第二章 菫⑦
菫子の入所日になった。
今日の午後、菫子は『さくら』の戸をくぐる。
香織はその前にどうしても会いたかった。
まるで自分が菫子になったかのように、北浦将吉に会いたかった。
約束はすんなり取り付けられた。
午前9時から2時間。
入口で、深く深く息を吸った。
目の前の5階建てのビルの看板を見上げた。
『介護付き高齢者入居施設 さくら』
その下には、連理桜を模した円のロゴが柔らかな陽光を受けていた。
インターフォンを押すと職員の女性が応対してくれた。
香織はロビーの一角に案内されると席について北浦を待った。
吹き抜けのロビーは多くの光が降り注ぐような作りだった。
暖かくそれでいて眩しくない柔らかな陽射し。
まるで木漏れ日の下にいるような、懐かしい錯覚を覚えた。
北浦は、あの連理桜の下で過ごした日々を今も忘れられないのかもしれない。
香織はそう思った瞬間、彼という人間の輪郭が少し見えた気がした。
「お待たせしました」
グレーがかった髪に整った目鼻立ち。
人目を引く端正な容姿。
だがその肌に刻まれた深い皺は、彼の平坦ではなかった人生を雄弁に物語っていた。
そして柔和な瞳で香織を見詰める。
祖母の記憶を生きる老紳士が、目の前に立っていた。
「日下香織です。本日はありがとうございます」
立ち上がった香織に「似ていますね」老紳士は静かに言った。
「北浦将吉です」
そう言って差し出された右手を香織は握った。
乾いた、そして少し低めの体温を感じた。
どの指からも、手のひらからも硬くなった皮膚の感触があった。
(この人は今も、こうして生きているのね)
働く人の手を香織は感じた。
「教えてください、貴方の人生を」
香織は自らの言葉に少し驚いていた。
もっと違うことを聞くつもりだった。
でもこの人の手を握った時、北浦将吉を知りたいと思ってしまった。
「菫子お嬢様はどうなさっていますか」
北浦も北浦が一番知りたい質問をした。
『お嬢様は幸せでしたか』ではない。
それを問う残酷さは全てに向けられるものだと、北浦は知っていた。
だからこそ老人は今を尋ねた。
だが香織はそれには答えなかった。
あと数刻で北浦の質問の答えは叶う。
ふたりの歳月を香織の言葉で汲むことは出来ないと思った。
北浦はじっと香織を見詰めていた。
そして沈黙はやがて、ふたりの間を繋ぐ橋となった。
北浦は静かに目尻に皺を寄せ、頷いた。
光の中で、その頷きだけが穏やかに揺れていた。
作戦の失敗は明らかだった。
雨季に入り氾濫した河川は物資を飲み込み部隊を寸断した。
(ここで死ぬのか)
飢えと赤痢で意識が混濁する。
同じ幹に身体を預けている戦友は、もう数日声もなかった。
砲声も怒号も無い。
最前線から離れた場所で静かに朽ちる。
最悪な運命だが、誰かの命を奪うことなく死ねるならそれは有り難くもあると思った。
ただ、旦那様の計らいでの補給部隊への配属。
ご厚意を無駄にするようで申し訳なかった。
ふと視線を落とした北浦の口許から笑みが零れた。
(こんな時にまで何を考えているのか)
視線の先には一輪の菫があった。
「菫子さん......」
あの日言えなかった言葉が口をついた。
(生きて菫子さんに会う)
北浦はよろめきながら立ち上がった。
部隊がどこへ向かったのかすら分からなかった。
だが北浦は午後の太陽を背に歩き出した。
一歩でも日本に、一歩でも菫子に近付きたかった。
目覚めると、粗末な竹小屋にいた。
北浦はイギリス軍に再占領されたビルマを辛うじて抜け、タイの国境近くで倒れたところを現地の老夫婦に助けられていた。
しばらくは言葉も通じぬまま、木陰に咲く菫を眺めて過ごした。
視線の行方に気付いた老婆は「ワイオーレ」と言って北浦の枕元に菫を飾った。
症状も快方に向かい、北浦は老夫婦の農作業や力仕事を手伝うようになっていた。
カタコトと身振りで意志の疎通が出来るようになったある日、老夫婦が告げた事実は北浦を打ちのめした。
日本が戦争に負けた。
それは数ヶ月も前のことだった。
北浦は突如揺り起こされた。
老夫婦だった。
曰くバンコクから引き上げ船が出ているという。
彼らは夜のうちに北浦を牛車に乗せ、闇の道を進んだ。
