第2章 秘密結社
『明鏡のミステリー会議』と称するシリアス文庫公認のファン倶楽部が自主運営する『第三会議室』と呼ばれるネット上の会合へのゲスト依頼が、総帥と崇められる止水明鏡宛にてシリアス文庫に届いていた。次の日曜日の午後零時が開催予定となっていた。
『第三会議室』で議論される題目は、止水総帥がこれまでに発表したミステリー作品の中に隠されている、未だ解明されていない暗号や心理の謎解きを題目として議論するコアな会合である。
この『明鏡のミステリー会議』とは所謂、総帥と敬称する作家の止水明鏡を崇拝するファン倶楽部であり、その活動は『第三会議室』という「明鏡シリーズ作品の深掘り会議」以外に『地下会議室』という「総帥の諜報活動指令及び報告会」があるらしいが、明鏡自身もそのすべてを把握している訳ではない。
そもそも明鏡の顔出しは、ニ足の草鞋となる公認会計士の仕事に差し支えるため非公開となっていた。明鏡が『第三会議室』にオンラインで参加する場合は、音声のみで参加する方式を取っているが、止水総帥の声が聞けるだけでもファンにとってはたまらない設定であるようだ。
シリアス文庫の会社ビル内に用意されたワークルームから、オンライン会議に参加できるよう、神楽がセッティングをしてくれていた。
午後十時、ワークルームに集まった明鏡と神楽は、『明鏡のミステリー会議』が事前に提示してきた議題を、神楽が用意された明鏡ミステリーシリーズ作品を見ながら、辿るように確認して会議は進行した。
「普通ならサラッと読んでしまうところに違和感を仕掛けたり、伏線と気づかないように伏線を張るなど、作為的に設定した物もあれば、想定外の解釈から生まれた不作為なものもあった。『明鏡のミステリー会議』では、これらを総称として「暗号解読裏ミステリー小説」と呼び、総帥からの挑戦状として扱われているのよ」
と明鏡は神楽から聞かされた。
「ミステリーがクロスオーバーして行くよう設定を織り込めるハイセンスは、止水先生のクオリティだわ」
そんな分かったような口振りの理系女が明鏡を褒めた。
「そうかなぁ? まぁ、私に取っては想定外の評価で嬉しいかな」
と謙遜気味な文系男子が喜んだ。
定刻になり総帥から、
「諸君! 第三会議を始めるとしよう!」
のかけ声と共に、第三会議は始まった。
話は変わり鷹山幸造。彼こそ、ゲームメーカーとしての数々の人気ゲームソフトを世に生み出してきたR産業の重鎮である。
彼は東北の出身であり、高校時代から、天才ゲームプログラマーとしてその道では知られた逸材であった。それは数々のコンテストで金賞を総嘗していたことが証明するところである。
その実力を見込んでアメリカのゲームメーカーからも専属プログラマーのオファーがあったくらい、国内外問わず高い評価を受けていた青年時代を経て、芝原製作所に席を置きながら、フリープログラマーとして活躍の場を広げていた。
一之瀬富士男。彼は大手家電メーカー創業者のご子息で、当時、この会社の開発事業部門の係長をしていた頃、会社を辞め起業する流れとなった。そのきっかけを作ったのが鷹山幸造であった。
一之瀬富士男は、事務屋係長ではなく色明係長という裏の顔はデザイナーであり、主に家電やパッケージのデザインを手がけていたのだ。
富士男は自身のマーケティング能力を見込まれ、デザイナーでありながら、事業の開発と戦略を進める最先端で仕事を任されていた。
しかし、マーケティングの仕事の割合が増えるに従いデザイナーとしての仕事は回ってこなくなり、毎年行われていたデザインコンテストへの製作出品ができない程、マーケティング業に時間を奪われていたのだ。いつしか疲れ果てた富士男は、自分の身の丈に合った仕事をしたいと思い切り、家業でもある会社を若くして退社したのだ。
それから二年が経過し、鷹山と富士男が出会ったのは、とある新聞社主催の対談であった。
鷹山は名うてのゲームプログラマーで、富士男はデザインをプロデュースするクリエイターであり、今では古典的いい回しかも知れないタイトル『話題の若者対談』と銘打った対談で、お互いの存在を初めて知るに至った。
対談はテーマに対し二人が意見を述べながら雑談する形式で、一時間程度行われた。そして対談が終わると、二人は固い握手を交わし、これをきっかけにプライベートの交流が始まった。
鷹山は、副業としてゲームメーカーに自作ゲームを売り高収入を得ていたが、ゲームを手放すことに苦痛を感じるようになっていた。
当時は会社と個人のプログラマーが契約を交わす場合には、プログラムを出来高で評価し、報酬を支払う会社優位な契約が主流で、個人プログラマーがゲーム著作権を取得し、使用権を取引するビジネスモデルは確立されてはなかった。
鷹山はプライベートで交流のあった富士男から、ゲームとデザインの製作会社を共同で企業する話を提案された。この起業により生まれた会社がカストル&ポルックス社であり、R産業の前身であった。
通称カストルPは、次々とゲームを発表し大ヒットさせた。
更に、レボリューションの頭文字Rをとってゲーム産業界に改革を起こすという誓いを立て、社名をR産業に変更したのだ。
鷹山専務はゲーム開発に没頭し、デザインと経営を富士男が担当するようになり、会社の成長に合わせて役割が色濃く分かれて行った。
そして、両者が共同経営で始まった会社ではあったが、いつしか富士男が経営する会社に様変わりしていった。
R産業は数年の間に、ゲーム開発会社として革命的急成長を果たし、その名は海外にも知られるようになり、国境の垣根を越えて取引きのグローバル化も進んだ。
順調に成長を遂げて行く中、アメリカのゲーム業界でビジネスモデルが変わろうとしていた。家庭用ソフトからネットを介したダウンロードソフトへとゲームの購入手段が変わり、この時代の潮流を読み切れず、R産業は家庭用ゲームソフト販売を決行するに至ったが、その直後から販売不振に陥ってしまった。
その販売不振となった商品はウルブルナイツ2であり、この経営戦略の失敗によりR産業はゲーム業界で後手に回る事業展開を強いられることになった。
R産業の資本は、起業当初七割を富士男が、三割を鷹山が投資したところから、徐々に資本を増やしながら、このウルブル2の販売不振直前には株式を上場をするところまで来ていた。
上場後は、筆頭株主として富士男は二十五%の株を保有しており、鷹山は僅か七%の株保有となっていた。
取締役代表であった富士男は業務推進会議を開き、このウルブル販売不振による難局を凌ぐ新たな事業を模索することになった。
その方針は次のとおり決まった。
その一
R産業巻き返しのための先手事業として、我が社が得意とするプログラム開発技術を生かして、今後普及が見込まれるタッチパネル形式の携帯電話、スマートホンの対応のアプリケーションの開発を推進する。
その二
一のアプリケーションのエンジンドライバーとなるAIの開発を推進する。
その三
一のアプリケーションのコンセプトはゲームに留まらず、日常生活にあったら便利な機能の開発を推進する。
その四
一のアプリケーション開発者の雇用にトレードオフ制度を用いて、より能力の高い人材を確保する。
その五
他社のゲーム機専用ソフト開発から、自社プロデュースのトータルゲームシステムを開発する。
その六
アメリカのナップル社やクックル社を始め国内の通信会社を巻き込んだ公共性の高い開発事業に取り組む。
その七
従来の職場環境において改善要望を募り、R産業ならではの新環境を構築する。
これらの七つの方針をR産業では『七つの題材』と呼ぶようになった。
——これ、何かのパロディじゃないの?——
富士男が経営の中心にいるR産業であっても、ゲームメーカーとしてのR産業で仕事ができればそれで良かった鷹山ではあったが、そうはいかない現実を目の当たりにする。
この『七つの題材』を実施するためにゲーム版権の内、知的財産としての価値の高い、つまり、意匠権などによる収益性が高いものを売却する提案が、財務部から取締役会に出されることになった。
結果的にその提案は、知的財産としての価値について将来性を見込んだ判断が不十分として保留とされたが、鷹山はこれに自身の危機を感じ、富士男の経営方針に不満を抱くようになった。
社長が総司に変わった後も、引き継がれる経営方針に不満が募り、現在に至って、二代目社長の総司らと経営方針について争っているのだ。
ゲーム開発から機能アプリ開発へとシフトした経営方針に不満を抱き、ゲームメーカーとしての威厳を取り戻すべく鷹山は、R産業を立て直すための、まさに一手を打たんとして準備を進めていた。
今から一二年前、R産業は家庭用ゲームソフトのウルブルナイツの続編のウルブルナイツ2をリリースした。
この時期のゲーム購入方式は、ゲーム本体に挿入する従来のカセットや円盤ソフトの現物購入方式から、インターネット内のゲーム購入サイトからダウンロードする購入方式へと移りつつあった。
こうした物流の変革に対し、前作の販売で成功していた実績により、R産業は従来の方式でゲームソフトウルブル2の販売を推し進める流れとなった。
しかし、時代の潮流を見誤ったR産業の販売想定は大誤算を招き、二〇〇万本のソフトが売れ残る事態を引き起こしたのだ。
ウルブル2の売上高が五〇億円に留まり、六〇億円を超える損失が色濃く見え始めたことで、今後の事業融資にも大きな影響が出るとして、R産業は一気に危機的状況に陥ってしまった。販売計画の責任である当時の事業本部長一之瀬総司は、社長富士男から指示を受け、売れ残った二〇〇万本のゲームソフトにウルブルナイツに掛かる知的財産権を抱き合せる取引きを実行することで、経営危機を回避する対策を講じたのだった。
取引先は、ウルブルナイツのアニメ化やキャラクターグッズの販売を世界規模で行う代理店である大手通信会社JETTYの子会社グローバルJETに絞られた。
この知的財産権を抱き合わせた商取引では、ゲームソフトの返品を不可とする条件付きの販売契約に加え、ゲーム著作権、実用新案権、商標権、意匠権、アニメ等版権などを根刮ぎ譲渡するところとなった。
とは言え、この商取引は社長の単独指示によるものであり、R産業としては知的財産権を手放したという事実は伏せて置かねばならず、譲渡後半年間は、R産業は制約なしにウルブルナイツのキャラクターを使用し商取引ができるという条件を付して、現状維持と挽回のための一手を模索することになった。
またこれにより知的財産の譲渡によりR産業が損失という危機を回避できたのは、ウルブルが今なお世界的人気を誇っている事に起因していたからであった。
ダウンロードゲームの普及により家庭用ゲームソフトを独自の販売網で捌こうとしても、円高の影響も相俟って海外販路は閉塞するのは必至と予測を立てたグローバルJETは、直様、R産業が所有する知的財産権に目を付け、これを最大限活用した。例えばゲームソフトに非売品の付録を付けるなど、付加価値のある販売を模索しなければならなかった。
そのため知的財産権の譲渡を条件とする契約をグローバルJETは迫らざるを得なくなった。
両者にとってこの事態を打開するためには、背に腹はかえられぬ覚悟が求められ、R産業はこの契約に応じたのだ。
そして迎えた半年後、無償使用期間が終了し、R産業がウルブルナイツ関連の販売事業を撤退した理由について次のように正式発表がなされた。
R産業はウルブルナイツの設定が、人種差別をモチーフにしていたとの人権団体からの抗議に対し、前向きに検討した結果、ウルブルナイツに掛かるゲームソフトを始め関連商品の販売を全面的に自粛してきたとした。また今後は、事業譲渡を受けるグローバルJETにより、ウルブルナイツは設定を変更し、新たな門出を迎えることになると宣言した。
そして知的財産権における両者の捻れを解消したのだ。
R産業経営陣は、この半年という期間を置く事によってソフトの発売開始から販売不振続きだった企業イメージや風評を社会の意識から風化させ、注目を一気に集める新たなるアプリのZETLINKをこのタイミングで発表して、R産業のイメージを一気に好転させようと策を講じたのであった。
このケースに於ける取引の本質は不正ではないが、売れないゲームソフトを販売代理店に対し強引に買い取らせた事実が押し込み販売とも取れ、知的財産を社長が単独判断で売却したところに問題は残るだろう。
鷹山は、経理部が保管している総司社長が絡むウルブルナイツ2にまつわる不正取引に使われた覚書を入手するため、経理部長の浪川に接触し、経理簿の閲覧を申し入れた。
「おぉ、浪川くん。確認したい事があるから二十三年の経理簿を見せてくれ」
いきなりやってきて不躾なるプレッシャーを放つ鷹山に、一瞬言葉を見失った。嫌な間を空けてしまいながらも、正気に戻った浪川は牽制をするかのようないい回しで、
