真夏の夜の電信柱
久々に青春物……というか、明るい感じの物語を書きました
バイト帰り、疲れた体を引きずるように帰路に着く途中だった。不運にもカギをかけ忘れた自転車を八時間のバイト中に盗まれてしまった。何処にぶつけたらいいのか分からないこの怒りは道中の電信柱に蹴りを入れて歩くことで紛らわしたが、さして効果があったとは思えない。
自転車なら十五分のこの道のりも徒歩だと四十五分はかかるので困ったものだ。時刻は午後十時。このあたりに線路は通っていないし最終バスはとっくに行ってしまった。
ふと空を仰ぐ。
これで満点に輝く星空でも拝めたなら、少しは歩いて帰る意味があったのだろうが、生憎とどんよりとした曇り空だ。
「……ん?」
空よりは少し下に何か動くものを目が捉えた気がした。正確にいえば電信柱に。
なんだ、なんだ、と、興味本位に近づいてみることにした。
「……」
よし、早く逃げよう。
電信柱の上部に佇む人影を認めて、すぐさまその場から立ち去ろうとした。が、
「待てぇい!」
街灯のせいか僕の姿はすぐ相手に見つかってしまった。
待てと言ったところで相手は電信柱の上、どうせすぐには追ってはこれないので、無視してそのまま走りだしても良かったが、わずかな好奇心に負けて足をとめて振り返った。
相手の顔は街灯とほぼ同じ高さにあったのでよく見えた。
緩んだ目、上気した頬、ふらふらと危なげなバランス。明らかに酔っている様子だった。
落ちないよな?
「少年は、いつから大人に変わるんだろうな! ネクタイを締めた時か? 違う。初めてを経験した時か? 違う。新聞の経済欄を読むようになった時か? 違う!」
不安定なバランスを心配していたら演説のようにいきなり叫び始めた。そして、一拍置いた後に言葉を続けた。
「電信柱に登ろうとしなくなった時だ!」
何処かの海賊漫画で似たようなセリフを聞いた記憶があった。
「……」
誰もいないよな?
ふと不安になって辺りを見回した。割と家の近所だったので誰かに変なのと一緒にいるところを見られると社会的にあまりよくない状況に陥る。
「聞いてんのか、お前!」
さて、こんどこそ全力で逃げよう。
そう思って腰をかがめたとき、
「わっ!」
小さな悲鳴が上がり、視線を上げると足を踏み外して今にも落ちそうになっているではないか。
「あー、もう」
考えるより早く落下地点に滑り込み、なんとか彼女の体を受け止めることに成功した。しかしながら、ひ弱な僕の体じゃ衝撃を全て受け止めることは出来ず、尻もちをつき、反動余って後頭部を思いっきりコンクリートに打ち付けた。
「え? あ、あれ?」
彼女は腕の中で戸惑ったような声を上げた。なんとか無事なようだ。
そして意識が遠のく。
薄れゆく意識の中で思った。これは、電信柱の意趣返しだろうか。
目を覚ますと、見慣れぬ白い天井、カーテンから漏れる光が目を刺す。もう朝だ、いや昼かもしれない。
体を起して辺りを見まわすとここは病室のようだった。目を覚ましたのを見計らったようにタイミングよく扉が開かれた。
現れたのは呆れ顔をした母親だった。
「まったく、本当にどじだね、あんたは」
開口一番にそう言った母は息子の心配など微塵もない様子だった。
「今何時?」
「もう正午だよ」
十二時間以上眠っていたことになる。昼時だということを意識したら急に空腹を感じた。
昼食よりもそれより、なぜ自分がこんな所で眠っていたのか、念のため母に尋ねようとしたとき、病室の扉がノックされた。
母がそれに答え、扉が開かれた。
おずおずと低姿勢で入ってきたのは制服姿の一人の少女。
「あら渡会さん、どうぞ、どうぞ入って」
「失礼します」
入ってきた少女はベッド上の自分を認めると気まずそうに顔をそむけた。
「ほら、あんた。黙ってないで挨拶してお礼をいいなさい」
「お礼?」
お礼を言わなければいけないようなことを彼女にされた覚えはなかった。むしろ――。
