真っ白なキャンバス
大嫌いな奴がいた。
チャラチャラして、何も考えていなさそうで。真面目にやる気がないなら帰れと、何度も心でそう思った。
それを口にしなかったのも、別にそいつが怖かったとかじゃない。
ただ、面倒だったんだ。
俺の人生にあいつを参加させたくなかったし、あいつの人生にも、俺は参加したくなかった。
高校二年、俺は大嫌いなあいつと、同じクラスになる。
「遊斗ー。はよー」
「おはよー、遊斗」
「麻木、おーっす」
クラスにあいつが現れるなり、みんながそちらに注目する。視線をやらない奴なんて、俺以外はきっといない。
「おはよー!」
「宿題やった?」
「やるわけねーじゃんっ」
「仲間ー」
バカな話をでかい声でして、下品な笑い声を教室内に響かせる。こういうところが、嫌いだ。
「なあなあ、壱原! お前は? 宿題やった?」
俺が明らかにクラスに馴染みたくないオーラを放っているのに、バカな麻木はまるでなんでもないように声をかけてくる。――無視。
「……ぷっ。遊斗無視されてんじゃん! 壱原お前が嫌いだってー」
その通りだよ。よくわかってんじゃん、高橋。
「うっせーよ。んなことないよな? 壱原。俺ら、同じ美術部の仲間だもんな」
その言葉に、俺は横目で麻木を睨んだ。何が仲間だ。確かに俺とお前は同じ美術部員だが、個人作業の絵描きに、仲間も何もあるか。
地毛だと言い張る暗めの茶髪が目にはいるのもかまわなそうに、麻木は俺をまっすぐに見つめていた。
「本、読んでんだけど。邪魔しないでくんない?」
「あ……はい」
しおらしく頷く麻木に、またクラスがどっと沸く。何が面白いんだよ。バカバカしい。
俺はすぐに、本に向きなおった。絵とか本とか、そういうものを相手にしていた方が断然面白くて、クラスに特に友人もいなかった。
根暗だと女子は言う。黒ぶちの眼鏡が、真面目そうでつまらないと男子は笑う。それすらも、もうどうでもよくて。
「壱原は頭いいもんな〜。やっぱ俺らとは出来が違うか」
麻木のこの言葉も、嫌味として受け取った。
***
「うん、いい絵ね。じゃあ今度のコンクールは、壱原君はこの絵で出品しておくわね」
「お願いします」
美術室にコンクール応募用の絵を届けて、俺は踵を返した。来週から定期テストだから、今日から部活は休みになる。
いつもより多く教科書を詰め込んだ鞄を肩にかけて、俺は美術室の扉に手をかけた。
しかしそれは、俺の力の歩合に合わずに開かれる。
「うわっ、びっくりしたあ……、壱原か」
麻木遊斗。
「麻木君も、コンクールの絵を持ってきたの?」
顧問が問いかける。その声を背中で聞きながら、俺は今度こそ美術室を出ようとした。
なのに、なぜかその腕が、ガッチリと麻木に掴まれている。
「お……っ」
「まだ。だって締め切りテスト明けでしょ? 俺はきっちりと吟味してから完成させるタイプ」
「それで吟味しすぎて、いつの間にか締め切りの日になっているタイプよね」
「よく分かってんね。今回はこいつ捕まえにきただけだから。じゃーね、草加ちゃん。またテスト明けに会おうね」
まだ若い顧問に、語尾にハートマークでも付きそうな口調でそう言って、麻木は俺ごと美術室を出た。
なんなんだ。早く帰らせてくれ。
「……用ってなんだよ?」
何も教えられないまま校門を出られれば、さすがに黙っていられなくて問いかけた。
麻木が、まるで無邪気に振り返る。
「お願いっ! 勉強教えて!」
パンッと合わさった掌に、俺の視線は集中した。それから、思いっきり怪訝な目を向けてやる。
「そんな顔しないでよ。俺ら友達じゃん」
なった覚えはない。
麻木がずっと掴んでいたブレザーがしわになっていたので、俺はそれを掌で正した。そうやって、冷静にことを判断する。そして、麻木を見た。
「自分の勉強があるから。人のことにかまけてる暇はない」
「そっ、そう言わずに! 本当ヤバいんだって! 俺今回のテストで赤点取ったら、部活やめさせるって担任に言われたんだよ!」
「いっそやめろよ」
「つめたっ! 壱原ってば北極の氷くらい冷たいよ! いや、あれ溶け始めてるんだっけ? とにかく冷たいよ!」
うるさい。目を伏せた眉間に、しわが寄っているのが自分でも分かった。