「鷹山専務には申し訳ありませんが、本日は監査部の定期調査日でありまして、完了するまでは如何なる場合も帳簿類を持ち出すことはできません。勿論お見せすることすらできません。ですので明日改めて、こちらから二十三年度の経理簿をお持ちしますので、お待ち頂きたい」
と気配りをしながらそう答えた。
「それは仕方ない。では、明日朝で頼むよ」
鷹山はそういって去った後、浪川は冷めたコーヒーを飲みながらしばし思考し、
「なるほど……」
と呟いた。
現在名乗っている浪川姓は母方の氏であり、羽島常務の家庭に養子として迎えられてから、大学入学時に実父富士男と顔合わせをするまで羽島を名乗っていた。
出生の秘密と行方不明の実母に思いを馳せて、羽島姓を捨て母の姓である浪川を名乗るようになった。
また、大学での学業は優秀であり帝大を首席で卒業している。専門は心理学であり、元々大人の顔色を読むのが得意であったため、これを専門に学んだということになる。
これまでを見る限り、浪川経理部長は間違いなく策士であり、第六感も鋭い。
浪川に映る鷹山は、常日頃、先代から総司に引き継がれた経営方針に不満を抱き、総司の粗探しをしているテロリストとでもいえよう。
そして鷹山の経理簿の閲覧目的をいち早く察した浪川は、この目的に相乗りするかのように、一之瀬一族への復讐劇を織り込んだ秘策を講じていた。
浪川は、日頃から経理簿を閲覧しながら、一之瀬一族が関与する不正と見られる取引きを探索しており、今回炙り出された不正取引も、既に把握している事案であった。
この年の経理簿では、先代である富士男が社長時代、事業本部長であった総司に押込み販売を指示し実行させたであろう取引きの覚書などが確認できる。
そして浪川は鷹山に経理簿を届けるため専務室を訪れたのであった。
「浪川です。入ります」
といって浪川はゆっくりドアを引き、入室した。
「わざわざ悪かったね。そこのテーブルに置いてくれたまえ」
鷹山の指示に従って浪川は経理簿を置く際、テーブルの上に飾られた生花の茎に盗聴器を仕かけた。
「こちらの経理簿ですが、返却はいつになされますか」と鷹山に尋ねた。
「明日三時に取りに来てくれ」
掛け時計を見ながら鷹山は浪川に返却時間を指定した。
「分かりました。しかし、これらの経理簿から何を探されるのでしょうか? お手伝いしましょうか?」
と浪川が鎌をかけるように声をかけるが、
「出過ぎた心配は要らない! 下がりたまえ」
と浪川にやや強めの口調で追い払うかのように叱責した。
「分かりました。では明日一三時に!」
と無声音に近い小声で話したが、鷹山は浪川の話など聞いちゃいない感が伝わるような態度で、ひたすら経理簿を捲る光景を尻目に、浪川は専務室を退室した。
浪川は冷静な男で、圧力にも屈しない男故、鷹山の言動にたじろぐこともなく、解任され空室となっていた常務室に入り込み、専務室に仕込んだ盗聴器から情報を録音し始めた。
総司と浪川とは異母兄弟の関係である。彼らは父を同じくするも、与えられた環境は雲泥の差であった。
浪川は、自身に一之瀬の血が通っているという真実が明らかになった時から、自分の生い立ちに深く傷つき悩んだ果て、強い憎しみが生まれたのだ。
そんな浪川の矛先となった一之瀬一族が経営するR産業に入社した理由は、自身のルーツに対する好奇心と、兄らには負けない高い能力を保持している存在の証明、そしてR産業を破壊したいという願望に他ならなかった。
以前、ゲームソフトのウルブルナイツ2の販売不振の折り、JETTYの子会社であるグローバルJETに対し、押込み販売とも取れる取引きを行った主犯者が、先代社長の富士男から総司社長にすり替えられた取引覚書や経緯記録書について、専務室で鷹山と週刊ズームの唐田が確認していた。
「この資料はこのまま公表してくれ」
鷹山は唐田にそう依頼した。
「そうですね。真実はどうであれ一之瀬総司はこれで終わりですね。それでは目一杯やらさせてもらいましょうか」
そういって唐田は専務室を後にした。
唐田が専務室への出入りする映像についても、通路に仕掛けて置いた盗撮用小型カメラで収め、専務室でのやり取りも盗聴録音した浪川は、何かに取り憑かれような不気味な薄ら笑いをしていた。
酔っ払いの朝帰り娘、神楽光月は眠っている明鏡の耳元で何やら囁いているが、睡魔に襲われそのまま明鏡に覆い被さった。
酒の匂いと、柔らかい神楽の胸の感触に、ふと目を覚ました明鏡は、神楽の顔をボーっと見ながらも、気持ち良さそうな感じで、また眠ってしまった。
「んっ……あっ……神楽」と息苦しさから目を覚ました明鏡は右手が痺れた様子で、神楽を剥がすように転がりながら床に滑り落ちた。
週刊誌が床にほっぽられていたのを見つけた。ボーっと表紙を見ていると「R産業の不正発覚」と書かれていることに気がついた。週刊ズームに手を伸ばし、引き寄せ、明鏡は色目使いの女性達をパラパラパラと捲りながら不正記事を見つけた。
そして総司社長が不正を行ったとされた内容を確認した。
明鏡がこの記事を読み終えて、唖然としている間に、総司からスマホに電話が入った。
「もしもし、朱鷺谷くんか、俺だ。週刊ズームを見たか?」
「ええ、なぜか今ここにありまして、これって事実なんですか?」
「事実には反する記事だが……朱鷺谷くんには黙っていたことになるが、すまなかった。記事にある『押し込み販売』は書きようが酷く、真相とは違っている。これは、R産業のゲームソフトの販売不振という弱みに漬け込んだ、言うなれば悪徳商法に他ならない。グローバルJETはこちらに対して、最初の内は世界中に独自の販売ルートがあるとチラつかせ、二〇〇万本のソフトを買い取らせて欲しいといってきたから、販売代理店としての委託契約を結ぶ流れになっていたはずが、土壇場になって販売ルートが使えなくなったとして、この契約の取り消しを求めてきたのだ。この状況は今思えば、販売ルートにおける調整ができる迄契約を延ばしたいとするグローバルJETの主張を認め、決算期に入るまで契約を待ってしまったR産業側にも問題があったのだが。グローバルJETは最初からソフト販売による利益が目当てではなく、著作権などの知的財産権が狙いだったのだろう。案の定、グローバルJETは、追い込んだR産業に対し知的財産権の無償譲渡という救済案を持ちかけてきた。当時事業本部長であった俺は、自身が判断を下せる立場になかったため、父である社長に判断を仰いだ。結果、役員会の了解を得ず、社長は知的財産権を売り渡すことを決められたのだ。
その決断を導いた背景には、急成長していたR産業にとってあの時期、売上を落とし大損失を出してしまうと、金融機関から事業融資が見送られる可能性が高く、瞬く間に経営が傾きかねない事情もあった。そして、その罠に嵌ったR産業は知的財産権を譲渡した半年後、これをカモフラージュするため、ウルブルナイツについて世界的人権団体から人種差別に当たるとして指摘を受けたことを口実に、ウルブルに関連する事業一切をグローバルJETに譲渡したと宣言したのだ」
と総司は知る限りの事実を明鏡に伝えた。
「ということは、両者間で交わされた取引きは、ウルブルナイツの知的財産権等の譲渡契約であるといわれる訳ですね」
明鏡は総司に確認し、更にこう続けた。
「しかし、財務諸表に知的財産権の売却が記載されないまま有価証券報告書が提出されているのは、紛れもない金商法違反になります。
この事実の首謀者である先代への懲役や罰金、R産業への業務改善命令や課徴金、株主総会での一之瀬一族への経営陣からの解任、取引の中止など会社存続にも関わる危機的状況は避けられないかも知れません」
と明鏡は冷静に答えた。
総司は明鏡に対し、この先の顛末について想定できる限りを聞かせて欲しいと頼み込んだ。
明鏡は寝起きで短距離走を全力疾走したような、そんなダルさを隠しきれない口調でこう話した。
「人権団体がどんな経緯にせよ……実際に人種差別を訴えたのか……どうなんでしょう? そこが鍵になりますか……ウルブルナイツ2や関連販売が人種差別の訴えにより自粛ともなれば、知的財産権の譲渡による株主に対する責務や社会経済に与える影響はないものといえましょう。さすれば金商法違反として、先代が責任を取りることで終息して行くでしょう」
明鏡は徐々にいつもの調子に戻りつつ、ポジティブに見解を述べ始めた。
「しかし、問題はこの記事で首謀者が総司社長になっていることでしょう。
なぜ事実に反する記事が出てしまっているのか? ここが気になるところです。週刊ズームが事実を湾曲させることにメリットはないはず。それ故に誰かが現社長を、或いは会社を転覆させようと企んだのではないか? となれば社長はやはり堂々と構えていれば良いところでありましょうが、私、今ちょっと思うところありまして。この記事は単なる告発ではない気がしているのです」
明鏡は総司にそう話した後、更にこう語りだした。
「いきなりですよ。犯人は、社長に対して脅迫一つすることなく、マスコミに、しかも、偽造した証拠品で。これには何か複雑な意図を、悪意を感じずにはいられません」
会社出入口にはマスコミが集まり、社内は株主や取引相手やユーザーからの電話が鳴り止まず、苦情の嵐に見舞われた。
大多数の社員が何か不安げな面持ちで出勤する中、明鏡は一人元気そうに声を張って、
「皆さん! おはようございます!」
とマスコミ関係者がひしめく正面玄関口を堂々と通り抜けて行った。
緊急役員会が午前十時から開催される事になり、取締役らが物々しく取締役会室に集まり始めた。
一方、総司社長は、社長室に籠りっぱなしで、明鏡と何やら打ち合わせをしている様子であった。
取締役会室にて緊急役員会が開かれた。
総司は起立し、
「まず先に、役員を始めここに勤める全社員に対し、このような記事による混乱を招いてしまったことを、深く謝罪いたします」
と言うなり、頭を深々と下げた。
「週刊誌に掲載された我が社の不正取引の真偽について、私から皆さまにお伝えさせていただきます」
と総司は役員をすっと見渡した後、こう話を続けた。
「当時、私はこの不正取引として疑惑がかけられたゲームソフトの販売取引を責任者として管理する立場にありました。この二十三年度において、社会情勢やニーズを読みきれず販売数の見込みを誤った結果、ゲームソフトが二〇〇万本売れ残る事態を招きました。急成長を続けてきたR産業にとって、金額に換算すると六〇億の損失を出してしまう事態となり、これは経営破綻を意味し、この苦境を乗り切らなければならない使命感で一杯でありました。そこにグローバルJETという商社が現れ、売れ残った二〇〇万本のソフトを通常の販売価格で買取り、世界中に張り巡らしている自前の流通網を使って売り捌くとことができると持ちかけて来ました。
しかしこの提案には裏があり、グローバルJETは決算期に入ってもなかなか契約を交わそうとしなかったのです。がそんなある日、グローバルJETは大口の販売ルートが政府の干渉により利用できなくなったとして、販売契約金をそのままに、契約条件が釣り合うようにと目先を変え、ゲーム『ウルブルナイツ』の著作権を始めとすると知的財産権の譲渡を条件に加えてきました。私はこの時、グローバルJETが最初から財産権目当てであったことを確信しました。会社の危機を乗り越えるためとはいえ、この条件提示に応じてしまった事は、私にとってはR産業を守るために必要な選択であったと、この後に及んでも思っております。そしてこの取引は、押し込み販売ではなく、包括的販売契約に他ならず、週刊ズームが掲載したような不正取引では決してありません。
また、有価証券報告書の財務諸表に知的財産権の譲渡を載せなかった理由は、知的財産権譲渡も含めたゲームソフトの販売契約であったためであります。
つまり知的財産権を譲渡したその収益はゲームソフトの売上でもあり、不可分な包括的販売契約なのです。もちろん、社内の財産売却等にかかる規定に沿っていなかったことは、社を代表するものとして看過できない責に帰すべきことであることを強く認識し、しかるべき処分を受けるつもりであります」
と総司は不正取引を否定した。
取締役らの中には、総司が不正取引を否定した販売契約について、『我が社への背任的契約』と意見するものもいたが、大多数の取締役は総司の説明を聞き入り、「R産業に不正なし」とする意見が飛び交った。その中においても、鷹山は黙りを決め込んでいた。
総司は会議室の出入口付近に立っている明鏡の顔を見て軽く会釈をした。
リークした人物や内容が偽造されている事について、総司は明鏡の指示どおり何も触れず、自身が首謀者ではないと弁明することなく打ち合わせどおりに事を進めた。
次にマスコミに対する会見について話し合われた。
