第三章 椿①
「藤さん、最近キレイになったんじゃない?」
隣の席の常連がニヤついた。
「若いツバメよ、ツ・バ・メ」
カウンターの向こうで京子がからかうように笑った。
客とキャストにからかわれた藤は「バカ言ってないで、京ちゃんは水割りお出しして」と苦笑いした。
真一がこの店に来たのは三ヶ月ほど前の雨の夜だった。
「平日でこの雨だものね」
藤はそう言って少し考えてから「京ちゃん、今日は早上がりする?」と聞いた。
そうしてひとりで水割りを飲みながらUSENをジャズに変えた。
別に詳しいわけではなかったが、音に身を任せていると、心の底がゆっくりとほどけていく気がした。
不意にドアが開いて雨の音が大きくなった。
店の薄暗い照明でよく分からないが若く見えた。
この店の客層とは違う、一見さんで終わるタイプの客だと思った。
「いいですか?」
やはり声が若い。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらに」
藤はそう言ってカウンターに案内した。
「Blue in Greenですか。ここはジャズバーなのですか?」
男はカウンターに着くと天井から下がるスピーカーを見上げた。
藤は一瞬遅れて、それが今流れている曲の名なのだと理解した。
「ああ、いえ。今日はお客さんが来ないだろうなと思ってUSENのチャンネルを変えていたんですよ。ジャズは聴くのは好きだけど詳しくはないんです」
少し気恥ずかしくて早口になった。
「何を飲まれます?」
照れを隠すように紙コースターを男の前に置いた。
「ああ、チャンネルはそのままで。ジャックダニエルがあればロックで」
いつものBGMにしようとする藤を制して男は静かに言った。
「偶然この店に.......ってわけではなさそうね」
「どうして?」
男は出されたグラスに口をつけて藤を見上げた。
氷が鳴った。
「ずっと雨降りだったのに傘を持っていなかったのと、あまり濡れていない」
「なるほど」
「それと、濡れていないってことはタクシーで来た......どう?」
「こんなところで名探偵に会うとはね」
男はニヤリと笑って拍手をした。
そして「でも惜しい」とタクシーのくだりを否定した。
それからおもむろに人差し指を天井に向けた。
「上に越して来ました」
男はいたずらっ子のような笑顔を添えてそう言った。
「ああ!」
夕方、開店準備に来た時にトラックが停まっていたのを思い出した。
そうかあれはこの人の——。
「ごめんなさい、つい大きな声を」
照れる藤に「大丈夫」と男はもう一度笑った。
「ビール、頂戴しても良いですか?」
「ああ、どうぞ。気が付かなくてすみません」
男の返事に、スナックやキャバクラのようなお店の経験が少ない人かなと思った。
これは名探偵の素地ではなく経験則だった。
「いただきます。藤と申します」
注いだビールグラスを差し出して男のウィスキーグラスに軽く当てた。
一口飲んで少し大きなジェスチャーをした。
「もう荷解きは済んだのですか?」
なんとなく二階に視線を送って聞いた。
「終わらなくて、現実逃避も兼ねてここに来ました」
その返事に藤はクスクスと笑った。
「飲み屋なんて現実で背負ったモノを降ろすとことですからね。正しい選択ですよ」
テーブルチャージ。
ナッツとポテチとカルパスが乗った皿を出した。
「夕食は食べたんですか?」
男は首を振った。
胸元のペンダントが小さく揺れた。
「雨が酷くてコンビニは諦めました」
「冷凍ピラフで良ければ召し上がりますか?」
藤の申し出に男の表情が明るくなった。
まるで花が咲くようだった。
「チャージのおかわりをしたいくらいに腹ペコでした」
思いがけない角度の返答に、藤は思わず声を出して笑ってしまった。
「これは私の私物なのでサービスです」
湯気からブイヨンの香りが立った。
「そうだったんですか!?」
驚いた表情と恐縮したお辞儀。
でもすぐにスプーンを手にしていた。
相当お腹が空いていたのだろう。
その食べっぷりは、レンチンしただけの藤に満足感を与えた。
(料理を誰かに食べて貰うなんて久しぶり)
作った訳では無いがそう思った。
結局その日、男はボトルを入れて帰った。
ピラフの礼とまた来ますとのメッセージだった。
そしてボトルには【真一】とプレートが掛けられた。




