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花物語  作者: 浅見カフカ


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第二章 菫⑥

雨音に紛れてスマホの着信音が鳴った。

休日のまだ眠っていたい時間。

ベッドの中から手だけを伸ばして探り当てた。

「はい」

気だるい声で番号も見ずに出た。

「なんだ寝てたのか、香織」

叔父の秀一が電話の向こうで呆れ声を出した。

そして「例の件、会ってくれるそうだ」と言った。

秀一は父親のかつての部下に、約束を取り付けてくれていた。

「ありがとう、おじさん!」

目が覚めたように声が弾んだ。

「そう思うなら早く仲人をさせろ」

秀一はそう言って笑った。


面会場所は都内のホテルのラウンジだった。

歴史ある屈指の名門ホテル。

初めて訪れた香織は、いささか緊張気味に周囲を見回す。

古いがよく磨かれた調度品。

意匠を凝らした柱や壁。

先日見学した歴史資料館と柘植家の展示品を思い出させた。

ロビー入口から見てすぐの場所にラウンジがあった。

一歩踏み入れると芸術的な壁面に圧倒されそうになった。

思わず見惚れているところに、柔和な表情の男性が近付いて来た。

「いやぁ、奥様の若い頃にそっくりです」

彼はそう感慨深げにいうと「さぁ、こちらへ」と席へ案内した。

席にはもう一人、菫子と同じくらいの年嵩の男性が車椅子で待っていた。

「四宮と申します」

男性は改めて会釈をすると名刺を差し出した。

名刺には㈱四宮商事代表取締役社長とあった。

「私は竹田です。昔は柘植家で下働きをしておりました」

車椅子の老人は、かすれたような声で名乗ると香織を見上げた。

香織は「日下香織です。本日はありがとうございます」と腰を折るように頭を下げた。

そして竹田の前に屈むと、手を取ってもう一度「ありがとうございます」と言った。

竹田は目を細めると「血ですかね」と懐かしそうに香織を見た。

香織は、その眼差しを推し量るように見返した。

「菫子お嬢様も私たちに優しくしてくださいました」と竹田は嬉しそうに、過去を思い出すように言った。

「竹田さんは柘植家の次は日下商事に雇われて、日下商事解散後は弊社にて、定年までご尽力頂きました」

四宮から紹介に「祖母の人生を知る生き証人なんですね!」と香織は思わず興奮して言ってしまい、慌てて非礼を詫びた。


絵付の無い白磁に波のような紋様が美しい、小ぶりの上品なカップが運ばれた。

湯気に纏わせた芳醇な珈琲の香りが立ちのぼる。


「実は北浦将吉さんとワイオーレ財団について調べています」

香織は魅惑的な珈琲には手を付けず、単刀直入に言った。

「ああ、ワイオーレ財団は北翔さんが運営する組織ですね。福祉や文化遺産や歴史遺産の保全、保管が目的と聞いています」

四宮はごく一般的な回答をした。

取り引き先の別組織への知識としてはそれで十分だろう。

「はい。その財団が、主に柘植家を保全していることが不思議なのです」

「そうなのですか?あれですかね…日下商事時代からのお付き合いですから、奥様のご実家に興味を持たれたとか」

そう言いながらも、四宮自身も自分の言葉に納得していない様子だった。

「私、知らなかったので調べたんです。ワイオーレの意味を…」

一瞬の沈黙の後。

「すみれ」と続いた言葉に、四宮と竹田は驚いた表情を見せた。

「偶然ではなさそうですね」

各々口にすると竹田は黙り込み、四宮は何か思案する様子だった。

「あのですね」

四宮はかつての日下商事での腑に落ちない出来事を語った。

日下商事の経営は順風満帆というものではなかったそうだ。

深刻な経営不振からの倒産危機を迎える度に、突然の大型案件の受注や不採算部門の高額買収などがあって難局を乗り越えたことがあったと教えてくれた。

「そして全て単発なんですよ。普通はそこからお得意先になってくださったりするものなのですが......無いんです。その先が」

四宮は今、不思議というより恐怖を覚えた。


「菫子お嬢様はお元気ですか?」

口をつぐんでしまった四宮の隣で、竹田が沈黙に支配されそうな空気を払った。

「実は足を悪くして祖母も車椅子なんです」

「そうでしたか。それはお嬢様もご家族も大変ですね」

竹田は自らの境遇に重ねて香織を労った。

「でも来週から施設に入居出来るので今は荷造りの最中なんですよ」

香織がそう言うと「よく見つかりましたね」と竹田は驚いた声を上げた。

今は公営も民間も見つからないらしい。

余程の高級介護施設でもない限り順番待ちだそうだ。

「そうなんですか。まるで奇跡......」

そこまで言って香織は言葉を止めた。

