セイとの出会いと別れ
セイと出会った場所は、何の色気もクソもない居酒屋だった。その頃はまだ高校生だった私は居酒屋でバイトをしていた。酔っ払いからよく絡まれる為決して安全なバイトとは言えなかったけど、それでも他のバイト仲間や店員さんたちが気を使ってくれ大きな問題もなく時給のいいバイトを続けることができた。
セイはそんな私がバイトをしている居酒屋に客としてやって来た。最初はやたら顔面のいい男だな、とそう思うだけで他のバイト仲間みたいにキャーキャー騒ぐこともなく、セイの連れだったこれまた顔面のいい男にナンパされても慣れた方法で交わすだけだった。
しかしそれからセイはよく居酒屋にやって来た。それは最初に来た私をナンパした男と二人だったり、他のこれまた顔面のいい男を何人も連れて来たり人数は様々だった。ただし全員所詮イケメンと言うやつでバイト仲間はセイが来るたび唖然絶叫の勢いではしゃいでいたのをよく覚えている。
でもこのころのセイのことは明らかに他の客とスーツだって靴だって何から何まで品位がまるで違ったこともあり、連れてくる同僚か友人かが全員イケメンなこともありホストっぽいと思うだけで特に気にはしなかった。
その頃の私は朝起きて学校に行って帰ってバイトして深夜に寝る、というサイクルを繰り返して日常を潰しているという感覚しかなく、日々を生きているって実感が少なかった。流されるように生きて人生もなるようになれって取りあえず使い道もないのにお金を貯めて過ごしていた。
何事にも無頓着で成り行きに任せていた私は面倒事だけは酷く嫌って、家が母親とその再婚相手の男のせいで荒れていたもんだからバイトが終わった後も夜の街を一人でふらふらと歩くことが多かった。
自分でも自分の顔がかなり男ウケする顔だと分かっていたので、ホテルには付いて行かなくても深夜にお酒を奢ってもらい時間を潰す日々が続いた。お酒には強かったし自分でセーブしていたので何か起こるとは思ってもいなかったけど、でも何か起こってもいいとさえ思っていた。早い話何もかもがどうでもよかったのだ。何をしてもつまらなかった。こんな自分はダメだ、とすら思わなかった。
しかしある日、いつものようにバーで男たちを引っ掛けてお酒を飲んでいた時。
「……あれ?居酒屋の…?」
「おいセイどこ行くんだよって……俺をフッた子!」
その時は最悪、としか思えなかったが今思えば運が良かったのか。ばったり私が高校生だと知っている居酒屋によく来る二人に会ってしまい、直ぐにバーから連れ出され怒涛の説教が始まった。
その時は私は自分が悪くないと思っていたのでセイの言葉に全く耳も貸さず、ムキにさえなって反論を繰り返した。
「何かあったらどうするつもりだった?」
「それくらいちゃんと考えてる。もういいでしょ放っといて!」
「いいわけないだろ!」
あの時ほど私はセイに怒られたことはなかった。そのまま喧嘩腰で家庭事情を私は話し、家に居たら義理の父親に色目で見られてそっちの方が気分が悪いだなんてブチ切れている勢いで話してしまい、もう話の論点なんてどこかへ飛んでいつの間にか私は泣きながら自分の存在意義なんてないとセイに零していた。
ずっと流されていた私でも、ふとこのままだとどうなるんだろうという不安はあった。特に勉強していない自分が大学に行けるわけがない。そもそも義理の父親に盲目的で私を恋敵と睨んでくる母親が大学何てところに行かせてくれるわけがない。大学に行かないなら就職しなければならないが、まだまともだった中学生の時に下手に勉強して進学率ほぼ100パーセントの高校に入っていた私に就職先を学校が提供してくれるわけがない。それなら居酒屋でずっと働けばいいんじゃないか、と思ったけれど結婚なんて微塵もするつもりがなかった当初の私にとって、居酒屋の収入だけで一生過ごせる自信はなかった。どうしようという八方塞がりに陥っている中、でも何のために生きているんだろうと考えた。生きる理由もないのに生きるために将来を考えている自分が分からなかった。