竹林を抜け、湿った土を踏む音だけが響いていた。
老夫婦は一言も発さなかった。
ただ、老婆が北浦の手に何かを渡した。
それは老夫婦に拾われた日に着ていた軍服だった。
今、北浦を日本人だと証明するのは、ボロ切れのようなこの軍服だった。
船が見えたのは夜明け前。
「行け」と老人は笑った。
北浦は何度も頭を下げ、甲板へと駆け上がった。
波間に浮かぶ国の名を、涙で滲む視界に思い描いた。
(帰る。あの人のもとへ)
船は香港経由で大阪に入った。
戦争が終わって、既に三年の月日が流れていた。
「菫子は嫁いだよ」
力無く言った柘植の言葉は、北浦の心を砕くに十分だった。
それは自身の戦死認定よりも強い衝撃だった。
「全て私の過ちだった」
柘植が続けたこの悔恨が北浦を支えた。
「柘植家の繁栄という打算が菫子の心を殺し、君の人生を奪い、君たちの未来を潰してしまった。私は愚かな父親だった」
(この方はやはり私がお仕えすべき方だ)
「旦那様、私は柘植家に命を拾われました。これからも柘植家に尽くす機会をお与え下さい。そして菫子お嬢様には私は戦死したままに......」
北浦はそう言って深く頭を下げた。
お嬢様が柘植家の為に嫁いだのならば、私も柘植家の為に影となろう。
そう心に誓いながら。
下がる北浦に何か言いたげな竹田がいた。
北浦は竹田の肩に手を置くと、小さく頷いて去って行った。
翌日、竹田は柘植に呼び出され書斎を訪れた。
柘植は厚みのある封筒を差し出すと「竹田君、長い間ありがとう。君さえ良ければだが紹介状を同封してある」と言った。
「旦那様」
「日下君の会社だ。きっと良くしてくれるよ」
そう言ってもう一度「ありがとう」と手を差し出した。
竹田はこの時の柘植の手の暖かさを生涯忘れまいと思った。
北浦が柘植家を再訪したのはその数時間後だった。
柘植は北浦の復職を頑なに認めなかった。
そして述懐した。
「君の戦死の報せを受けた菫子は錯乱して手の付けようがなかったよ。そして数日の間、何も食べずに部屋に籠りきりになった。ある日やっと出て来た菫子は、頬はこけ落ち目は虚ろでどこを見ているのか分からないものだった」
「お嬢様......」
北浦は唾を飲んだ。
「そして目を離した隙に、君の戦死広報を手にしたままフラフラと出ていってしまった。最悪の事態を想像したよ。使用人全てと警官を使って川や空き家を捜索させた。もちろん私も加わって探した。どこにも見当たらないまま夕刻をむかえた」
柘植はそう言うと戸棚から新しいブランデーを取り出し開けた。
北浦の前にも注がれたグラスが置かれた。
柘植はひと口喉を潤すと続けた。
「陽が沈む頃、菫子が戻ってきた。安堵して迎えた菫子の右手には君の戒名が書かれた位牌があった。それからの菫子は、位牌を抱いたまま毎日を過ごすようになった。取り上げようとすれば暴れて手が付けられなかった」
これ以上は耳を塞ぎたかった。
菫子の痛みが千のナイフのように北浦の心を切りつけるようだった。
「終戦を迎えたある日だった。菫子が社交界に顔を出し始めた。その様子に私も使用人たちも皆で胸を撫で下ろしていた。しばらくすると菫子を見初めた御仁達が我が家を訪れ、結婚の許可を得にやってくるようになった。一度で諦める者、何度も訪れる者と様々だった。私はその全てを断り続けた。君と娘の為に」
柘植はそこで言葉を切った。
書斎に沈黙の幕が降りる。
これがシェイクスピアの戯曲ならクライマックスへ向けての期待に満たされるだろう。
だが柘植はリア王でもマクベスでもない。
ここには何にも抗う術を持たない、ただの人間しかいなかった。
もっとも二人とも運命を退けることは叶わなかったが。
「だがある日のことだった。求婚者の前に菫子が姿を現し結婚を承諾した。その時の私には目の前にいるのが娘には見えなかった。私の知る菫子ではなかった。その真意を知るまでは......」
柘植はブランデーを煽るように飲み干すとグラスを置いた。
「あれは娘なりの後追いだったのだな、ひと回りも離れた男に嫁いだのは。そして潤沢な援助と支度金で斜陽にあった柘植家は持ち直す。そして菫子は私に娘を殺して売った男のレッテルを貼ったのだよ!」
そう言って力無く柘植は笑った。