そうしてスマホをバッグから取り出すと、LINEを1件送ってテーブルの上に置いた。

そしてカップに手を付け琥珀の液体が揺れた瞬間に、ピンとスマホが鳴った。

珈琲の香りが舌から鼻腔に抜けるのをゆっくりと楽しんだ後で、スマホを手にした。

それはもう既に何かを確信しているように。

「祖母の入居先は、サービス付き介護施設さくら」

読み上げたのは、どこにでもありそうな施設の名前だ。

「四宮さん」

香織は竹田ではなく四宮の名を呼んだ。

「運営はワイオーレ財団です」

四宮は何か恐ろしいものでも見たような顔をしていた。

逆に香織はとても悲しげで、それでいながら何か暖かいものに触れたような表情を浮かべてこう言った。

「北浦将吉さんは生きていると思います」

香織は深く息を吸った。

そして吐ききるまでの数秒。

竹田の目を見詰めて「そうですね」と静かに言った。

竹田は頷くでもなく、ふっと表情を緩めた。


戦争が終わった。

もう夜中のサイレンに飛び起きることも、プロペラの轟音に怯えることもない。

敗戦の悲しみは何も感じなかった。

生き延びた安堵と明日からの不安だけがあった。

竹田は事故で欠損した指先を陽にかざしてそう思った。


GHQの布告によって柘植家は多くの農地を失った。

竹田も独立すべきか随分と悩んだが、結局は柘植家で主人を支えようと決めた。

菫子はあの日以来部屋を出ていなかった。

位牌を抱いて戻った日。

人形のように美しい菫子は表情を喪い、本物の人形のようだった。

柘植も憔悴しきっていた。

菫子のこともそうだが、安全と思い送り出した戦地だった。

後にインパールの実態が明らかになるにつれて柘植は心を病んでいった。

そして戦後の民主主義の風は、容赦なく柘植家を斜陽へと追い込んでいった。


柘植家が朽ちてゆく。

その様と引き換えのように、この頃の菫子は外へ出るようになった。

あれほど嫌っていた社交界の場に、だ。

菫子の評判は年頃の男子を持つ家や、年頃を過ぎた独身の資産家の間に瞬く間に広まっていった、

そして菫子を日下が見初めた。

多額の支度金と援助を提示された柘植だった。

しかし日下の申し出に首を横に振るばかり。

柘植は北浦と菫子を離したかっただけだった。

死なせるつもりは毛頭無かった。

激しい後悔と自責の念は、家の救済も再興も拒むものとなった。

そんなある日、幾度目かの日下の訪問の日。

拒む柘植と懇願する日下のいつもの光景。

そこに菫子が現れて求婚を受け入れた。

誰しもが驚いていた。

日下自身も。

これは菫子の自殺。

もしくは自傷行為だったのだろう。

北浦の居ない世界にひとり。

1億の中の孤独。

腕に抱いた位牌だけが唯一の温もりと。


結婚式は実に質素なものだった。

かつての名家とは思えない程の。

その頃の柘植家は柘植夫妻と使用人の竹田のみだった。

日下の援助により柘植家は生活に苦労しない程度には持ち直していた。

順調に思えていた。

あの日まで。


菫子の二人目の妊娠が分かった日。

吉報とともに北浦が現れた。

ボロきれのような軍服姿で柘植の前に現れた。

柘植は喜びと困惑でどうしていいか分からない様子だった。


北浦の補給部隊は飢えと細菌性の病により壊滅した。

ただ一度の発砲も無く、見えない敵にひとり、またひとりと倒れていった。

北浦も例外なく飢えと病の中にいた。

先に逝った戦友の白骨が転がる中、蒸し暑い原生林に崩れるように倒れた。

倒れても何度も立ち上がり本隊への合流を試みた。

しかし遂には意識を失い死体のように転がってしまった。

北浦は軍用品を拾い集めていた現地民に助けられて一命を取り留めた。


だが、北浦の消息は戦死と認定されて国内通達されてしまった。

あのインパール作戦は全てにおいて杜撰だった。

生死の判別においても。

全国で同様のことが起きていた。


北浦は柘植に恨み言を言うでもなく、ただ純粋に柘植家の力になろうと戻ってきた。

そして菫子の結婚を知って尚、柘植家への恩義が変わることは無いと言った。

そして菫子の前に名乗り出ることも無いと。


翌日、竹田は多額の金と共に暇を出された。

正確には日下の会社に就職を斡旋された。

妻も実家に戻され、その数日後に柘植は死んだ。

屋敷の一部が焼け落ち、書斎から遺書がみつかった。

竹田はあれきり北浦と会うことは無かった。


ふたりに謝意を述べ見送った。

香織は北浦が高齢となった今も生きていると確信した。

そして北浦がいる場所も分かるような気がした。

会おう。

北浦将吉に会おう。

もう香織の心に、迷いという得体の知れないものは無かった。


雨はもう上がっていた。


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