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花物語  作者: 浅見カフカ


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第二章 菫⑤

「おばあちゃん」

少し鼻にかかった柔らかい声。

香織がおばあちゃんと呼ぶ時のイントネーションはいつも甘えた風だ。

それはきっと言葉を喋るようになってからずっと、呼吸のように身に付いた撥音。

「荷造りありがとうね」

その言葉に後ろめたい気持ちが湧き上がってくる。

(ごめんなさい、ママがしてます)

「あのね、おばあちゃん」

香織はもう一度。

隣に座って少しトーンを落として。

深く息を吸ってゆっくりと吐く。

その勢いに乗せるように言った。

「北浦将吉さんって、おばあちゃんの大切な想い出?」

大切な人と聞かなかったのは無意識の防衛反応と配慮だった。

菫子は窓の外、遠くに視線を遣った。

そして隣で緊張する孫娘に視線を戻すと口を開いた。

記憶の糸を紡ぐように。




お父様から頂いた英国製の自転車が嬉しくて、つい夢中になって漕いでしまったの。

気付いた時には坂を下っていて、どんどん早くなってしまって。

ごうごうと風を切る音が、怖くて痛くて。

もう、ブレーキを掛けることも出来なくなってしまった。

そうしているうちに道路がカーブしていて、私は自転車と一緒に宙を舞ったわ。

あまりのことに声も出なかった。

私は空高く放り投げられて、下には側溝に落ちていく自転車が小さく見えたの。

その後は回転しながら落ちて行って、途中に使用人達が何人も追い掛けているのが見えて...私、死ぬんだって思ったの。

きっと一瞬だったの。

でも落ちるのは随分と時間が長く感じたのよ。

空を飛ぶ鳥でさえゆっくりと見えるくらい。

そうしたら、ボスッという音と柔らかい衝撃。

ザザーッという音がして、あちこちが擦れてチクチクして。

私は畑に作ってあった藁の山に落ちたのね。

収穫後の畑に規則正しく並べて積み上げられた藁の山。

そうしたらすぐに「お嬢様、菫子お嬢様!!」という呼び声が遠く、くぐもって聞こえて...