「それは考えすぎです、旦那様」
北浦があまりに酷いその思い込みを否定したが、柘植は頭を振って聞かなかった。
「いや、いいんだ。家の存続も繁栄も、それは娘の幸せの先にあることに気付かなかった私が愚かだった」
そして最後に柘植はこう言った。
「私はこれから君の忠義と善意、そして娘への好意につけ込む。これが最低の父親が娘にしてやれる最後で全てだ」
「それから三日後でした。奥様と離縁した旦那様が自ら彼岸へ発たれたのは」
静かに語る北浦の様子を香織は身じろぎもせずに聞いていた。
トミ子、住職、祖母、竹田。
それぞれから語られたふたりの人生が、北浦の語りで絡み合い、まるで連理の枝のように紡がれていった。
「曽祖父は貴方に何を背負わせたのでしょうか?」
香織は最後のピースをはめる質問を投げかけた。
連理桜の下に咲く花。
未完の絵を描く一片を。
鬱陶しい雨が続いていた。
もう数日、髭も剃っていない。
柘植は死に、菫子は嫁いだ。
北浦の心は行く先を失い、虚空を彷徨うだけだった。
四畳半の壁に背中を預け、ただ言葉もなく。
(あのまま戦友と共に朽ちていれば)
そんな何度目かの思いが浮かんだ時、薄いドアが叩かれた。
鬱陶しい...
現実の音は全て鬱陶しい。
ドンドン。
叩かれる度にドアも部屋も軋む。
ささくれをめくるような不快感に耐えかねてドアを開いた。
そこにはこうもり傘の下で上等な仕立てのスーツの肩を僅かに濡らした男が、柔和な表情で立っていた。
「北浦将吉様でいらっしゃいますね」
柔和な表情を崩さずに男は言った。
「誰だ、アンタ」
そんな言葉は人生で初めて使った。
北浦自身、自分の中にそんな言葉を吐く自分がいることに少し驚いていた。
「失礼しました」
男は畏まって言うと左手に傘、左脇に鞄を挟むと名刺を取り出し「片手で失礼します」と差し出した。
【太田弁護士事務所 弁護士 太田秀俊】
「旦那様......」
北浦は名刺を見詰めてそう呟いた。
後日、北浦は太田の元へ向かった。
薄汚れたランニングシャツにあの風体では外出もままならず、四畳半の湿気った部屋に招く訳にもいかなかった結果だ。
新宿区角筈......改めて名刺を見ると馴染みの無い地名だった。
戦前は旦那様の使いや大学の講義の都合で帝都には度々来ていたので知らない土地ではない。
とりあえず新宿駅まで行って街ゆく人を呼び止めると呆れた顔で「新宿駅で新宿区はどこだって、お前さん」と言われた。
そこまで言って彼は「ああ、復員兵か」と途端に「苦労したね」と優しくなった。
彼は戦後数年して淀橋区が他区と合併して新宿区になったと教えてくれた。
「昔の淀橋区角筈に向かうといいよ」
そう言って人混みに消えて行った。
ようやく見つけた太田の事務所は四階建ての立派なビルディングの中にあった。
「これは眺めの良い事務所ですね」
応接室の窓からの眺望は、いつまでも見ていられる程だった。
「ありがとうございます」
そう言って太田は自らお茶を運んでテーブルにふたつ置いた。
「ひとりでやってるもので」
苦笑いを見せ席に着くと「こちらを」とお茶をよけてアタッシェケースを置いた。
「これは!」
よく見るとそれは柘植のものだった。
「分かりますか」
「もちろんです。旦那様のお供で出掛けた時などは私が運んだのですから」
まだ小さい時分の私が抱えて歩くのを微笑ましそうに見てくれていた柘植の姿を、身長が並ぶ頃には片手に持って半歩後ろから見た柘植の横顔をありありと思い出した。
アタッシェケースの中にはそんな思い出とは真逆の現実があった。
遺言書と鍵だった。
最後の使用人だった竹田へは十分な支度金を与えたこと。
実家へ戻した奥様へは現金や証券で半分の財産を渡したこと。
そして北浦へは残りの現金や証券と土地建物を引き渡すと書かれていた。
鍵は貸金庫のもので権利書の類があると記されていた。
『忠義と善意、そして好意につけ込む』
柘植の言葉が脳裏に声を伴って浮かんだ。
「わかりました」
北浦の呟きは太田に向けたものではなかったが「では署名捺印を」と書類をいくつかテーブルに広げた。
香織の前に革のアタッシェケースが置かれた。
元の色はタンだったのだろうか。