会見日時は本日午後三時、本社ビル五階にある大会議室で一之瀬社長、鷹山専務、倉田財務部長とアドバイザーである明鏡の四名で望むことになった。
会場席から見て会見席は左から明鏡、総司社長、鷹山専務、倉田部長の順で用意された。
会見の進行はアドバイザーである明鏡が買って出た。
そして記者会見が始まった。
会見メンバーは起立し頭を下げた後着座した。
会場が騒めく中、明鏡が右手にマイクを持ち話しだすと、誰もがその発言に注目した。
「それでは会見を始めさせていただきます。進行を務めます朱鷺谷明鏡と申します」
と挨拶をした後、R産業側の見解を伝え、週刊ズームが掲載した記事は真実を湾曲させており、名誉毀損に当たるとして、今後、法的手続きに入ると発表した。
「それでは質問がある方は、所属先と氏名を名乗ってからご質問をいただきますが、時間の関係上、お一方一つの質問となるようお願いします」
と質問タイムを宣言した。
「毎朝ビジネス新聞の不破と申します。先程の朱鷺谷さんの説明では、グローバルJETとの販売契約は不正取引ではないといわれて見えたのですが、週刊ズームの記事には、根拠資料として取引きの覚書と経緯記録書が公表されていて、その中から読み取れる事実は、R産業側の販売代理店への圧力を用いた、所謂、押し込み販売に他ならないと読み取れます。これについて不正ではないといわれる根拠をお答えください」
と記事に公表された根拠資料を基に不破が切り込んできた。
記者会見が始まる五十分前の社長室。
社内のざわつきとは一転し、社長室はビーンと張り詰めた空気感を保ち、総司は明鏡の説明を聞いていた。
この取引は結果として押し込み販売でない、そして首謀者は父の富士男であったと主張する総司の思いに、明鏡が答えた。
経緯記録書の記載内容から解釈が逸脱しない程度にロジックを積み上げ、経緯記録書が偽造された可能性が高いことを問い、不正取引は起きていないと主張するものであった。
つまり偽造の可能性については、首謀者が明らかに総司に書き換えられていることをもってして、経緯記録書自体がすべて偽造されていると主張するよう、明鏡は総司にレクを行っていた。
毎朝ビジネス新聞の不破の切り込みに対して、週刊ズームに掲載された不正取引を示唆する根拠資料の内容が偽造されているため、この記事を出した週刊ズームに対し威力業務妨害、信用毀損罪、名誉毀損罪などによる告訴並びに賠償請求を行う所存であることを会見で伝えた。
不破は、不正取引から話題を変え、偽造についてこう質問した。
「ではこれが偽造だとしたら、誰がどん理由で行ったのか想定ができますか?」と。
明鏡は間髪入れずに切り込んだ。
「二つの想定ができるでしょう。一つ目はこの資料が始めから偽造された状態でマスコミに流れた場合、二つ目はこの資料がマスコミで偽造された場合です。二つ目の想定は、通常ならこの週刊ズームも何らかの関与を疑われることになるため、この想定は考えにくい。一つ目の場合は、リークした証拠書類について、リークした本人が偽造したか、または偽造を知らずにリークしたのかで深刻度も変わります。リークした本人が偽造している場合は、犯人は見つけ易くなります。一方、偽造を知らずにリークした場合、社内に見えない犯人がいるわけですから、R産業にとって最も危険な状態といえます」と。
「では朱鷺谷さんは、実際のところリークしたものや偽造した犯人の目星はついて見えるのですか?」
と不破が続けて迫る。
「今のところ掴めてはいませんが、もしかしたら週刊ズームさんなら知ってみえると思いますよ」
といって、週刊ズームの記者に呼びかけると、会場に集まっていた取材陣等はざわつきながら各々が周りを見渡し始め、誰かがその記者に気づくと、全員の視線が一点に集まった。
視線のその先にいた週刊ズームの男性記者は派手目のハンティング帽の鍔をヒョイと上げながら斜に構えた。そして目の前に向けられたマイクを握り取りこういった。
「週刊ズームの唐田蔵之介といいますが……あーだのこーだのといわれますけど、これが『鬼の明鏡節』っちゅう奴か。まったく耳障りだわ。根拠資料は偽造だのといった挙句、信用毀損だとか名誉毀損だとかいって告訴して損賠するとかしないとか。ほんと口の減らん奴や!」
と唐田は明鏡の不正を偽造に摺り替える饒舌振りを非難するかのように挑発した。
会場内がざわついた。
「彼は『鬼の明鏡』じゃないか? あの監査人のか!」
「実物初めて見た」
などと声が上がった。
明鏡がすかさず切り返した。
「やはり来てましたか。週刊ズームの唐田さん! スクープした気になってては困りますよ! あなたにリークした人物があなたとグルなら、タダじゃ済みませんよ! その人物について話してもらいましょうか!」
とまさかの唐田尋問を明鏡は始めた。
「怖い、怖い。まさに鬼や」
と冷やかし、
「調子に乗るんやないど。おんどれ。何がすまさんぞじゃ。いうわけないじゃろわれ」
と品位のない、まぁ醜い言い合いになってきた。
明鏡は唐田に詰将棋をするように詰め寄る。
「唐田さん。今私は公の場で被害者の代表として、週刊ズームさんに対し、あなた方は加害者なのですか? 被害者なのですか? とお訪ねしているんですよ」と。
「それは……どういうこっちゃ?」
と聞き返した。
「唐田さん、あなたはリークされた内容を改ざんしましたか? それとも改ざんを知らずに公表したのですか? 或いは改ざんされたことを知っていて公表したのですか? どうなんですか?」
「悪いのう、そういったことは公表できんのじゃ」
「ああ、そうですか。であるなら、この場でR産業、いや足りない、そう、R産業支持してくださったすべての方々に、不快な思いをさせて申し訳ありませんでしたと謝罪して下さい」
「何をぬかすか!」
「あなたが自ら改ざんしたなら、真実を伝えるマスコミの鉄則を踏み外したことになります。そしてリークした者に対して取引きした中身を違える訳ですから、これこそ不正取引になります。そんな状況ならば、あなたの口からは真実は語られないでしょう。
また、改ざんを知らずして公表をしたのならば、あなたは被害者にあたる訳だから、リークした者を公表することで、マスコミにあってはならない『改ざん』と言う濡れ衣を払拭できましょう。
あなたが何も語らなければ、我々R産業は名誉毀損等あらゆる法的手段で戦うつもりです。
少なくとも改ざんと知って記事を載せたのなら、あなたは何一つ真実を語らないでしょう。R産業を貶める共犯になるのですから」
「ちっ」
「唐田さん。あなたからは何の申し開きもないのですか? ここは公の場であり、真実を問う会見場ではありませんか? 黙っていては隠蔽しているのと変わりありませんし、マスコミは真実を伝える責任があるのではないですか?」
と面前でいい放つと、会見場にいる記者たちは「そうだ、マスコミなら説明すべきだ」
と皆が幾重にも声をあげて唐田を責め立てた。
唐田はハンティング帽を深く被り、何もいわず、囲んだ周りの記者らを払いのけて会場を後にした。
「皆さん、R産業は不正を謝罪する会見を開いたわけではなく、身の潔白を証明するために会見を行いました。この記事が真実ならば反論があって然りの状況下で、唐田さんは我々の問いかけに逃げるようにこの場を去っていきました。これで皆さまには週刊ズームさんの公表された記事にまったく信憑性がなかったことが証明できたと思います。ご心配をおかけいたしました」
と明鏡は記者会見の場を使い、R産業の疑惑を一掃した。
明鏡は会見場に心配して集まってきた大勢の社員らに囲まれ、「天晴れ!」といわんがばかりの止まない拍手に、いつまでも包まれていた。
総司は安堵の表情を浮かべ歩いてきた明鏡と固く手を握り、
「よくやってくれた」
と感謝の意を伝えた。
「おそらく本番はこれからかもしれません」
と明鏡は総司にいいながら二人は会場を後にした。
ただ一人会見席から立とうとしない人物がいた。高山専務だ。
その顔は獲物を取り逃し、苦虫を噛み締める野獣の顔であった。
九階の通路奥の自動焙煎機でいつもの奴を注文した。八十秒ででき上がった少し甘めのコーヒーをズズッと啜りながら監査法人室に持ち帰り、一人ソファーにもたれた。会見が思いの外、上手く凌げた事に安堵し、やり切った自分自身を賞賛するようコーヒーで乾杯し、ゴクッと飲み干した後、大きく息を吐いた。
臨時役員会であの覚書の指示者が総司ではなく先代社長と否定してしまえば、会見で資料が偽造されていると世間に認めさせられても、経営陣である役員らには疑念が残りかねないことを懸念して、総司に狙いどおりの弁舌を指示できたことは、アドバイザー冥利に尽きると控えめに自画自賛した。
そして退勤時間近くになり、ネットニュースで確認したR産業の株価終値は、上場してから初めてのストップ安で取引きを終えていた。
会見による株価への影響がどれ程のものかは分からないが、現実において株価下落は明日以降も続くのであろう。
また、週刊ズームにリークした人物の動向にも注意する必要があると改めて思い、R産業の行末に迫り来る何か大きな渦を見据えるかのように、心中は乱れ始めるのであった。
自宅に帰り着くと神楽がお出迎えをしていた。
「明鏡くん、お帰りなさい。今朝は失礼しました。ごめんね、朝帰りで」
と謝った神楽に、
「二日酔いは大丈夫だったのかい? 神楽さぁ、部屋間違えて僕のベットに倒れ込んだから、そのまま寝かしておいたんだ」
「だよね。明鏡くんに抱かれて眠る夢見たよ。私抱きしめられたのかなぁ」
と独りいをいう神楽に、内心 ——そんな夢見るのか?——
とまんざら嫌な気がしなかった。
「ねぇ、明鏡くん。社長の不正取引はどうなったの?」
「えっ……知ってたの?」
と明鏡は驚いた。
「だって週刊誌買ったの私よ、覚えてる?」
「あっ」
といいながら明鏡のカバンからその週刊誌を取り出した。
「これよ、これ!」
「はい、はい」
といって明鏡は神楽の頭を撫でてあげた。
「明鏡くん。昼間の会見、七時からビジネスTVで放送されるわ。一緒に見ましょ!」
——と神楽が腕を組んできたから、柔らかい胸に腕が挟まれ、なんか気持ち良くてその場で身体が固まっちゃったよ。いえないけどね——
そして「ねえ、女の子に抱きつかれるのって、嫌な気はしないでしょ?」と神楽が思っている気がして、思わず腕を引き抜いた。
「一日の癒しタイム終了ね」
と神楽が口に出したが、
「それって誰の癒しタイムなのか?」
という疑問が明鏡に残ったが、
「まぁいいや、部屋に入ろ」
と神楽に声をかけて、明鏡は彼女の手を握り部屋に入っていった。
「えっと、このチャンネルかしら」
とリモコンでお目当ての番組を探し、ライブ中継と表示された画面に聞き慣れた声を捉えた。
「明鏡くんの隣の人が社長さんだね。この人はひとり目を瞑っていて、運命を待ち受けるという感じかな。こういう会見において当事者というものは、得てして誠意が裏目に出てしまう恐れがあるため、直接関係のない僕が社長の代わりに事情を説明することが適切だと判断したこと。
また、僕にとってはこういう場面のやり取りは本業だから、おのずと僕に期待がかかってしまうのさ」
「会社の一大事でもそんな感じなのかな」
「会社の一大事だから、そんな感じになるんだよ」
「社会って本当に難しいのね」
と神楽はナッツを頬張りながら呟いた。
週刊ズームの唐田とのやり取りを見て神楽は、
「二人で言葉遊びしてるみたい」
「まさに言葉遊びみたいなものかもしれないね。本当の意味で変わらない真実を、言葉でいい換えて黒を白にするための言葉遊びなんだよね」と。
「それでも公共の場で黒を白にすり替えるなんて、すごいことだよ。私にはとても真似できない話術ね」
「神楽くん、話術だけじゃないよ、緻密な計算があるんだ」
といっている間に会見は終わってしまった。
その日の晩は、明鏡も疲れていたのか、神楽が作った料理を食べることなく寝落ちしてしまった。
そして、予期せぬ事態は、ニ日後に明らかになった。
毎朝ビジネス新聞朝刊の株募集欄にR産業の株式公開買付のための募集が開始されたのだ、
明鏡はこれに気づき、神楽がまだ夢見る時間帯に、菓子パンを齧りながら始発の地下鉄に乗り込んだ。明鏡が出勤するといつもなら誰も出勤していない時間帯に、取締役ら幹部職員は既に集まっており、M&A対策会議が本日午前九時から取締役会室で執り行われること迄決まっていた。
出勤するなり社長室に呼ばれた明鏡も、対策メンバーになっており、俄然気合が入ってきた。
「ごらく堂がこのタイミングでTOBをいきなり仕掛けてきたのは、先日の不正騒ぎによる株価の下落に乗じただけでなく、R産業がM&A対策を撤廃していることも要因になっていると考えた方が良いでしょう。
つまり、全てを見据えた集団T(仮)が立てた計画的買収と見ていいでしょう。故に緊急対策会議でこの敵対的買収対策を講じましょう」
