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蜂蜜

作者: とひ たけし

蜂蜜

転校初日の朝は、どこか油膜の張った水面のように、光の反射だけが目に沁みた。まだ咲かない桜の枝が、灰色の空を縫うように伸びていて、僕はその隙間ばかりを見ていた。

教室の前で立ち止まったとき、心臓がひときわ大きく跳ねた。扉の向こうに広がっているのは、完成された関係の網の目。そこに後から滑り込むことの怖さを、言葉にはできなかった。

 「じゃ、入ってきなさい」

担任の永井先生の声に促されて、一歩踏み出す。空気が、わずかに変わるのがわかった。ざわめきの直前の、静けさ。その中に、無数の視線が落ちてくる。

 「今日からこのクラスに入る森下准一くんです。よろしく」

よろしくお願いします、と口の中でだけ言った。声は出なかった。けれど、それで良かったのかもしれない。誰もそれを問い返してはこなかったから。

与えられた席は、一番後ろの窓際。名前を呼ばれることも、話しかけられることもない時間が、無音のフィルムのように流れていった。鉛筆の音、椅子の軋み、咳払い。すべてが、僕に関係のない音だった。

転校してから、二日。いや、もしかしたら三日目だったかもしれない。時間の感覚が、あいまいになっていた頃だった。

その日も、僕は窓の外を見ていた。枯れた植え込みの向こうで、風が砂埃を巻き上げていた。

 「なあ」

唐突な声が、左から届いた。

 「おまえ、サッカーとかやる?」

僕は思わず顔を上げた。池場浩二。クラスの中心にいるような、眩しい存在だった。

でもその声は、不思議と軽くなく、茶化す感じでもなかった。ただ、まっすぐだった。

 「……やらない。あんまり」

自分でも驚くほど、小さな声だった。でも、浩二は聞き取ってくれたらしく、ふっと笑った。

 「そっか。俺、やってんだけどさ。ヒマなら今度一緒にどう?」

その「今度」という言葉が、遠い未来のようでもあり、明日の放課後のことのようでもあり――何も言えないまま、僕はただ、小さくうなずいた。


あれから一週間が過ぎた。

何度か浩二に話しかけられ、そのたびに僕は、心の奥のどこかでほっとする自分を見つけた。廊下ですれ違うときや、体育の後に水を飲みに行くとき、ほんの短い会話があった。名前を呼ばれるたび、背中に薄い風が通り抜けていくようだった。

けれど、そういう瞬間のあとには、決まって妙な静けさが残った。たとえば、冷たい水を飲んだあとの、喉の奥の空虚みたいなもの。嬉しいと、思っているはずなのに、心のどこかがざらついていた。

僕は、誰とも一緒に昼食をとらなかった。机を少しだけ隅に寄せ、パンの袋を開ける。まわりには、笑い声と談笑と、食べ物の匂いが渦巻いていた。その中心に浩二がいることも、あった。

ときどき彼がこちらを振り向くと、僕はうなずいたり、笑みのようなものを返したりした。でも、そこから何かが始まることはなかった。

たぶん、僕たちは「話す」けれど、「近い」とは言えなかった。僕がそう思っている限り、彼は僕の“友達”ではなかった。

 ただの“名前を知っていて、時々言葉を交わす人”。

それ以上にも以下にもなれないことが、僕にはよく分かっていた。

休み時間、教室の端に座っていた僕の耳に、浩二の笑い声が届いた。その声は、まるで教室全体に春の陽を広げるようで――だからこそ、自分の中に落ちる影が濃くなるのを感じた。

僕は机に頬をつけ、窓の外を見た。陽の光ににじむ曇り空。灰色の雲の隙間から、かすかに青が覗いていた。

その青は、すぐに消えた。

部屋に戻ると、カーテン越しの夕日が壁に薄く滲んでいた。乾いたオレンジ色の光が、教科書の背表紙を斜めに照らしている。ページを開く気にもなれず、僕はベッドにうつ伏せになった。