このテンションがクラスでは人気を上げているらしいが、俺からしてみればウザいの一言だ。こいつに魅力を感じることが、どうしてもできない。
「それにさあ、俺が今やめたら困るでしょ? 今、美術部って俺入れて五人じゃん。うちの学校、員数五人から部として認められるからさ。俺がやめたら美術部存亡の危機だよ?」
ピクッ。その言葉に、俺の脳内の天秤が反転した。
部活がなくなるのは、困る。将来の夢が明確にあるわけではないが、美術関係の仕事に就きたいとは思っていた。行きたい美術大学もいくつかすでに考えている。できたら推薦で行きたいと思っているため、そのために美術部は大切だ。
せめてあと一年、存在していてもらわなくては都合が悪い。
俺は溜息をついてから、忌々しげに言葉を吐いた。
「……なにを、おしえればいい?」
「マジっ? いいの? やっりぃ! あ、数学と生物と英語と古典! あと、日本史と現代文もかな」
……全部じゃねえか。
「大丈夫、大丈夫! 今から壱原んち行くし」
何が大丈夫だというのか、俺には甚だ不思議だった。こいつの頭は、猫とどちらが賢いのだろうか。
***
俺の言葉など聞きもしない麻木は、強引に家へと上がりこんだ。しかし俺が家に友人を連れ込むなど初めてだったので、――違うと言っているのに――母は、麻木を盛大にもてなした。
「それにしても麻木君て、かっこいいわよね〜。もてるでしょ? あ、彼女いるか」
「いや、俺言うほどもてないですよ。今までの彼女も、必ず振られて終わってるし。ちなみに今は彼女ナシでっす」
場所は俺の部屋。畳一枚よりすこし小さい机に、教科書やノートがいっぱいに開かれている。しかし、ノートの文字は一向に増えない。
「母さん……。用がないんなら出て行ってくれないか?」
「何よ、つれないわねえ。そんなんだから友達も彼女もできなかったのよ。麻木君に紹介でもしてもらったほうがいいんじゃないの?」
「え? 壱原って彼女いたことねえの? お前のことかっこいいって言ってる女子見たことあるぜ? マジに紹介しよっか?」
「大きなお世話だ」
ミーハーさの似ている母と麻木にため息をつけば、俺はそう一蹴した。彼女どころか、友達も欲しいと思ったことはない。
「それより、勉強しに来たんだろ。やらないなら帰ってくれ。悠長に時間使ってるほど、俺だって余裕ないんだ」
「またまたぁ。毎回十番代のくせによく言うよな」
「あんなもん、テスト範囲だけ頭にたたきこめばなんとかなる。でも、それに時間がかかるんだ」
だから出て行けと、視線で母親を追い出そうとする。不満げにしながら、母さんは立ち上がった。
「いやあね。智のそういうところ、いったい誰に似たんだか。じゃあ麻木君、ゆっくりしていってね」
最後まで麻木に愛想を振りまいて、母さんは出て行った。麻木はそれを笑顔で見送って、それでもおばさんのテンションについていくのはやはり疲れるのか、溜息をついてから教科書を手に取る。
「すげえな。お前の母さん。なんか壱原がクールだから、母親もそんなん期待してたのに。うちの母さんより元気」
「うるさいやつだと思ったんだろ」
自分も思っていることだから、何気なくそう口にした。というか、俺をクールという時点で、バカにしているのだろう。
褒め言葉ととることもできるが、皮肉ともとれる。コイツが俺を褒めるわけがないと思った。
それよりも、勉強だ。俺が数学の教科書を開くと――。
「うるさいくらいがちょうどいい。長生きするよ、お前の母さん」
「まるで、おとなしい人は早く死ぬみたいだな」
「あながち間違いじゃないだろ? 病は気からなんて言葉もあるくらいだし」
「……どうだかな」
そんな話は面白くなくて、俺は適当に聞き流した。こいつらは、どうしてこんなどうでもいいことを話題にしたがるのか。
「それより、ほら。この問題解け」
さっさと終わらせて帰ってほしくて、俺は麻木の前に参考書を置いた。案外素直に、麻木は問題に取り組み始める。
「………………なあ、壱原。指数って何?」
「二の二乗とかあるだろ。その二乗の部分」
「じゃあ、aの三乗×aの六乗って?」
「掛け算の場合は、指数同士を足すんだ」
「三+六ってこと? 八?」
グシャリッ!
麻木の突拍子もない答えを聞けば、俺は反射的に持っていた教科書を握りしめた。「大丈夫か?」と麻木が訊いてくる。
お前が大丈夫か……!?
