度同じ姿で、同じ声で、セイは存在してくれるのだろうか。一度失ったセイが目の前にいるのに別人である事実はこれでもかと言うほど私の胸を締め付けた。
きっと殿下も混乱している。自分に影を落とすセイの存在に混乱している。自分じゃない誰かが自分を乗っ取る状況に怯えている。早くセイになってしまえばいいのに。私はそんな非道なことすら思うのに、セイと同じ顔の殿下に傷ついた顔をして欲しくなくて口を開けなかった。悪逆非道になるだけでセイが戻って来るなら何だってする。聖女にだって成り代わるし、悪の王となれと言えば喜んでなる。でもセイの傷ついた顔だけは見れないのだ。それだけがどうしても私は無理なのだ。
本当にもどかしい。セイはいるかもしれないのに。また会えるかもしれないのに。でもあくまで可能性だ。ちゃりんと鳴った二つの指輪に殿下はとても悲しそうな顔をする。
その顔を見て私は涙を流すしかできない。
ねぇセイ。セイ。
私はどうすればいいの?突然いなくなったお詫びに答えを教えてほしい。もう会えないなら殿下に同じ顔を与えないでほしかった。セイじゃないなら意味がない。でも意味はなくてもどうしようもない程辛くなってしまう。もう会えなかったセイが目の前にいるようで、セイじゃなくてもセイを演じてくれればなんてことさえ思う。
「俺は、誰だ?」
貴方はセイだよ。
貴方はセイドリックよ。
私には二つの答えがある。でも選ぶことは出来なかった。きっとこれは0か1かの問題なんだ。間を取って、何てことをすれば今の殿下みたいに自分を見失ってしまうのだろう。
セイと同じ温もりに縋りついて、セイと同じ胸に抱きしめられたい衝動を抑えて零れ落ちる涙をいい加減に拭き取った。一度与えられたセイの記憶の中と同じ温もりは、まるで中毒性があるかのように酷く魅惑的で甘いモノだった。
この壊れた心はまたセイに抱き付けば癒えるのだろうか。セイと会話を交わせば言えるのだろうか。殿下をセイとみなして接すれば私はまた幸せになれるのだろうか。
きっとここで私がセイだと言えば殿下はセイになってくれる気がする。もう一度セイと会える。そう分かってるのに口が鉛のように重くて言葉が出せない。殿下何て、異世界の人間だなんてどうでもいい。その姿さえしていなければどうでもいい。だから言うのよ、私。ねぇ。簡単よ。またセイに会えるのよ。勝手に死んだ文句も言える。ずっと家に一人でいて寂しかった辛かったって不満も言える。また沢山愛してと伝えられる。
震える手のせいでもう一度小さな指輪がぶつかる金属音が響いた。
「俺は……」
けれどその小さな音のせいで、殿下が何か覚悟を決めたような顔をしたのが分かった。その顔を見て私は思わず血の気が引く。
ダメ、そんな表情お願いだからしないで。
さっきは重たく閉ざされていた唇が簡単に開き、金縛りにあっていたかのように固まっていた体が自然と動いた。
私は勢いよく殿下の胸に飛び込んだ。
「お願いっ、お願いしますセイドリック殿下っ!私から…私からもう、セイを奪わないで____」
そして私は一番最低な願い事をしていまったのだ。
悲痛に染まった叫び声のような嘆願は嫌なほどこの部屋に響いた。セイの胸に縋りついてなく私を、震える手で殿下が抱き寄せる。
分かっている。これはダメだと。一番最低なことをしていると。
それでもセイの腕は暖かくて、懐かしくて、言いようのない悲しみと幸せが込み上げてきた。セイがいなくなるのはやっぱり我慢できなかった。偽善を振りかざして殿下のセイドリックとしての存在をちゃんと考えたつもりになっていても、結局私はセイ以外を選ぶことは出来ない。
「俺の名前を呼んでくれ」
だからセイが私の元にいるなら。セイと共に過ごすことができるなら。
「________セイドリック」
私はこの命さえもう惜しむことはない。
「セイ」
殿下、貴方はセイドリックです。けれど_____貴方は私の前でセイを演じるのです。私が貴方の名前を呼び続けるから。自分が誰だか分からなくなって不安に堕ちてしまいそうなら、その度に私が貴方に手を差し伸べましょう。貴方が私にセイとして手を差し伸べることを代償にして。
これが悪魔の契約と言うのなら喜んで契りましょう。
「……もう離れないで、セイ」
私は幸せよ、セイ。
* * *
幼い頃から見続けてきた夢がある。毎日見ているわけではない。悪夢だというわけでもない。ただその夢を見て起きた俺はどうしようもない程胸が苦しくなり、情けない話だが涙を流しながら起きるのだ。
