10 また明日
ああ、いいお湯だった、などと満足そうにリーネが伸びをする背後で、ミアンナは携行式盤を手にし、簡単な構文を書いた。
「あれ、流動構文? 何されてるんです?」
「風呂の掃除と換気」
「ええっ!?……た、確かに理論上はできそうですけど……」
「カーセステスでは必要なかったが、ここではおそらく有用」
彼女が言う間に浴室内の汚れは流され、蒸気は消え去った。別室では理術に気づいたジェズルが何ごとかと驚き、それから意図に気づいて苦笑でもしているだろう。清掃に理術を使うことは彼もやっているはずだ。
「そうかあ……理術は生活に根付いてるってもちろん判ってるんですけど、王都にいるともうちょっと何というか、大きめの話で」
もごもごとリーネは言った。
確かに、首都カーセステスにおいて、理術は都市基盤に組み込まれていると言える。設置型の式盤から作り出される理紋が人々の生活をより便利に、豊かにしていた。
例えば明かり。
家庭では燭台や角灯といった火を使うものが一般的だが、危険な上に燃料も必要だ。王城をはじめとする公的な建物や整備された大通りなどには、理術によって安全かつ安定した照明が設置されている。
例えば水路。
生活用水は分水装置によって各街区に行き渡るが、飲料水としての使用は理術による浄化に頼っているし、水源の少ない地域では水の生成から行うこともある。下水、排水といった衛生面でも、理術は欠かせない。
例えば温度管理。
カーセスタの気候は温暖で、暮らしのために部屋の温度を上げたり下げたりする必要はあまりないが、医療などでは有用だ。また、都市の外では、農業や牧畜にとって重要な存在となる。安定した収穫が見込め、家畜が弱ることなく成長すれば、飢えとは縁遠くなるのだ。
とは言え、理術も万能ではない。
式盤に与えられた構文も永遠ではなく、定期的な点検や更新が必要だ。長期間の使用はもとより、過剰な頻度で使われたり、誤って使われたりすれば式盤そのものが壊れる。そうすれば修繕や、直せないのであれば新しく作り直すことが必要になる。
使い続ければ劣化し、摩耗する。普通の道具と変わらない。
「理術士が多ければ、各家庭に理術灯を置くことだってできる。でも生憎、実際の人数を思えばそこまでの普及は現実的でない。理術を『不吉ではない、便利な魔法』だと誤認させるのは、理術士にも、理術士でない人間にも、よいことを招かない」
「『大きめの話』のままのほうがいい、ってことですねえ」
しみじみとリーネは言った。
実際――過去には不幸な事件もあった。「理術」ではなく理術士自身がまるで便利な道具のように扱われ、命を落とした事例すらある。
ミアンナはそれを連想していたが、本部では誰もが語りたがらない出来事だ。リーネの様子からしても、知らないだろうと思われた。
「あっ、つまり、掃除のことは……内緒ですか」
声をひそめ、リーネは囁くように尋ねた。
「公務官はもとより、調律院で雇用されている人物が、理術に対して軽率な発言をするとは思わない。ただ、言いふらす必要もない」
「ですね! まさか統理官に、理術で部屋をきれいにして、なんて言ってくる人もいないでしょうけど、言われたら困りますもんね!」
リーネは通じたのか通じてないのかよく判らないような返答をした。
気づけば、夜も更けていた。歓迎会が想定より長かったためもあるだろう。
時刻は暗の刻、つまり十一の刻になろうとしており、もう寝台にいてもおかしくないような時間帯だ。
風呂上がりの少女ふたりは、あとはもう寝るだけという状態になって支部の二階――それぞれの私室へと向かった。
「今日はいろんな人と話せて楽しかったなあ。歓迎会、嬉しかったですね。じゃあミアンナさん、また明日!」
「また明日」
二階の私室に入る直前まで喋り続けたリーネは、手を振って隣室の扉を閉じた。軽い興奮状態にあるようだが、実際にはかなり疲れているはずだ。寝台に入ったらすぐ寝てしまうだろうと思われた。
ミアンナも同様に、いやそれ以上に疲れていて当然と言える。統理官としての着任に重圧を感じるような性格ではないが、新しい場所、新しい人間関係、新しい業務に対して全く気を張っていないと言えばさすがに嘘になる。
休むべきだ、と彼女の理性は判断した。それに逆らう意味はない。明日の予定も詰まっている。寝るべきだ。
だが――ミアンナは自身の部屋の前を通り越し、理術士専用の執務室へと向かった。
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