「三+六が……?」
「え? だから八……ん? 六、七、八、九……。あ、九だ! 九だよ、壱原!」
ご丁寧に指折り数えて答えを見つければ、麻木は嬉しそうに笑ってそう伝えてきた。
小学生か、お前は。
「足し算くらい、暗算でできろよ」
「で、できるよ! 今はたまたまだって。俺は意外とできる男だぜ?」
「三×四?」
「え? 桂?」
「掛け算だよ」
「あ、十六!」
「……六×二?」
「十六? あれ?」
さすがに自分でも、肩が震えるのが分かった。
「……おい、壱原?」
「ぶっ! はははっ。お前、実はかなりバカだろ」
足し算が危うければ、掛け算は全く駄目ときた。ここまで駄目だと、もう笑うことしかできない。
そんな俺に、麻木は不満の声を上げる。
「なんだよ? バカって言うなよ。四の段なら完璧なんだからな!」
「お前さっき、三×四答えられなかったじゃん」
「四×三なら言えたよ! 十二だろ?」
本当に当てるから、ますます笑える。こいつの頭の中がいったいどうなっているのか、急に興味がわいた。
「なんだよ、もー。壱原まで俺のことバカにすんのかよ?」
「みんなにバカにされてるのか?」
「朝の見ればわかるだろ? まあ、まわりもバカだから別にいいんだけどさ。壱原頭いいから凹む〜……」
そう言いながら、母さんが出したどら焼きを食べ始めた。こいつ、絶対凹んでない。
「バカにされたくなかったら、今度のテスト、全部平均以上取ってみろよ」
「はあ? ムリムリ。いいの。赤点なきゃやめさせられはしないし」
バカにするように片手を振って、そう言いきる。少しムカついたが、いつもこいつに抱く感情とは何か違っていた。
「それよりさ、壱原って下の名前、智って言うの?」
「は? 智久だよ」
突拍子もない質問をされて、俺は眼を丸めた。休み時間に聞こえてくる会話からも思っていたが、こいつらの話は脈絡がない。
「智久か! じゃあ俺もおばさんみたいに智って呼ぼうかな。俺のことも名前で呼べよ! あ、俺の名前は――」
「遊斗だろ」
「なんだ、知ってたの? だったら最初っからそう呼べよな〜。ずっと苗字呼びとか、俺ら友達っぽくなかったよな。二年も一緒にいたのに」
知っていたというか、学校にいて麻木のフルネームを聞かないことがなかったから覚えたに過ぎないのだが、俺の気は違う方に向かっていた。
また、友達だと言った。本気なのか?
確かに部活で一緒の俺と麻木は、他の連中よりは近い立場にあったと思う。だけど、友達らしいことなんて、一度たりともしていない。
「お前は、世界中の人間が友達とでも思っているのか?」
「はあ? 思うわけねーじゃん! 大体俺、かなり好き嫌い激しいよ? 嫌いな奴とは目も合わせたいと思わない」
その理念が、案外自分と同じで驚いた。
だけど同時に、今まで麻木がそうして接してきた人間がいたかと考える。
「嫌いな奴って、例えば誰?」
「――え? ん〜……そうだなあ。小学校で同じクラスだった吉田とか」
「いつの話だよ」
そんな頃の《嫌い》など、もう時効だろと思った。ようは、やはりこいつが人を嫌うなど、よほどの事態なのだ。
「でも俺、智のことは最初から気に入ってんだぜ? 俺バカだし、こういうチャラい反応しかできないから、頭良くてクールな智は、すっげー憧れ!」
「……」
無邪気に笑ってそういう麻木がいた。
ずっと皮肉だと思っていた言葉。今度は素直に褒め言葉に聞こえて、だから困る。
「智?」
「うるせーよ」
「……照れてる?」
「照れてねえよ」
照れてんじゃん、と麻木が笑った。その笑みは、明らかに俺をからかっている。
ちくしょう。でももっと悔しいのは、こんな自分は嫌いじゃないと思っている、俺。
***
「智ー! 見ろよ俺、十番も上がった!」
テストが終わって、二週間も経つころだった。成績表が渡され、一目散に麻木が俺のところに来る。
「十番? でもお前、赤点あったって言ってなかった?」
「ああ、英語? でも今回は平均が低かったから、俺はよく頑張ったほうだって。だから部活、続けていいってさ」
感謝してる、と麻木が笑う。結局テストまでの一週間、俺は毎日麻木の勉強を見た。そのせいで、俺の順位は十七番に落ちたが、何故だろう。後悔も、苛立ちもない。
「智は? よかった?」
「別に」
何でもないように聞き流して、さっさと成績表を鞄にしまう。あの日から、麻木はよく俺の周りに来るようになった。それに伴って、麻木と仲のよかった友達にも話しかれられたりする。