何のために生きようとしてるんだろうって、それを考えるのが怖くて。理由を見つけられない自分が怖くて更に周りに流されて生きた。何も考えず将来を気にせず過ごす日々は楽だったのだ。
そんな思いをもうここまで来れば、とお節介な男にぶちまけてやれと私は嗚咽交じりに全て語った。別に同情を買おうとしたつもりはない。もちろん手を差し伸べて貰おうだなんて考えすらなかった。
「それじゃ…俺と付き合おうか」
だからセイが何を言ったか理解できずにいた。まさにポカン、とした私は今までの失態を忘れてセイの横に立っている男に視線で助けを求めたが、その男は苦笑しながら首を振っただけだ。
それからはセイの行動が早かった。唖然としている私をさっさと自分の家に連れ帰り、私の家には危ないからもう帰るなと伝え、何とどうやって調べたのか家まで行って母親と話を付けてそんなに多くはない荷物をセイの家に持ち帰った。反論する暇もなかった。けれどもうあの家に帰らないでいい、と言う事実に私が安堵したのも確かだ。
もう気持ち悪い視線で見られる男がいる家に帰らないでいいし、ベタベタ触って来て何かしゃべったと思えばホテルの話を持ち出してくる男を交わしながら時間を潰す必要もない。それだけで身元も知らず年も知らずセイと言う名前しか知らない男の元に滞在する理由に私にとってはなっていたのだ。
正常な今なら若気の至りね、と過去の自分にドン引き出来るがあの頃は自分で自分は達観してるなんて思いつつもどこかで焦ってどこかで必死だった。
そんななし崩れで始まったセイとの生活はまさに裕福そのものだった。セイはそれなりに高級なマンションに一人暮らしをしていて、たまにフラッと居なくなったと思えばすぐに帰って来る。私はてっきりホストかと思っていたので最初は夜でも家にいるセイを見て首を傾げたものだ。
なら何の仕事をしているのか、と思ったけれど答えは見つからなかった。会社員かと思ったけどそれにしては時間にルーズだし出掛けると言っても隔日で長くても5時間ほどで帰って来る。一体何やってんの?と一度聞いたことがあるが「秘密」と返されたので頭にきてそれ以来聞いてない。
バイトは居酒屋は危ないと言われてしまったからには養ってもらう身としてはやめるしかなく、けれど一日中家にいるのも暇だし相手が何者か分からなくてもただ養ってもらうには申し訳なかったのでマンションの近くの雑貨屋で日中のバイトを少しだけ始めた。そこしか許可がセイから降りなかった。
時間もほんの僅かしか許可してくれなかったので、やることがない私は参考書を買って勉強を始め今までサボっていた学校にもまた行き出した。学校は会ったら会話するって友人が数人いるくらいなので本当に勉強をしに行っていたようなものだ。以前の私は学校をいい睡眠時間の確保場所ぐらいにしか思っていなかったので、突然真面目に勉強を受けだした私に先生たちは喜んだのか感心したのかよく構い今まで習ったところは殆ど理解していなかった私の勉強を教えてくれたりもした。
セイに学校で習ったことを話したり淡白な関係だが友人の話をしたりすると嬉しそうに笑ってセイは私の頭を撫でたものだ。私もそれがなんだか嬉しくて、学校に休まずに行き、放課後にバイトを少しだけして、家に帰ってセイと過ごす日常を繰り返しながらも、その日々に確実に意味を見出していた。つまり幸せだったのだ私は。
時に喧嘩したこともあり、そもそも私はセイの告白を受け入れたつもりがなかったのにセイは私と付き合っている気分だったらしく、根本的な食い違いも発覚したりしたが取りあえず居候の身で収まった。