古いがよく手入れされていて琥珀に色を変えていた。
まるで時を閉じ込めたように。
「もう中には何もありませんが、曾お祖父様のものです。貴女にお返しします」
香織は革を指先で辿り撫でるように触れた。
そして「中には貴方の人生と曽祖父の願いが詰まっているのでしょう」とそっと押し戻した。
押し戻されたアタッシェケースに視線を落とした北浦は「貴女のお爺様はとても素晴らしい方でした」と言った。
「彼は自分が愛されて選ばれたわけでは無いと知りながら、それでも誠実に菫子お嬢様を愛し慈しみました」
北浦は少し胸の痛みを覚えながら青春の思い出を語るように話した。
「もうご存じだと思います。私は旦那様の資金を元に事業を起こしました。タイで私を助けてくれた老夫婦のツテを使い、東南アジアからの商材の輸入と輸出。復興やオリンピックへ向けて好調だった建築業。これらを軸に始めました」
「それが北翔なのですね」
香織の言葉に北浦は頷いた。
「高度経済成長が続く中、我々はオイルショックの冷水を浴びせられました。その時に日下商事の事業が大きく傾きました。私は忠義と善意と好意につけ込まれることを決めました。私は財団を立ち上て北照から退きました」
「名前が出ないように?」
「はい。そして日下商事にいくつかのペーパーカンパニーで発注をして支えました。並行して北翔に縁もゆかりも無い男を会長に据えました。香織さんのような名探偵を躱すためにね」
突然茶目っ気のある笑顔を見せるものだから、香織はつい笑ってしまった。
これが北浦という男の懐の深さなのだろう。
北浦は咳払いをひとつすると少し冷めたお茶で喉を潤した。
そして再び口を開いた。
「財団ではお嬢様と柘植家の歴史の保全を始めました。それがワイオーレ財団で、今日に至ります」
「でもなぜ北浦さんが人生の全てを掛けておばあちゃんの為に尽くしたのか、私には理解できないです」
香織はごく当たり前の疑問を投げ掛けた。
「先程申し上げた通りです。貴女のお祖父様が素晴らしい方だったから、私は影になりました。日下さんは一途に愛し尽くしました。彼ほど誠実な人は珍しいでしょうね。ある時の彼は、お嬢様の生家を買い戻そうと動いていました。旦那様と奥様、そしてお嬢様の思い出の詰まった場所が人手にあるのが我慢ならなかったのだと思います。でもそれは突然の不況に会社が耐えられない結果を招きました。そこで私はあのお屋敷を帯壁町に寄付したのです」
「それで祖父は諦めたのですね」
「はい。彼の一途さは時に危うく、でもそれは私にとって眩しいものでした」
北浦はかつて菫子の気持ちに真っ直ぐ応えられなかった自分を重ねて、そう言った。
「でもね、香織さん」
北浦は香織の目を真っ直ぐに見て名前を呼んだ。
「菫子さんに愛が無かったのはきっと初めだけですよ。日下さんの献身は菫子さんの心を開かせて未来へ歩ませるに十分だったと思います。そうでなければ日下さんと添い遂げることも無かったと思います。それに何より、香織さんのような素敵なお孫さんが育つこともね」
真剣な眼差しで、そして最後だけ悪戯な少年の照れ笑いのような顔を見せた。
その日の午後、香織の運転する軽自動車が菫子を乗せて【さくら】に着いた。
スライドドアを開けた後部座席の横に車椅子を置いた。
父親と二人がかりで苦戦していると施設から北浦が出てきた。
「手伝いますよ」
北浦は菫子に「ドアのポケット掴んで」とか「片足ずつ地面におろして」とかアドバイスをしてほぼ身体に触れることなく移乗を終えてしまった。
祖母は何度も小さく頭を下げて「ありがとうございます。すっかり身体も言う事を聞かなくなって」とぶつぶつ呟くように言った。
「大丈夫ですよ、菫子さん。花は散るその瞬間までも花なのです」
北浦がそう言うと祖母は顔を見あげて驚いた表情を見せた。
途端に両目から溢れるように涙を零して「私、私......お婆ちゃんになってしまった」としゃくりあげるように言った。
「行きましょう、菫子お嬢様」
北浦は私たちに会釈をすると、車椅子を押して自動ドアの向こうに歩いて行った。
吹き抜けの陽射しの中、華やいだ笑顔を向ける菫子が一瞬、少女のように見えた気がした。
-了-