足元のドアが、軽くノックされた。

 「准一、今日どうだった?」

母の声は、声帯に芯のあるタイプの声だ。話し方も歯切れがよくて、時々冗談とも小言ともつかない言葉が、会話の合間に刺さるように入ってくる。

 「……ふつう」

僕は枕の方に顔を向けたまま、短く返した。

 「そっか。でもさ、友達できた?」

その言葉に、一瞬、心臓が軽く跳ねた。

部屋に沈黙が流れる。答えを探しているあいだに、口が先に動いた。

 「……うん。まあ、何人か」

嘘だった。

本当は、名前を呼ばれただけで驚くような関係しか、まだ築けていなかった。だけど、「いない」と言えば、母はきっと口を尖らせて、なにか勢いよく言うだろうと思った。

 「そう、よかったじゃん。あんた昔から、人見知り激しいしさ。話しかけてくれる子がいるといいね。ズバッと物言うようなタイプが一番助かるのよ、こういうときは」

母はそう言って、笑った。その笑いの中に悪気がないことは分かっていた。でも、だからこそ、言い返す言葉もなかった。

母のその感じずけずけと間を割るように言葉を放つ感じは、どこか浩二と似ていた。似ているのに、まるで違って見えたのは、たぶん、僕が「どちらにもなれない」からだった。

ドアが閉まり、足音が遠ざかる。

部屋に静けさが戻ると、言ってしまった「うん」という一音だけが、壁に染みついているような気がした。

その一音は、誰にも責められていないのに、どこか胸を苦くした。


朝、目を覚ましたとき、空はすでに白んでいたけれど、胸の奥には昨日の言葉が重く沈んでいた。

 「……うん。まあ、何人か」

自分の声が、夢の中のもののように遠く感じられる。カーテンの隙間から射す光は、まっすぐに机の角を照らしていた。眩しさより、乾いた感じがした。

リビングに降りると、食卓の上には母の置いた朝食が並んでいた。トースト、ゆで卵、ヨーグルト。湯気もなく、整っているのに、どこかひとつも心がないような気がした。

椅子を引くと、脚が床を擦って小さな音を立てた。それにさえ、部屋の静けさが揺れた。

僕は、ヨーグルトの皿の前に小瓶を見つけた。

蜂蜜だった。琥珀色のとろりとした液体が、瓶の中で微かに揺れている。母はこういうとき、やたらと気を利かせて「甘いものでも食べな」とか言う。けれど今朝は、何も言わずに出してあった。

瓶の蓋を開けると、ふわりと甘い香りが立った。スプーンで少しすくい、真っ白なヨーグルトの上に落とす。

とろり。

蜜はゆっくりと沈みながら、なめらかな曲線を描き、白の中に滲んでいく。

蜂蜜が広がる様子を見つめていると、不思議と胸の奥にも、同じようなものがあったことを思い知らされる。

言えなかったこと。

言ってしまった嘘。

浩二のまぶしさ。

母の正しさ。

どろりと、言葉にならない何かが、僕の中にも広がっていた。

その甘さは、味じゃなかった。

食べる前から、口の中が少し、苦かった。

その日、教室で浩二が誰かとふざけあって笑っていた。相手は、クラスでも要領のいいことで知られている男子だった。彼らの笑い声は軽く、乾いていて、けれどどこか鋭さを孕んでいた。

僕が隅の席でノートをまとめていると、浩二がふとこちらを見た。目が合ったかと思ったが、すぐに誰かの声に呼ばれて彼はそちらへ向き直った。

その一瞬が、どうしようもなく胸に引っかかった。

 「別に、もともとそういう距離だったじゃないか」と思おうとした。けれど、どうしても、心のどこかが水をかきまわすようにざわついていた。

帰宅し、ランドセルを椅子に投げるように置いた。部屋の空気が重たかった。夕方の光が床を斜めに切り取っている。

なんとなく台所に降りると、冷蔵庫の中にヨーグルトがひとつ残っていた。無意識のようにそれを手に取り、スプーンと蜂蜜の瓶を取り出す。

蓋を開けた瞬間、あの甘い匂いが鼻腔に届いた。でも、今日はなぜか、少し喉の奥がつまるようだった。

ヨーグルトの表面に、また、蜂蜜を垂らす。

とろり、とろり。

まるで、白のなかに黒い液体をゆっくり染み込ませるような気分だった。色は金色なのに、心の中ではもっと暗い色をしていた。

スプーンですくって口に運ぶと、思ったより甘くなかった。

味はいつもと同じはずなのに、舌の奥のほうが、何かを拒むように鈍かった。

 「友達って、なんなんだろうな……」

ぽつりと呟いた声が、部屋の壁に染みこむように消えていった。

そしてまた、蜂蜜が沈んでいった。

僕の中にも、何かが沈んでいくようだった。言葉にできないまま、甘く、重たく、濁っていくもの。


昼休み、窓際の光が春の埃を照らしていた。

教室の中はざわめいていたが、准一の席のまわりは、静かな水たまりのようだった。

浩二が、後ろの女子たちと笑っていた。

 「昨日のバラエティ、見た? あれ、マジで腹ちぎれたわ」

 「お前さ、なんでそんな話の流れうまいの?」

 「いや、ただの才能だなこれは」

そんな声が飛び交う。笑い合う輪の中心に、浩二は何の無理もなく立っていた。肩に手を置かれても、冗談を言い返されても、まるで呼吸のように自然に応じている。

准一はノートをめくるふりをしながら、その様子を横目で見ていた。別に聞くつもりなんてなかった。ただ、耳が勝手に拾ってしまうのだった。

ふと浩二が教室の隅の方に目をやった。目が合った—ような気がした。

でも、彼はすぐに笑って視線を戻した。誰かの肩を軽く叩いて、また何かを話し始める。

その一瞬で、准一は分かってしまった。

浩二にとって、自分は「話しかけてきた相手」であって、「求めて近づく存在」ではなかったということを。

彼は、誰にでも同じように笑いかける。でも、それは誰にも等しく優しいのではなくて、自分が選ぶ側の人間の表情だった。

准一の喉の奥に、何か熱いものがせり上がってくる。けれど、それは声になる前に喉で詰まり、呼吸を浅くしただけだった。

ノートの白いページに目を落とすと、行間がにじんで見えた。

「俺には……ないな」

心の中で、そうつぶやいた。小さな破片が胸の中にひとつ落ちて、その余波で静かに波紋が広がっていく。

その波紋は、甘くもなく、冷たくもなかった。

ただ、ゆっくりと沈んでいくような感覚だった。


空は抜けるように高く、風が土と汗の匂いを運んでいた。

白線は朝よりも少しにじんでいて、照りつける日差しの下、グラウンドの空気は目に見えるように揺れていた。

最後のリレーは、赤組と白組、ほとんど差のない接戦だった。

浩二が、アンカーだった。

その名がコールされるたび、観客席のあちこちから歓声が上がった。クラスメイトの女子が「浩二、がんばれー!」と大きく手を振り、男子たちも「いけ! いけるぞ!」と叫んでいる。

