故郷は涙の香り
一方カイルはというと、夕刻の町の中を一人でゆっくりと歩いていた。
訓練に明け暮れる毎日を忘れさせるような平和な町中は、つい数時間前まで厳しく危険な旅をして来たことさえも和ませるようだった。 武器も防具も持っていない普通の人になっているカイルは、町の片隅のベンチに座って、しばらく人の往来を眺めたあと、おもむろに立ち上がるとまた歩き始めた。
そして一軒の店の前まで来ると、立ち止まった。
木で出来たあまり大きくない建物は、どうやら飲み屋のようだった。
『セブンスヘブン』と小さく看板がある扉を開くと、
カランカランカラン――
と、丁度いい音量をしたベルの音が、心地よく頭上から降ってきた。
「いらっしゃいませ」
低い声が耳に届いた瞬間、カイルの顔がほころんだ。
「あら、久しぶりですねぇ」
カウンターの向こう側には長身のマスターが控えていて、彼はカイルを見るなり少し驚いた顔をした後、すぐに歓迎するように微笑んだ。
肩まで伸びたストレートの黒髪をひとつにまとめ、口元に髭を蓄え、白いノータイのブラウスに黒いベストがしっくり似合っている。 清潔感のある、印象の良いバーテンダーだ。
「久しぶり。 賑わってるみたいだね」
カイルはかろうじて空いていたカウンターの端に座った。 店内にはカウンターの他に五つのテーブル席があり、そのほとんどが埋まっていた。
ほろ酔いの客たちは各々に話し合い、盛り上がっている。
「おかげさまで。 この辺りは商売もまだまだ盛んですから」
カイルは差し出されたメニュー表を手にすると、フルーツドリンクを頼んだ。
「かしこまりました」
マスターは丁寧に軽くお辞儀をすると、ドリンクを作りはじめた。 その様子を、頬に手を付いて眺めるカイル。 その顔にはずっと笑顔が浮かんでいる。
「懐かしいな……」
と呟くカイルの肩が、ぽんと叩かれた。 振り向くと、トレイを持った女性店員が立っていた。 まだカイルと同じ歳くらいの彼女は、カイルに向かって明るい声を出した。
「久しぶりじゃん! 元気だった?」
途端、カイルの笑顔が弾けた。
「! オッカ、久しぶり!」
思わず立ち上がったカイルに、オッカは空のトレイを無造作にカウンターに置くなり抱きついた。 カイルもまた、オッカの背中を軽く叩きながら抱き締め返した。
「もう、会えないかと思った……」
そう呟くオッカの瞳には、涙が溢れていた。 カイルは身体を離して、指でゆっくりとその涙を拭いてやると、笑顔で覗き込んだ。
「元気にしてた?」
オッカは無理やり微笑んでみせ、大きく頷いた。 そしてカイルを再び席に座らせると、ゆっくりして行って、と涙を拭った。
「お待たせいたしました」
マスターが出してくれたフルーツドリンクをストローでゆっくり飲んでいると
「久しぶりだね!」
と再び声が掛かった。 さっきと違う声に再び振り返ると、目の大きな男の店員が笑顔で立っていた。 立てた短髪が元気の良さを表しているようだ。
「カゲ!」
カイルはまたもや笑顔が弾けた。
「久しぶり! 皆、元気そうでよかった!」
ホッとしたように息をついたが、落ち着く暇もなく、カイルは二人と話しはじめた。
それは、久しぶりの再会を果たせた事の喜びであり、昔に戻れる一時でもあった。 カイルはずっと、とびきりの笑顔を見せていた。 まるで無邪気な子供に戻ったように。
オッカもまた、仕事はそっちのけでトレイをカウンターに乗せたまま話し込んでいたが、マスターはただ微笑んで三人を見守るだけであった。
その時
カランカランカラン――
という来客のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ~!」
反射的にオッカとカゲが挨拶をした。 カゲは、注文を取ろうとトレイを手に取り掛けたオッカを制止して
「いいよ、ボクが行ってくる! オッカはゆっくり話してて!」
と笑顔で言うと、お客のもとへと近づいていった。
「カゲはホントによく動いてくれるんですよ」
マスターが微笑んで言った。
「皆、変わってないみたいだ」
カイルは目を細めた。 カゲは一人で入ってきた若い男の客を席へと誘導すると、メニュー表を渡した。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
丁寧に応対すると、客の男は微笑んで言った。
「なんだか、盛り上がっているようですね」
男の視線をたどるとカウンターで仲良く話すカイルとオッカが見えた。
「ああ、久しぶりに会ったので、喜んでるんです」
「久しぶりの再会ですか?」
「ええ。 で、ご注文は……?」
カゲが笑顔で尋ねると、男は
「珈琲を戴けますか?」
と微笑んでメニュー表をカゲに手渡した。
「かしこまりました。 少々お待ちください」
軽く一礼すると、カゲはカウンターに戻り、マスターに
「珈琲ワン!」
と告げた。 カゲもカイルとオッカの間に入り話し込んでいると、やがて珈琲のいい香りがあまり広くない店内を漂いはじめた。 賑わっている店内が、一時和むようだ。
「珈琲、出来ました」
マスターがカウンターにコーヒーカップを置くと、カゲは小気味よい返事をして受け取り、男の前に丁寧に置いた。
「お待たせしました」
「ありがとう。 ところで……」
男はカゲに囁くように言った。
「あの人たちは、恋人なんですか?」
『あの人たち』とは、カイルとオッカの事だろうと気付いたカゲは、思わず吹き出した。
「あはは! 違いますよ! あの店員じゃない方、男っぽい格好はしてますが、れっきとした女なんですから」
「はい?」
「二人とも女の子!」