と明鏡は気持ちを引き締めた。
ごらく堂による敵対的TOBが開始された。
先日の週刊ズームの一件による株価値下がりに合わせ仕掛けて来たようだ。
発行株の五〇%の取得に向け、下限を三四%に設定したプレミアム七〇〇〇円の申し分ない条件であった。
R産業の不正疑惑の影響は会見での払拭対応がなされたものの、株を手放す流れは止まらず、株価は下がり続け、二日連続のストップ安に見舞われた。
鷹山専務と息のかかった取締役らは、総司社長に責任をとってもらうための退任勧告案を緊急対策会議に乗じて提出する準備をしていた。
総司社長は内外から攻められる厳しい立場になっていた。
午前九時、緊急役員会が始まる。
この近日中、緊急で行われる取締役会に不安を抱える役員も多く、経営体制に問題があると考える者も出てきた。
今回は、M&A対策及び社長解任案が議論されることになった。
議題の順序を決めたのは総司社長であり、議論を行う前に、ある取締役がこのように述べた。
「M&A対策は新たな社長の下で進められるべきではないですか? 一之瀬社長がこれ以降の指揮を取るかどうかを決めてから、この議題に取り組むべきではないか?」
と意見を述べた。
この意見を出した役員に鷹山はこういった。
「まぁ、おっしゃられることはごもっともだが、この議題の順序を決められたのは社長であるのだから、何か秘策を用意されておられるはず。そう思わんかね?」
「そ、そうですね。鷹山専務のおっしゃられるとおりですね」
と鷹山の発言に合わせる返事をした。
「悪いね、鷹山専務。お心遣い頂いて」
と牽制しながら議題である『ごらく堂の敵対的TOBによるM&A防衛策』について、審議が始まった。
「ごらく堂の株買付下限が三四%であり、七〇〇〇円の価格設定になっているところを考えると、我が社の買収には少なくとも、七〇〇億円近くを積む用意があるはずです。ごらく堂という会社は実態がよく分からなかったが、七〇〇億を動かせるような規模の会社ではない。その筋からの情報ですが、ごらく堂はこれまで何度かTOBを仕掛けた実績があるらしく、買付後は株をまとめて売却する手法をとっている。それが生業であり、買収屋であります」
とごらく堂の正体を分析した後、総司はこの場合における効果的なM&A防衛策を明鏡に説明させた。
「ごらく堂がR産業株式の三四%から五〇%の取得を目指す理由は、既にごらく堂のクライアントは、別に十分な株を手にする算段ができているのでありましょう。万が一過半数が取れなくても、経営に大きく影響を与える筆頭株主になるため、一之瀬一族の保有株は総計三五%ですが、これを超える大株主になると予想されます」
と話した後、お茶で口を湿らせ、続けて防衛策の説明に入った。
「第三者割当増資が経営体勢の盤石化には友好と判断できます。
ただし、第三者にあたる適切な企業選定は慎重に行うべきと思われます。裏切りがあれば経営権を奪われかねないためです。我が社にとって良きパートナーになる企業でなければならないため、皆様からも候補企業に関する情報があれば、検討したいと思いますのでよろしくお願いします。なお、第三者割当増資は取締役会議決により進められますが、調整に時間を必要とするため、明日正午に朱鷺谷まで情報提供をお願いします」
と説明を終えた。
「それならJETTYがいいんではないか?」
と秋山栄社外取締役が提案した。
「私の兄が代表をしている通信会社で、スマホのアプリ開発に今後力を入れて行きたいと聞いております。我が社にとってもこの先における通信会社との密なる業務提携については、必須の課題になると私は常日頃考えているところではありまして、そのパートナーとしてのJETTYは、我が社との共闘により伸びしろのある企業に生まれ変わるものと考察しております。我が社に取っても、主要アプリがスマホ媒体で標準設定されれば一定の利用者を自動的に確保することができます。こちらの資料は、このM&A対策の一助になるのはでと思い用意させて頂いた両社の会社概要と、それぞれの視点で考えた自社の事業と相手企業の事業とのメリットを生むマッチング例や、提携しうる他の通信会社との総合比較を載せております。
第三者割当増資におけるホワイトナイトとしてJETTYが最適な相手になると思われます。ご一考を」
といい放ち、資料をこの会の担当者に渡し、参加した役員に配布された。
しばしの時間が経過し、総司社長から、
「秋山社外に感謝します。こちらの調整がつき次第、ぜひ代表にお会いしたいところです。二日後の役員会で決議を取れるよう内部調整を図ります。その節には秋山社外の配慮を賜りたいので承知おき下さい」と。
次に、社長解任について議題を提案したある取締役から説明がなされた。
「私が社長解任について求める理由を述べさせていただきます。
一言でいえば、この経営陣ではこれまで進めてきた事業継続が困難となり、R産業が破綻しかねないからであります。過去の取引に不正疑惑がかかり冤罪会見を行なってもなお、株価は下がっています。社会経済では不安要素は民意により排除され、再度信頼を得るためには経営陣が変わり、内部統制を徹底し、これまでの三倍の時間をかけてすべてに取り組む努力が必要となりましょう。
よって次回の臨時取締役員会及び株主総会第一議題に、一之瀬社長の解任案提出を求めます」
と説明がなされた。
「ではこれについて異論のある者は挙手……」と総司がいいかけたところで、鷹山専務が水を差した。
「あなた方はこれまで社長の一体何を見てきたのだね? 先代社長から経営を譲ってもらった甘ちゃん社長とでも思っていたのか? そうではないだろう。事業にしても、社内改革にしても、若造にしては憎たらしいくらいR産業を成長させてきたその実績は、社長なしには成し遂げられなかったと、心の奥底では思っているのと違うかね?」
と鷹山は強く主張した後、皆に向かい更にこういった。
「であれば、R産業を今救えるのは、一之瀬総司以外にないとは思わんのかね! ワシは皆さんと同じようこのR産業を誰よりも愛していると自負する者だ。故にこの先もR産業と共に歩んで行きたい……ですから一之瀬社長の退任をこの時期に問うのはいかがなものか、この危機を乗り越るための采配ができる者がいるならこの場で名乗りでて下さいな」と場の空気を鷹山が支配してしまった。
「……鷹山専務のいうとおりだ!」
と誰かが声をあげると、賛同する者らも声をあげた。
鷹山専務は社長の顔色を確認した後、社長解任を求めた取締役を凝視しながら、
「解任案は、M&A対策案が決まった後、ということで、よろしいですな!」と場の支持を一身に受けたかのような面持ちで抑止した。
「……社長と対立してきたあなたがそういうなら……多数決を取るまでもない」
とこの取締役は専務の提案に従う意思を示した。
この取締役会の中で鷹山の作った場の空気に呑まれなかったのは、違和感を抱いた明鏡一人ではなく、社長の総司も疑心を感じていたのだ。とはいえ、
「鷹山専務、そして皆さん。感謝します。自分で蒔いた種をしっかり刈り取らせていただきます」
と役員らを一人一人見た後、鷹山を凝視した。
それは、決してお互いが相手を信じていないという摩擦による火花の如く、憎悪を更に深めた瞬間であった。
また、明鏡の感じた違和感は、総司が感じた疑心とは違い、直感的なものであった。
鷹山は総司と対立してきた根底には、R産業に対する圧倒的独占愛があり、今回の社長解任の提起は、彼にとって都合の良い話であったはずが、想定外にあっさりとこの好機を後回しにしたところに、明鏡は違和感を感じたのだ。
「何かある!」
緊急取締役会は、総司の覚悟と、鷹山の雄弁にて幕を降ろした。
明鏡の社長室で、次の一手となる敵対的TOBを回避するためのスキーム作りが始まる。
ホワイトナイト先の選定と事前調整、そして明々後日の臨時取締役会での決議に向けた明鏡と総司の頭脳ゲームが始まる。
明鏡は敵対的TOBを仕掛けたごらく堂の側の狙いと戦術を細かく分析して丸裸にして行く。
——その壱——
ごらく堂は過半数の株式公開買付を成功させた場合、M&Aは成立し、ごらく堂が親会社になる。
仮に株式公開買付を依頼した者がいたならば、買付依頼者に譲渡される。
その買付依頼者が会社であれば、R産業の親会社となる。
この買付依頼者を含めたM&Aに関与する者たちを、仮に集団Tとでも呼ぼう。
——その弐——
ごらく堂の取得株が過半数に届かずとも、三四%以上の取得に至った場合、どんなカラクリで株式割合が過半数を超える形になるのか、これを紐解く。
R産業を子会社化することが目的の場合、過半数超えに向けた一六%を超える株式の保有又は譲渡の宛が見込まれる。
仮にごらく堂が株式の買収専門業者ならば、買取依頼者側に一六%を超える保有株式があることになる。
この見込保有株が現実的にあり得るかどうか数値に置き換える。
R産業株の三%を超える大量株主の内、M&Aに反発する株主がどのくらいいるのかを計る。
筆頭株主一之瀬会長二一%、一之瀬総司社長四%、一之瀬慶次は四%から一%になり、会長の亡妻の在所である原島ファンド六%を加えた三二%がM&Aに反発する株式割合になる。
次にごらく堂が下限の三四%の買付に届いた場合、全株式からこの三四%とM&A反発株三二%を差し引いた株割合の計三四%が、買収側が過半数を超えるために手に入れられる可能性がある株割合となり、残り一七%の保有や取得見込みがあってもおかしくないと思わせる事ができる状態が作り出せる。
R産業側は、この状況に至れば、ごらく堂の公開買付株が三二%を超える見込みが立つ前に、M&A防衛策を取らざるを得なくなる。
そして、ここからが際となる。
この時点でM&Aを成立させる選択肢には、R産業経営陣が防衛策を見誤る要素が必要不可欠となるだろう。我々はここを見誤ってはいけないことになる。
一方、R産業側にとっての防衛策は、事業を関連会社に譲渡する、又は買収側に不利となる新株発行に踏み切るかの選択がある。事業の譲渡は株主理解やその後の事業経営が難しくなるため、必然的に新株発行を選択することになる。
次に、R産業はM&A防衛策を撤廃しているため、ポイズンピルなどの予防策を打つことは時間がかかるため選択できず、結果、消去法により友好的な企業に対しホワイトナイトを依頼し、ごらく堂の敵対的TOBを回避することになる。
ここまで話して来た中で、明鏡の分析の中で「R産業経営陣が防衛策を見誤る」とは何がどうなるということなのか、総司は明鏡に説明を求めた。
「そうですね。防衛策は文字通りM&Aを防衛できるから防衛策と呼びます。
しかし、その策を作為的に買収側がR産業側に選ばせることができたとしたらどうでしょう? R産業は選ばされた危険な選択肢を安全なものとして『見誤る』という事態に陥ってしまい、返って買収側の思い通りになってしまいます。これが見誤るということです」
「そんなことは起こりようがないと言いたいが、あるというのなら聞かせてくれ!」
と総司は明鏡に迫った。
「この見誤りが起きてしまう場合というのは、買収側の計画に、そもそもR産業が防衛策としてホワイトナイトを選択することが見込まれていた場合で、かつ、その選択先をJETTYにさせる筋書きがあったとしたら……ということなのです。これは万に一つの話ですが……社長、聞かれますか?」
「今更何をいうんだ! からかっているのか!」
「いや、失礼しました。今からお話しします内容は、もし万が一でありますが、すべてが仕組まれたM&Aであるかも知れないという見方であります。先程の役員会での秋山社外のリアクションの良さと、鷹山専務の想定外の振る舞いに明らかな違和感があり、軽視できないと感じた訳です。動もすれば我々はR産業を安易と奪われてしまいかねないということです」
と説明した。
「JETTYがホワイトナイトになった場合、仮にですが、集団Tであるごらく堂とホワイトナイトとなるJETTYがビジネス以上の深いところで繋がっていたなら、どうでしょう? 防衛策は仇となってしまいます。不確かな話ではありますが、今日の想定外の鷹山専務の雄弁さが、繰り返しになりますが、やはり私に違和感を覚えさせてなりません」
と明鏡は直感を強く訴えた。
「おいおい、まさか……我々がホワイトナイトの選択を決めたばかりなのに……あるのか? そんなことが! いやいや買収側のM&A計画は今決まったものでもあるまいし……あ、あり得ないだろう。それは……」
と総司は明鏡の想定を打ち消した。
「ではですが、R産業内に買収側に通じる者がいて、R産業内のM&A防衛策をコントロールしていたとしたらどうでしょう? これが見誤るということの一つになります」
と明鏡は強い語気で総司に聞かせた。