バトンを受け取った浩二は、何も迷いなく地面を蹴った。

足が地面に触れた瞬間からもう、空気が彼のために道を開けているようだった。肩が、腕が、まるで風と一体になっていた。

その走りに、誰もが釘付けになった。

 「速い……」

准一の口から、自然に漏れた言葉だった。自分の声ですら、誰のものでもないように感じた。

その直前、准一も走っていた。第4走者。

悪くはなかった。むしろ、自分なりには全力だったし、順位をキープする程度には走れた。

けれど、浩二の走りを見てしまうと、自分のものは、ただ「一生懸命」だったというだけに過ぎないとわかってしまう。

彼の背中は、何も背負っていないようだった。ただ、走るという行為そのものが、彼に似合っていた。

風の音のなかで、浩二がゴールテープを切った。歓声が、一斉に弾けた。

クラスの輪の中に、浩二は笑顔で戻っていった。頭をくしゃくしゃにされ、誰かの肩を叩き返しながら、汗を光らせて笑っている。

その後ろで、准一は一歩、距離を取って立っていた。

誰も責めていない。誰も比べていない。

でも、自分の中の誰かが、確かに言っていた。

――ほら、これが「差」だ。

まざまざと見せつけられた。

頭で理解していたものが、骨の奥にまで染み込んでいくような感覚だった。

歓声の中で、准一の周囲だけが音を吸い込んで、沈黙していた。

運動会の翌日、教室の空気はいつもより少し重かった。

朝のチャイムが鳴る前、浩二は准一に声をかけた。

「おう、昨日はよく走ってたな。お前、けっこうやるじゃん」

その声はいつものように明るく、自然だった。けれど、胸の奥で、准一はふっと小さな棘を感じた。

「ありがとう」とだけ答え、視線を落とす。

浩二は笑いながら隣の席に腰かけた。

 「まあ、俺には勝てねえけどな」

その冗談に、みんなは笑った。

でも、准一は心の中で苦笑いをした。

(勝てない、か……)

その言葉は、無邪気な響きを帯びていたが、准一の胸には重く沈み込んだ。

授業中も、准一の頭はぼんやりとしていた。浩二の笑い声や話し声が遠く、少しだけ刺さっている気がした。

放課後、帰り道を一緒に歩くことがあった。

浩二はいつも通り、にぎやかに話しかけてきた。

「なあ、今度の土曜日、みんなでゲーセン行くんだけど、来るか?」

准一は黙って答えなかった。

 (本当は行きたい。でも、なんか違う気がする)

浩二といると、楽しいはずなのに、どこか心の隅にひっかかる黒い影があった。

 「おい、返事は?」

声が少しだけ強くなった。

准一は少し俯いて、

 「また今度」とだけ言った。

浩二は、少し寂しそうな顔をして、

 「そっか……」

その沈黙が、二人の間にゆっくりと横たわった。

准一は心の中で言い訳を繰り返していた。

 (自分は、友達じゃない。そんなはずはない、でも……)

気づかないふりをしても、確かにそこにある感情。

嫉妬。羨望。孤独。

いくつもの感情が、重なり合って胸の中にざわめいていた。


朝の光はまだ弱く、カーテンの隙間からぼんやりと差し込んでいた。

キッチンのテーブルに座り、准一はいつものようにヨーグルトの小皿を手に取る。

透明なガラス瓶の蓋をゆっくりと開けると、中から濃厚な黄金色の蜂蜜が静かに揺れた。

とろり、としたその液体は、光を受けてまるで蜜のように輝いている。

スプーンで掬い上げると、蜂蜜は重たく沈み、ゆっくりとヨーグルトの上に流れ落ちていった。

いつもなら、その甘さに少しだけ安心するはずだった。

だが今朝の准一の胸の内は、そんな単純なものではなかった。

甘く、でもどこか粘りつくようなその感触は、まるで自分の心の中に漂う、黒く、どろどろとした澱のようだった。

目の前の小さな透明な瓶の中に、准一は自分の感情を重ね合わせていた。

甘さと重さが混ざり合い、簡単には流れ去らない。

それは、誰にも言えない、名前のつかない感情だった。

スプーンを口に運ぶ手が少し震えた。

その瞬間、誰かの声が遠くから響いたような気がした。

けれど、准一の世界はその蜂蜜のように、静かに、しかし確かに淀んでいた。


教室の窓から射し込む光は、まだ柔らかかった。

春先の風が、少しひんやりとした空気を運んでくる。

教室は静かでありながら、どこかざわついていた。

数人の女子が小声で何かを話し合い、男子たちは机の上に広げられた参考書をちらちらと見ている。

先生は黒板の前で何度も声をかけていた。

 「そろそろ本気でやらないと、間に合わないぞ」

その言葉が、教室の空気を一層重たくした。

准一は自分の席にじっと座り、ノートに目を落としていた。

周囲の声が遠のき、教科書の文字がぼやけて見える。

心の中では、何かがざわざわと動いていた。

 (みんなは、きっと大丈夫なんだろうな……)

