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花物語  作者: 浅見カフカ


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第三章 椿⑬

和美さん——

あの日から頭から離れない名前。

真一さんがぽつりぽつりと話してくれた想い出。

心の中、玉のように大切にしてきたひとつひとつを分け与えるように。


勝てないよ。

だって、あんなに穏やかで優しい顔をするんだもの。

まるで和美さんの髪に触れるように、優しく想い出に触れる真一さん。


でも——

無意識に祈りを捧げたペンダント。

きっと和美さんが守ってくれたのね。

私、出る幕が無いわ。

ため息が漏れた。

お店、休みにしちゃおうかしら。

馬鹿げた思いが去来した。


真一さんはあれからお店に来ていない。

病院から安静を言い渡されているから、当然なんだけど——

あんな話を聞かされると、見舞いにも行きにくい。


「ねぇ、どうしたらいいかな」

お見舞いに行くつもりで買い込んだ、食材の詰まったレジ袋に話し掛けた。

ああ、重症。

お店で振舞おうかな。

でも、絶対に京ちゃんにはバレる。

またお尻叩かれちゃうな。


ガサッ。

レジ袋が崩れて、冷凍ピラフが顔を覗かせた。

あの晩から——

キミが始めた物語だ。

私は冷凍ピラフを指で弾いた。

そしてレジ袋を両手に持って、部屋を出た。


ピンポーン。

あの日、散々迷ったインターフォン。

今日は呼吸をするように押した。

「秀......藤です」

慌てるようにドアが開いた。

無精髭の真一さんは、幾分やつれて見えた。


挨拶もそこそこに、押し入るように部屋に入った。

指に食い込んだレジ袋が、もう限界だった。

キッチンの床に下ろした。

ダムが放水したように、指先が毛細血管に至るまで血流で満たされた。

何度か握ったり開いたりを繰り返した。

指先が薄桃色に戻った。


「ちゃんと食べてます?」

私は努めて何でもない風を装った。

そう——

恋愛感情など無い。

よって嫉妬心も敗北感も無い。

これは第一発見者としての責務のようなものだ。


店から持ってきた大きめの鍋にお湯を沸かす。

濃縮しただしつゆを加えて切り落としの豚肉、鶏肉、短冊切りの人参、お揚げ、斜め切りした長ねぎ、そしてかき揚げを割入れて煮込んだ。

これは母から習った煮込みうどんだ。

クタクタになるまで火にかけて煮込む。

器に移したら刻んだ長ねぎと、かまぼこ、玉子を割入れて完成だ。


「いい匂いですね」

テーブルの前に座った真一さんが、顔を小さく左右に揺らしてに香りを嗅いだ。

「普通の煮込みうどんと違うので、口に合わなかったらごめんなさい」と言い終わる前に「いや、これ何ですか。とても美味しいです」と言ってくれた。


「うどんがクタクタなので、消化に良いと思って」

少し照れた。

よくあるレシピと違う——

実家の料理を振る舞うのは裸を見られるくらいに恥ずかしい気がする。

でも、受け入れて貰えるととても嬉しいものだ。


「明日になればもっとクタクタになってます。うどんが鶏肉と豚肉の風味を吸って更に美味しいと思いますよ」

実はそれを食べて欲しくて大きめの鍋を用意したのだ。

冷凍ピラフは、口に合わなかった時の保険。

出番がなくて良かった。

そう思いながら「冷凍庫に入れておきますね」と言って立ち上がった。


その時、私はエプロンの紐を踏んでしまって転んでしまった。

真一さんにぶつかる直前、肩を抱きとめてくれた。

でもまだ戻っていない体力が、完全には私を受け止めきれなかった。

私は真一さんの胸に顔をうずめる形になってしまった。


「ご、ごめんなさい」

慌てて離れようと顔を上げた先、すぐ目の前に真一さんの顔があった。

そして互いの唇が触れそうな距離。

私たちは沈黙して、引き寄せられるように唇を重ねた。


頭の後ろが痺れて、蕩けてしまいそうな感覚。

多幸感に満たされたところで我に返った。

全身の血液が顔に集まってしまったのではと思うくらいに顔が熱い。

真一さんはどんな表情だろうか。

怖くて見ることが出来なかった私は「ごめんなさい」と言って逃げるように部屋を出た。

そしてお店に戻ると、鍵をかけてボックス席に倒れ込んだ。


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