第三章 椿⑨
少し——
とても心が踊った。
二次会に向けての飾り付けを考える。
入口のウエルカムサインは必須。
でも所詮、スナックなのよね。
リフォームでもしないとお洒落にはならない。
最終的には溜息に行き着いた。
「お困りですね」
真一さんが、冷凍ピラフの湯気の向こうから私を見ていた。
「スナック感がどうしても」
「そうですねぇ......」
私の言葉に店内を見回すと「あのボックス席のソファーは動かせますか?」と言った。
「動かせますよ」
即答した。
こういった店のソファーはしかも軽い。
「それでは当日は高砂席を用意しましょう」
「披露宴の後でまた高砂席ですか?」
新郎新婦とゲストの間に距離が出来ないだろうか?
「ええ、テーブルは置かずにソファーだけにして——」
真一さんは私の準備ノートにイメージイラストを描いていった。
「絵、上手ですね」
「撮影イメージをイラストで説明したりするんです。口下手なので伝わらないんですよ」
真一さんはそう言って、照れくさそうに笑った。
閉店作業とレイアウトの構想が終わると、時計はすっかり二時を過ぎていた。
「真一さん、ピラフで足ります?なにか食べませんか?」
「いいですね、実はお腹が少し」
真一さんはお腹をさすった。
生ぬるい夜風に乗って、食欲を誘う客引きが香る。
あと数ヶ月もすれば、そこに"温もり"という想像も加わって、客引きは有能さを増すのだ。
相変わらず渋い動きのアルミサッシを開けて、店内に入った。
「らっしゃい!」
大将の元気な声と、爆ぜた油の芳ばしい香りが二人を迎えた。
お腹がキュウと鳴りそうなのを、心で必死に言い聞かせる。
(お願い、鳴っちゃダメ)
絶対に、絶対に真一さんに聞かれたくない。
グゥゥ。
恨めしげに自分のお腹に手を当てた。
(あれ?私じゃない)
後ろで真一さんが「いやぁ、お腹のミシュランがもう三ツ星だって騒いでます」と、満面の笑みで頭を掻くていた。
「兄さん、よく分かってるね。さ、奥から詰めてって下さいね」
大将はニッと笑って私たちを案内した。
そして真一さんに見えない角度で、もう一度私だけにニッと笑った。
「お待ち」
カウンターの上で湯気を上げる器。
真一さんはジッと見てから口を開いた。
「これは香りもそうですが、よく寝かせたウィスキーのような美しい色のスープですね」
「えっ!真一さん、本当にミシュラン調査員?」
私はそう言って笑った。
夜街すら寝静まった後でも明かりが灯るラーメン屋。
ソムリエのような言葉なんて似合わない、雑多で大衆的な場所だ。
そして、とても落ち着く店だ。
「冷めるし伸びちまうから、美味いうちに食っちまいなよ」
そう言う大将は明らかに照れていた。
私は目が合った大将を冷やかように、ニヤッと笑った。
大将は誤魔化すように背を向けて、器を洗い始めた。
もっともこれは大将のプロ意識だろう。
私が京ちゃんじゃない人と店に来たから。
真一さんが私の店の客なのか、個人的な付き合いなのか見極めないうちは余計な話はしない。
接客でこの距離感を持つ人が、最近少なくなった気がする。
だからこの店が好きだ。
でもやっぱりラーメンは間違いだったかも。
啜る音を聞かれたくない。
京ちゃんと一緒の時は、散々ズルズルと啜っていたのに。
髪が器に入らないよう、手で押えながら少しずつ口に運ぶ。
(シュシュ忘れた)
そう思っていると真一さんが「蕎麦やラーメンのような、出汁が複雑に絡む日本の麺類は啜ることで更に美味しくなるそうですよ」と教えてくれた。
いや、きっと察したのだろう。
「そうなんですか」
「はい。空気も一緒に取り込む事で舌と鼻で味わうんです」
知らなかった。
けど確かに今日の大将のラーメンは物足りなかった。
「大将、輪ゴムあります?」
私は髪を後ろでまとめると、いつものように啜った。
「美味しい!!」
思わず口にした。
「ベースの鶏ガラと野菜の香りが、醤油の香りと一緒になって...」
「藤さん、アンタもミシュランか」
振り向いた大将が呆れ顔で、でも嬉しそうに言った。
「ウチは餃子も自信があるんだ。また来てくれな」
帰り際、大将は真一さんにそう言った。
ああ、この人は人たらしだ。
媚びではない、天性なのだろう。
私は輪ゴムを外した痛みの残る頭で、そんな事を思っていた。
今日と夕べの境界線の時間の中で。