自分だけが、まだ本気で向き合えていないような気がした。

ふと視線を窓の外に移すと、桜の花びらが風に舞っていた。

ひらひらと、遠くへ遠くへと流れていくその姿は、准一の胸の内のもやもやとは対照的だった。

けれど、そのもやもやの正体を言葉にすることは、まだできなかった。

教室のざわめきが少しずつ大きくなり、周囲の机の上には受験対策のプリントや参考書が積み上げられていった。

誰かのため息が聞こえ、それが連鎖して小さな波紋のように教室の空気を満たす。

准一は視線を下げたまま、胸の奥で冷たい何かがじわりと広がっていくのを感じていた。

それは焦りのようでもあり、どうしようもない孤独のようでもあった。

(僕はここにいてもいいのだろうか)

そう問いかけても、答えはどこにも見つからなかった。

窓の外の桜は、もう少しで散り始めるだろう。

春の移ろいと、変わっていく季節のように、教室の空気もまた、徐々に変わっていくのだろう。

誰かが笑い声をあげて、ふとその声が遠く感じられた。

准一は小さく息を吐き出し、ふたたびノートに視線を戻した。


午後の光が薄く差し込む狭い台所で、准一は冷蔵庫の扉を開けた。

中に並ぶ食材の中から、いつものヨーグルトのパックを探す。

だが、そこには空っぽのスペースだけが残っていた。

 「……ない」

小さく呟いて、准一の指がほんの少し震えた。

毎日繰り返していた、あの蜂蜜をとろりとかける時間が消えてしまったようで、ぽっかりと心に穴が開いたようだった。

あのとろける甘さが、なければ、何かが足りない。

憂鬱を和らげてくれるはずの甘みは、逆に欠如が不安を膨らませていた。

しばらく冷蔵庫の前で立ち尽くし、准一はゆっくりと背を向けた。

その日、いつもの静かな午後のひとときは、どこかざわつき、居心地の悪さに包まれていた。

キッチンの窓から見える庭先には、春の風がやわらかく吹いていた。

揺れる木の葉が、遠くでざわめくような音を立てている。

だが、その穏やかな外の景色とは裏腹に、准一の胸の中はざわついていた。

ひとりきりのこの家で、誰かと話すこともなく、ただ静かに時間が過ぎていく。

母は仕事で遅く、帰りはまだ先のことだった。

ぼんやりと壁に映る自分の影を見つめながら、准一は言葉にならない思いをかき集めた。

 (なんで、こんなにも心が落ち着かないんだろう)

蜂蜜の甘さもなく、ヨーグルトの冷たさもない。

何かが欠けたままの時間は、重くて長く感じられた。

ぽつり、と零れ落ちそうな気持ちを、必死に押し殺しながら、准一は机にうつ伏せた。


曇り空の下、准一は母に言われた買い物のリストを握りしめて、近所の小さな商店街を歩いていた。

人通りはまばらで、どこか静けさが漂う午後。

店先に並ぶ果物や野菜の鮮やかな色合いが、淡い光を受けて少しだけ輝いて見えた。

准一はひとつひとつの商品をゆっくりと見ながら、ふと前方に目をやった。

すると、角を曲がったところで、偶然にも浩二が立っているのが見えた。

その姿は、いつもの明るさと自信に満ちていて、まるで周囲の空気まで引き寄せるかのようだった。

浩二は准一に気づくと、にっこりと笑いかけて手を挙げた。

 「お、准一! こんなところで何してるんだ?」

その声は、昨日のことのように自然で、しかしどこか遠い存在を思い出させた。

准一は少し戸惑いながらも、うなずいて答えた。

 「買い物……母さんに頼まれて」

浩二は少し笑いながら、言葉を続けた。

 「そうか。偉いなあ、ちゃんと手伝ってるんだ」

准一はその言葉に、何とも言えない感情が胸に湧き上がるのを感じていた。

けれど、それを口に出すことはできず、ただ小さく笑みを返すだけだった。准一は、浩二の後ろ姿をこっそりと見送り、家へ帰った。

玄関のドアが静かに閉まった。

准一は脱いだ靴を揃え、軽くため息をついた。

部屋の隅に置かれたベッドに体を横たえると、天井のシミや壁のわずかなひび割れが視界に入った。

外の雑音は遠く、まるで別の世界のことのように感じられた。

床に転がるまま、准一はぼんやりと天井を見つめる。

 (浩二は、いつもあんなに堂々としている。なんで僕は……)

頭の中に浮かぶのは、いつも浩二の明るさと自信。

そして、どこか届かない壁のような距離感。

胸の奥がぎゅっと締めつけられ、言葉にならない焦燥がじわじわと広がっていく。

 (僕は、本当は何がしたいんだろう?)

答えの見えない問いに、ただ静かに身を委ねるしかなかった。

時間だけがゆっくりと過ぎていく。

教室の窓辺にすべり込む冬の陽は、色を失った紙のように白く、空気の隅々までを静かに乾かしていった。

三学期が始まって、もう何日が過ぎたのか、カレンダーの数字だけが妙に騒がしい。

永井先生は、朝のたびにチョークで「あと○○日」と黒板に書き足していくけれど、それは僕にとって、数字というよりは、ゆっくりと沈んでゆく錘のようだった。

教室の空気も重たく、鉛筆の走る音が、かすかに乾いた擦過音を残していた。

僕は、その音の向こうで、何かを聞き逃しているような気がしていた。

だけど、それが何かは、分からなかった。

その日も、僕は問題集を前にただページをめくっていた。正直、頭には何も入ってこなかった。

焦りつつも、僕にこの日常を変えることはできない。そして、時計の針は進んでいく。


身体の重さとは裏腹に、頭の中はどこかせわしなかった。

受験のことが、まるで押し寄せる波のように何度も何度も繰り返される。

 (どうして、こんなに苦しいんだろう)

問題集の文字はぼやけ、ノートのページをめくる手はぎこちない。

 「できるわけない」

その言葉が心の隅で何度もつぶやかれ、無力感が胸を締め付けた。

苛立ちはじわじわと体の中に満ちていく。

どうして浩二は、あんなに簡単そうに笑っているんだろう?

