パーフェクト・ワールド
宝石のような朝日が、真新しいカーテンの隙間から差し込んでいた。
健三は目を覚まし、隣で静かな寝息を立てている妻、良恵の顔を覗き込んだ。
透き通るような肌、長い睫毛、新婚当時そのままの愛らしい寝顔だ。
「おはよう、良恵」
健三は優しく声をかける。
良恵がうっすらと目を開け、花が咲いたような笑顔を見せた。
「おはよう、あなた。今日も素敵ね」
「よせよ、もう還暦近いジジイだぞ」
「あら、そうは見えないわよ」
二人は笑い合い、健三はベッドから起き上がった。
リビングへ行くと、築30年とは思えないピカピカのフローリングが輝いている。
壁紙はモダンな幾何学模様。
窓の外には、整備された美しい並木道と、行き交う活気ある人々が見える。
世界は美しかった。
健三はダイニングテーブルに置かれた『スマートグラス』――
通称「パーフェクト・ビジョン」の蔓を、無意識に指でなぞった。
このグラスが発売されてから、世界は一変した。
辛い現実、汚い風景、劣化。
それらすべてに、AIが最適な「フィルター」をかけてくれる。
ボロアパートは高級マンションに。ドブ川は清流に。
「見たいものだけを見る」
それが、この時代の新しい常識だった。
コーヒーを飲み、健三は散歩に出かけた。
街は光に満ちていた。すれ違う人々は皆、ファッショナブルで笑顔が絶えない。
「やあ、健三さん! 今日も精が出ますな!」
近所のタバコ屋の親父が、ダンディなスーツ姿で手を振ってくる。
「ああ、いい天気だねえ」
健三も手を振り返す。
全てが順調で、幸福な世界。
その時だった。
ブツッ。
唐突に、視界が歪んだ。
「え?」
ノイズが走り、美しい並木道が色あせていく。
「おい、どうした……バッテリーか?」
健三は慌ててテンプル部分を叩いた。しかし、反応がない。
次の瞬間、世界が剥がれ落ちた。
「ひっ……!」
健三は息を呑んだ。
目の前にあった美しい並木道は消え失せ、
そこにはひび割れたアスファルトと、
雑草が生い茂る廃墟のような通りが広がっていた。
ダンディだったタバコ屋の親父は、
薄汚いランニングシャツを着た、歯の抜けた老人だった。
「あ、あ……」
健三は震える手でグラスを外した。
そこにあるのは、残酷な現実だった。
街は荒廃していた。不況と環境汚染で、かつての繁栄は見る影もない。
行き交う人々は皆、疲れ果て、死んだような目をしている。
そして何より、自分自身。
ショーウィンドウ(今はただの割れたガラスだが)に映った自分の姿は、
薄らハゲで腹の出た、ただの薄汚い初老の男だった。
「嫌だ……こんなの、見たくない!」
健三は悲鳴を上げた。
美しい妻は? ピカピカの家は?
彼は家に駆け戻った。
「良恵!」
リビングに飛び込む。
そこには、壁紙の剥がれた薄暗い部屋があった。カビ臭い空気。
そして、古びたソファに座っているのは、
白髪混じりの髪をボサボサにし、シミだらけの肌をした老婆だった。
「……おかえり、どうしたの? 慌てて」
老婆が、しわがれた声で言った。
健三は絶句した。これが、現実の良恵なのか。
あんなに愛おしかった笑顔は、ただの皺の寄った疲れた顔だった。
「ちくしょう……ちくしょうッ!」
健三は踵を返し、家を飛び出した。
修理屋だ。修理屋に行かなければ。
彼は瓦礫のような道を必死に走った。息が切れる。心臓が早鐘を打つ。
それでも、彼はこの現実を直視し続けることなどできなかった。
「直してくれ! いくらでも払う! 早く!」
路地裏の修理屋に駆け込み、なけなしのヘソクリを叩きつけた。
「ああ、ただの接触不良ですね。すぐ直りますよ」
店主があっさりと修理を終え、グラスを返してくれた。
健三はむさぼるようにそれをかけた。
起動音とともに、世界が再構築される。
カビ臭い店は洗練されたラボに。店主は白衣の似合う博士に。
そして外に出れば、黄金の光に包まれた美しい街が帰ってきていた。
「よかった……」
健三は涙を流した。安堵で膝が震えた。
もう二度と、あんな悪夢(現実)は見たくない。
彼は急いで家に帰った。
「良恵! ただいま!」
ドアを開けると、そこには眩いばかりの美少女――若い頃の良恵が立っていた。
「おかえりなさい、あなた。遅かったのね」
鈴を転がすような声。輝く瞳。
健三は彼女に駆け寄り、その手を強く握りしめた。
「すまなかった。ちょっと、怖い夢を見ていたんだ」
「まあ、かわいそうに」
良恵が優しく微笑み、健三の頬を撫でた。
その手は温かかった。たとえそれが、デジタル信号で見せられた幻影だとしても。
健三は愛おしそうに妻を見つめ、言った。
「愛しているよ、良恵。君は世界一美しい」
良恵は嬉しそうに目を細め、頬を染めた。
「ふふ、嬉しいわ。私も愛しているわ、あなた……」
そして、彼女はうっとりとした瞳で健三を見つめ返して、こう続けた。
「……まるで、どこかの映画俳優みたいに素敵よ」
健三は一瞬、きょとんとした。
映画俳優?この俺が?
先ほどの現実が脳裏をよぎる。
よく見ると、彼女がかけているお洒落なアンティーク眼鏡――
そのフレームの端で、小さな光が静かに青く点滅しているのに気づいた。
それは、彼がよく知っている光だった。
「パーフェクト・ビジョン」の作動ランプだ。
健三は悟った。
彼女が見ているのは、自分ではない。
彼女の都合の良い、何らかの理想の男。
あるいは過去の記憶の中で美化された、別の誰か。
目の前にいる薄汚い初老の夫など、彼女の視界には存在しないのだ。
健三の口元に、ゆっくりと笑みが広がった。
それは諦めにも似た、しかし穏やかな笑みだった。
「そうか……ありがとう」
二人は廃墟のような部屋の中で、見つめ合い、微笑み合った。
互いに、目の前の現実には決して存在しない「誰か」を愛しながら。
窓の外では、カラスがゴミを漁っていたが、
二人の目には美しい青い鳥が羽ばたいているように見えていたことだろう。
世界は美しかった。
嘘で塗り固められているからこそ、完璧に。




