第一章 紫陽花①
『花言葉は家族ね』
そんな言葉に目を覚ました。
懐かしい優しい声だった。
「パパ、大丈夫?」
夢に良く似た声は次女の美禰子だ。
「ん、ああ。ちょっと眠ってしまったみたいだ」
案じる美禰子にそう言うと、私は支度の続きを始めた。
今日は妻の小夜子の墓参りに行く日だ。
私とふたりの娘達は、この日を一年で一番の楽しみにしている。
思春期を迎えて難しくなってきたが、この日だけは数日前から準備を始めていた。
「紫陽花を切って来てくれないか」
「もう用意したよ」
我が娘ながら頼もしい。
「紫陽花って小さな花が集まって、家族みたいだね」
美禰子が花束の向こうで言った。
一瞬、小夜子がそう言ったように見えた。
私と小夜子は施設で出会った。
私はへその緒が付いたまま、病院が併設した保護設備に投函された。
名前すら与えられず薄布一枚で。
小夜子は私が小五の頃に施設に来た。
冬の寒い日だった。
最初は何も話さない子だった。
頷くか下を向くかだった。
彼女は、育児放棄を理由に施設が保護した子供だった。
当時確か九歳だった。
新生児から施設で暮らした私にとって、そこは家だった。
だが、小夜子にとっては知らない場所だった。
まるで、拾われたばかりの野良猫のように周りに怯えていた。
もっとも、ここではそんな子供も珍しくはなかった。
中庭の桜が淡い紅色に染まる頃には、小夜子もよく笑うようになっていた。
桜の押し花を私に見せてくれたのもその頃だった。
押し花帳とでも言うのだろうか?
鉛筆で『純潔・高貴』と書いてあった。
丁寧な字だった。
「綺麗だね」
「クラスで流行ってるの」
多分これが私達の、挨拶以外の初めての会話だったと思う。
長梅雨に時間を持て余していた日曜の朝。
集会室の床に足を投げ出して座っていた。
ガラス越し、遠くの雲の切れ間がこちらに来ないかと詮無きことを考えていた。
サーという雨の音にパラパラという音が混ざった。
視線を上から下に移すと、すりガラスを赤い色が通り過ぎた。
ガラス戸を開けて外を見ると、傘をさした小夜子を見つけた。
大きめの黄色い長靴は動きにくそうに見えた。
私たちは大体が誰かのお下がりで、調度良いサイズのものはなかなか当たらなかった。
それでも小走りに施設の正門の方へ向かって行った。
正門の横。
晴れていても日当たりの悪い塀の陰に、青い水彩で淡く染めたような一角があった。
そこに屈むと小夜子の姿が赤い傘に隠れた。
僅かに黄色を覗かせて。
(何をしているのだろう?)
退屈に背を押されるように、好奇心が私を動かした。
玄関に回ると、引っ掛けるように靴を履いて小夜子のもとへ駆け出す。
泥がふくらはぎに跳ねる感覚は不快だったが、好奇心が勝った。
リズミカルな雨音を乱す私の足音に、小夜子が振り向いた。
私は急に気恥ずかしくなって一旦足を止めた。
そしてそこから、ぎこちなくゆっくりと近付いていった。
そんな私の意図を気付いてかどうかは分からない。だが小夜子は、両手に乗せた花を私に見せた。
紫陽花だった。
「紫陽花は散らないって、拓兄ちゃん知ってる?」
何年も正門横の紫陽花を見ていたが、全く知らなかった。
「いや」
つっかえるように返事をした。
「花を少し切ってあげないと来年の紫陽花が困るから切っていいよって、ママ先生が言ってたの」
「ああ、そうなんだ。小夜子ちゃんはそれをどうするの?」
そう聞いて以前に見せてくれた押し花を思い出した。
「そうか、押し花だね」
私がそう続けると小夜子は嬉しそうに「うん」と頷いた。
傘と紫陽花と、その手には余る剪定鋏を持って立ち上る。
私は小夜子の手から傘と鋏を「持つよ」と受け取って歩いた。
新聞を貰って集会室の床に敷いた。
小夜子は濡れた花弁をひとつずつ切り離すと、丁寧に水分を取り始めた。
「本当は晴れた日の朝とかがいいの」
茎や葉もひとつひとつ切っていく。
押し花は花弁だけを使うものだと思っていたので意外だった。
「紫陽花って、小さな花が集まってひとつの花になるの」
呟くように小夜子は言った。
「移り気、浮気、高慢…紫陽花の花言葉は良くないものが多いけど、家族って意味もあるの」
そこまで言って顔を上げた。
「私はね、この家族って花言葉が好き」
私はこの時、この笑顔を見た時に彼女を意識し始めたのだと思う。
憧れと寂しさの入り交じった笑顔だった。