自分がどんなに努力しても、追いつけないのはなぜだ?

 (僕は、弱いんだ。何もかも)

暗闇の中で足をもがくように、准一は自分自身と戦っていた。

外の世界は、まだ静かで。

だが、胸の内は熱く、ざわつき、燃え上がりそうだった。


薄い朝焼けが窓ガラスを淡く染めていた。

准一は布団の中でまどろんでいたが、遠くで聞こえる鳥のさえずりに徐々に意識を引き戻された。

まだ夢の中にいたいと思いながらも、冷たい空気が肌を刺すように感じて、体が自然と動き出す。

(今日も、あの問題集と向き合わなきゃいけないのか)

頭の片隅に小さな重石を感じながら、准一は布団をぐっと引き寄せ、目を閉じた。

だが、焦りはすぐにやってきて、胸の奥でざわめきが止まらなかった。

(どうすれば、少しでもうまくいくんだろう。浩二みたいに、強くなれたらいいのに)

心の声は静かな部屋の中でひときわ響いた。

窓の外では、すでに新しい一日の音が少しずつ目覚めていた。


教室の窓辺にすべり込む冬の陽は、色を失った紙のように白く、空気の隅々までを静かに乾かしていった。

外の冷たい風は音もなく、凍りついた街路樹の枝をかすかに揺らすだけだった。

准一は窓のすぐそばの席に腰を下ろし、手のひらに残る冷たさを感じながら、じっと外を見つめていた。

透き通った空気の向こうに広がる曇り空は、まるで時間まで凍らせてしまったかのように動きを失い、静寂が教室の中にゆっくりと広がっていた。

黒板の文字も、生徒たちのざわめきも、すべてが遠く、ぼんやりとした夢のように感じられた。

(この冬の光は、僕の心まで乾かしてしまうのかもしれない)

そんな考えが胸にひそかに浮かび、准一の目は窓の外の色を失った景色に溶けていった。


夕陽は赤く、教室の窓を揺らすように差し込んでいた。

廊下の時計の秒針が、静かに、しかし確かに進んでいく。

准一は机の前に座り、問題集のページを何度も繰り返す。

だが、文字は霞み、頭の中はざわつき、落ち着きはなかった。

(どうして、こんなにも手が震えるのだろう)

胸の奥で、冷たくもやもやとした不安がうごめいていた。

(浩二は、きっと平気なんだろうな。あの笑顔の裏に、どんな覚悟があるのか知らないけど)

苛立ちがじわりと体を包み込む。

焦りに似た感情が、小さな火種のように燃え広がっていく。

(僕は、ここで壊れてしまうのかもしれない。だけど、どうしても逃げたくない)

時間は止まらず、ただ過ぎていくだけだった。

沈黙の中で、准一は自分自身と向き合い続けた。


試験会場の時計が、静かに午後の時間を刻んでいた。

准一はゆっくりと席を立ち、重く感じていた背中の荷物が少しだけ軽くなったような気がした。

だが、その軽さはどこか頼りなく、心の中のざわめきは消えなかった。

(終わった、けど、これでよかったのか?)

頭の中に浮かぶ不安が、まるで黒い霧のようにまとわりつく。

周囲の生徒たちは笑い合い、声を弾ませていた。

准一はその輪の中に入ることができず、ただ静かに自分の足元を見つめていた。

(浩二はきっと、もう次のことを考えているだろう)

その思いが胸の中でじくじくと疼き、やがてじんわりと熱い澱のように溜まっていった。

郵便受けに差し込まれた封筒を見つめる手が、わずかに震えていた。

どこか遠くで、冷たい風が通り抜けるように感じられ、胸の鼓動が速くなる。

(開けたら、何が待っているんだろう)

指先がそっと封筒を破る。中から出てきた紙は、白くて硬い感触を持っていた。

文字を一文字ずつ追ううちに、目に涙がにじんだ。

合格の知らせだった。

だが、喜びはすぐに複雑な影を落とす。

(これで、終わるのか?)

心の奥で渦巻く不安と期待、解放感と孤独が入り混じり、まるで黒くどろどろとした蜂蜜のような澱が静かに沈んでいった。

その澱は、これからも続く未来の曖昧さを映し出していた。


林檎

郵便受けに差し込まれた封筒を見つめる手が、わずかに震えていた。

どこか遠くで、冷たい風が通り抜けるように感じられ、胸の鼓動が速くなる。

(開けたら、何が待っているんだろう)

指先がそっと封筒を破る。中から出てきた紙は、白くて硬い感触を持っていた。

文字を一文字ずつ追ううちに、目に涙がにじんだ。

合格の知らせだった。

だが、喜びはすぐに複雑な影を落とす。

(これで、終わるのか?)