「そうだよ、まったく。あんたが転んで頭打って、道に倒れてるところを渡会さんが見つけて救急車呼んでくれたんだよ。感謝ぐらいしなさい」
「お母さん、別にいいですから……」
彼女は謙虚にそう言ったが、母は聞く耳を持たず、無視やり俺の頭を下げた。
「ほら!」
「……ありがとうございます」
そう言わなければ収まりそうになかったので、渋々ながらお礼を口にした。
その後も散々俺を批判した後、母は飲み斧でも買ってくると言って一旦病室を後にした。
そして、残されたのは若い二人。
「……」
彼女は視線を合わせようとはせず、床をにらめっこを続けている。
「取りあえず、座れば」
立ちっぱなしだった彼女に椅子をすすめた。
「あ、ありがとう」
腰かけた後も、体はこちらを向いているのだが視線はやはり明後日の方向を向いている。
さて、どうしたものか。取りあえず自己紹介でもしておこうか。
「俺は砂原十夜。まあ、お見舞いはありがとう」
あくまで会見舞いに来てくれたことに対して礼を言った。
「私は、渡会瑠夏」そこで初めて彼女の双眸は俺を捉えた。「ところで、十夜君は気絶した後って前後の記憶を失うタイプ?」
何が「ところで」だ。いきなり何を言うかと思えば……。だいたい気絶なんて経験したことない人の方がほとんどだろう。「お酒飲んだら顔赤くなるタイプ?」と同じレベルで訊かれても困る。
と、つっこみどころ満載のところを我慢して俺は平静を保って答えた。
「バイト終わって……、自転車を盗まれて……、歩いて帰ってるところで……。ええと、それで……」
少々演技っぽかったがカマを掛けてみることにした。
「そ、そうなんだ。いやあ、機能は驚いたよ。いきなり道の上に人が倒れてるんだから。慌てて救急車呼んだよ。あ、別にそんな感謝しなくていいからね。人として当たり前のことをしたまでだから」
俺の記憶が曖昧としるや、瑠夏は態度を一変させた。
見事に引っかかった瑠夏に俺は言葉を続けた。
「電信柱に人影が見えて……、なんか叫んでるから近寄って見ると足を滑らして……、そこに俺がなんとか滑り込んで助けて……、勢い余って頭打ったところまでは覚えてるんだけど」
最後まで聞き終わると彼女は顔を青ざめて固まった。その表情の変わりようは見ていて面白かった。
「ええと……」
彼女は何か言おうとしたが言葉が続かず金魚のように口をぱくぱくとさせた。
「だけど、電信柱に登る変人なんていないよな。気絶したせいで記憶が混乱してるのかな」
「そ、そう、それだよ! いまどき高校生にもなって電信柱に登る馬鹿なんていないって。見間違いだよ。うん」
別に高校生などとはいっていないのだが。瑠夏は自分で墓穴を掘ったことにも気付かずに、満足そうにうなずいている。
「うっ!」
俺は頭を押さえて呻いた。
「どうしたの?」
瑠夏は心配そうに立ち上がって駆け寄ってきた。
「言葉が、頭に浮かぶ……」
「言葉?」
少し調子に乗っている彼女に、そろそろ現実を見せてやろうと思った。
「少年は、いつから大人に変わるんだろうな。ネクタイを締めた時か。違う。初めてを――」
「やめろおぉー!」
台詞を半分もいい終わる前に、飛びかかった彼女によって口を押さえられた。
そして絶妙なタイミングで母親が戻ってきた。きっと俺の上に覆いかぶさる瑠夏の姿が目に入ったことだろう。
「あら……、ごめんなさい」
温かい笑みを浮かべた母はその場に買ってきたと思われる缶ジュースを置いて再び部屋を出て言った。
「え? あ、ちょっと、違うんです!」
瑠夏の言葉はむなしく病室に響く。
消沈した瑠夏は椅子に腰かけて項垂れる。
「違う、電信柱に登ろうとしなくなった時だ」
「ああああぁ!」
顔を真っ赤にして再び飛びかかってきたが今度は布団をぶって咄嗟に防御した。
再び闖入者が現れてはたまらない、ということで場所を談話室へと移した。
「ううう」
