第四章 ブーケ⑧
いつものカウンターの隅。
いつもの安酒。
いつもと違うのは——
いつも賑わうこの店に、今日は私一人ということだ。
グラスの中の氷塊が溶けだす様子を見ていた。
「難しい顔をしているわね」
カウンター越しに京子ママが俺の顔を覗き込んだ。
「前のカメラマンが言ってたんだ」
ママは少しだけ小首を傾げて俺の言葉を待った。
「この街の女性は花のような人が多いって」
「へぇ。プロのカメラマンがファインダーで見る景色は、私たちと違うんですねぇ」
ママは目を大きく開いて感心していた。
「花は散る瞬間まで花——」
「やだ、遠藤さん。気障だわ」
「俺の言葉じゃないさ」
俺はひと口、喉を潤すと続けた。
「北浦将吉——。この言葉を遺した男の輪郭が、全く掴めないんだよ」
「誰に遺した言葉なの?」
「日下——柘植菫子さ」
京子ママは再び小首を傾げて、視線を斜め上に向けると「誰?」と言った。
「毎年恒例の清明祭ってあるだろ」
「来月ね。ウチも協賛金払ったわ」
「あれの発案者で、この街にかつてあった財閥のお嬢様さ。ふるさと学習でやらなかった?」
大抵の一年生が、初めてのバス遠足で回るコースにあるはずだった。
「あー、私この街出身じゃないから」
瞳の奥に暗い光が灯ったように見えた。
彼女も私が察したのに気付いたらしい。
「私ね、少し遠い街の孤児院にいたの」
そう静かに言うと、しなやかな指先でグラスを置いた。
「子供って残酷でしょ。孤児って、随分といじめられたわ」
「人間の性だな。異端を作ることで自分が安全な大勢側に回るんだ」
俺の言葉に頷くと、彼女は続けた。
「それでもね、院の入口の花壇が目に入ると安心するの。帰ってきたって」
少し懐かしむように笑った。
「たまに帰ったりするのかい?」
「ううん」
首を横に振った。
「例の震災でね——再建の予算がおりなくてみんな散り散り」
そこから堰を切ったように彼女の口から思い出が溢れた。
「花壇が見えると、弟妹達が前庭で遊ぶ姿が目に入ってくるの。もちろん血の繋がりはないのだけれど——」
「お姉ちゃんだ、おかえりー」
「おかえりなさい」
「ただいま」
「鬼ごっこしようよ」
小さな手で私の手を掴む弟妹たちに、学校での嫌なことも吹き飛んでしまう。
「じゃぁ、ちょっと待っててね」
そう言って、お下がりのお下がりの......
由緒あるランドセルをロッカーにしまった。
ひとしきり遊んでクタクタになった頃、
少しおしゃまな百合子ちゃんが話しかけてきた。
「京子お姉ちゃん知ってる?」
「なぁに?」
私は乱れた百合子ちゃんの髪を、手ぐしで整えながら返事をした。
「正門の紫陽花の押し花を、好きな男の子に渡したら両想いになれるんだって」
聞いたことがあった。
昔、この孤児院で育った女の子が、紫陽花の押し花を贈った話。
二人はその後に結ばれて、院のホールで結婚式を開いたらしい。
この孤児院の女子の間の、最高にロマンティックな伝説だ。
嘘か本当かなんて分からないけど——
自分だけに向けられる愛情や温もりを渇望していた私たちの願望かもしれない。
それでも私たちは、この花の【家族】という花言葉を信じて想いを込めた。
「百合子ちゃんは誰にあげたいの」
耳元で囁くと、百合子ちゃんもわたしのも耳に向かって「幸司くん」と囁いた。
「そうか、そうか。押し花、渡せるといいね」
私はこの小さな恋をワクワクして応援した。
中学を出て、高校は奨学金制度を利用した。
孤児院は、延長制度を使って在院することにした。
それは職員として、平日の二時間を院で働く条件付きだった。
「でもね、京ちゃん。部活動をすればそちらが優先だから、部活しちゃいなさい」
延長制度を申し込んだ日に、ママ先生がそう言った。
「いやいや、そんな抜け穴勧めちゃダメでしょ」
私がそう言うとママ先生は真剣な顔で言った。
「一般の家庭でも、お手伝いはあると思うわ。でもね、それは"家"に住むためにするものではないでしょ。ここは京ちゃんの家なの。普通の——ううん、よく居る女子高生でいなさい」
ママ先生の言葉に胸の奥が熱くなるのが分かった。
でも結局、部活動はやらなかった。
私は"家"のお手伝いがしたかった。
よく居る女子高生として——
あとから他の職員さんから聞いた話。
部活動で仕事免除の特例は、ママ先生が
県職員との協議で勝ち取ったものだと聞いた。
若い頃のママ先生は血気盛んだったらしい。
ある日、資料室の整理をしていた時。
紫陽花の栞を挟めた古いアルバム。
棚の奥にひっそりと佇むように置かれているのを見つけた。
時折誰かが見ているのだろう。
ここだけ埃が少なかった。
結婚式——
まだ若いママ先生と新郎新婦さん。
手作りの会場はこの孤児院だった。
「紫陽花の伝説......」
口から零れた言葉に笑みが浮かんだ。
「本当だったのね」
幸せそうな二人を指先でなぞった。
まるで彼女が持つブーケを受け取るように。
色とりどりの紫陽花のブーケを。
「喋りすぎたわ。ごめんなさい」
京子ママはそう言うと照れたようにタバコに火をつけた。
メンソール系の匂いが煙と共に漂った。
「そんな乙女も今じゃ、スコッチとタバコを手にしてカウンターの内側よ」
自嘲なのか冗談なのか、彼女の表情から窺い知ることは出来なかった。
「ブーケか——」
北浦将吉は柘植菫子、日下菫子、菫子お嬢様の人生を包み込むレースであり、束ねるリボンだったのかもしれない。
「ありがとう」
私が礼を言うと京子ママは不思議そうな顔をした。
「見えたよ、北浦将吉」
「じゃぁ、お礼にそろそろボトルキープしませんか」
悪戯っぽく微笑む京子ママの目は艶やかで、抗い難いものだった。
上田さんのジャックダニエルの隣に、私のフォアローゼスが並んだ。