心の奥で渦巻く不安と期待、解放感と孤独が入り混じり、まるで黒くどろどろとした蜂蜜のような澱が静かに沈んでいった。

その澱は、これからも続く未来の曖昧さを映し出していた。

そして、封筒を手にしたまま、准一はぼんやりと部屋の窓を見つめていた。

夕暮れの薄紅色が、カーテン越しに静かに部屋の隅々を染めていく。

合格の文字は確かにそこにある。

だが、胸の奥には重たい何かが沈み込んでいた。

(これで良かったのか、僕は…)

期待と安堵のはずの気持ちは、いつのまにか焦りや不安に変わり、胸の中でゆっくりとどろどろと広がっていく。

まるで甘くて黒い蜂蜜が、光を奪うように心の奥深くに澱となって溜まっていくようだった。

外では、夜の訪れを告げる鈴の音が遠くから聞こえてくる。

そして、僕の心の中には、黒く、どろどろとした蜂蜜のような澱が溜まっていた。


朝の光が、教室の窓辺に擦れるように差し込んでいた。二月の空は澄みすぎて、どこか頼りなさすら感じる。冷えたガラスに額を当てていた准一の姿が、ふいに目に入る。彼は今日も一言も話さずに、ただ、静かに存在していた。

「よっ。……また一番乗りか?」

浩二は、努めて軽い声を投げかける。返事はない。ただ、ほんの少し目線が揺れたのがわかった。

(まあ、そんなもんか)

浩二は自分の席に向かいながら、心の中でそう呟く。彼は教室の空気を読むのが得意だった。いや、「得意」に見せているだけかもしれない。

教室の壁際に貼られた進路一覧表。赤いマーカーで囲まれた「合格」の文字が、陽の光で滲んで見える。周囲では、模試の話題や塾の愚痴が飛び交っていた。

「この前の模試、全然ダメだったー。英語、ボロボロ」\n\n「やばい、俺も。親にまた怒られるかも」\n\n浩二はその輪の中に、自然に入り込む。笑いながら肩をすくめて、適当な共感を返す。だけど、その視線は、時折、窓際の准一へと吸い寄せられていた。

(……あいつ、変わってんな)

浩二が准一に話しかけるのは、別に「親切」からではない。正直に言えば、なんとなく気になるのだ。喧騒にまみれた教室の中で、彼だけが異質で、それでいて、まるで何かを知っているような静けさを纏っていた。

机の中に手を入れると、朝、妹が握らせてくれた林檎が転がっていた。少し傷が入っていて、皮の赤がそこだけ黒ずんでいる。

「お兄ちゃん、今日もがんばって」

妹の声が脳裏を過ぎった。

(……がんばるしかねぇんだよ)

浩二はそう思いながら、林檎をそっと机に押し込んだ。

チャイムが鳴った。教室が少しずつ整列し、担任の声が響く。「おはようございます」と、口を揃える声の中、浩二の心にはひとつの静かな疑問が渦巻いていた。

(俺は、どっちの顔が本当なんだろう)

学校での「明るい浩二」と、家での「沈黙の浩二」。赤くて甘い皮の下にある、自分の本当の色を、浩二自身、まだ知らなかった。

玄関のドアを静かに閉めると、家の中はひどく冷えていた。冷蔵庫のモーターの音が、空間の隙間を埋めるように響いている。ストーブは消えたままだ。玄関先の壁に貼られたカレンダーには、母の夜勤の日に赤い斜線が引かれている。今日も、その斜線だった。

(……また、俺か)

スニーカーを脱ぎながら、視線はリビングのほうへ向かう。毛布にくるまって眠る妹の頭が、ソファからこぼれそうになっている。小さな額には、微かな汗の光。手を伸ばして触れると、熱があった。

(また熱……この季節、いつもだな)

床に置かれたランドセルを横目に、冷蔵庫の扉を開ける。残されたおかずは、昨日とほとんど同じだった。鍋の中の煮物は、すでに味が濃く染みて、冷たいままのそれが、まるで時間を閉じ込めているようだった。

(あっためて、妹に……いや、まず薬だな)

ドラッグストアで買った小児用の解熱剤を探す。引き出しの奥に、しわの寄った箱を見つけた。水を用意し、妹を起こさないように体を揺らすと、小さな声で「……おにい、ちゃん……?」と目を開けた。

「大丈夫。すぐ楽になるから」

笑ってみせたつもりだった。でも、頬がこわばっていたかもしれない。

(いつまでこうしていられるんだろう)

薬を飲ませたあと、妹はまたすぐに眠った。カーテンの隙間から、茜色が部屋の隅を染めている。炊飯器のスイッチを入れ、洗濯機に昨日のシャツを放り込む。終わりの見えない家事を、誰も評価しない。それでもやらなければならない。

(俺がやらなかったら、誰がやる)

カバンの奥にあったプリントを取り出す。「最終進路希望調査」。まだ出していない。

(第一志望……書けるのか、こんな状態で)

頭が重い。塾の課題も終わっていない。だけど、誰にもそんなことは言えない。

(言ったところで、何が変わるわけでもない)

机の上に置きっぱなしだった林檎の断面が、少し茶色く変色していた。妹が朝、きれいに皮をむいてくれたものだった。

(赤い皮を剥いたら、ただの果肉。それでも甘くて、少し酸っぱくて……俺も、誰かに剥かれたら、何が出てくるんだろう)

テレビの音がない部屋は、耳鳴りがするほど静かだった。そんな静けさが、浩二を少しずつ削っていった。

(明日は、学校。明日も、笑わなきゃな)