正直面倒だと思うこともあるが、初めほどは、それを邪険に思うことはなくなっていた。
「――は?」
「だから、この間締め切りだった美術作品。三次選考まで通ってね、優良作品として残ったみたいなの。そしたらそれを聞いた先生の知り合いの美術関係者が、二ヶ月後の《季節の絵コンクール》にエントリーしないかって」
「でもそれ、たしか推薦がないとエントリーできないんじゃ……」
「だからその人が推薦者になってくれるのよ」
突然顧問に呼び出されたかと思ったら、話はそんな内容だった。テスト前に提出した絵のことだ。
「すげえじゃん、智!」
一緒にいた麻木が、まるで自分のことのように嬉しそうな声を出す。その言葉と声が俺に現実感をもたらして、つい、笑みが漏れそうになった。
「今日はお祝いだな! 智んちみんなで行こうぜ!」
「は……?」
*
「おめでとー、壱原!」
気がつけば、俺の部屋に麻木の友人が集まっていた。男だけでなく、女もいる。母は、初めて麻木が訪ねてきた日以上にはしゃいでいた。
だけど俺は、わけが分からなくてただ困惑する。
「なんで、お前ら俺のこと祝ってんの?」
「何でって、めでたいからに決まってんだろ!」
「お前らのことじゃないのに」
「友達のことじゃん!」
そう答えたのは高橋だった。いつも麻木と一緒にいる、体の大きな男。こいつらは、どうしてそう簡単に人を友達扱いできるのだろう。
「智、智!」
麻木が俺をつついた。そちらを見れば、視線は俺たちの向かいに集まって座っている、女子に向かっている。したことはないが、この席順は合コンみたいだ。
「真ん中に座ってる女子、隣のクラスの船出愛海っていうんだけどさ、あいつだよ。智ことかっこいいって言ってたの」
「は?」
またいつしか話は変わり、懐かしい話題が持ちあがっていた。俺はつい、ちらりとそちらを見る。船出か……。同じクラスになったことはないな。
というか。
「聞き間違いじゃねえの? 俺、根暗となら言われたことあるけど」
「バッカ、そんなんノリだって。俺の周りみんなバカだから、そういうのしか智を表す言葉がなかったんだろ? 言っとくけどお前、かっこいいよ?」
そんなことを言われても、やはりピンとはこなかった。確かにこいつらの語彙は少ないと思うが、《根暗》が褒め言葉でないことくらい分かるだろう。それに、無駄なくらいに顔の整っている麻木にかっこいいと言われるのは、全く説得力を感じない。
そんな俺の感想など露知らない麻木は、得意げな笑みさえ浮かべて言葉を続けた。
「な、どうよ? タイプなら、俺が取り持つぜ?」
「いや、いい」
即答で断った。彼女に問題があるわけじゃないが、俺は見た目で女を選ぶつもりはない。
恋愛願望も、結婚願望もなかった。それでも好きになるときは、誰かを好きになると思う。
「何でだよ〜っ?」
つまらなそうに項垂れる麻木が、再び船出のほうを見た。女友達と話して楽しそうに笑う彼女を、目を細めて見ている。
それを見たら、経験なんかない俺でもピンときた。
「……お前が、好きなんじゃねえの?」
「えっ!」
慌てた表情をして、麻木がこちらをみる。「いや、違……」と言い訳している様が面白い。
いつのまにか、高橋や船出を含んだ女子も、しどろもどろな麻木に喰いついてきていた。
今は恋愛云々より、こういうときが、なんだか楽しいと感じる。
***
学校は、冬色に染まっていた。期末試験が終わり、授業は午前だけで終わる。だからその日も、もう生徒はみな帰宅していた。
俺は、ずいぶん前に交換した麻木のメールアドレスに、美術室に呼び出される。
「……どういうことだよ?」
「だから、悪ぃ。俺らここの掃除当番でさ。けど面倒だからって、雑巾でキャッチボールしてたら、お前の絵落としちゃって。……で、そのときバケツも、倒れて……」
申し訳なさそうな麻木の表情は、普通なら同情を引くかもしれない。別にいいよ、というべきものなのかもしれない。
だけど、彼らが落としたのは、水で台無しにしたのは、今度のコンクールに出品するつもりだった絵だ。二か月前の絵が認められて、特別に選手枠をもらった大事なコンクール。
進学にも有利だった。
それを、
「お前は知っていたじゃないか」
「え?」