カゲはくったくのない笑顔で繰り返した。 まるで、カイルの事を面白がっているようだった。
「そうだったんですか……それで……」
男は不意に何か考え込んだ風になった。
「どうかしたんですか?」
カゲが心配そうに言うと、男は我に返って微笑んだ。
「あ、変なこと聞いてすみません。 ありがとうございます。 いい香りですね」
「ありがとうございます。 ココの珈琲は、マスターが自ら厳選した豆から挽いてますから! うちの自慢なんですよ。 ごゆっくり」
カゲはまた軽く一礼して、カウンターに戻った。
店内はかなりの賑わいようで、やがてカゲとオッカも仕事に追われた。 グラスに残った氷をストローで軽くつつくカイルに、マスターが優しい口調で尋ねた。
「気持ちは、あれから変わりませんか?」
するとカイルは氷を見つめたまま手を止めて頷いた。 マスターは小さく息をつき、言った。
「そうですか……オッカもカゲも、毎日の様にあなたのことを心配していますよ」
カイルは肘をつくと、苦笑いをした。
「分かってる。 けど、俺はアイツを絶対許さない」
静かな口調からはそれでも、固い意志が感じられた。 マスターはやはり、とあきらめたような小さいため息をつき
「約束、覚えていますか?」
と尋ねた。 カイルは微笑んだ。
「もちろん。 必ず生きて帰って、セブンスヘブンの用心棒になるよ」
そして、空になったグラスを軽く押して席を立つと
「そろそろ行くよ」
と懐に手を伸ばした。
「今日は、お勘定はいりませんよ」
マスターはそう言って、グラスを下げた。
「帰ってきたら、その分働いてもらいますからね」
マスターはからかうように微笑み、カイルは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いて微笑み返した。 慣れた間柄の仕草だった。
「あれ、もう行くの?」
仕事に追われながら、カゲが声をかけた。
「ああ。 皆の元気そうな顔を見られて良かった。 また来るよ!」
カイルは笑顔で言った。 そしてひとつ手を振ると、静かに店を出ていった。
カランカランカラン――
その音を追うように、扉を開ける音がした。
「カミィル!」
カミィルと呼ばれたのは、カイルだった。 トレイを持ったまま追い掛けてきたオッカは、助走をつけてカイルに抱きついた。
「オッカ!」
その勢いに、受け止めたカイルはかろうじて倒れることを免れた。
「お願い! 生きて、必ず帰ってきて!」
悲痛な表情で言うオッカに、カイルは微笑んで頷いた。
「約束する。 全て終わったら、必ず帰ってきて、セブンスヘブンで一緒に働く」
オッカの潤んだ瞳が街灯に照らされて揺れている。 外はすっかり夜だ。 だが、人の往来は相変わらず多い。
カイルはオッカの頭を優しく叩き
「ほら、もう泣かない! 泣き顔なんて見せたら、お客さんに失礼だろ?」
いたずらっぽく笑いながら、オッカの顔を覗き込んだ。
カゲは放心した表情でカウンターに寄りかかっていた。
「行ってしまいましたねえ」
マスターの静かな言葉に、カゲは呟くように言った。
「でも、信じたいんだ……カミィルのこと……」
固い意志を持った瞳で言うカゲの横に、人影が並んだ。
「お会計をお願いします」
話し掛けたのは、さっきの若い男だった。
「呼んでくだされば、参りましたのに」
マスターが申し訳なさそうに言うと、男はいいえ、と首を横に振り
「さっきの子とお知り合いなんですか?」
微笑んで話し掛けた。 カゲは会計をしながら
「あなた、一体誰なんですか?」
と怪訝な表情で尋ねた。 さっきからカイルの事を探るような質問をしていることに、今更ながら気付いたのだ。
懐からお金を取り出すと、男は外していた眼鏡を掛けながら静かに答えた。
「一緒に旅をしている、シリウと言うものです」
すると二人は驚き、そして顔を見合わすと、途端に喜びの表情になった。
「アイツ、『俺はいつも独りだ』なんて言ってたけど、ちゃんと仲間がいるんじゃないか!」
カゲは嬉しそうに叫んだ。
「他にも二人居るんですよ。 皆、いい仲間たちです」
シリウの言葉に、マスターも嬉しそうに頷いた。
「あまり自分のことを話してくれないので、ついここまで後をつけてきてしまいました」
苦笑いをするシリウに、マスターとカゲも同意するように苦笑いを返した。
「僕たち、孤児なんです。 ある事件があって家もなにもかも失った時、救けてくれたのがマスターなんです」
「そうだったんですか。 で、その事件と言うのは……?」
そう尋ねた時、
カランカランカラン――
とベルの音が鳴り、オッカが戻ってきた。 涙を拭きながら店に入ってきた彼女は、カウンターで二人と一緒にいるシリウに気付くと、近寄ってきた。
「何かあったの?」
客と何かトラブルでもあったのかと営業モードに切り替わったオッカに、カゲは笑って言った。
「この人、カミィルと一緒に旅をしているんだって!」
するとオッカは目を見開いて再び涙を溜めてシリウに詰め寄った。
「お願い! カミィルを助けて!」
「オッカ!」
長身のシリウにしがみつくように肩口を掴むオッカを抑えるように、カゲがオッカの肩を優しく掴んだ。
「カミィル、と言うんですね、彼女の本当の名前は?」
オッカとカゲは大きく頷いた。 懇願する意志が詰まった瞳が照明を反射して輝いている。 シリウは微笑みながらオッカの両手を握った。
「カミィルは僕たちの大切な仲間ですから。 痛みは分け合うつもりでいます。 それに、僕も安心しました」
そう言いながら、二人とマスターを見た。
「こんなに心配してくれる人たちがいるということに」
シリウは三人に、必ずカミィルを守ると約束をした。