壁にかかった時計が、カチ、カチと音を刻んでいた。浩二は、その音を聞きながら、今日も「明るい浩二」を準備するために、眠る準備を始めた。

朝の光は、冬の終わりを告げるようにやわらかだった。校舎の廊下に差し込むその光を、浩二は肩に受けながら歩いていた。笑顔を作ることは、もう反射のようになっていた。鏡を見なくても、正しい角度で口角を上げられる。

「浩二〜!昨日のプリント、貸して!」

「また?ほら、ちゃんと写せよ。変なとこ間違ってたら困るからな」

肩越しに渡したプリントと一緒に、軽口も投げる。いつも通りの流れ。自分の言葉に、相手が笑う。周囲の空気が緩む。それが浩二の「役目」だった。

けれど、そんなやり取りの中でも、ふとした瞬間に気配を感じる。

(あいつ、今日も静かだな)

窓際の席。准一は今日も筆箱を整然と並べ、ノートを開いたまま、まるで誰にも気づかれたくないように、存在を沈めていた。

「なあ、准一ってさ、ちょっと変わってるよな」

昼休み、誰かのそんな一言が耳に入った。

「なんか、しゃべらんし。暗くね?」

「けど、頭はいいらしいよ。国語、満点だったって」

軽い言葉の往復。その中に、混じり合わない何かが沈んでいた。

「……あいつ、別に変じゃねぇよ」

浩二が、少し声を低くして言うと、周りは「ああ、そう?」とだけ返し、また別の話題に移っていった。けれど、その空気の動きに、どこか小さなさざ波が立ったのを浩二は感じた。

(言わなきゃよかったか?いや……でも)

教室に戻ると、准一の目が一瞬だけ、こちらを見た気がした。視線はすぐに逸らされたが、それでも、何かが伝わったような、そんな気がした。

放課後、昇降口で靴を履いていると、准一がそっと隣に立った。言葉はない。けれど、ほんの少しだけ、足の向きがこちらに傾いていた。

「……あのさ、模試、どうだった?」

浩二がぽつりと尋ねると、准一は一瞬戸惑い、それから小さく首を振った。

「……まあまあ」

たったそれだけのやり取り。でも、それはまるで、固く閉じられていたドアが、少しだけ軋んで開いたようだった。

(もしかして、こいつも……演じてんのか)

そう思ったとき、浩二の胸のどこかに、かすかな痛みが走った。

帰り道、ポケットに入れていた林檎が、歩くたびに足に当たって転がった。家に帰れば、また妹の世話と、母のメモが待っている。それでもこの日は、どこかほんの少し、歩く足取りが軽かった。

(准一……お前、もしかして、似てるのかもしれないな、俺と)

林檎の赤が、夕日に染まる空の色と溶け合っていた。

炊飯器の蓋を開けると、湯気がふわりと立ちのぼった。だが、もうその香りだけで食欲を覚えることはなかった。浩二の目の前には、冷めた味噌汁と、昨夜のままのきんぴら。妹は、まだ宿題のノートを開けたまま、うとうとしている。

(もう、こんな時間か)

壁の時計は、午後八時を指していた。母はまた、まだ帰ってこない。メモすら置いていなかった今日の不在が、かえって言葉よりも重くのしかかる。

(仕事なのは分かってる。わかってるけど……)

箸を置いて立ち上がる。妹の頭を撫でてやると、ぬくもりとともに細く、細く、自分の芯が削れていくような感覚がした。

(このまま俺が全部背負って、母さんは……母さんは俺に何を残すんだろう)

ふと、テーブルの上の林檎に目が止まる。真っ赤に熟れたそれは、光を受けて鈍く艶めいている。手に取ると、皮の表面に、小さな指の跡があった。

(……妹か)

林檎を剥いてやろうかと思ったが、そのまま元に戻した。皮を剥くには、心が疲れすぎていた。

部屋の奥のノートには、塾の課題が山のように積まれていた。志望校の過去問も、途中で止まったまま。何かに手をつけようとすると、胸の奥で何かがつかえる。

(何やってんだ、俺)

そう心の中でつぶやいて、拳をぎゅっと握る。林檎の皮を剥くナイフが、キッチンに刺さったまま光っていた。

(もう、限界なのかもな)

けれど、限界と言って止まることはできない。誰も代わってくれない。誰も、待ってはくれない。

床に座って、妹の寝顔を眺めながら、浩二はふと、准一のことを思い出した。あの静かな目。何かをいつも心の奥に隠しているような、重たい空気。

(お前も、どこかで、叫びたいのか? それとも……)

時計の針が一つ、また一つと音を立てて進む。その音だけが、部屋の中に満ちていた。

林檎は、テーブルの上で光を失いながら、じっと沈黙していた。

教室のざわめきが、いつもよりどこか遠く感じられた。浩二は、いつものように笑い声を上げ、友達に軽口を叩くが、その表情はわずかに硬い。目の奥に隠れた影を誰も知らない。

「おい、浩二、今度のテスト、どうだった?」

「まあまあかな。でも、お前らには負けねぇよ!」

クラスメイトの声に答えながらも、浩二は心の中で自分に問いかけていた。

(こんなんでいいのか? 本当はもう、疲れてるんだ)

