第三章 椿㉓
寒椿が、その花弁をひとひらずつ散らしていた。
(春はもうすぐね)
なんて思いながら街を歩いていると、フォトスタジオから出てくる真一さんを見付けた。
「真一さん!」
私が名前を呼ぶと、手を振って応えてくれた。
「フォトスタジオなんて、どうしたの?」
腕を組む私に「就職しないとね、そろそろ」と答えた。
「プロカメラマンじゃないの」
私がそう言うと「仕事あってのプロだからね。それに秀美と一緒になるなら安定した収入が必要だろ」とさらりと言った。
顔が赤くなった。
(プロポーズ?プロポーズかしら?)
「カメラ仕事なら自信あるから、この手の会社を幾つか受けたけど全滅なんだよなぁ」
照れてる私に気付いているのかいないのか、真一さんは肩をすくめて言った。
それはそうだ。
自分より優れた部下なんて、よほど度量の大きな人でなければ採用しないだろう。
「大丈夫、きっと見つかるわよ」
そう言った私の胸は、少しざわめいていた。
それから数日後のことだった。
「まだ準備中なんですよ、ごめんなさい」
夕方、酒屋さん用に開けておいたドアが開いた。
見掛けない人物にそう言うと「こちらに上田さんがよくいらっしゃると聞きまして」と名刺を一枚差し出した。
「風月堂出版——ノスタルジアの?」
確かに見覚えがあった名前だ。
「ご存じ頂きありがとうございます。私、ささじまと申します」
笹島さんは、名前を一音一音区切るように名乗った。
(きっと、デキるタイプの人ね)
呑気にそんなことを思いながら、名刺を受け取った。
「上田さんに、写真集の撮影をお願いしたくて打診しているんですよ」
「素晴らしいですね」
「ママさんも思うでしょ」
笹島は、我が意を得たりとばかりに話し始めた。
「ところが、上田さん。帯壁市で就職するって言って断られたんですよ」
「えっ」
あの日の胸のざわめきの理由が、分かった気がした。
(真一さん、妙に就職を焦っていた)
「社長、肝入りの企画なんですよ。私、これが頓挫したらクビですよ」
笹島さんの声が半泣きだった。
「どうして上田さんは受けないのでしょうか?」
素朴な疑問を笹島さんにぶつけてみた。
「それが皆目見当がつかないのですよ。これは上田さんにとってもチャンスなんです」
笹島さんは、そう力強く言った。
「ノスタルジアのような歴史的建造物の写真ですよね?」
何か危険な撮影なのかと思って尋ねた。
「はい。世界中の歴史的建造物や遺跡を巡っての撮影です。五年後の弊社設立百周年の目玉なんです」
「五年も海外に?」
驚いてしまった。
「いいえ、選別やレイアウト、諸々ありますから四年くらいですね。もちろん旅費等は弊社負担です。チャンスなんですよ、絶対に」
笹島さんは再び『チャンス』と口にした。
私はなんと言って良いか分からなくなった。
(私のせいだ)
そう思ったのは自惚れではない。
真一さんは、チャンスを捨てて私を選ぼうとしている。
「バカ」
「えっ、何か言いました?上田さん、今夜は来ますかね」
私には、真一さんのその気持ちだけで十分だった。




