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果実  作者: さはら
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エピソード1 能登へ

一ヶ月前、兄の真一が殺人事件を起こし弟の亮は以前ボランティア活動をしていた能登に戻ろうと考えていた。実家の母を家に残したまま黙って家を出てしまった。

兄、真一の事件の後、私は大学に戻ることができず退学を考え始めた。

母は仏壇の前に座りじっと目を閉じていた。

そんな母一人を置いて行くのは心苦しかったが、私はこの家を出る事にした。音を立てないように静かに––ゆっくり玄関の鍵をかけた。金属が落ちる冷たく重い感触だけが指先に残った。母を奥の部屋に閉じ込めるように実家を後にした。

ちょうどひと月前、私は殺人犯の弟になったのだ。


私が兄の事件を初めて知ったのは、ボランティアとして滞在していた石川県輪島市である。

休憩中のスマホのネットニュースがそれを伝えた。

突然のニュースに驚き慌てて実家の母のもとに戻ってきた。それから一か月経ったが時間あれ以来止まったままだ。これ以上この家に止まる事が二人のためになるとは思えなかった。


私は能登へ戻る事にした。

そこで何ができるかわからなかったが他に行き先が思い当たらない。


朝霞台駅まで続く直線道路は武蔵野線の高架下をほとんど占拠している。

駅までの道のりがいつもとは違いひどく単調で長く感じられた。

確かに歩みは前へ進んでいるはずなのに、街の景色は一向に変わらない。

信号のない交差点を数台の車が横切っていくほか前後からの往来はほとんどなかった。


母は今晩、ご飯を食べるだろうか。お風呂に入るだろうか。ちゃんと布団に入って眠るだろうか。

今しがた家を出てきたばかりだというのに、そんなことばかりが頭に浮かんだ。

母だけがどこか別の世界に取り残されたように思えた。


先の見えない一本道。高架下のコンクリートの橋桁に足音だけが響いていた。

まるで日差しのない暗い森の中を不安に包まれ何かに怯えながら逃げるように歩き続けた。

兄はなぜ人を殺したのか

首を絞めて、しかもナイフで刺して人を殺したのか。


いつのまにか足早になり、立ち止まることすらできない。早くこの森を抜け出さなければならない。


昼を少し過ぎたばかりだというのに、車の通りは少なく、駅へ向かう人影もまばらだ。

駅前の交差点で信号待ちをしていると、角の店の奥からこちらを見る視線に気づいた。

子供の頃からよく通ったパン屋のご主人だ。

私は目を合わせて軽く会釈したが、ご主人はすぐに視線を外し、裏へと下がっていった。


──もう、この街には戻れない。

私はそう予感した。


東武東上線朝霞台駅、その駅前の喧騒は私を少し楽にしてくれた。殺人犯の弟という鮮明に描かれた黒い影が人混みに紛れて薄くなっているのがはっきりわかった。ここには普段と変わりない日常がある。

人の声、車の走り去る音、トラックのクラクション、商店街のざわめき。それらは全てを飲み込んで絶え間なくうごめいている。

ここでは私に気を留める人は誰もいない。私を知る人もどこにもいない。まるで事件のことさえ忘れ去られているようにさえ思えた。

私は改札口で池袋までの切符を買い駅に入った。


「お金に困っていた。生活が苦しかった。」

が、殺害の動機だという。


そんなことあり得ない、もちろん母にも分かっているはずだ。

動機があまりにも稚拙な気がした。

本当の理由があるはずなのに兄はそれを一切語らなかった。共犯も居ないと言っているそうだ。兄が単独で独居老人を殺害し金を奪う。


兄は一体何を隠しているのか、何を守ろうとしているのか?

人を殺してまで一体何をーー。


急行を一本やり過ごし私は各駅停車に乗った。

昼の時間帯のせいか車内の座席はかなり空いていた。連結部分の隅の席に腰を下ろす。

子供を連れたお母さんがこちらを見ていた。騒ぐ子供を気にしているようだ。周りキョロキョロしていた。私は気にせず窓に流れる景色を目で追っていた。子供がこちらに走ってくるのが視界に入った。私はそのまま外を見続けているとずいぶん手前で足を止めたようだっだ。

私に向かって何か言っているようだったが私は気付かないふりをした。お母さんが抱きかかえて椅子に戻るまで私に何かを言っているようだった。私は仕方なく目を閉じて寝たふりをしている間に本当に寝てしまった。


——終点、池袋。


随分と長いあいだ眠っていたような気がした。

途中、成増駅で一度目を覚ましただけでその後ずっと寝ていたようだった。

池袋駅は私と同年代の人が多かった。友達と騒ぎながらどこかへ向かってるのだろう。みんなはしゃいでいた。いつのまにか私は出来るだけ壁際を俯いて歩くようになっていた。一目につかないよう、周りを見ないよう自然とそうなっていた。


私は電車を乗り継ぎ東京駅へ向かった。


夜行バスも検討した。

しかし、出来るたけ早く遠くへ行きたかった私は、費用はかさむが新幹線を利用することにした。何よりも早く遠くへ行きたかった。


東京駅は、池袋駅にも増して混雑していた。

地方から仕事でやって来た人、買い物袋を手にした人、これから田舎へ帰ろうとしている人──。

それぞれがはっきりとした目的を胸に、早足で通り過ぎてゆく。絶え間なく入れ替わる人々のざわめきに身を委ねていると心の奥に張りつめていたものが少しずつほどけていくのがわかった。


少し先に人だかりが見えた。近づいてみると行列をなしてお店の前に並んでいる人たちだった。人気のスイーツ店らしくお店の中にも行列が見えた。わたしは横目に通り過ぎ振り返って眺めた。どこか懐かしい風景を見ているようだった。


構内アナウンスが、新幹線の情報を途切れなく流していた。私はスマホで調べた乗り換え情報を、アナウンスの声と照らし合わせるようにしながら歩いた。


『北陸新幹線はくたか十号、金沢行きは二十一番線から発車します』


特に急ぐ理由はなかったが、私は二十一番線へ足を運んだ。


実家に置いてきた母の後ろ姿が何度も頭の中に浮かんでは消えた。その姿を思い出しては人混に目をそらし胸の奥が重くなるのを誤魔化すように意識を散らした。新幹線に乗り込むまで私はその動作を何度も繰り返していた。


ホームには思いのほか人が少なかった。

各乗車口に十人ほどが並んでいるだけで、コンコースの雑踏に比べれば、空間がいくらか広く感じられた。

私は自由席の乗車口の列のいちばん後ろに並び、列車がホームに滑り込んでくるのを待った。


待つ間、どうしても兄のことが思い返えされてきた。

実家を出た後、兄とはほとんど連絡をとっていない。わたしは最近の兄を知らな過ぎた。考えても分からないことをいつまでも考えていた。

私は遠くへ伸びる新幹線の線路の先の霞んだビル群へ視線を投げた。


大きくひとつ息をついたころで線路の先にはくたか十号の車体が姿を現した。

私は息をのみ緊張でこわばった肩をゆっくり回した。

ポケットの中のスマホを握りしめるとLINEの着信がブルブルと震えていた。

手首の傷がキリキリと痛んだ。


一週間程前、私は初めてリストカットをした。


ちょうどその時、「はくたか10号」がホームに滑り込んで来た。

 

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