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花物語  作者: 浅見カフカ


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第二章 菫③

長い冬が明けた。

太陽の匂いをたっぷりと吸い込んだ洗濯物を取り込むのが、一日の数少ない楽しみ。

冷たい水での洗濯は憂鬱な仕事のひとつ。

旦那様は『お湯をつかいなさい』って言ってくれるけど、女中頭のすゑさんがいい顔をしない。

先だって、奥様が『お湯の方が汚れ落ちがいいらしいわ』とお口添えくれたから使えるようになるといいな。

「トミ子さん!」

ぼんやり考え事をしながら取り込んだ洗濯物を抱えていると、後ろから鋭い声が心臓を射抜いた。

本当に心臓が止まるかと思った。

「はい、ごめんなさい」

振り返ると、やはりすゑさんだった。

「シーツの裾を引き摺ってますよ」

ああ、またやってしまった。

ぼんやり屋の私は、しばしば気もそぞろで仕事をしてしまう。

こうしてまた怒られるのだ。

失敗ばかりで憂鬱なことが多いけど、私には楽しみがあった。

それは、だいたい洗濯物を片付けた後の時間。

二階のこのリネン室の窓から、あの二人の様子を眺めること。

背の高い書生の将吉さんと、華奢な菫子お嬢様。

手を繋ぐ訳でもなく、寄り添う訳でもない。

川向うの土手の上。

いつも少し離れた所を歩く二人。

まるで少女画報を読んでいるような気持ちになれて、甘酸っぱいのだ。


将吉さんが両手を頭の後ろに組んで、土手の草むらに寝転んでいたある日...

重たそうな足取りの菫子お嬢様が、遅れてやって来た。

遠目にも、いつもと様子が違うのが分かる。

(どうしたのかしら)

まるで嵐の小夜曲セレナーデの小夜子のよう。

困難を前に圧倒されながらも立ち向かう小夜子。

菫子お嬢様の姿が重なって見えた。

お嬢様は寝転ぶ将吉さんの隣に腰を下して、何かを話しているようだった。

口が動いているかは分からない。

でも顔が将吉さんの方を向いて、将吉さんもお嬢様の方を向いたから、きっと。

その後、草むらに生える花に手を伸ばしたお嬢様とまた何かお喋りして。

お嬢様はこちらに背を向けるように身体をひねると、将吉さんの顔に覆い被さるよう見えて...


びっくりしてシーツを棚にしまって、そうして階段を駆け下りて逃げてしまった。

絶対に顔が真っ赤だった。

熟れたトマトみたいだったと思う。

顔中熱くてたまらない。

これは絶対に秘密。

私だけの...いえ、私たちの秘密。


その数日後、菫子お嬢様のお見合い相手が決まった。

私はお嬢様の着物の仕立ての手伝いを申し付けられた。

手伝いと言ってもお嬢様に付いて回って、反物を身体に合わせて見せるを繰り返すこと。

「その程度なら出来るでしょ」とすゑさんに嫌味っぽく言われた。

でも、憧れのお嬢様の付き人みたいで悔しさよりも嬉しさの方が大きかった。


「お嬢様、こちらの反物は友禅だそうです」

「どちらの友禅かしら?」

「大谷呉服店の...」と言いかけた私にお嬢様は苦笑いを見せた。

私は苦笑いの意味が分からずに、反物を抱えたまま立ち尽くしてしまった。

「見せてくださる?トミ子さん」

「はっ、はい!」

嬉しかった。

菫子お嬢様の涼やかな声で私の名前が呼ばれた。

私の名前を知っていてくれた。

もう舞い上がる気持ちになってしまった。

私が献上するように反物を差し出すと、お嬢様はそれを手に取り「加賀友禅ね」と小さく言った。

そして意味も分からずに友禅と言った私に、色々と教えてくれた。


「綺麗ね。これにしようかしら」

いくつかの反物を運んで戻して、ふくらはぎに力が込められなくなった頃、ようやく気に入る物が見つかった。

「よくお似合いになると思います」

そう言うと「でも着たくはないのよね」とお嬢様はため息混じりに、私だけに囁いた。

そして驚いた表情の私に唇の形だけ変えて微笑んだ。

それからは、たまに小声で本心を打ち明けてれた。

そんな日はエスの小説を読み返したりして悶絶するものだから、同室の先輩に「うるさい」とよく怒られらりした。


「菫子お嬢様は、お見合いに前向きではないのでしょうか?」

失礼ながらそんな質問をしたのは、反物の生地合わせからひと月ほど経ってから。

呉服屋が仕立てた着物を納めに来るのを翌日に控えた日だった。

「前向きよ、前向きにお断りするの。まだ学校も辞めたくないですもの」

とても素敵な笑顔で言うものだから、お受けするのかと思ってしまったくらい。

そして風のような軽やかな足取りで学校へ向かってしまった。

(そうよね。小説でも結婚の決まったお姉様は辞めていくもの)