その時初めてセイが私を好きだと知ったのでマジかよこの大人と思ったのはよく覚えている。その大人と一緒に暮らしているのは私だが、少しの申し訳なさは持ちながらも全くセイはお金に困ってなかったのでその好意に甘えていた。
私はこれほどちゃんと自分が生きていると実感しながら日々を送れたことはなかった。生きてる。私は生きてる。将来の夢も目標も何もなかったけど、ただ過ぎていた日々に自分の足で付いて行っている。本当はそれだけでは楽観的で人生を舐めきっていて足りないかもしれないけど、久しぶりに感じるその感覚に私は大層満足していた。
しかしそんな日々に変化が訪れた。きっかけは……母とその男の無理心中。男の浮気に母が激怒して男を刺し、その後自決したんだとか。学校で先生に呼び出されて何かと思えば、警察の人が来るもんだから驚いた。でも警察の人伝えに母が死んだと聞いても悲しめなかった私はやっぱり母と過ごした間は根本的な何かが抜け落ちていたんだと思う。それをセイが取り戻してくれた。それに母よりも女であった人だったことも原因だろう。
警察の人は私が実家にいなかった理由を聞いて来た。どうして家にいなかったのか。お義父さんから性的な悪戯を受けていたから。と言えば男の警察官は私を同情的な目で見て、女の警察官は怖かったでしょうとそっと私の肩に触れた。別に性的な目で見られていただけだが二人が死んだ今名誉やらなんやら気にする必要はない。私も賢くなったのだ。セイが私と住んでいると警察にバレたら確実にマズイことになる。
私はまだ未成年で、セイはきっと25前後。正真正銘のロリコンだ。きっとただ居候しているだけと言っても警察は信じないだろうし、そうなる前にさっさと手は打つのみ。
辛かったんだと、苦しかったんだと、あの家にはもういたくなかったんだと渾身の涙交じりの演技で訴えれば簡単に警官たちは私の家出を責めるのをやめた。警察に行って事情を話すのが怖かったし恥ずかしかったと言えば女の警察官は大きく頷き、着々と居候しか私に道はなかったんだと言うシナリオを作っていく。男ウケするこの見た目は大人の加護欲さえ掻き立てたようで、警官は言ったら失礼だがとってもちょろかった。
もちろんセイのこともバレ警官がセイの家まで押しかける事態となったが、セイの顔面偏差値と人格と私に頼れる親戚がいないこと、そして私は知らないけどきっとセイの実家はすごい実家らしくセイがロリコンとして捕まる事態には至らなかった。寧ろ男性恐怖症である(と偽っている)私の傷をよく癒したとこれからも私のメンタルケアを頑張ってほしいと女性警官はセイを激励していた。
また詳しいことは後日連絡を入れると去って言った警官たちが出て行ったのを確認し、私はズルズルと床に座り込んだ。
「……大丈夫?」
「……腰が抜けたみたい」
どうやら私は相当緊張していたようだ。立てずに座り込んでいる私をクスクス笑ったセイはよいしょ、と子供みたいに私を抱き上げた。
そしてソファーに丁寧に降ろしてくれ、セイもその横に腰かける。
隣でセイが小さく息を吸ったのが聞こえ何を言われるのか少し身構えたけれど…。言葉ではなくただ息のみがセイから吐き出された。きっと母親が自殺した私になんて声を掛ければいいか分からないのだろう。だから私がセイの代わりに口を開く。
「私ね、母親が死んだって言われてもそうなんだとしか思えなかった。こんな薄情な自分は心がないの?って思ったけどでも同居が警察にバレてセイが捕まっちゃうって考えたら心臓が止りそうな程焦ったし不安だったんだから」
いつの間にか私の中でセイが誰よりも掛け替えのない存在になっていた。血の繋がった母親よりもセイが大事。セイさえいればいい。何の仕事をしてるのか、そもそもちゃんと働いているのかさえ教えてくれないセイだけど。苗字ぐらいは教えてくれたっていいじゃんとは思うけど、それでも一番はセイがこうして隣にいてくれさえばいい。そう強く実感した。
