第三章 椿③
最近、真一さんのことがふと過ぎるようになった。
「やだ」
思わず声に出てしまう。
彼は年下で、ましてやお客様だ。
特別な感情はいけない。
皆等しく"お客様"でなければいけない。
それが上手に出来なければ——
経営者である以上、私には京ちゃんへの責任もあった。
路頭に迷わせることはあってはいけなかった。
「ダメね」
そう独りごちて、深く息を吐いた。
さぁ、グラス磨きに没頭しよう。
クエン酸に漬けたグラスを手に取ってすすぐ。
重曹を付けたラップで、白い水滴の跡をこすって消していった。
白い涙のようだといつも思う。
本物の涙もグラスの涙も、そのままにしておくとどんどん曇ってしまう。
「キラキラしてなくちゃね」
透明になったグラスを照明にかざしてみた。
琥珀色の明かりを満たしたウィスキーグラスに、真一のボトルが重なった。
(今夜は来てくれるかしら)
なんて、少女みたいな想いが浮かんで頬を赤らめてしまった。
冷凍のストッカーにはピラフやチャーハン、パスタ等の主食が増えた。
もちろんメニューには無い。
「最近、夜食が多いんじゃない」
先日、京ちゃんにそう言われてしまった。
「枝豆やポテトの領土が侵犯されてる」
そう言うと焼きおにぎりをレンチンした。
「拿捕します」
そう言って笑いながら食べてしまった。
「誠に遺憾です」
私も笑って、ひとつつまんだ。
そうして真一さん用の冷食は、私たちのお腹を満たした。
勘のいい京ちゃんのことだ。
きっと気付いているんだろうな。
私の気持ちも、押し殺していることも......
カランカラン。
入口のカウベルが鳴った。
陽射しがドアの隙間から、店内の薄闇をどんどん広く照らしていく。
(酒屋さん?)
逆光のシルエットに塗りつぶされて、誰だか分からなかった。
(誰ぞ彼?)
なんて心で呟いてみた。
「藤さん!」
真一さんの声だ。
「あら、まだ準備中よ」
事務的な言葉と裏腹に、声が弾むのは抑えられなかった。
「すみません」
そう言いながら中へ入る真一さんの後ろで、ドアが閉まった。
締め出された光に、琥珀の照明が居場所を取り戻した。
「いつも食べさせてもらってばかりだから」
そう言って差し出した百貨店の紙袋からは、もう既に甘い香りが溢れ出ていた。
「いい匂い」
「今日、北海道物産展をやっていたんですよ」
紙袋の中にはスィートポテトと書かれた箱。
ずっしりと重たい。
「真一さん、これ凄く重たい」
そう言うと「ああ、これは失礼」と笑って取り出してくれた。
「え、これまだ温かいじゃないですか」
私が驚くと「焼きたてを売ってたので、つい買っちゃいました」と嬉しそうに話した。
切り分けたスィートポテトにコーヒーを添えた。
「インスタントだけど」
そう言った私に「コーヒーもあるんですね」と真一さんが微笑んだ。
私の心の奥から、花の蕾がほころぶような微かな音が聞こえた気がした。
咲いてはいけない花——
私は無意識に手を胸に当てていた。
何かを潰すように握ったままで。
きっと、真一さんの胸に揺れるペンダントのせいだと思った。
彼がたまに触れるペンダント。
それはそうすることが自然であるように、恋人同士が手を繋ぐように。
彼の心を満たすように......