柘植家も、それに嫁ぎ先の家だって学校は辞めるように言うに決まっている。

(若奥様で女学生だなんて...吉屋先生書いてくださらないかしら)

またそんなことを考えてニヤけてしまったところをすゑさんに見られてしまった。

(怒られる)

そう思って身構えた私に「トミ子さん、最近の菫子お嬢様に変わった所はありませんか?」とすゑさんは尋ねてきた。

普通に話しかけられたことに唖然としつつも感動を隠しきれなかった私は、いつも以上にぼんやりしてしまって結局怒られてしまった。

「もういいです」

そう言って廊下の奥の方へ行ってしまった。

また失敗だ。

でもどうしてお嬢様の様子を尋ねたのだろう?

お見合いを断るつもりなのが知られてしまったのだろうか?


翌日からお嬢様の登下校に付き添うよう、私は命じられた。

これは旦那様からの直接のご命令だった。

最初、旦那様の書斎に呼び出された時は暇を出されるのかと絶望の縁にあった。

すゑさんが私を心配そうに送るものだから、余計に緊張してしまった。

お嬢様と一緒に歩けることが嬉しくて、相好を崩すことをはばからずにいた。

すゑさんは、そんな私を呆れ顔で見ていた。


お嬢様の付き人という事で、いつもの女中の給仕服ではなく、上等な生地で作られた付き人用の洋服を宛てがわれた。

なんだか私も上等になった気がして、背筋がピンと伸びた。


お嬢様の鞄を両腕に抱えて少し後ろを付いて歩く。

心做しかお嬢様のご機嫌が良くない気がする。

不機嫌とか苛立ちではない。

それは憂いに近いもののように感じた。

お見合いのせいだろうか?

でも、前向きに断ると仰っていた。

......ああ、きっと私だ。

私のせいだ。

お嬢様の心を曇らせているのは私だ。

そう気付いた時には私はボロボロと泣いていた。

お嬢様の涙が真珠なら、私の涙は小石のように、水の中から世界を見るように溢れ流れてもう何も見えなかった。


「トミ子さん!」

堪えきれない嗚咽にお嬢様が気付いてしまった。

「大丈夫?何があったの!?」

お嬢様は私を落ち着かせようと鞄を抱き抱える私ごと包み込むように抱きしめてくれた。

お花のようないい匂いがした。

でもいけない。

私の涙も鼻水も、全部お嬢様のお洋服に付いてしまう。

私は両腕を突っ張ってお嬢様を拒絶した。


「お嬢様、私はぼんやり屋の役たたずです」

私の言葉の真意が分からず、いぶかしむように私を見た。

「私は今日の帰り道、お嬢様の鞄を忘れて戻ります。半刻ほど...そのくらい遅れて、この連理桜れんりざくらの木まで来ますので待っててください」

私はこの堤防にある、二本の桜が絡み合った桜の木を示して言った。

ひとひら舞った。

それを二人の視線が絡むように行方を追った。

そこでお嬢様は悟ったのか、静かに頷いて「ありがとう」と目を潤ませた。


お嬢様を学校まで送った。

駆け足で戻った。

次の仕事は屋敷に戻っての雑用だ。

その前に足で稼いだ時間を使って将吉さんを探さなくてはいけない。

私は人目を避けて屋敷に戻ると荒い呼吸を整えた。

この時間ならまだ屋敷で仕事をしているはず。

裏口から身をかがめて庭に入った。

庭師の吾平さんが剪定をしている。

気付かれないように更に腰を落として進んだ。

(どこだろう)

数人居る書生さんは、いつも同じ仕事をしているわけではない。

私たちとは少し違う使用人だ。

かがめた姿勢のまま辺りを見回す。

いた!