瑠夏はといえば未だに唸りをあげて不機嫌を露わにしている。
「ほら」
母親が買ってきた二つの缶ジュースの内、一つを向かいに座る瑠夏に差し出した。
「……そっちがいい」
お礼よりも先に瑠夏の口から出たのはそんな言葉だった。渡したミルクティと珈琲を取り替えろとのことだ。
「……ほらよ」
紺状況でよくもまあずうずうしくそんなことが言えたものだ。呆れを通り越して、関心すら覚えた。
「ありがと」
そこで漸く礼を述べるとプルタブを開けてぐびぐびと喉を鳴らして珈琲を飲み始めた。
俺もそれに倣いひとまず喉を潤した。
一息ついて訪れる静寂。
瑠夏は飲み干した珈琲の缶を未だに握り締めて、目線は斜め下に向け決して合わせようとはしない。
「取りあえず、救急車を呼んでくれたことには感謝するよ」
俺はいったん詩も手に出て向こうが口を開き易くする作戦に出た。
「……うん」
作戦は功を奏さなかったようで、瑠夏はか細くそう呟くだけですぐにまた口を閉ざした。
俺は急に面倒くさくなった。
「で、なんで俺が勝手に転んで気絶した間抜けになってるのかな?」
「だ、だって……」
「危ないところを助けてやったっていうのに、まったく。俺がお前を助けたっていうのに、いざ目が覚めてみればお前が俺を助けたことになってるじゃないか。恩をあだで返すとはこのことだよ」
その後も相手が黙っていることをいいことに言葉が続く限り相手をののしり続けた。
思えばその時の俺はいらついていた。目が覚めたら急に病院のベッドの上にいるという状況にいらついて、さっき飲んだミルクティに胃を刺激され、忘れていた空腹を思い出してさらにいらついていた。
思いつくままの罵詈雑言を並べ数分たったころ。
「じゃあ……」
不意にベース音のように重い声が響いた。
「ん?」
「じゃあ、何て言えばよかったっていうのよ!」
勢いよく顔を上げた瑠夏はあらん限りの声量で喚きだした。よく見ると、目尻に涙が溜まっていた。
「未成年のくせに酒のんで、その勢いで電信柱に登って、恥ずかしいことを叫んで足滑らして落ちて、通りがかりの君に助けられたけど、私を受け止めた反動で君は頭打っちゃって気絶したから救急車呼んだって、そう言えばいいの!」
「そうだよ。っていうか落ちつけよ」
「うるさい! そしたら私の社会的立場はどうなるの?」
「知らねえよ。だから落ちつけよ。周りの病人がドン引いてるぞ」
俺の言葉に我に返った瑠夏はすぐさま周りを見渡す。しかし幸いなことに談話室にいるのは俺と彼女の二人だけだった。
騙されたと気付いた瑠夏は顔を真っ赤にして机を両手でどついだ。
「くっ……、この」
瑠夏は言葉にならない怒りを覚えたようでわなわなと震えだした。
「落ちつけよ」
三度目の正直。三回目のその言葉に瑠夏は大きく深呼吸してなんとか自分を落ち着かせたようだった。
「ふうー」
瑠夏は一息ついて手元の缶珈琲に手を伸ばし、またも勢いよく煽るが中身は空っぽだ。
「っ……」
思わず噴き出しそうになったがなんとか堪えた。またキレられてはかなわない。
「笑うな!」
どうやら顔に出ていたようだ。
瑠夏は俺のミルクティを奪い取ると残りを飲み干してしまった。
「落ち着いたか?」
「……うるさい」
「まあ、うん。俺もいいすぎた感はあるよ。ごめん」
「こっちも、ごめん。色々でたらめ言っちゃって」
やっと謝罪の言葉を彼女の口から聞くことができて少しは俺の気持ちを落ち着いた。
「よし、じゃあ真実を伝えに行こうか」
俺は立ち上がり言った。
「え? ちょっと、待って!」
瑠夏は机越しに服の袖を掴みにかかり俺をその場に留めた。
「え、何?」
「え、じゃないよ。ここはお互い謝って仲直りの流れでしょ?」
「いやいやいや、真実を伝えなければ」
立ち去ろうとするが瑠夏は頑なに袖を話そうとしない。
「一旦落ち着こう、ね?」
「俺はいたって冷静だ」
落ち着こう、とさっきまで喚き散らしていた瑠夏に言われるのはなんとも心外だった。