「私たちはM&AからR産業を守るため現状分析をして、最適な回避方法を選択しなければなりません。そして、M&Aが過去から計画に沿って準備されていようが、買収回避に全力を尽くさねばなりません」
と明鏡は宣言した。
「万が一の想定ではありますが、ごらく堂とJETTYが繋がりを持っていたり、社内にこれらの企業と繋がる内通者がいることが分かった時点で、ホワイトナイト策は回避しなければならないことになるでしょう。勿論、そのような因子が見当たらなければ、ごらく堂のTOBの結果に左右されることなく、友好的で互いにメリットを持ち合えるJETTYをホワイトナイトに迎えることは、最善策かも知れません」
と具体的な説明を加えた。
明鏡は気になっているこの最悪な想定が起きうる可能性があるか否かを確かめるため、やれる調査を今ここでやらなければ、取り返しの付かない未来を受け入れなければならないかも知れないと考えていた。
「私はいつでも最善を尽くしたい。まだ調べる余地がある不鮮明な部分を明らかにしてきます」
といい残し、明鏡は社長室を出て行った。
明鏡は、監査法人シリウスの元上司鬼怒川霧香にメールにてアポを取り、その流れで品川にあるシリウス本社に赴いた。
十階にある霧香のパートナー室をノックし、明鏡は入室した。
「どうも……鬼怒川さん。ご無沙汰しています。お元気でしたか?」
とよそ向きの声で挨拶をした。
「あらっ、お久しぶりだわね。随分と。さぞ、お忙しかったことでしょうね。そんなお忙しい明鏡さんが、わたくしを訪ねていらっしゃるなんて、どういった風の吹き回しなんでしょうか?」
と霧香は窓から景色を眺めながら、かけていたデスクチェアーをクルッと反転させ、目を細めながら明鏡を上目遣いで見た。
「そ、そんな目で見ないで下さい霧香さん! 忙しくても連絡すべきでした。反省してます。本当にすみませんでした」
——ああ、いつものこれだ。まったくこの関係、なんとかならないものかね——
「分かれば良いのよ。うふふ。あなたいつ見てもうぶね。いいわ、明鏡のためだもの話、聞いたげる。いってごらんなさい!」
と霧香は明鏡がわざわざやって来た意図を知っていたかのように、上から目線で投げかけた。
「ありがとうございます。霧香さん。実は『ごらく堂』という会社なんですけど、ご存知ないですか? 実は、私が今アドバイザーを引受けているIT系企業のR産業に敵対的TOBをかけてきた会社がありまして……」
「それが、ごらく……堂ねぇ。ごらく堂っと、あったわね確か、二、三年前かしらミナミ建設の買収に成功した後、保有した大量株を横流しして、多額の利益計上している会社よ。いわゆるグリーンメーラーと呼ばれる株の買収専門屋だわ」
「そうなんですか。ごらく堂がそのグリーンメーラーってことは株の購入資金は自前ってことは恐らくないんでしょうが、故に融資かファンドって考えていい感じですね」
「バックを操る黒幕というか、その辺は分からないけど、この会社の興味深いところは、全株式の過半数の取得を目指さないというところにあるかもね」
「えっ」
「つまりね、株主の中に買収を仕掛けているものがいるってことかしら」と。
明鏡は霧香に対して、更にごらく堂のバックについている黒幕が知りたいとして迫ると、
「詳しい人知ってるわよ」
と霧香は言葉をかけた。
「誰なんですか? その人は?」
と明鏡は問い詰めるように尋ねた。
「どうしましょうかね? 明鏡くん!」
「どうしましょうかって……どうしたら?」
「今日の夜とはいわないけどね、次の金曜日の夜、私の部屋に必ず来なさいよ。もう私、三ヶ月もご無沙汰よ。これ以上待てないわ!」
と我慢できない素振りで明鏡を見つめた。
「わっ、分かりましたから……確かにあれからご無沙汰してましたね」
と明鏡はあっさり承諾した。
「じゃあ教えてあげましょう。東証の今泉っていうトレーダーを尋ねなさい。そして、うちの石尾がM&Aについては詳しいからお知恵もらうといいわ。そう石尾は監査に出てるから、戻ったらあなたに電話するよう伝えておくわ」
と明鏡の耳元で囁いた。
そしてバックからスマホを取り出し、今泉の携帯番号を明鏡のスマホに送った。
「ありがとうございます。ではよろしくお願いします。あっ、金曜日楽しみにしていてください」
と言い残し、明鏡は慌てるように退出した。
シリウスビルを出てすぐに、関東証券取引所の今泉に会うため、霧香から送られた携帯番号に明鏡は電話をかけてみた。
「あの、シリウス監査法人の鬼怒川さんから紹介頂きました、わたくし、朱鷺谷明鏡と申します。お忙しい中唐突にお電話致しまして申し訳ありません。実はお話し伺いたいことがございまして、本日お時間頂けないでしょうか?」
と切り出した。
「そう……霧香の紹介か。あれ、朱鷺谷さんて、まさか『鬼の……明鏡』さんですか? シリウスの?」 と声のトーンがオクターブ上がった。
「えぇ、あまあ。ご存知何でしたか? 光栄であります」
「確か何年か前に情熱何とかって番組で拝見しましたよ。鮮明に覚えています。今もシリウスで活躍されて見えるのでしょうか?」
「いえ、今はシリウス監査法人からミンタカ監査法人に移り、R産業のアドバイザーをしております」
「そうでらっしゃいましたか。それでまた、私に何かご用がお有りでしたか?」
「ええ、ある会社のことについてお聞かせ願いたくてお電話致しました。もちろん今泉さまにご迷惑がかからないような範囲での事ですが」
「ほう、ではお聞きしましょうか」
「ありがとうございます。では。ごらく堂という会社の資金源について調べているのですが?」
「R産業敵対的TOBについてですね。新聞に買い付け載ってましたね。なるほど。そういうことですか。ならお会いしない方が良いですね。ちょっとお待ちくださいね、会社の縛りがあるので、人目を避けないとまずいので……お待たせしました。ごらく堂のバックにはMEGAファンドという企業が控えていて、ごらく堂に買収資金を調達しているようです。融資という形でね。ごらく堂はいわゆるグリーンメーラーで取得した株をまとめて売却し、その売却した売上金をファンドに返済する中で、成功報酬を受けているのですが、これが純益になっているようです。私が知っているのはここまでです」
と話した。
「今泉さん、本当にありがとうございます」
「霧香の紹介なら仕方ないからな。ところで、朱鷺谷さんは霧香とどんな関係なの?」
と今泉はこれまでとは違った口調で意味ありげに聞いてきた。
「鬼怒川さんのかつての部下で、今は姉と弟のような関係であります」
と明鏡は自然な面持ちでそう答えた。
「ほーっ。そうなんだね。じゃ僕は君のお兄さんだね」
「えっ……またご冗談を」
「……」
「ええ、そうなんですか……でも苗字が違うのは?」
「霧香とは複雑な関係があり、今は苗字を違えているが、正真正銘の兄です。霧香は明鏡くんも知ってのとおり、仕事は負けず嫌いで、嫌味なところあるけど、根は優しい女の子だから、これからも仲良くしてやって欲しい」
と話された。
「了解しています。今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ」
といって電話を終えた。
——霧香さんに兄がいたんだ……それにしても霧香さんは何も言わないからな……——
監査法人シリウスでM&Aに詳しいと霧香から案内された石尾から、明鏡のスマホに電話が入った。
「あの、シリウスの石尾っつう者なんすが、朱鷺谷さん? で宜しかったっすか?」
「あっ、わざわざすみません。初めまして朱鷺谷です」
「上席の鬼怒川さんからお聞きしたっすが、ごらく堂の情報を知りたいっつう……」
「ええ、そうなんですが、お会いして少しお話し伺えればと思いまして。シリウスで」
「そうっすね。ありがたいっす。じゃ、いつにされます? お急ぎっつうことでしたよね? これからでもどうっすか?」
「願ってもないです。本当に時間外でも宜しいっすか?」
——何か話し方うつっちゃうよ、まったく——
「問題ないっす。明日から仙台に出張っすから、急がれるんなら今日くらいしかないっすよ……」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて十九時でも宜しいですか?」
「大丈夫っす。じゃっ守衛室に声かけときます。その時間は三階の資料保管室に籠ってますんで、見つかんなかったらいるってことで」
「はい、保管室ですね。了解です。ああ、そうそう、鬼怒川さまによろしくお伝えください」
「了解っす。では失礼します」
「失礼します」
明鏡はR産業からタクシーを使い再びシリウスへ向かった。シリウスに到着し、タクシーから降りた後、裏口にある守衛室で小窓を「コツコツ」と叩いた。
「どなたですか?」と守衛が顔を覗かせた。
「ご無沙汰です。山部さん」
「おお、こりゃ珍しい、明鏡くんじゃないかね。久しぶりや。元気にやってたかね?」
「ええ、何とか……」
「心配してたんだよ。急に辞めちゃってさぁ。そうだ、またこんな時間にどうしたんだい?」
「石尾さんと約束があって」
この守衛山部は引き継ぎノートを見て、明鏡のアポを確認した。
「アポあったね。さっき聞いた件だわ。了解した」
「おじさん。まだノートなの? パソコンあるのに」
「まぁそう言わんでくれ。わしらの歳じゃノートが楽でな」
「中入っても良いかなぁ。案内なしで」
「明鏡くん。悪いが石尾さんが見えるはずなんじゃが……あぁ見えた」
「先程はどうもでした、石尾です。ではこれを」
「入室カードか。分かりました。……これでいいですか? あっ、山部さんありがとう……それではまた」
二人は三階の資料保管室に向かう道中、こんな会話になった。
「朱鷺谷さんは、ウチの鬼怒川パートナーとどんな関係何すか?」
「関係、ですか? うーん、姉のような……」
「まさか、付き合ってるんすか?」
「まっ、まさか違います、違います。以前仕事……」
「あー良かった。鬼怒川パートナーは僕らの女神なんす」
——女神? 小悪魔でなくて?——
「因みに石尾さんは、霧、いや鬼怒川さんを気にしてるとか?」
「理想っす……大人の魅力っていうのか……いやいや上席ですから。人気っすよ。男性職員の憧れですから……」
——いやー。霧香さん人気だ。確かに容姿と頭脳はハイレベルだが…… ——
「そうですか。女神。ですよね。異論なし」
と他人の恋話にまったく関心のない明鏡ではあったが、話を合わせてみた。
そして明鏡は本題へと誘う。
「石尾さん、ごらく堂ってご存知ですか?」
「買取屋のごらく堂っすね。もちろん知っていますよ。そうだ、気をつけてくださいね。ごらく堂の代表の霧山開っすが、これまで敵対的TOBを何度も成功させてきた強者で、サイコパスとかサイボーグってあだ名が付くくらいやばいって聞いてるっす。その道では煙たがられている漢と聞いてるっす。
実際は、敵対的TOBの株の買取設定も上手く、置かれた環境下で最善を導き出すハイセンスの持ち主と言われてるっす。霧山と関わったことのある某会社の社長から聞いた話なんすが、とにかく狙った会社を徹底的に調べ上げ、その会社に罠を仕掛け、緻密な廟算を行い、想定される防衛策までを計算に入れながら、敵対的TOBを成功へと導く奇才と評判っす」
——大分ヤバ目なTOBなんだな。気を引き締めないと——
「それは震えがきますね。徹底した調査と罠ですか。そうそう、資金源についてはMEGAファンドが提供していると聞いているのですが……」
二人は話しながらエレベーターを三階で降り、資料管理室まで来た。
「ちょっと待って下さいね。アレ? 鍵かかってるっす。さっきまでここで準備してたっすが、鍵かけず出てきたはずなのに」
と不思議がる石尾に、
「えっとですね。ここの施錠管理システムは、部屋に人を感知しなくなると自動的に施錠するタイプで、入室時又は退出時にドアノブを二回握り直すと、職員証をかざして暗証番号を入力せずとも、ノブに仕組まれた指紋を感知し施錠が解除される仕組みなんです。ですからドアノブをもう一度握られてはどうかと」
と明鏡は昔のことを思い出しながら石尾に説明をしたのだ。
「カチャ」と施錠が解除され、石尾は一瞬、明鏡の顔を見た。
「朱鷺谷さんてまさか……」
「僕が何か?」
「この施錠管理システムの業者さんすか?」
「ええ?」
と明鏡はこの石尾が鈍感な男にしか見えなくなった。
「鍵のことよくご存知っつう感じですな」
って石尾は真顔でいった。
——大丈夫なのか? この男——
明鏡は、それならそれでと肯定も否定もせずに話を続けた。
「MEGAファンドをご存知ですか?」
「もちろんっす。そうそう、まぁこちらにかけて下さい。それでこれを見てもらっていいっすか?」
「部外者の僕が見ても宜しいのですか?」
「鬼怒川パートナーの指示見たいな状況っすから大丈夫っす」
明鏡は石尾のアバウトさに少々呆れながらも、資料を確認した。