人の声に安心した私は意識がだんだんと遠くなっていったわ。

そうして目の前がスーッと暗くなっていったの。


気を失っていたのは、多分ほんの短い時間。

目を開けた私は抱き抱えられていたの。

その人は全身藁まみれで、私を何度も呼んだのでしょうね。

口の端から藁が出ていて、顔中傷だらけだったの。

私は傷ひとつ無かったのに。

心配そうに私を呼ぶ、その人の汚れてしまった顔。

その奥に、高く澄んだ秋の空。

私の意識は空に吸い込まれるように再び遠く消えていったの。

耳には大きな声で「菫子お嬢様!!」と何度も叫ぶ声が残ったけど嫌じゃなかった。

それが北浦将吉さんとの最初だったわ。


将吉さんは関東大震災で孤児になったそうなの。

1年くらい親戚をたらい回しにされて、最後は柘植家うちに奉公に出されてきたの。

奉公と言っても当時は5歳くらい。

とてもじゃないけど何かが出来る年齢ではなかったの。

でも、私がその震災の年に生まれた。

最初に話を持ちかけられたお母様は、赤ちゃんだった私と将吉さん重ねてとても胸を痛められたの。

お父様も将吉さんを迎えることをすぐにお許しくださったわ。

そうして将吉さんは柘植家の使用人になったの。

もちろん最初はほんのお手伝い程度で、学校にも行って。

そうして将吉さんの、尋常小学校最後の年の秋。

私が飛んだ秋、彼の人生が変わったの。


傷ひとつ無かった私と傷だらけの将吉さん。

お父様は何度も「ありがとう」と言った後、将吉さんの手を握ってこう言ったの。

「なんでも望むものを言いなさい」って。

そうしたら将吉さんは「勉強がしたいです」って間髪入れずに答えたの。

私は将吉さんとは違う学校に通っていたから知らなかったのだけれど、とても成績が優秀だったみたい。

それでお父様も書生として扱うことで望みに応えたの。

でもお父様、随分と驚いたみたい。

あとで言っていたもの。

「報奨金の類を言ってくるものと思っていた」って。


昭和17年。

私が高等女学院の二年生の頃、大学に進んだ将吉さんは三年生だったわ。

この頃の日本はアメリカとの戦争が激化していて、学徒動員と言って大学生も戦地に送られる時代。

ただ医療の勉強をしている将吉さんは、まだ徴兵が猶予されていたの。

私たちは帰り道、時間が合えば一緒に堤防を歩いて帰ったの。

ううん、本当はあの堤防の連理桜の下で将吉さんを待っていた。

偶然なんて、作らなければ起きない奇跡よ。

帰り道、他愛のないお喋りをしながら歩くだけの奇跡。

夕暮れ、眩しい横顔を見ながら。

でもそんなささやかな日々も、終わる日が来る。

唐突に。


お父様のお仕事のお相手のご紹介。

男爵家のご長男で、いずれ家督を継ぐ方。

ひと回りも歳上のお見合い相手は、額装された写真の中で肥大した身体の上で澄まし顔を作っていた。

柘植家の女として生まれたからには政略結婚の姫としての心構えは持っていた。

抱いた恋心が叶うことも、望んだ愛が実ることも無いと知っていた。

そしてそれが今では無いことも。


翌日は憂鬱だった。

学友が結婚を理由に退校した。

それが昨日のお見合い写真と重なって気分が重たい。

それが帰り道の足取りにも影を落としたみたい。

連理桜の下、将吉さんが先に着いて寝転んでいた。

私は隣に座って川面を見ていたの。

ずっと押し黙ったまま。

流れゆく水を、目で追うこともなく。

将吉さんはそんな私に何を言うでもなく、ただ無言でいてくれた。

千の言葉を尽くされるよりずっと真心を感じたわ。


どれくらい経ったのかしら。

きっと私の方が無言に耐えられなくなったのね。

「お見合いが決まったの」

そう言って将吉さんを見たのよ。

そして傍らに咲いていた菫に触れて「この菫は私ね。いつか花を散らして枯れてしまうの」と嘆いたの。

「花は......」

将吉さんは身体を少し起こして言葉を切ったの。

そして私の目を見詰めて「花は散るその瞬間も花なのですよ」と優しく微笑んだ。

ずっと抱いていた憧れが形を変えた瞬間だった。

胸の奥がトクンと鳴ったの。

そして締め付けられるような痛み。

少女の時間の終わりを感じたわ。

そして彼の瞳に吸い込まれるように自然に顔を寄せたの。

でもやっぱり将吉さんは大人で、私は子供だった。

将吉さんは私の頭をそっと撫でて「お嬢様」と言ったの。

私の自尊心とお父様への義理の両方を守ったのね。


翌月のお見合いは予想通りのつまらないものだったわ。

もちろんお断りして頂いたの。

うんと昔に白蓮事件なんてものもあったけれども、女性の自立なんてまだまだ考えられない時代。

自由には出来ない。

でも輿入は、今この相手では無いと思ったの。

自惚れとかではないわ。

いつか望まぬ相手に嫁ぐのなら、それは柘植家の大事の時と思ったの。


そして将吉さんが出征していったの。

私の破談と引き換えのように。

私が知ったのは......知らされたのは、既に発った後だったわ。

特例の適用が廃止されたの。

お父様は......ううん、お父様も将吉さんのことは好きだったのね。

ズルい話だと思うかもしれない。

賄賂のようなお金を渡して、後方勤務となるように手を尽くしたみたい。

もしかすると、男爵家とのお見合いも助力を得るためだったのかもしれない。

思えば随分急いでいたから。


やっぱり私は子供だったのね。

将吉さんの居ない部屋で、残り香に面影を浮かべて泣くだけの毎日だったわ。

残していった本。

折り曲げた頁の端に、声を想い読み返したわ。

ノートの文字に姿を。

せめて戦地からの手紙をと、毎日ポストを何度も開けたの。


そうしてようやく届いた手紙は、彼の死を告げるものだったの。



「おばあちゃん、ごめんなさい。もうやめて......もういいの、もういいの」

香織は菫子の手に右手を重ね、左腕ですがるるように抱きつくと、彼女の独白を制した。

菫子に刻まれた皺を撫でるように雫が零れていた。

(なんてことをさせたのだろう)

後悔の念に責め立てられる香織の頭を、少し固くなった指先が撫でた。

優しい優しい指先が、その人生の全てで包むように香織を撫でていた。


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