「これが大事な絵だって、美術部員ならお前も知っていただろう? なのになんで、ここで遊ぶのを許したんだよ? ましてなんで参加したんだよ!」
「……ごめん」
言い訳を、すればいいのにと思った。そうすればもっと、罵ってやれるのに。ただ素直に謝ってくる奴なんて、怒声を上げるのも馬鹿らしくなる。
俺は、踵を返してすぐに美術室を出て行った。
ムカつく、ムカつく、ムカつく。
絵を台無しにされたことじゃない。麻木が、結局そういうやつだと見抜けなかった自分が、ムカつく。
***
それから、俺はまた前のように一人になった。一人になって、ここ数カ月ずっと麻木と一緒だったのだと思い知る。
「智……」
校内で、何度か声を掛けてくる麻木を、俺は完全に無視した。休み時間も、あいつの顔を見たくなくて教室を出た。
今日は母に頼んで昼食を用意してもらったので、午後は美術室で絵の修正をしようと思う。締め切りは明後日だ。予定は完全に狂ったが、まだ間に合わないわけではない。
しかしその足は、また止められることとなった。
「何?」
教室を出ようとした矢先、俺は高橋に呼び止められる。麻木と一番仲がよく、あの日一緒に絵を台無しにした男だ。
「ごめん!」
ほかに二人の男子を引連れて、廊下の真ん中でそう頭を下げてきた。俺はうんざりと肩をすくめる。
「いいから。通してくんねえ? 絵、直しに行きたいんだけど」
「じゃあ、遊斗とも仲直りしてくれるか?」
眉間にしわが寄った。今麻木の名前を聞くのは、気分が悪い。
「それは別だ。あいつは美術部のくせに……。裏切ったようなもんだろ、あんなの」
「いや、それはさ……」
「言い訳言うな。あいつが何も言わなかったのは、自分の罪を認めてるからだ。お前らがそれをどうこう言うのは、優しさじゃないぞ。――じゃあ、俺行くから」
半分無理やりに間を割って、美術室へと進んでいく。ああいう生ぬるい友情は、時々腹が立ってくる。麻木が言い訳しないことに腹が立ったのとは、また違って。
だけどあいつには、ああいう友達がお似合いだ。
心を許したのが間違いだったな。そんなことを思っていたら、高橋が大きく叫んだ。
「あれは遊斗じゃないんだよ!」
「何やってるんだ?」
俺が美術室に入ると、そこには先客がいた。
布に色を含ませて、水で滲んだ部分を修正しようとしている、麻木。
「あ、智……」
「それ、俺の絵なんだけど」
「あ、いや……いやさ。俺が駄目にしちゃったんだし、俺が直せたらな〜、とか思って」
「へえ」
短く返事をすれば、鞄を机に置く。麻木とは机三つ分ほど空間を作って、俺は弁当を開いた。これを食い終わるまでは、好きにさせてみるか。
「……智、ごめんな」
「何が?」
「だから、絵。このコンクールに出品できたら、進学にもよかったんだろ」
冷えて水っぽいご飯を口に入れた。見た目は興ざめするのに、味はちゃんと、噛むたびに甘味が出てくる。
白米は、日本人に欠かせないものなのだと思った。
「それ、直してもいいけど、捨てるよ」
「……は?」
ばっと、麻木の視線がこちらを見る。意味が分からない。そう言いたげだった。
「描き直すから」
「描き……って。いや、そりゃ、不満かもしれないけどさ。でも、せっかく今まで描いてきたのに……」
「俺も修正するつもりだったんだ」
麻木の言葉を遮って、そう言う。
直そうと思った。ここまで描いてきたものを、今更なしにしたくなかった。
「じゃあ、なんで……」
「勘違いしてた」
俺が何を言わんとしているのか、まるで分らないように麻木は目を細める。
そちらを見て俺は眼鏡を押し上げた。
「言い訳しないお前が、ムカついた。自分を守ろうとしない姿勢が、まるで悪くないんだって言ってるようで、我慢ならなかった。だけど……。聞いたよ、高橋に。お前は、友達を守ったんだな」
「んな、かっこいいもんかよ」
「かっこいいなんて言ってないけど」
さらりと否定してやる。決して褒めたつもりはない。
「そこ否定すんなよ」
途端に麻木はむっとした。自然に、俺は笑みを浮かべた。
「最初から、やり直したいんだ」
再び、麻木の不思議そうな顔が俺の視界に入った。
あの絵は気に入っていたが、それは自己満足だった気がする。俺はまだ、この絵がなにを伝えてくれるのか、まったく分かっていなかった。
「だから、修正はしなくていい。でも、新しい絵を描くのは手伝えよな。遊斗」
そしたら今度は、俺たちの最高の物語が始まる。