仕方なく一旦腰を落ち着かせた。
「その……、全部ありのままに言うつもり?」
「そう言っているだろ?」
「ちょっと待ってよ。さっきも言ったけどそしたら私の立場が……」
瑠夏はしおらしくそう言ったが、そんな態度には騙されない。
「じゃあ、俺の立場はどうなる。入院したともなれば自ずと誰かの耳に入る。なぜ入院したと聴かれて、何もない道端で転んだって話せばいいのか?」
「いいじゃない、それぐらい」
「いや、よくない」
俺は再び立ち上がろうとする。
「待って、待って! お酒のんで電信柱に登ってたなんて学校に知れれば停学、へたすれば退学になっちゃうよ。私の人生がどうなってもいいって言うの……?」
「まあ……」
確かに学校を退学になるのは可哀そうだと思わないこともない。
「人でなし! あ、嘘です、ごめんなさい。どうか黙っていてください。何でもしますから」
瑠夏は机に頭をこすりつけながらそう言った。
「なんでもねえ……」
そういうやつが一番信用できないのだが。
どうしたものかと疲れた眼差しで瑠夏を見ていると、
「あ、エロい目で見てる」
と言って両手で自らの体を隠す仕草をした。
なので俺はすぐさま席を立った。
「ごめんなさい冗談です。……え? 本当に言っちゃうの? 待って、待って!」
出口に差し掛かったところで腰のあたりに衝撃を感じた。
振り向くと瑠夏がしがみ付いているではないか。
「行かないでください」
そう言う瑠夏は涙声だった。その必死さになんだがこの少女が可哀そうに思えてきた。
「わかった。分かったから離れろ」
瑠夏を引きはがして、再び俺たちは席に着いた。
「何でもするって?」
「う、うん」
先ほどの軽はずみな言葉とは違い、頷く瑠夏の声には覚悟を決めた何かがあった。
「じゃあ、なんで電信柱に登ろうと思ったのか聴かせてもらおうか」
「え、それだけ?」
瑠夏は拍子抜けした声を上げた。
「その理由次第によっては見逃してやるよ」
「わかった。話すよ。……ああ、でもこれはこれで恥ずかしいな」
そして瑠夏は滔々と話し始めた。
「あれは、まだ私が小学生のころ――」
「それはどうでもいい」
「ちゃんと繋がるから。黙って聞いて」
「おーけー……」
長くなりそうだなと、少し後悔した。
小学生の、特に低学年の時ってさ、男の子も女の子もほとんど関係ないじゃない。いや、まったく関係ないってわけじゃないけど、まだそんなに壁が無いと思うの。
私は交換日記とか、プリクラの交換とか、周りの女子がしていることより外で走りまわってることの方が好きだった。だからいつも男の子とばかり遊んでいた。
いつも五、六人のグループでサッカーして、野球して、雨の日にはみんなでテレビゲームなんかもして。
その中でもリーダー格の男の子、仮にK君としよう。私は密かにK君が好きだった。男の事ばっかりつるんでいても所詮私は女の子だったのです。
ある夏の日、お盆の時期だったかな。他の皆はお墓参りに行ったり、田舎に帰ったりしていて、その日遊びに集まったのは私とK君のふたりだけだった。
意中のK君と二人きりでその時の私は緊張していた。いつも普通に話しているのにそのときだけはうまく話すことができなかった。
いつも活発で明るいK君もなぜかその日はテンションが低かった。
二人だけだとさして大層なこともできず、バットとボールを持って公園に行ったはいいが、すぐに飽きてしまった。炎天下のせいもあり大人しく家でアイスでも食べようということになった。
とぼとぼと二人で歩いているとき、
「俺、お前のこと好きだよ」
突然の告白だった。私は思わず持っていたグローブを落とした。
何も言葉を返すことができず、あわあわと狼狽えるだけだった。
私が視線をさまよわせ、挙動不審に陥っていると、K君は急に近くの電信柱めがけて走りだした。
電信柱って登るためかわかんないけど取っ手が付いているでしょ?