昼休み、窓の外を見ると、青空の下で揺れる校庭の木々が見えた。その揺れはまるで、自分の心みたいに不安定だった。

そんな時、准一がそっと声をかけてきた。

「浩二、最近、元気ないよな」

その言葉に、浩二は一瞬息を呑んだ。

「別に、そんなことねぇよ」

と、笑って返すが、その声は震えていた。

放課後、二人は校門の前で並んで歩いた。話す内容はいつもより少なく、重い沈黙が二人の間を包んだ。

「なあ、准一……お前は、本当は何を考えてるんだ?」

浩二の問いに、准一は答えなかった。ただ、空を見上げてから、

「分からない」

とだけつぶやいた。

帰宅後、浩二はリンゴを手に取った。光沢のある赤い皮を撫でながら、彼は心の中で呟いた。

(リンゴもさ、表面はきれいだけど、中は見えないんだよな。俺もそうだ。誰にも見せられないものがある)

鏡に映る自分の顔を見つめ、浩二は微かに笑った。

「そう、リンゴもまた、見方によって色も変わるものだ。上から見ればヘタと赤い皮が、下から見れば、緑のヘタがある。皮を剥けば、そこには黄色の果肉があった。」

その言葉は、誰にも聞かれず、ただ静かに心の中に響いた。

翌朝の空気はひんやりと澄んでいて、浩二は目覚めるとすぐにカーテンを開けた。朝陽が差し込む部屋の隅に、小さな林檎の置物がぽつんと光を受けている。妹の笑い声が遠くから聞こえて、生活のざわめきがゆっくりと動き出していた。

しかし、浩二の胸はまだざわついていた。学校での明るい仮面は、家に帰れば剥がれ落ちる。父は忙しく、母はさらに疲れている。幼い妹の世話に手がかかる日々が、浩二の肩に重くのしかかる。

(俺はここで、何を守っているんだろう)

心の中でその問いが繰り返される。朝食のテーブルに並べられた林檎のジャムの瓶に手を伸ばしながら、浩二はふと考えた。

(この甘さは、誰に向けてのものなんだろう)

静かに一日が始まった。


放課後の教室は、半分だけ明かりが灯り、窓の外の夕焼けが壁にオレンジ色の影を落としていた。浩二は一人、机に肘をつきながら窓の外を見つめている。

クラスメイトの笑い声や声掛けが、遠くから聞こえてくる。いつもなら、その中に飛び込んで笑って返す自分がいた。しかし今は、どこかその輪から遠ざかっている自分に気づいていた。

(俺は、学校では明るくて、笑い上戸で、みんなの人気者。でも、家に帰ると……)

その言葉は口には出せず、心の中だけで繰り返された。

家の重圧、妹の世話、疲れ切った両親の姿。そんな現実の前で、浩二は押しつぶされそうになっていた。

(俺って、一体何人いるんだ? 俺は誰なんだ?)

机の上に置いてあった林檎の形をした消しゴムを手に取り、じっと見つめた。表面はつるつるしていて、どこから見ても真っ赤だ。しかし、もし裏側を見たら?皮を剥いたら?その中はどうなっているんだろう。

(みんな、俺の表の顔だけを見てる。でも、その裏側には、誰も知らない俺がいる)

心の中でその思いが膨らみ、胸が締めつけられた。

「浩二?」

ふいに声をかけられ、振り返ると准一が立っていた。

「どうした?そんなところで一人で」

浩二は、ぽつりと答えた。

「俺、ちょっと疲れてるのかもしれない」

准一は黙って頷き、二人はしばらく沈黙のまま、夕焼けに染まる教室の窓辺を見つめていた。

玄関のドアを開けると、いつもの慌ただしい音が耳に響いた。テレビの雑音、妹の泣き声、冷蔵庫の開閉音。家は今日も騒がしい。

「おかえり、浩二!」妹の声が元気に飛んできたが、浩二は無言で靴を脱ぎ、廊下を静かに歩いた。

「今日の宿題は?」母の声がキッチンから聞こえる。

「やったよ」

短く答え、浩二は自分の部屋へ向かった。閉めたドアの向こうで、重い空気がまとわりつく。

ベッドに倒れ込み、目を閉じる。心の中では、

(どうして、学校ではあんなに明るくいられるんだろう。家に帰ると、全部嘘みたいに疲れが押し寄せる)

幼い妹の笑顔が浮かび、また胸が締めつけられた。

(妹には幸せでいてほしい。でも、俺は……)

ため息をつき、手のひらを広げてリンゴの形をした消しゴムを握り締めた。

(俺の中にあるものは、誰にも見せられない。見せたくない)

その夜、浩二は静かに涙を流した。誰にも気づかれないまま。

朝日が薄く差し込む部屋の中、浩二は目を覚ました。窓の外では、いつもと変わらぬ鳥のさえずりが響いている。

寝ぼけ眼でリンゴの形をした消しゴムを握りしめ、彼はゆっくりと起き上がった。

(また今日も、同じ日が始まるんだな)

どこか諦めに似た気持ちが胸を満たす。けれど、その中にわずかな覚悟も芽生えていた。

(辛いけど、俺はここで生きていくしかない。変われない日常でも、なんとか乗り越えていくしかない)

キッチンからは母の声が響き、妹の足音が階段を駆け降りてくる音が聞こえた。

浩二は小さく息を吐き、鏡に映る自分の顔を見つめた。

澄んだ瞳の奥には、いくつもの表情が重なっていた。

そして、彼はそっとつぶやいた。

「…それでも、前に進もう」

その言葉は静かに、朝の光と共に部屋を満たしていった。










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