「ええっと、これはMEGAファンドの監査調書ですね」
「その通りっす。私が主任として監査に入った昨年のものっす。私はファンドを中心に監査をしていますので」
と石尾はこの業界については任せて下さい的なオーラを放った。
「朱鷺谷さん。ここ見てもらっていいっすか? 会社概要の取締役代表のとこっす。霧山雄山って書いてありますね。この人の娘婿がごらく堂の代表の霧山開なんすよ。つまり、この関係はただのビジネスパートナーではなく、ファミリービジネスっつう感じでしょう、強い繋がりがあったんす。このファンドのごらく堂への融資額は、所謂ファンドで集めた投資家たちの金なんです。確か……この商品なんですが見て下さい、一年でこんなに価値を上げているっす。ほぼ倍っつう感じで……話を戻しちゃいますが、ごらく堂はグリーンメーラーなんです。ここ見て下さい。買収株を売る相手っつうのは、MEGAファンドを経由して買収依頼をかけた依頼者がいるっつうのがこの契約で分かるんす。
つまり、ごらく堂はMEGAファンドの指示で買収を行い、買収株はMEGAファンドの顧客に対して事前に取り決めた価格で売却されるっつうことが分かります。ごらく堂は株式売却額のうちMEGAファンドへ公開買付資金融資額に純益の一部を乗せ返済し、残った純益の一部が成功報酬となるっつう仕組みっす。ごらく堂とMEGAファンドの関わりは、毎回決まってこの形での取引きになるっす」
石尾の話を明鏡はこうまとめた。
「つまりですね、ごらく堂の資金繰りは代表霧山開の義理父霧山雄山が経営するMEGAファンドというベンチャーキャピタル(投資会社)が付いているためTOB(株式公開買付)は思い通りに進めることができる。また、MEGAファンドの投資ファンド(資金活用による利益を出す仕組み)には、ごらく堂の事業が投資信託(投資商品)になっているものもあり、百々《とど》のつまり、ごらく堂が関連する事業の元締がMEGAファンドであるということですね」
と石尾に確認するようにまとめた。
そして、これまで集めた情報から、TOBの対象となった会社の中に、或いは株主の中に買収をMEGAファンドに買収を依頼した人物がおり、おそらくその依頼契約書は非公開下にあり、シリウス監査法人が行った監査では知るよしもなかったということなのであろうと、明鏡は心の中で理解した。
また、監査法人の監査調書には興味深い事実が記されていた。それはR産業の社外取締役の秋山栄が二年前まで代表を勤めたことが会社概要に記されており、MEGAファンドの傾いた業績を立て直したという内容であった。
少し間を置き、石尾は次のことを語り出した。
「MEGAファンドは元々玩具メーカーMEGAであったんすが、少子化で玩具が売れず経営が厳しくなり、当時、立て直しのため雇われたのが前社長の秋山栄っす。彼はの行員時代のノウハウを生かして投資事業部門を立ち上げ、これにより利益を挙げて会社をもち直したらしいっす。所謂ベンチャーキャピタルっす。秋山は大手企業のベンチャー投資事業の業務委託を受けていた実績もあり、その筋には詳しかったみたいで、恐らくMEGAの株主がこの噂を聞きつけ、秋山栄を引き抜いたっつうことではないかと推測できるっす。秋山栄って男は、きっと金の鉱脈を見つけるのが得意だったんすね」と。
——秋山栄、なるほどやり手であったか——
明鏡は石尾に、現在のMEGAファンド霧山雄山と秋山社外取締役に関して確認をするも、
「関係までは詳しく知らないっすが、霧山雄山はかつて秋山の右腕だったっつう話を聞いたことがある。今はどんな位置関係なのかはわからんすけど」
と明鏡に話し返した。
明鏡は石尾に感謝し、シリウスを後にした。
午後九時二十分、明鏡はR産業に戻り、秋山栄の履歴書を読み返した。MEGAファンドで代表をしていた以前の職歴は一切書かれていなかった。
役員の履歴書だけに仕方なさを感じるも、一方で明鏡は意図的な何かを感じてもいた。しかし、この段階ではJETTYとMEGAファンドとの真のつながりを明鏡はまだ知る由もなかった。
ただ一つハッキリしていることは、総司社長と対立する鷹山専務は秋山社外取締役と同郷であるということ。
明鏡はこのR産業買収騒動における鍵は「同郷」にあると直感し、思うがままにに二人の故郷の青森県大鰐町に向かうことに決めた。
「そうだ。神楽を連れて行こう!」
と思い立ち電話をかけた。
「神楽、今から弘前市行くんだけど、一緒に行かないか? リンゴの故郷だよね。神楽、リンゴの大好きだよね。どう?」
「今日は積極的ね……良いわ。じゃあ荷物適当に詰めるからね。こんな時間だから恐らく夜行バスしかないけど何とかして見るわ!
えっと、午後十時四十分発の東京駅の梶橋駐車場から弘前駅行きがあるから、一時間後よ。あっ、空席あるのに予約できない! 予約時間終わってる。でも空席あるんだから、行っちゃいましょ。何とかなるわ! きっと!」
「承知したよ神楽。でもそっちは大丈夫なのか?」
そう聞き返すと、
「JRだから多分間に合うわ。位置情報OKね。なんかワクワクするね。では一時間後、現地でお会いましょう」
「了解、神楽、遅れるなよ」
「あーい」
午後十時二十分頃、カシオペア夜行バスが出発地の梶橋駐車場に到着していた。乗客はバス側面中央に立つ運転手に荷物を預けて、乗車を開始しし始めたが、明鏡は神楽を待っていた。出発五分前、神楽が漸く到着した。乗客は大方バスに乗り込んだところで、明鏡と神楽はバスに近づいた。
そして神楽はバスの乗降口前に立っていた運転手らしき男性に話しかけた。
「このバスは弘前行きの夜行バスですよね?」
「そうだけど、お客さんらは……予約された方でしたか?」
「いえ、手続時間内に申し込みをしていたはずなんですが、完了する前にタイムアウトになってしまい、結局、予約はできなかったのですが」
「悪いがご乗車はいただけません。社の取り決めでね。お引き取りいただきたいのですが」
とこうして話している最中、一本の電話が運転手の携帯電話に入った。
「はい。はい。そうなんですか! いいえ。はい。はい。分かりました」と運転手は答えるなり神楽達に対して、
「大変失礼をいたしました。席はご用意いさせていただきます。さぁお乗り下さい。お嬢さま」と。
神楽は明鏡と目を合わせ首を傾げてから、バスに乗り込んで行った。そして、何だか分からないが明鏡も遅れて乗り込み、バスは弘前市に向け一路出発した。
バスが出発し、漸く軌道に乗れたとホッと一息つく時間の中で、明鏡は神楽にこう切り出した。
「何とかなったのは感謝するが、いったい何をどうしたのか?」
と尋ねた後、続けざまに、
「運転手が神楽のこと『お嬢さま』といっていたね。一体全体どんなマジックを仕掛けたのかな?」
神楽はニンマリしながらこう切り出した。
「では改めて、止水明鏡に謎をお解きいただきましょう。なぜバスの予約が取れなかった私達が、バスに乗車することができたのでしょうか?」と。
——あれあれ、引っ張りますね、神楽のお嬢さん——
「なるほど、これは面白い。止水明鏡をお試しになられるというのですね、お嬢さま……」
と明鏡は少し笑いをこらえるような仕草で、次に話を繋げた。
「手掛かりは、神楽が運転手に伝えた『予約時間を過ぎてしまい』といったセリフ、運転手がかかってきた電話に『そうなんですか!』といった後の『いえ』、及び『席を用意させて頂く』といった後の『お嬢さま』の三つがキーワードになるでしょう」
「へーっ、それでそれで?」
「まずは、こんな風に考えていくよ。運転手が神楽を『お嬢さま』と呼んだ。神楽がお嬢さまとして何か親の力を借りた場合や、運転手が気を配らなくてはならない上司などの娘に成りすました場合に、『お嬢さま』という言葉が当てはまりそうだが、神楽が都合良くこのバス会社の内部の情報を知っているはずはない。そこでバスの運転手の言葉遣いと接客対応を考えると、乗客をこの運転手はお客さま、若い娘の乗客ならお嬢さまと呼ぶでしょう。間違ってもお嬢さんとはいわれないでしょう。故に、この『お嬢さま』という言葉は深い意味をなさないでしょう」
「なるほど、よく分析されてるわ」
「次に運転手の電話の返答ですが、『はい。はい。そうなんですか! いいえ。はい。はい。分かりました』についてなんですが、『はい』は四つあり、一つ目、二つ目といった風に『はい』を区別して、その意味を分析していきます」
「はい……どうぞ」
「では一つ目の『はい』ですが、予約を取れないと主張した当事者神楽を現認しているという肯定の返答、二つ目の『はい』は神楽が事前に予約作業を行っていたという事実の理解をしたという了解、その後、予約システムにトラブルが発生していたという事実を知らされ驚いて『そうなんですか!』と神楽らは善意の被害者と認識された。
その後、運転手の上司であろう者から、神楽らを追い返していないことを聞かれ『いいえ』と答えた。
こんな感じで読み進めると、三つ目の『はい』については、予約システムで迷惑をかけた神楽に対し、お詫びする指示に呼応するものであり、そうなると四つ目の『はい』は必然的にバスへの乗車案内を運転手が実施する意思表示になり、『分かりました!』と電話相手であろう上司に、事の経緯と指示をすべて理解したことを伝えているということになります。
……とここまでが、バス予約にかかる神楽の話から見えてきた推理になるね」
と明鏡は運転手の電話でのやり取りを読み解いてみたのだ。
この読み解きに対し神楽は、
「凄く冴えてるかも。じゃあ、私が今回事前にバス会社に起こしたアクションについては、察しがついているのね」
と明鏡に確認した。
「まあね。ここまで読み込めれば、最後に残ったキーワードの『予約時間を過ぎてしまい』から、神楽の取った事前の動きはこんな感じなんだよね。神楽はまず、予約サイトを運営する会社に、R産業のZETLINKの緊急対応システムを使って、システム不具合の指摘をするとともに、サイト運営会社に危機を煽り、バス会社に緊急対応を迫ったということになりますが、いかがですか? 神楽さん」
と謎解きをしてみせた。
「ふふっ……お見事です。でもね、どうしてR産業の部外者の私が、緊急対応システムを活用したと?」
「それは前に神楽のスマホを借りて緊急対応システムにアクセスしたことがあったことを思い出したのさ。神楽は目の前で僕の手順を見ていたから、あの時の裏アクセスを覚えているのではと。こういう特殊な機能は、理系女の神楽の好物だと思ったからね」
「なるほど、異論なし」
カシオペア夜行バスは、首都高速六号向島線から中央環状線、川口線を経て、気がつけば川口JCを通過し東北自動車道を大鰐弘前に向けてひた走る。
明鏡と神楽はバスの走行音を子守唄にいつしか眠りについていた。
そして、十和田市付近を直走るバスの中で明鏡は目を覚まし、神楽も大鰐川口インターをバスが降りる頃、目を覚ました。
「おはよう神楽、これ飲むかい?」と目を覚ました神楽に、ペットボトルの天然水を渡した。
「ありがと」と神楽は受け取り、窓に映る景色を見ながら天然水を二口三口ゴクリと飲んだ。
「もう直ぐ弘前駅に到着するよ。その後、JR奥羽本線で大鰐駅に向かい、大鰐町で二手に分かれて人物の調査を行いたいと思うんだ。対象となる人物は秋山栄と鷹山幸造で、二人のデータはZETLINKで神楽に送ったよ。今回の目的は二人の生い立ちと関係が調査目的となるよ。よろしくね」
と明鏡は神楽と打ち合わせを行なった。
そして明鏡は、二人の実家捜索については、ZETLINKと電子住宅地図に苗字をキーワードにしてデータを抽出することで、彼らの実家候補が縛り込めると神楽に説明した。
現在は自治体で住民票閲覧はできないため、この方法が効率的であって、最終的には聞き込みで実家を特定するつもりであると。
これを受けて神楽は明鏡に、
「私は二人の実家を特定するための聞き込みから始めて、実家の特定後、近隣の聞き込みをするから、明鏡くんは二人の小学校区と中学校区から同級生を聞き込みにより見つけてもらい、二人に関する情報を集めてください。調査時間は六時間とします。情報は互いに共有できるようメモ機能を共有化しておきましょう。そして調査の結果をまとめ、六時間後の東京行きの新幹線で帰りましょう」
と神楽が調査行程を立てた。
明鏡は神楽の手際に脱帽した。
「二人の実家の候補先は共に三つ程のため、比較的早く特定できると思う」
と神楽は見通しを立てた。
弘前駅構内には、サイズダウンされたねぷた祭りの山車が飾られており、二人はこれをしばし眺め、東北まできたことを実感していた。その後、大鰐駅に到着した二人は、駅付近にあるレンタバイクを借り二手に分かれ、作戦行動を開始した。
神楽は作戦行動に入ってからおよそ一時間で、鷹山と秋山の実家を探りあてた。