K君は助走をつけてその取っ手めがけて跳躍した。手にかすりはしたが掴むことはできなかった。
「どうしたの、急に?」
二つのことについて私は尋ねた。
軽く息を切らしながらK君は言った。
「前に皆で電信柱に登ろうとしただろ?」
私は首肯した。
男の子とは木なり、壁なり、高い所に登りたがるものだ。それでその日は電信柱に登ろうということになった。公共物ということで変な背徳感があり、皆はいつもより高ぶっていたように思う。
一気盛んに皆は登ろうとするが、それがうまくいかない。デコボコがなくすべすべしているので電信柱そのものを掴んで上ることはできなかった。そこで一番低い所にある取っ手を掴もうとするが届かない。
その当時、一番背の大きかった私でも指先が掠めるのがせいぜいだった。
やがてすぐに皆は諦めた。
K君はその時のことを言っていたのだ。
「うん、覚えてる」
「しょせん俺たちはまだ子供なんだと思った。だから、せめてあの電信柱に余裕で登れるぐらいになったらもう一回、ちゃんと言うから」
私はただ無言でうなずいた。
その時のK君の言葉にひどく感動したことを今でも覚えている。
まるで『大人になったら結婚しよう』と、プロポーズされてる気分だった。
というわけです。
「ふーん……」
聴き終えて、さして言葉にするべき感想は咄嗟には思い浮かばなかった。
「何その気の無い感想は! 人の美しい思い出を」
「それで?」
と、続きを促した。
今の話だけだとまるで繋がらない。
「うっ……」
瑠夏は苦虫をかみつぶしたように顔をしかめた。どうやら、これから先は美しい思い出ではないらしい。
トーンを一層低くして瑠夏は話し始めた。
「高学年になると一緒に遊ぶことが減った。中学に上がるとほとんどなくなった。そのころに携帯電話を買ってもらって一応番号は交換したけど、K君からかかってくることは無かった」
先ほど話したときの倍速ぐらいの早さで一気に話した。
「多感な時期だからねえ」
「高校は別々になった。高校生と言えばもう大人の一歩手前、私は期待して待ってた。そして一年、何の音沙汰もなかった。そして最近、二年の夏休みとなり近況報告を兼ねて同窓会が開かれた。クラス四十人に対して来るのは十数人とのことだった。だけどその中にK君がいることに期待して私は出席した。
私の願いは聞き届けられ、その中にK君はいた。人目K君を見たとき私の胸は高鳴った。久しぶりに見た彼は少し大人っぽくなっていたけどほとんど変わっていないように思えた。一時間ほど談笑した後誰かが言った。『おいK、彼女できたって?』と。は? いやいや、そんなわけないでしょ、と私は心の中で突っ込んだが。K君は……」
人の不幸はなんとやら。不謹慎ながら少し楽しくなってきた。
「それで、それで?」
母親に絵本の続きを催促する子供のように俺は先を促した。
「くっ……。K君は少しはにかんで携帯を開いた。そこには幸せそうに笑ってるとK君と見知らぬ女が……ああ!」
その時を思い出してか瑠夏はうつ伏せになって唸った。
「なるほど、なるほど。それで自棄になって酒を買ってあの夜に至る、と」
俺は柏手を打って納得した。
「納得してないでなんかこう、慰めの言葉とかないの?」
「……どんまい」
「はあ、もういいよ。兎に角、話したんだから、その……そういうことで」
「仕方ないな。こんな面白い喜劇、あ、失礼。悲劇を聴けたからよしとしよう」
「……ありがと」
礼は言っているが、どこか釈然としない様子だった。
結構話しこんでいたせいで窓の外はうす暗くなっていた。「一応、また来る」といって瑠夏は病院を後にした。
翌日、精密検査をして異常がなかったらそのまま退院していいと担当の医師に告げられた。
検査は夕方からということで、ベッドの上で暇を持て余していた。そこで考えるのは瑠夏のこと。
