ディックとの出会い
『女……女の匂いがする……』
「きゃっ!」
森の中で声を上げたヤツハに驚き、サクが思わず身構えた。
「どうした、ヤツハ?」
シリウとカイルも周りを警戒した。 するとすぐにヤツハが苦笑して、一方を指差した。
「あれは……」
カイルはゆっくりと草むらに分け入り、ヤツハが指差したほうを見た。
「ディンゴの死骸だ。 この間襲われたときに戦った跡だな……」
カイルは足元にゴロゴロと転がるディンゴたちの死骸を見ながら、感傷にふけった。 自分のミスで群れを呼び、無駄な殺生をし、挙げ句の果て、ヤツハに重傷を負わせてしまった。
それに気付いたヤツハは、カイルの肩にそっと手を置いた。 切なげに振り向くカイルに、ヤツハは微笑んだ。
「あたしはもう大丈夫よ。 だからカイルも、もう気にしなくていいの!」
笑顔で言うヤツハに、カイルは微笑み返した。
「すまない……」
「こら! 謝らない! ……あ……」
ヤツハはカイルの頭を小突いた拍子に、その向こうに何かを見つけた。 その視線の先には、小さなディンゴが、息絶え倒れている大きなディンゴに擦り寄って小さく鳴いていた。
「ディンゴの子供ですね?」
シリウが眼鏡を上げた。
「もしかして、親……?」
カイルが言うより先に、ヤツハはその子ディンゴに近づいて行った。
「ヤツハ、危ないぞ!」
サクたちの心配も顧みず、そっとヤツハが近づくと、それに気付いた子ディンゴが一歩後退りして歯を剥き出した。 唸る子ディンゴを見つめながら、ヤツハは少し離れたところで静かに両膝をついた。
「あなたのお母さんなのね?」
そう優しく声を掛けるヤツハの前でしばらく警戒していた子ディンゴは、やがて傍らに倒れているディンゴの腹に鼻を擦り付けた。
「乳を探してるんだ……」
カイルもそっとヤツハの近くで子ディンゴを見つめていた。 ヤツハはおもむろに子ディンゴへと手を差し伸べた。
「ヤツハ!」
驚いて止めようとするカイル。 シリウとサクも心配そうに見つめる前で、ヤツハは
「大丈夫」
と呟いた。 その手が背に触れる直前に、驚いた子ディンゴは咄嗟に牙を剥けた。
「!」
手を引いたヤツハの手から、赤い血が伝い落ちた。
「ヤツハ、危ないって! 子供とはいえ、野生だぞ!」
カイルがヤツハの肩に触れると、ヤツハは振り向いて微笑んだ。
「大丈夫だから。 たいしたことないよ」
そして、牙を剥いて威嚇している子ディンゴに話し掛けた。
「こんな怪我より、親を亡くす方がずっと悲しい」
カイルはハッと我に返った。
ヤツハは子供の頃に、母親を亡くしている。 父親も行方不明で、その顔さえ知らない。 そして、カイルもまた、育ての母マチを亡くした。 二人とも、目の前の子ディンゴに自分を映した。
「あたしたちと、一緒に来る?」
「ヤツハ……?」
立ち上がるヤツハを、カイルは見上げた。
「来たかったら、ついておいで」
ヤツハは子ディンゴに微笑みかけ、踵を返した。 カイルは子ディンゴに何度も振り向きながら、急いでヤツハを追った。
約十分後。
「ヤツハ……」
とシリウが後ろを促すと、少し離れた所を小さな影が動いていた。 ヤツハが声をかけた子ディンゴがついてきていたのだ。
「さっきの!」
ヤツハは笑顔で子ディンゴに近寄ると、まだ警戒しているのか、少し離れてヤツハたちを伺っている。
「大丈夫。 皆優しいわ。 何も怖いことなんてしない。 一緒に行きましょう」
ヤツハは子ディンゴに微笑みかけ、そっとサクたちの方に戻った。
「いいのか?」
カイルが聞くと、ヤツハは頷いた。
「せめてものお詫び……気持ちは、分かるもの……」