鷹山家の付近での聞き込みでは、幸造はパソコンを使ってゲームプログラムを作り、全国大会で優勝する天才少年であることが分かった。
R産業の経営者であり、毎年多額の寄付金がこの大鰐町に送られていることは全町民の知るところであり、役場ではこの寄付を財源にパソコン研修を開催したり、IT普及に向けた機器導入に役立てられていることが確認できた。
また秋山栄にかかる聞き込みでは、興味深い情報が得られた。秋山栄には繁という兄がいて、この兄弟も大鰐町に毎年多額の寄付金を送っているらしく、更に秋山繁と鷹山幸造が同級生であったことも確認が取れたのだ。
一方、明鏡が聞き込みにより得た情報からは、大鰐中学校では秋山繁と鷹山は悪友であり、繁の弟栄を加えた三人はいたずらしてよく怒られていたことが確認された。三人とも頭が良く、当時では数少ない大学進学、しかも三人とも帝大に進学していた。
彼らは二十年前から、この町の郷興しを行っていて、この町では有名人物であったのだ。
調査は三時間で充分な情報を得るに至り、夕方初の新幹線で東京に戻る段取りを組むことになった。
「神楽さん。新幹線の時間までに少し時間があるから、青森ならではの散策でもどうですか?」
との明鏡の誘いに神楽は、
「是非そうしましょう!」
と待っていたかのように賛同したのだ。
神楽は、いつの間にか有名どこを検索していて、
「この店の津軽リンゴのアップルパイなんて人気だね。口コミ見たら行かないわけにはいかないわ。隣の弘前市にあるから、今から行っても十分間に合うわ」
と誘いをかけた。
弘前市で束の間の休息を経て、明鏡等はこの日の夜、東京まで急ぎ足で帰って来た。
明鏡は隣で寝ていた神楽をひょいと見やり、
「漸く東京に戻ってこれたね。神楽」
と身体を伸ばしながら話しかけた。
周りの乗客は下車準備を始める中、周りのザワつきに反応するように少し目を開き、身体を半身シートに横たえまた目を閉じた。
「神楽? 寝てるの? もう東京まで戻ってきたよ」
と声をかけた。
さすがに神楽も再度目を開き、荷物をまとめ始めた。東京駅が終着駅につき、二人して下車したが、ホームは閑散としていた。
「ところでこの後どうするの?」
「そうだね。ちょっとだけ寄りたいところあるけど、お供いただけますか?」
「東京出発から東京到着までおよそ二十三時間、疲れ果てているけれども……お供しましょう! で、どちらへ?」
と聞き返した。
「八重洲にあるバーなんだけどね。シリウス監査法人にいた時の同僚の姉さんが経営している店で、フルーツカクテルやイタリアンチーズピザが美味しいんだ。お酒の好きな神楽だから、色々付き合ってくれたお礼にね」
「まっ、うれしい。明鏡くんが私を労ってくれるなんて。連れて行ってくださいな」
「ではご案内いたしましょう!」
といって神楽のエスコートをする真似をして見せた。
東京駅から五分程歩いたところにその店が見えて来た。
「ここだよ」
「カクテル……アトリエ東京」
「さぁ入るよ」
「う、うん」
扉を開けて明鏡と神楽は入店した。オーセンティックバーで照明は割と明るく、上品なお客がお酒を楽しむ感じでありながら、格式に捉われない雰囲気を持つリラックスできる空間を作り上げていた。
カウンターの奥から女性のバーテンダーが声をかけた。
「いらっしゃいませ。朱鷺谷さん」
「お久しぶりぶりです。麻宮さん」
「こちらにおかけ下さい」
と声をかけながら神楽を見るなり、
「初めまして。麻宮と申します」
「神楽です」
と少し硬めの挨拶をした後から、
「神楽さんはモデルさんですか?」
「えっ、いえ、ただの会社員です」
「見えないわよねー」
「えっ」
「周りのお客さん。見てご覧なさい。みんなあなたをチラチラ見てるでしょ?」
「……」
「朱鷺谷くん。こんな素敵な女の子とよく出会えましたね」
と麻宮は明鏡に耳打ちした後、
「朱鷺谷さんはいつもの組み合わせでいいですか? 神楽さんも同じにしますか?」
「神楽も一緒でお願いします」
「はい、お願いします」
神楽は二人にお任せした。
「遅くなったけど紹介するよ。こちらは麻宮佳奈さん。シリウス時代の同僚のお姉さんです」
続けて明鏡は、神楽を麻宮に紹介した。
「こちらは神楽光月さん。シリアス文庫で担当をしてくれています」
「明鏡くん、知って見えるの?」
「麻宮さんにはそのことは話してあるから」
「朱鷺谷さん……止水明鏡さんであることを知った当時はとても驚いたけれど……」
麻宮はピンク色のカクテルを神楽に差し出した。
「ヨコハマです。朱鷺谷くんが横浜出身なのと、私がシーガーディアンで働いていたこともありまして、いつもヨコハマから提供しているのです」
「本場のヨコハマですね。綺麗ですね」
と神楽は少しリラックスして来たようだ。
「再会と出逢いを祝して乾杯!」と明鏡と神楽はグラスを麻宮に向けた。
「素敵です。ヨコハマ美味しいです」
「ありがとうございます。こちらのピザもお召し上がり下さい」
と麻宮は当店人気のチーズピザを提供した。
「チーズの香りと生地のサクサク感にはまっているんだ」
「分かるわ」
神楽は明鏡が溢した生地のかけらをそっと拾った。
麻宮が明鏡に問いかけた。
「あなたたち。付き合い長いのね。それに女の子連れてくるの初めてよね」
二人は顔を赤らめ一瞬固まったが、明鏡はこう切り返した。
「実は、まぁ、同棲みたいになっています」
「一緒になるの?」
「……秘密です」
「クスッ。そうね野暮な質問よね。……良い子じゃない、大事にしてあげなさいよ」
「もちろんです」
神楽はうれしい気持ちでににこっと笑った。
「神楽さんは笑っても絵になる方ね。あっ……今入ってきた人って」
明鏡と神楽は後を振り返った。
「あっ、霧香さん?」
「あら、明鏡くん? どうしてここに?」
「近くまで来たので」
「そちらはお連れさん?」
「はい。神楽さんです」
神楽は明鏡に小声で霧香が何者かを聞き、
「初めまして。朱鷺谷さんに仕事でお世話になっているシリアス文庫の神楽と申します」
霧香は神楽を舐めるように見た後、神楽に小声で
「肌がすごく綺麗だけど、どんなお手入れしているのかしら?」
神楽はバックから取り出したスキンケア用品を見ながら
「こんな感じのなんですけど……」
と話すと霧香は、
「ということは、元が良いのね。私と同じよ」
と同じ用品を鞄から覗かした。
そして、霧香は更に神楽に絡む。
「肌以外も小顔で美人、身長も高いし指先も綺麗で、私と同じだわ」
「霧香さん……神楽さんが困ってますよ」
「あらあら、失礼しましたわ。怖がらないでね。私は綺麗で美しいものに興味があるの。あなたはとっても美しいから、我を忘れてしまったわ」
「霧香さん。今日はまたどうしてここへ?」
「どうしてって……佳奈は親友だもの」
「私と霧香は中高で一緒だったのですよ」
「確かに話し方、どこかお二人とも似ていますよね」
と明鏡は妙に納得できた。
「麻宮武がシリウスに入った時に霧香さんは武が佳奈さんの弟って知ってた訳ですか?」
「だって私がシリウスに誘ったんだから」
と霧香は話した。
霧香は神楽に率直に問いかけた。
「あなたは、明鏡くんの彼女なの?」
「……どう……かしら」
と神楽は明鏡を見ながら切り返した。
「まぁ、霧香さんの想像にお任せします」
と明鏡も逃げ込んだ。
「まぁ許しましょうかね。そうだ明鏡くん。今度の金曜日は必ず続きをやりたいから、家に来てよ」
神楽は目を丸くして明鏡を見やった。
「ちょっと、やだな、誤解だよ、多分。将棋をしているんだ。霧香さん結構強いんだよ。……そうだ、神楽も将棋やってたよね?」
神楽は霧香の顔近くで誘いをかけた。
「将棋、やりませんか? 私強いですよ」
「神楽さんて、将棋できるの?」
「実はアマチュア二段なんです。小学校の時の話ですけども」
「ってことは、私は一級で明鏡くんが初段で神楽さんが二段ですわね。私は神楽さんに挑戦するわ。今度、お二人でいらしてくださいね」
霧香は態度をあからさまに変えた。
「神楽さん、私は明鏡くんの姉のつもりでいつも接してきていたの。可愛い弟なのよ。だから明鏡くんを大切にしてあげてね」
神楽は軽く頷いた。
「さぁ、仕切り直して、美味しいカクテルいただきましょう!」
と霧香は上機嫌になった。そして
「佳奈も付き合いなさいよ」
と朝宮に声をかけるも、
「私は仕事中よ」
と返事をはねた。
「仕事ねーっ。……そうだわ。仕事といえば思い出したんだけど、何でしたかしら、ご……ごらく、でしたかしら、あなたが調べていた会社だけどね、どこだったか、ああ……MEGAファンドが仕切ってるんだけど、ファンド商品の企業が連鎖倒産したことで、投資家からクレームと投資離れで大変になっている見たいだわよ。MEGAファンドの株価も下がっていて、R産業の買収は社運をかけているはずですわ。MEGAファンドの霧山代表は相当の知者で悪党よ。想定外の手を打ってくるわ。気をつけなさい!」
と霧香は明鏡のため注意を払った。
「霧香さんのいわれていること、理解できます。ご忠告ありがとうございます」
明鏡はM&A対策における相手側の思考を読めていた。
ホワイトナイトが秋山社外の兄の会社JETTYだとすれば、R産業には渡に船となり、安心が得られる。
そもそもJETTYが首謀者側であるならば、M&Aを成功させるため確率が高い手法を考えるだろう。
敵対的TOBだけでM&Aを成功させようというのは、計画性の上では些か確実性を欠くことになる。故にTOBをチラつかせてホワイトナイトで株を頂く方が成功率が上がるはず。
その戦略の結果は、JETTYにR産業の株式が流れ込むという結末でなければならない。
つまり株は勝手には転がり込まないから、転がり込むように仕向けることが必要になる。
転がるにはJETTYが望むのでなく、R産業が望まなければならない。
この場合にはR産業を救う立場がJETTYとなる必要があり、他社よりも優位性がなければならない。優位性の本質は総合的信頼に他ならない。
R産業内にJETTYが信頼できると主張できる者がいなくてはならない。
主張する者は、R産業内で意見できるポジションにいなければならない。
短期的計画であるため、R産業内でこの主張する者を、役員待遇で迎え入れることができる関係者がいなければ成り立たない。
このように相手側がスキームを立てた場合にすべての工程における人物や行動を、明鏡が調べた結果とマッチングさせて説明することができる。
明鏡は頭の中で整理した内容を次のように口にした。
「鷹山専務と秋山栄社外取締役とJETTY代表秋山繁は、R産業の買収を仕掛けるため、秋山社外取締役と繋がるMEGAファンド霧山雄山に話を持ちかけグループ企業の婿養子霧山開が代表を務めるごらく堂を使い、R産業に敵対的TOBを仕掛けた。仕掛けたタイミングは鷹山が週刊ズームへのリークで株価が落ちたところであり、鷹山専務と秋山社外取締役がTOB対策の撤廃を推進したのもR産業の買収をし易くするための布石であったのだろう。総司社長の退任に追い込みながら足下をぐらつかせ、TOB対策に都合の良い提案を秋山社外取締役が行った。これらは偶然結びついたものではなく、すべて必然的に用意されていた流れであったといわざるを得ないか」と。
霧香は明鏡にこう伝えた。
「これは買収側から詰将棋をされている状態よね。振り飛車のごらく堂がTOBでR産業に圧力をかけ、JETTYという歩はホワイトナイトのフリして近づき、成金してR産業に襲いかかろうとする。玉である社長は裏切り銀の鷹山専務に守られている訳だから見せかけ銀冠ってところかしら。R産業は、まさに万事休すね」
「なるほど。銀冠という表現は縦横斜めに上手く対応していて、玉である社長の近くでことが起きているところもリアルですね」
明鏡は現実を将棋に置き換えた霧香のユニークさに付き合い解説をした。
「霧香さんも明鏡くんも上手に例えますね。銀冠はプロ好みの囲いですからね。戦法としてはこちらも振り飛車ですね。明鏡くんが振り飛車ね」
と神楽も例えた。
明鏡は将棋の例え話で盛り上がる霧香と神楽を横目に、次の一手を捻り出さねばならないと、戦況を先読みしていた。
時間に余裕があればばMEGAファンドの買収による防衛策に「パックマンディフェンス」や無償新株予約権を株主に発行する「ポイズンピル」を検討することもできたが、戦況からして猶予はなかった。
一夜が明けた。
明日の臨時取締役会に向けた総司と明鏡の擦り合わせが、社長室で行われた。
鷹山専務は社外取締役秋山栄やJETTY代表秋山繁と同郷人であるだけでなく、竹馬の友的関係であるという事実と、R産業への敵対的TOBからJETTYのホワイトナイトまでのシナリオは、最初から仕組まれていた計画であることを明鏡は総司に説明した。
「そうなんだな。しかし朱鷺谷くんの見立ては理解できたが、ただ計画が存在しているという確証が何もない。すべてが推測の域を超えていないんじゃないか?」