セイ、と呼んで反応をくれるセイを私はとっくに好きになっていた。
どう言葉を続ければいいんだろう、と一息ついた私だが…不意にセイに背中に腕を回され息が止まった。煩い程心臓が鳴り、嫌なほど顔に熱が集まっているのが分かる。暖かい体温に思わずしがみついた私にセイが言葉を落とした。
「そんな熱烈な告白なんかしてみて…俺をどうしたいの?」
優しい聞き触りの良い甘い声色は酷く私を落ち着かせるし、それと同じくらい私の心臓を忙しくさせる。少しからかう様にクスクスと笑い声が聞こえたかと思うと背中に回された腕がいつの間にか私の手を掴んでいた。そして合わさった瞳は柔らかく細められた。そのままその瞳は近づき、いつの間にか閉じられていて。
そっと、唇が重なった。
心臓が痛い程幸せなキスだった。
その罰が下ったのだろうか。母親が死んだ日に幸せに満ちていた私に罰が下ったのだろうか。いくら母親とその男に非があっても悲しめなった薄情な私を神様はお怒りになったのだろうか。
こうしてようやく付き合い始めた私たち。そして私が20歳になったその日、セイからプロポーズを受けやっとその素性を明かして貰えた。普段英語だけじゃなくてフランス語とかドイツ語とかで電話でしゃべっているセイは只モノじゃないと思っていたけど只モノじゃなかった。実家がとても大きな大病院の経営をしていて、セイはその家の本家の次男。医者になってその病院で長男のサポートをする未来が決まっていたそうだが、セイは夢であった星の観察を仕事とする人生を選んだ。無事現役合格した医学部を一年で退学し、実家と縁を切る勢いで家を出て、高校生時代の友達たちが起こした事業を手伝ったり株でもうけたりして夢に向けての資金集めをしていたそうだ。それにしては稼ぎすぎな気がしたがやるからには自分で施設を立てて星の研究をしたかったらしい。流石金持ちは規模が違うなって思った。それでも成功したんだからセイはとても凄い人物だったんだろう。
でもどうしてそんなに星が好きなのか、と一度セイに星を見るため連れられた田舎でそう問うたことがある。「秘密」と返されたのでいつかの時のように頭にきてもう同じことは聞かなかった。
そして結婚してからは本格的にセイは星の研究に取り組みだした。何をどんな風に調べているのかは知らないけど、何それお金になるの?ぐらいは思ったけどセイの友達の話によるとやたらめったらセイは儲けていたらしい。実家とは縁が切れてしまったようだけど、それでも好きなことを実現して夢をかなえてそれに加えお金までちゃんと儲けてるんだから私の旦那は完璧ね!と誇り高かった。
やるからには中途半端なことはしないセイだから家で私と過ごす時間は新婚の一か月を超えるとほんの僅かだったけど、数年経てばまた結婚する前みたいに私との時間を沢山取ってくれるって約束してくれた。
だからどれだけ家で一緒に過ごしてほしくても、帰りが遅くても我慢を積み重ねた。少し体調が悪いときには無理せずやたら大きな施設で泊まってくればいいのにと声を掛けたりもした。それでも家に帰って来てくれるセイが大好きだった。愛してた。
今か今かとセイが約束してくれた時期を待っていた時。きっとあと少しだったはずだ。あと一年もすれば家に寝に帰るだけのセイの生活が、触れ合うことも出来なかった生活が終わる筈だった。
なのに結婚して二年。私が22歳の時。
忌々しいあの事件が起こった。縁を切った筈のセイの実家に勤めている執事だと名乗った男から聞かされたセイの死は、私の死さえも意味していた。
セイのいない世界なんて生きていけない。セイがいない世界に色も幸せももう何もない。だからだから、だから私は。きっとセイがいるだろう星に目がけて、歩道橋からキラキラと綺麗なセイの元へと飛び立った。
ただセイにもう一度会いたかった。それだけだ。