そしてその胸の痛みを忘れたころにまた同じ夢を見る。
どこかのバルコニーのような場所に俺は立っていて、ただ満点と言うにはあまりにも少なくて、全く星がないと言えばそうでもない。そんな中途半端でどこでも見れそうな星空をただ見つめているのだ。
俺はもっと綺麗な星空ぐらい知っている。けれど夢に見るのはその中途半端な星空だった。そして星をただ眺めている時、ふと隣に誰かがいる。誰かは分からないし顔も見れない。でも誰かがいる。それは嫌な存在ではなく、心底愛おしいと夢の中の俺は感じているのだ。そしてその誰かは俺を「セイ」と呼ぶ。ただその二文字だ。その言葉に俺は微笑み返して、また空を見上げる。たったそれだけの夢なのにどんな悪夢よりも俺の記憶に深く刻み込まれていた。
そしてその夢について先日分かったことがある。セイとはやはり俺ではなかった。けれど俺だった。今国中を上げて盛り上がっている聖女誕生の祭りの渦中にある聖女がセイと言う人物を知っていた。
セイは彼女の愛しい人だったそうだ。そして星が好きな男。紛れもなく夢の男は彼女がいた世界のセイだ。しかし死んだという。
だからなのか、時々俺は無意識のうちに別のことを思ったり突拍子もない行動を取っていたりする。それは主に聖女に関わるもので、一番その現象が顕著に出るのは聖女が身に着けている指輪を見た時だ。
最初に見た時には筆舌に尽くしがたい衝撃が俺を襲った。同時に胸が張り裂けるような辛さと、その指輪を持っている聖女を抱きしめてその唇を貪り尽したいような愛しささえ感じた。
俺は俺が分からない。俺は本当はセイと言う人物ではないかと思う。今の俺は偽物で、今考えている意識もきっとセイが聖女と再会するまでの仮初のものではないかと思っている。今までの俺はセイの代わりでしかなかったのだ、と。
しかし聖女は俺をセイドリックだと言う。聖女が焦がれえ止まない筈の姿をした俺を、セイではなくセイドリックと呼ぶ。でも俺にセイであるよう求める。自分を消されそうな衝撃と自分の今までの過去を否定する感覚のままでいろと言う。
下らない、とそんな聖女の言葉など聞かなければいい。聖女の立場が俺より上だとしてもほぼ対等であることは間違いがないので断ってしまえばいい。
けれど俺の中にいるセイがそうはさせてくれない。もっと聖女に触れたいと叫ぶ。もっと聖女の笑った顔が見たいと叫ぶ。その意識が耳障りで、頭に響いて、俺は俺が誰だか分からなくなる。
俺はセイなのだろうか。きっとセイになれば聖女は喜ぶのだろう。国の政治もセイなら上手くやっていくのだろう。でもセイドリックにとってはあんまりだ。
今まで生きてきたセイドリックだってセイドリックとしての意識が消えて死ぬのは怖い。
でも今日もセイに飲み込まれそうな俺は聖女に俺は誰か尋ねる。すると聖女は何の躊躇いもなく俺をセイドリックだと言うのだ。俺はそれに安心して、消えかかった自我が立ち直る感覚を感じる。けれど俺が落ち着いたら聖女は俺に抱き付いて言うのだ。
セイ、愛していると。
俺は自身の中のセイの衝動のまま聖女を抱きしめ、俺が意図しているわけでもないのに、俺は普段そんな言葉囁くわけないのに聖女に甘い言葉を囁く。
聖女がそれに幸せそうに笑う姿を見て、自身をセイと呼ぶ彼女を見て俺の中で幸福感が芽生え満たされていくのだ。
俺は一体誰なんだ。俺は何がしたいんだ。聖女の髪を撫でながら、聖女の頬に唇を落としながらどうしようもない程追い詰められたら聖女に俺の名前を問う。すると帰って来た言葉に安堵してまた衝動に任せて聖女に触れる。
聖女が憎い。聖女が愛おしい。聖女に名前を呼んでほしい。名前なんてもう呼ばないでほしい。拮抗するセイドリックとセイの思いがまた暗闇に俺を突き落とす。そこから聖女が俺を救い上げ、聖女自身で俺をまた暗闇に突き落とすのだ。
どこからか傍観しているセイは幸せそうに笑っている。暗闇から抜け出せないセイドリックは何も感情を持たず瞳を閉じている。……俺はセイドリックだ。でもセイだ。
セイドリックだと思いたいのに、聖女に抱く愛しみは確実に俺のものになっていた。つまりセイがセイドリックを大きく侵食し始めていた。
どちらに染まることも愛おしい聖女は許してくれない。俺はセイドリックでありセイであらねばならない。
「……愛してる」
そう言って聖女の唇に口づけて得る幸福感はもう一体誰のモノなのか、それすらも俺は分からなくなっていた。