05 平和だということ
ガタガタガタ、と塔の二階で派手な物音がする。何を落としたやら「あああ!」という情けない声と、バタバタという足音が続き、内壁に沿った螺旋状の階段からひとりの青年が降りてきた。
「あ、あの……だ、だれ、ですか」
おどおどと発せられた声に、リーネがいれば「こっちの台詞です!」とでも返すところだが、ミアンナはある意味素直にただこう答えた。
「王国調律院所属、専理術士ミアンナ・クネル。今日からここラズト支部の主理術士にして統理官」
「ほうぇええっ!?」
気の毒にと言うのか、三十前ほどに見える細身の青年は素っ頓狂な声を出した。
「え、きょ、今日? 着任って今日だっけ? え、何で塔に? あれ、僕だけ何も聞いてないです?」
「厳密な日付は指定されていなかった。到着次第の着任のため、『今日から』ということになる。事前の通達はどうあれ、正式な紹介は副理術士が戻ってからの予定。あなたが殊更に除外された訳ではない。古い位相構文を使った通信が確認され、発信元がこの塔であると判ったため訪れた。通信はあなたが?」
質問とも言えない質問にきちんと答え、ミアンナは自らの質問に移った。
「え? 通信? あの、僕は何も……今日はずっと資料を読んでましたし……」
「嘘のつもりはないようだけれど、ここが発信元なのは間違いない。この塔に、他の人物は?」
「え、誰もい、いません……ああっ!」
そこで青年は目を見開いた。
「わかったぁ! 老先生への更新案内だ!」
と、彼が叫んだとき、ミアンナの背後からゾラン連衛官が入ってきた。
「あー、クネル主理術士。そこの彼が何をやったにせよ、罰するのは控えていただけまいか。この塔はそのウィントンの尽力で保っている故」
だいたい状況は判ったのだろう、とりなすようにゾランは言ったが、ミアンナは年上の大柄な軍人を一瞥だけして返事をせず、また青年の方を向いた。
「えっ、ば、罰されるようなことなんです……?」
青年ウィントンは知った人物の姿にほっとした顔を見せたのもつかの間、また表情を強ばらせた。
「使われたのは無許可かつ無認可の構文」
「えっ、でも老先生が書かれたものですよ!? 老先生が、年一の資料更新を忘れないようにって、自動で塔から支部の執務室に通知が行くよう、式盤を……」
「『老先生』というのは前任の主理術士?」
「あっ、はい……」
「それでも無認可は無認可。安定性が見込めないことが判明して、二年前に公式の構文から削除された」
「あ、先生が作ったのは五年くらい前です! よかったー、大丈夫だ!」
ほっとしたように青年は言ったが、連衛官はミアンナの背後で額を押さえていた。
「何も大丈夫ではない。公式の通達はきていたはずだ。ハイム殿も引退前でお忙しかったのだろうが……」
「更新しなかったのは怠慢と言われても仕方がない」
どうにも淡々と、ミアンナ。
「あ、あの」
ごくり、とウィントンは生唾を飲み込んだ。
「あの! その、それじゃ、ぼ、ぼぼ、僕です! その、僕が勝手に! やりました! ので! 罰するなら僕を……!」
「虚偽の自白は罪になる」
「ぐぅ」
やはり冷静に少女統理官が指摘すれば、年上の青年はおかしな声を出す。
「そもそも罰則がある訳じゃない。リーネ」
「あ、はは、はい!」
ゾランのあとから入ってきて所在なげにしていた理報補官の少女は、呼ばれてぴょこんと飛び上がった。
「はい、ええと、『公的な通信には禁止』『新しく使用しはじめることは推奨されない』という辺りです。ただ『個人的かつ短距離の利用であれば届は不要』ですが、『現行体制の維持のために継続使用する場合は届出が必要』でして……」
「調律院の理術士が業務のために使っていたのであれば、個人的とは言いがたい」
ミアンナは両腕を組んだ。
「ゾラン連衛官。こうした軽度の違反に対するラズト支部の対応は? 前例を聞きたい」
そこでミアンナがゾランを振り返り、見上げるようにしながら尋ねた。ゾランは目をぱちくりとさせて、それから少し笑う。
「せいぜい訓告か、場合によっては責述書の提出というところですな」
「退任した理術士に責述書は書かせられない」
「あの……それじゃ、僕が書くことに……?」
「ウィントン資料塔担当官」
「はいィ!」
「あなたは構文も書かず、理術も使用していない。式盤が私の魔力に反応して過去の仕組みが作動しただけ」
「はいィ……」
「責述書は不要。報告書は上げて」
「はっ、ははし、承知! いたしました!」
―*―
はーびっくりした、とリーネは素直に感情を洩らした。
「言われた通りゾランさんに伝えたんですよ、資料塔から違法通信の可能性があるって。そうしたらゾランさん、さっきみたいに額押さえて。違法ではない、すぐに行く、って案内してくれたんです」
「成程。資料塔のウィントン担当官は信頼されている」
「違法なことする訳ないって思われてるんですねえ」
「間諜にしては正直すぎる、というのも」
ミアンナがつけ加えると、リーネは目を見開いた。
「あっ、違法な通信って、ヴァンディルガとの秘密通信の可能性も考えられたってことですか!?」
「そう」
書類を整えながらミアンナは返した。リーネは「ほえー」と妙な声を出す。
「そっかあ、ヴァンディルガが目と鼻の先ですもんねえ……そっかあ、だからミアンナさんもあんな即座に対応したんですねえ……」
「もっとも『腹芸ができなさそうだ』というのは間諜ではない証にはならない。無害に見える人物であればあるだけ、敵の懐に入り込みやすい」
「えっ!?」
「あの担当官を疑っている訳じゃない。そもそもヴァンディルガ皇国は、少なくとも現状、『敵』じゃない。考え方の話」
「あ、ああー、よかったです」
リーネはほっとした顔を見せた。
「実はミアンナさんが密命を受けてて、ラズト支部内の内通者を焙り出せ、なんて言われてるのかと思いました!」
「まさか」
「誰かを疑いながら支部の生活を送るなんて、想像しただけで気が滅入りそうですもんねえ、よかったあ」
どうにも想像力の豊かな少女は、本当に安心したようだった。
「それから……前任の主理術士がずいぶんと慕われていたのも判った」
「思いました! 何て言うか、ウィントンさんがかばおうとしたのもびっくりしちゃって」
おどおどした様子が演技でないのなら、下手くそながらもあの虚偽の自白はなかなかの勇気が要ったはずだ。そうしたいと思えるほど、前任のハイム主理術士は人徳があったのだろう。たとえ更新を怠ったとしても。
「そう言えば、二年前の通達の頃に引退されたという話でしたっけ? ラズト支部って二年も主理術士が不在だったんですか?」
「副理術士ひとりでほぼ事足りていたと聞いた。ただ、統理官不在はさすがに問題があるとのことで、ゾラン連衛官がしばらく兼ねていたとか」
「ええ……?」
リーネは耳を疑った。主と副の兼任では実際の問題を無視しすぎているし、調律院支部のトップが所属組織の異なる出向軍人というのも異例の話だ。
「それだけ平和だということでもある」
「古い式盤、統理官兼任の副統理官、副理術士だけの西端支部……確かに有事でないからこそですねえ」
しみじみと言ってから、リーネは小さく「あっ」と声を上げた。
「そこにミアンナさんが赴任ってことは! やっぱり何か不穏な動きがあるんじゃ!」
「王国軍がそれを掴んでいたなら、こんな『小娘』には任せない」
何でもないようにミアンナは肩をすくめた。