今思えば、数年間一途に思い続けるなんて昨今の少女にしてみたら珍しいことではないだろうか。それを笑い飛ばしてしまって少し申し訳ない気持ちが芽生えた。
しかし、幼いころの約束なんてそんなものだろう。『将来結婚しよう』なんて、よく子供が口走ることだ。最近覚えた言葉を使ってみた程度なんだろうけど。
それを純粋に高校二年生まで……、ああ、急に瑠夏のことが可愛く思えてきた。
「なに、にやにやしてるの。気持ち悪い」
ベッドの脇に瑠夏が立っていた。
「うおっ! 吃驚した。いつの間に入ってきたんだよ」
心底驚いた。
「ちゃんとノックしたよ。どうせエッチな妄想して気付かなかったんでしょ。これだから男は……」
「してねーよ」
K君のせいで早くも男性不審に陥っているようで、やけにとげとげしい。
「検査は?」
「まだだって」
「ふーん」
そう頷くと瑠夏はベッドに腰かけた。
見える横顔はどこか浮かばないように思える。まだK君のことを引きずっているのだろうか。あまひ日も経っていないし、それも仕方ないことかもしれない。
「Kちゃんの話しをしよう」
場を和ませようとそう切り出したが、帰ってきたのは『は?』という表情だった?
「いや、幼稚園の頃キョウコちゃん、あ……。Kちゃんという女の子がいた。Kちゃんは人目も憚らず俺のことを好き好きと言っていた。そしてある日『大きくなったら結婚しよう』と言ってきた。結婚の意味も良く理解していなかったが、俺は『うん』と大きくうなずいた。しかし数週間後同じセリフを違う男の子にも言っているのを聞いた時はショックだったなあ。……子供の言うことなんてそんなものだよ」
「もしかして、慰めようとしてくれてるの?」
瑠夏は少しあきれ顔だった。
「もしかしなくても、そのつもりだ」
「一緒にしないでよ。君はたった数週間かもしれないけど私なんて……」
そこで瑠夏は言葉に詰まった。もしかして逆効果だっただろうか。
「まだK君のことが?」
その問いに、瑠夏は少し考えるそぶりを見せて答えた。
「ううん、なんかもうK君のことはあの瞬間に一気に冷めた。そして、なんで今までK君のことを思っていたのだろうと考えてた。好きになったきっかけだって、もう覚えていないのに」
しみじみと瑠夏は言った。
「そんなものだよ。子供のときに信じたものは気づかなきゃいつまでも盲信的になるものさ。俺の友達は高校一年までサンタクロースを信じてた」
瑠夏は噴き出してその時初めて笑顔を見せた。
「まじ?」
「マジ」
そして見つめ合って笑い合った。
「その友達はどうやって気付いたの?」
「俺がその非現実性を説いてやった。そのせいで親と大ゲンカしたらしい。そしてその後は今のお前と一緒のように、なんで今まで信じていたのだろう、と自分を呪ってたよ」
「酷いね、君は。いやでも、気付いてよかったのかな。……それにしても高一までサンタって――」
思い出して瑠夏はまた笑った。
「サンタじゃないけどお前は高二まで気づかなかったわけだ」
その余計な一言に瑠夏は激昂して飛びかかってきたが、咄嗟に布団をかぶって防御した。
「出て来い、こら!」
「その飛びかかるのは、くせなのか?」
「うるさい!」
布団の上から殴ってくるが、ぼふぼふと音が響くだけで何のダメージも受けない。
数分して瑠夏が落ち着いてきたところを見計らって顔を出した。
「何にせよ、気付けてよかったじゃないか」
「そう、だよね。これで新しい恋も始められるってもんだ」
なんだか話しもうまくまとまったところで、病室のドアがノックされた。訪れたのは医師で準備が整ったとのことだ。
検査の結果、問題は無く、その日に退院が決まった。
すぐ終わると思っていた検査だったが、意外と長引き、既に日は落ちていた。
瑠夏は律儀にも検査が終わるまでロビーにて待っていた。母親が退院手続きなど済ませて来るというので先に帰ることにした。
病院を出ると自然と瑠夏もついてきた。