そう言って、ヤツハは軽い足取りで歩き始めた。
それから三十分もしないうちに、子ディンゴはその距離を次第に縮め、やがてヤツハの傍にぴったりついて歩き始めた。
「すっかり慣れたみたいだね」
カイルが子ディンゴの頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。 ヤツハは嬉しそうに笑い、子ディンゴの背を撫でた。 硬い毛の感触は、すっかり大人のものだ。
「乳を欲しがっていたから、まだ生まれたてのようですが、随分大きいですねぇ」
シリウの言う通り、子ディンゴとはいえ、四本足で歩くその背は、ヤツハの膝上まである。 時折じゃれるように立ち上がると、ヤツハの腰に軽く届く。
「成犬でも三メートルを超すというから、子供ならこれくらいでも小さい方なんじゃないか?」
カイルもすっかり子ディンゴが気に入ったように微笑みながら見つめていた。
「野生だから、いつ何が起こるか分からないじゃないか!」
「?」
見ると、サクがかなり距離を取って前を歩いている。
「さっきから静かだと思ってたら、そんな先に行っていたんですね。 大丈夫ですよ。 急ぐ旅ではありませんから」
あとはソラール兵士養成学校に帰るだけだ。 とりあえず、ファンネル校長宛てに手紙も飛ばした。 アルコドの泉を元に戻すという依頼も無事に済んだ今、ゆっくり帰れば良いのだ。
「いいよ、俺は先に行く! お前らはゆっくり来ればいいぞ!」
「?」
三人がきょとんとしていると、サクを目指して子ディンゴが走って行った。 途端に、サクは顔を引きつらせ、慌てて近くの木によじ登った。
「まさか……」
ヤツハが口を押さえて笑いをこらえた。 カイルも勘付いて、思わず吹き出した。
「サク、犬系が苦手なのか?」
するとサクは顔を赤らめて叫んだ。
「そっ! そんなわけねーだろうが! 俺はそんな弱くねえっ! ほら、こいつをそっちにやれっ! ヤツハのだろっ?」
サクを見上げて木の根元に立ち上がり、舌を出してちぎれんばかりに尻尾を振る子ディンゴ。
「この子は、サクと仲良くなりたがってるみたいですよ」
シリウの眼鏡が意地悪く輝いた。 それを見たサクは
「シリウ、お前っ! お前までっ!」
と目を丸くして叫んだ。 カイルがシリウに尋ねた。
「シリウはもしかして、知ってたのか?」
「はい!」
シリウの力強い返事に、ヤツハとカイルは大笑いをした。
「笑ってないで、こいつをなんとかしろって!」
困ったように口調が変わったサクに、ヤツハは涙を拭きながら言った。
「この子は犬じゃないわ。これから一緒に生きてく仲間! 名前も決めたの。 ディック!」
ディックは嬉しそうに三度吠えた。
「ヤツハ、噛まれたトラウマがあるだろうが?」
サクが木の上から言うと、ヤツハは少し怒った表情で言った。
「サク! あたしが咬まれたのは、攻撃したからよ! 何もしなければ、群れのままおとなしくしていたはず。 それにトラウマなんてないから大丈夫。 だからサクも下りておいでっ!」
まるで親のように叱るヤツハに、サクは渋々下り始めたが、ディックがちぎれんばかりに尻尾を振りながら吠えるので
「頼むから、そいつ向こうにやってくれよ……」
とサクは懇願した。 ヤツハは軽く笑ってディックの背を軽く叩いた。
「ディック、サクはあんたが苦手みたい」
ディックはヤツハの顔を見上げ、理解したのか、寂しそうに木の下から離れた。 やっと地面に下りられたサクは、ディックを警戒しながら
「先を急ぐぞっ!」
と先頭を切って歩き始めた。 シリウたち三人は顔を見合わせて笑い、サクの後を付いていった。
「へへへ……女……女の匂いがするぞ……」