旦那様の書斎から一礼して出てくる姿が、ガラス越しの廊下に見えた。

私はその背中を追うように、そして吾平さんの視界に入らないように庭を進んだ。

ああダメ、このままでは見失う。

かがんで追う私はどんどん引き離されてしまう。

ついに思い余って小石を投げてしまった。

息を止めて小石の行方を見守る。

コツン。

小石はガラスに当たって乾いた音を立てて落ちた

私は大きく息を吐いた。

将吉さんは振り向いて外を見回している。

私は庭木の茂みから出ないように手をあげると、必死で左右に振った。

将吉さんはようやく私に気付くと一、度頷いて廊下を行ってしまった。

私も再びその後を追った。

角を曲がると庭木も無くなる。

ここはお客様の目に触れない裏口のさらに奥。

資材や道具小屋がある場所だ。

屋敷のこちら側には窓もない徹底した作りだ。

私はようやく窮屈な姿勢から立ち上がれた。

身体中の関節が軋むような感じがした。

でも開放感に浸っている場合じゃない。

将吉さんに会わなくては。

そう駆け出した次の瞬間、すゑさんを見た。

何かを取りに来たのだろう。

すゑさんは道具小屋の入口を覗いていて、こちらには気付いていない。

私は咄嗟に物陰に隠れて様子を窺った。

(そうだ、清明祭せいめいさいだ)

紡績工場の従業員や家族、近隣住民を集めての柘植家主催のお祭りの準備だ。

二十四節気になぞらえて先代社長が考案されたもので、今ではすっかり地元のお祭りに定着していた。

すゑさんは来賓用の椅子やテントの確認に来ているようだった。

遠くに見えた将吉さんもすゑさんの様子を窺ってる。

足音が近付いてきた。

土を踏む音がどんどんこちらへと向かってくる。

その時ようやく気付いた。

今私が隠れている資材は、多分テントだ。

どうしよう、どうしよう。

もう間に合わない。

すゑさんの影が、身を縮ませて固まる私の上に落ちた。

終わった。

私も、お嬢様の恋も将吉さんも...

(ごめんなさい、菫子お嬢様)

目を固く閉じて叱責を待った。

「さーん、すゑさーん」

将吉さんがすゑさんを呼んでいる。

すゑさんは「どうしましたか」と大きな声で返事をすると足早に向かって行った。

私はそれでもまだ、心臓を押さえて動けなかった。

手を離してしまうと、すゑさんにこの鼓動が聞こえてしまうのではないかと思えて仕方なかった。


再び足音が近付いて来た。

でも今度の足音は固い音がする。

靴を履いている人の足音だ。

私は足音の主を、地べたにへたり込んだ姿そのままで待った。

「君は...」

私の格好を見て言葉を切った。

「あ、あの、私腰が抜けてしまって」と言うと笑いもせずに手を引いて立たせてくれた。

「トミ子...さんだね。君は決死の覚悟で何を伝えようとしたんだい?」

そう言うと唇の形を少しだけ変えて笑った。

それはとても優しい微笑みだった。

(ああ、お嬢様とお似合いの美貌)

心臓の音が再び大きくなった。

「あのですね私ですねお嬢様の菫子お嬢様の」

「大丈夫、ゆっくり息を吸って...吐いて..,」

将吉さんの合図に合わせて呼吸整えると気持ちが落ち着いてきた。

「お嬢様の下校の時間に合わせて、連理桜の木の下で待っていてください」

(言えた!)

将吉さんは一瞬驚いて、それから優しい眼差しになって「ありがとう」と私に言った。


夕方。

半刻遅れて連理の桜に向かった。

桜の下に佇むお嬢様は、まるで抜け殻のようだった。

その様子に驚いて何も言えない私に、倒れるようにもたれかかりお嬢様は嗚咽を漏らした。

「お...お嬢様」

「将吉さんが戦争に行ってしまう」

言葉が出なかった。

「お父様の差し金よ」

聞いた事の無いお嬢様の声。

いつもの涼やかで美しい声とは違う。

冷えた抑揚の無い声だった。

そして涙を拭ったその目は冷徹な光を宿し、暗い何かを心に秘めたように見えた。


ほどなくして私はいとまを出された。

それは清明祭の翌日のこと。

お嬢様は最後まで私を庇ってくれたけど、決定が覆ることはなかった。


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