第三章 椿㉖
氷雨は夕べから続いていた。
あの寒椿は、これで全て散っただろうか。
窓を伝う雫の向こうに、灰色の世界を眺めた。
ピンポン。
現実へと引き戻す不快な電子音。
無視をした。
二度...三度...四度...
ようやく止んだ。
そう思った刹那、スマホが鳴った。
——四葩だ。
「もしもし」
『もしもしじゃないわよ、家にいるんでしょ』
「......うん」
観念してドアを開けた。
「真一さんと何かあった?」
開口一番、四葩は封筒を突きつけるとそう言った。
「夕べ電話があって、明日渡して欲しいって預かったのよ」
「ありがとう」
「中身!!」
早く読めという意味だろう。
私は封を破ると便箋を一枚取り出した。
秀美へ
なかなか時間が合わなくて、とうとう言えずに今日を迎えました。
私は出版社の依頼で、世界中の遺跡や建造物を撮影する旅に出ます。
四年の長い旅になります。
すれ違いが多くなってしまったけれども、もし待っていてくれるなら一緒になりましょう。
愛しています。
上田真一
「なんて?」
「プロポーズ」
「は?」
「はぁ?何なの、あなたたち?」
「だっでもうぼうじでいいか」
私は堰を切ったように泣き出していた。
「成田空港、17時15分って言ってたわ」
四葩はそう言うと「私が乗ってきたタクシー、下に居るから」と私の腕を引いた。
「行ってこい、親友!!」
後部座席に、まるで荷物のように私を押し込めると「成田空港16時くらいまでに」と運転手に言ってしまった。
「お客さん、出来る限り急ぎますけど、チョット難しいと思いますよ」
走り出すと運転手はそう言って、会社に「成田、長距離入りました」と無線を入れた。
「夕べからの雨で状況が悪いですからねぇ」
最初のうちは話し掛けてくれた運転手だったが、私の反応の薄さに「ラジオ、かけますね」とボリュームを少しあげた。
いつの間にか眠ってしまった。
目を覚ますと赤い光が網膜に飛び込んできた。
前の車のテールランプが煌々と、その先もずっと長い光の列が見えた。
「あ、起きましたね。あと少しなんですが、渋滞ですね」
運転手は時計を見ながら苦々しく言った。
「こりゃぁ、厳しいな」
時刻はもう16時に迫っていた。
搭乗手続きを考えると、もう絶望的だった。
ラジオから、アナウンサーの無機質な共通語のイントネーションが聴こえた。
今は感情を感じないこの声が心地良かった。
曲紹介と解説が終わって、乾杯の歌が流れた。
「ふふ」
可笑しくも無いのに笑みが零れた。
天を仰いで、右手で顔を覆った。
「お客さん、もう建物が見えてるから降りましょう。走った方が早いです」
運転手は左に寄せるとドアを開けた。
私はカードで料金を支払うとタクシーを飛び出した。
背中では、乾杯の歌がクライマックスを迎えていた。
冷たい雨が容赦なく打ち付ける中、私は多くの車を追い越して行った。
建物の入口が見えた。
私はそこで腕時計に目を遣った。
それが間違いだった。
もう何年も走ったりしない生活。
濡れたアスファルト。
——転んでしまった。
膝と脛から流れる血液が、雨水に混じって細く流れた。
ローファーは片方が脱げて転がっている。
「大丈夫ですか」
警備員の一人が大声で走って来た。
痛くて、情けなくて、みっともなくて......
何よりこれでもう真一さんに会えないと思うと、涙が止まらなかった。
雨で良かった——
こんな最低な私の、最悪な泣き顔を誤魔化してくれていた。
「怪我はありま、これは酷いですね。医務室に行きましょう。立てますか?」
警備員は私に触れないように促した。
「はい」
私はそう言うと、彼の後を付いて歩いた。
片足を引きずりながら。
空港ロビーを歩く私に、好奇の目が注がれていた。
当然だ。
ずぶ濡れで化粧も剥げた女が、片足を引きずっているのだ。
関わりたくは無いが、見たくもなる。
そうしていると声が聞こえた。
雑多な声やアナウンスに混じって、明瞭に。
私が世界で最も望む声が聞こえた。
「秀美!」
振り向くと、笹島さんと——
真一さんが居た。