「何ともなくてよかったね」
「そうだな。障害とか残ってたらさすがにお前も居たたまれないだろ」
「……せっかく親切心で言ったのに。なんでそんなにひねくれてるかな」
頬を膨らませていじけたような表情をする瑠夏は本当にただ心配していただけのようだった。
瑠夏の昔話のせいか、街灯に照らされる電信柱がやけに目に付いた。いつでもそこにあったが、そんなによく観察したことは無かった。登ってみようなどとは微塵も。
話しに会った通り、確かに掴め様な取っ手があった。一番下のそれはそれほど高いとも思わず容易に掴めそうだった。
ふと、思い立った。
「ちょっと何やってるの?」
俺は近くの電信柱に飛び付いた。
瑠夏が原因とはいえ、ちゃんとお見舞いにも来てくれたし、退院するこの時まで付き添ってくれたことへのお礼のつもりだった。
数年間、瑠夏が思い描いた光景を見せてやろうと思った。残念ながらK君ではないが。
しかし、登るのは案外きつい。此処で登れませんでしたじゃ、あまりにも恰好がつかないのでなんとか踏ん張る。しかし、瑠夏はよく登れたな、こんなの。
「危ないよ、病み上がりなんだから!」
制止の声に耳は貸さず、必死に登り続ける。
なんとか一番上に辿り着いた時には既に疲労困憊だった。
瑠夏はそんな俺の様子を心配そうに見上げたり、誰か人が通らないかときょろきょろとあたりを見回している。あの夜とは立場が逆だ。
息を整え、一呼吸置いて俺は言った。
「もう電信柱に登れるぐらい大人になった。だから改めて言う、お前が好きだ!」
恥ずかしかったので、言い終えるとすぐにするすると地上に降りた。
「……」
瑠夏は何も言わず呆然としていた。言葉も出ないほど呆れているのだろうか。
「お前が数年間思い描いた光景を自分なりに再現してみたわけだが……、こんなのか?」
あまり好い反応が得られず、後悔していたところだったが、
「うん」
そう頷いたと同時に瑠夏の双眸から涙があふれた。予想外の反応にただうろたえた。
「え、えぇ?」
「本当に、思い描いてたのそのまんま。何度も、何度も夢想した。結局K君は他の子と付き合っちゃって、もう無理だとおもってたけど、ありがとう」
「お、おう」
まさか、むせび泣くほど喜ばれるとは思いもしなかった。
瑠夏は落ち着いたのか涙をぬぐって笑った。しかしまだ目は赤い。
「じゃあ、その。これからよろしくね」
「……ん?」
「……え?」
しばしの空白。
時が止まったかのように音も消えた。
「告白、してくれたんだよね?」
いやいや、何でそうなるんだよ。
と、言おうとしたが、うるうると、子犬のような瞳で見つめられて言葉が出てこなかった。
「そ、そうだよ。うん」
だから、そう答えるしかなかった。
しかし、その一瞬の間が良くなかった。
「まさか、ただ単に私をからかってただけ……?」
急に冷めた顔つきになって瑠夏は問い詰めてきた。
「違うって、決してそんなつもりではない」
それは声を大にして言った。
「からかうつもりじゃないとしても、告白したつもりでもなかった?」
「いや、そんなこと……、無くもないような、気がしないでもない」
もう、何を言っているのか自分でも分からなかった。
「もう、なにそれ! なんか私一人で舞い上がって……」
しだいに瑠夏の声が小さくなり、また泣き出しそうな雰囲気を醸し出していた。
「いや、好きだよ。本当に! うん。付き合ってください」
もうやけくそだった。
瑠夏は推し量るようにじっと見つめてくる。
それに対し、ただ真剣な表情を保つことに努めた。
街灯の光によってできた電信柱の影があざ笑うかのような形に伸びていた。これから通りかかるたびに蹴りを入れてやろうと強く誓った。
読んでくださってありがとうございます^^
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