「お見込みの通りです。ですが五日後の臨時株主総会までには、このシナリオが実在するという決定的証拠を掴んでみせます。ですから、明日の役員会の段階では、これまで進められてきたホワイトナイト策を詰めていくことにしましょう。鷹山専務らに、できる限りこちらの動きを読まれないようにすることが肝要と考えます」
と明鏡はいい切った。
こうはいったものの、実際にR産業乗っ取りを裏付ける決定的証拠を掴まなければ、すべてJETTYに奪われてしまうことも想定されるため、二人は気が気でなかった。
「只今より臨時取締役会を始めます」
と挨拶をした後、総司は前回の議題であったM&A防衛策について説明に入った。
「現在、ごらく堂により株式公開買付が行われておりますが、二日前時点で公開された応募率は株式全体の一七・二%であり、まだまだ期間があるため応募率は伸びてくると見込まれます。我が社の株価はストップ安から公開買付の影響により、僅かながら上昇傾向に転じています。
しかしながら、株式の売り傾向は続いているため、何らかのM&A防衛策を講じる必要性が求められます。第三者割当増資でホワイトナイトにJETTYを調整する案を頂いておりましたが、いよいよ事態も緊急を要してきました。他に適切な企業の提案もなかったことから、JETTYとの調整を進めたいと考えますが、これについて何かご意見のある方、挙手をお願いします」
すると取締役の一人が挙手をした。
総司は発言の機会を与えた。
「JETTYという会社について伺いたいのですが、ホワイトナイトになった後には恐らく大株主となるのでしょうが、友好的関係が構築できる相手として判断しても良い理由は、何か具体的にあるのでしょうか? 教えて頂きたい」
と総司に質問を投げかけた。
秋山社外取締役が発言許可を受け、この質問に対する答えを自らが行った。
「一之瀬社長に代わりてお答えします。まず、友好的関係になれるかどうかは、ビジネスパートナーとしてお互いに利用価値、ビジネスチャンスがあるか否かで決まります。我が社にとっては電話通信分野で業界第四位のJETTYはスマホブランド『FitZ』が知られていますが、国内スマホシェアは三十五%になります。つまりアプリを標準搭載することにより、我が社のアプリの普及率は飛躍的伸びると思われます。
一方、JETTY側では人気アプリを多数持っているR産業は、スマホシェアを伸ばすための切り札となるでしょう。JETTY代表は私の実兄であり、ホワイトナイトの件はシナジー効果が期待できるメリットの多い話と聞き受けています」
と答えた。
秋山社外は表向きのビジネストークでお互いの事業のメリットを語ったに過ぎず、ホワイトナイトが有効的であっても買収である以上、例えば経営陣を刷新するなどR産業にどのような条件を突きつけてくるか、JETTYがいわゆるクリーンな会社かなど、そういった「理由」に触れることなくその場の空気だけを支配した。
これに鷹山専務らの無言の圧力がかかり、ホワイトナイトは満場一致でJETTYに依頼することでまとまった。
総司は秋山社外に対し、臨時株主総会に向けた資料の作成を指示した。
臨時取締役会は終了し、鷹山専務らの不適な笑いに明鏡は怒りを感じた。
そして四日後の臨時株主総会で、すべての陰謀を紐解ける証拠を掴んでやる、という強い覚悟を持ち直した。
「こんにちは。一休みですか?」
「はい。監査部の仕事もなかなか力のいる仕事なんですよ。普段から情報収集や、経理簿の審査ばかりで肩も凝りますよ」
「監査部の仕事は、監査法人の仕事を私もやってましたから、何となく分かりますよ、その大変さは特に」
自動焙煎機前であった監査部の小林とコーヒー片手に立ち話をする中で、小林が明鏡に気になっていたことを語り出した。
「先日のマスコミへのリークがあった数日前に、私たちは経理部に監査入りしていたのですが、ちょうどその時に、鷹山専務から浪川経理部長に経理帳簿の閲覧の話があったらしいのです。
私が翌日たまたま羽島元取締室にあった備品を貰い受けに行った時、その部屋に監視モニターか何やらが置かれてあり、モニターを覗くと鷹山専務室を通路側から撮影しているようでした。
また、その部屋で聞こえていたのは鷹山専務の声でした。これはと思い、その部屋にスマホを置いて電池切れるまで撮影したのですが、後でスマホを見たら、そこには浪川経理部長が映っていました」
「それはどういうことなのですか?」
「多分……浪川経理部長が鷹山専務の行動を見張っていたということですよね」
小林の話を聞いて、明鏡の曇っていた視界に光が差した。
「小林さん。その時の動画頂けませんか?」
「えっ動画ですか? 構いませんが、何に使われるのですか?」
「勿論、R産業のピンチを救うためですよ」
「そうですよね。先生が進めていることは、僕らのためだってことくらい分かってますよ。他に協力できることはありませんか?」
明鏡は小林に「明鏡のミステリー会議」の第三会議室で、JETTY秋山社長、MEGAファンド霧山社長、ごらく堂霧山開社長及びR産業鷹山専務と秋山社外の関係を写真や音声を収集するよう指令を出してもらえないかと打診した。
「いいですね。面白い。やってみましょう。ただし、アンダーな調査は第三では無理だと思います」
「無理ってどういうことですか?」
「小説の謎解き的な話なら問題はないのですが、先生のためという大義で危ない橋を進んで渡ってくれるのは、第三ではなく、地下と呼ばれるん地下会議室になります。彼らは本格的な追求集団で、止水総帥の命ならば、どんなに困難でもやり遂げる、かなりヤバめな人の集まりなのです。地下会議室はまさに、秘密結社的存在でありますから、とことんやってくれるでしょう。
実は私は倶楽部の代表をしてますので、地下会議室を動かすことができます。私から総帥指令を発令しておきます」
と小林は明鏡からの依頼を地下会議室に発令すると約束した。
監査部小林の話を受け、明鏡は早速午後の内にと、浪川に探りの電話を入れた。
「浪川部長。監査法人室の朱鷺谷です。今から何ですが少しお時間頂けませんか? 今、最上階の談話エリアにいますので、ご足労かけますが宜しくお願いします」
と少し急かし気味に話をした。
「構いませんが、どんな話なんですか?」
「大切な話です。是非聞いてもらい、意見が頂きたいのですが?」
と強くプレッシャーをかけた。
「そうですか。分かりました。では向かいますので、十分程お待ち下さい」
と返答をした。
しばらくして浪川が現れた。
明鏡は、小さく頭を下げてこう口火を切る。
「このまま次回の臨時株主総会を迎えたら、通信会社JETTYがホワイトナイトとして新株を手に入れたら、その瞬間、R産業は乗っ取られてしまうでしょうね。あくまで推測ですがR産業はゲーム開発販売会社として規模を縮小し、経営代表には鷹山専務が就任するでしょう。
また、COCOECO事業を始めとする主軸事業は、JETTYに吸い上げられてしまうのではないかと懸念しています。R産業は従業員に対しコスト度外視で運営しているため、買収後は福利厚生費や雇用のトレードオフ制度など特殊な仕組みは淘汰されるでしょう。ここで働く方々は開発事業部を除きリストラされてしまうでしょうね。株主にとっても、R産業がJETTYの子会社になり主軸事業が別会社に移って終えば、事実上株価損失になるでしょう」
明鏡は窓際から眼下に広がる街並みを眺めながら続けて、
「これまでも浪川さんが持っている情報で助けられてきましたから、今回も何かあるのではと期待してしまいました。何かご存知ではないですか?」
と意味を含ませながら浪川に語りかけた。
「朱鷺谷さん……僕は何でも知っているわけではありませんよ……」
明鏡が話した言葉の文を絡ませた。
「聞かれたから答える訳ではないのですが、お役に立てそうな情報と根拠はありますよ。週刊ズーム唐津と鷹山専務は記事が掲載されたあの日の直前に、専務室で会っていました」
「ほぅ。なぜそのことを知っていたのですか?」
「いや、鷹山専務から依頼された経理帳簿を届けた日の翌日午後三時に引き取りにくるようにといわれた時間を十三時、つまり午後一時と勘違いして専務の部屋に向かったのです。するとちょうど唐津が専務室から出てきたので、慌てて写真をこっそり撮りました。これがその時の写真です」
その写真には遠目であるが、唐津本人が写っており、専務室の扉が閉まりかける状態で映り込んでいた。
浪川は明鏡に、一連の騒動が始まる前に鷹山の取った怪しいやり取りについて話し出した。鷹山が浪川に依頼した古い経理資料の閲覧が、週刊ズームにリークに繋がっているのだと。
しかし、明鏡が期待した鷹山と唐津の会話について、音声による内容証言は勿論、盗撮盗聴の訳について浪川からは一切語られることはなかった。
明鏡は、浪川の盗撮盗聴について追及せず、今後の動向を見守ることを決め、自身の持つ情報を敢えて明かさないように努めた。
明鏡はM&A首謀者が鷹山専務である確証を得るため、浪川経理部長に思うところがあり、経理簿の閲覧を依頼する。この騒動が鷹山専務の仕業とした場合、この現状のまま進めば、総司がホワイトナイトの選定にJETTYを指名することは間違いなく、危険極まりないことになる。
浪川は明鏡に対し、鷹山専務がJETTYの本社がある横浜市中区みなとみらいまでの旅費と交際費を、M&Aが始まるおよそ一年半前から定期的に請求していることを資料と共に開示した。
——なぜ、そこを調べているんですか、浪川さん、あなた一体何者ですか? おかしいでしょ? そんな所調べてるなんて——
通常は第三会議室で総帥の作品の隠された謎解きをしている「明鏡のミステリー会議」であるが、秘密指令にて活動する時には裏会議である「地下会議室」としてコアな人らが動き出す。
「明鏡のミステリー会議」とは秘密結社である。
今夜、総帥である止水明鏡から「ミステリー会議」で緊急指令が発令された。
そのテーマは「トロイの木馬」であり、指令内容は次のとおりである。
その壱
木馬には五人のスパルタ人として、JETTY秋山社長、MEGAファンド霧山雄山社長、ごらく堂霧山開社長及びR産業鷹山専務と秋山社外取締役が乗り込んでいる。秘密裡に木馬の内部を調査せよ。
また、木馬とR産業浪川経理部長の繋がりを掴め。
その弐
トロイは何なのかを、四日後の地下会議室で報告せよ。
その参
活動目的や内容は、地下会議室以外では口外してはならない。
翌日、明鏡は始業と共に監査部に顔を出した。
「おはようございます。朱鷺谷です」
「おはようございます。朝早くからご苦労さま。ささっ、中に入って」
と明智監査役の案内で応接室に入り「地下会議室指令」について確認した。
「小林くんから聞きましたよ。『地下会議室』に指令が出されてましたね。昨晩ホームページ内で総帥代理として小林が、『地下会議室』からの問い合わせに一晩中対応していた様子でしたね」
自動焙煎機の紙コップを持って小林が応接室に入って来た。
「おはようございます。朱鷺谷さんの指示どおり指令出しておきました。株主総会の五時間前には調査結果が出揃っている想定になります」
「とにかく昨日から本日深夜にかけて、本当にお世話になりました」
「総帥の名の下にあたりまえの役割を果たしまでですから、ご心配なさらずに!」
と小林は切り返し、
「いつものコーヒーですが……どうぞ」
と振舞った。
「今朝まで大変だったのに気を遣わせてすみません」
「何の何のです。先生にそういってもらえるなんて光栄です」
「とんでもない。いや、しかし、『地下会議室』のことなんですが、どの程度の調査をされるのかが気になって?」
「私も見たことはないのですが、仲間内では所謂スパイ活動といっています」
と明智が口を開き、続けて、
「我々活動員は皆共通して小さな銀を平く研磨したネックレスを見えるようにかけています。明鏡総帥の「鏡」を偶像したネックレスをかけることで使命を完うする誓いを立てているのです。だから、見てください。私も持ってはいます。そして彼らはもう恐らく会社の内部にも潜入しているでしょう。
目印はネックレスです。もちろん我々がR産業にいることを彼らは知りません。ですから知らぬ振りをしていましょう」
と説明をした。
「『地下会議室』の活動員は一流なので、次回報告会に期待しましょう」
と小林は明鏡が成果を気にしていることを察し、言葉を加えた。
明智も小林の配慮に答えるかのように「明鏡のミステリー会議」という秘密結社の前身について語った。
「今では明鏡先生のファンで作品をこよなく愛し、作品に秘められた裏暗号を見つけ出し謎解きをしている会議体ですが、前身は政治家を始め著名人のスキャンダルを調査する組織でした。
所謂、週刊誌を水面下で支える諜報組織だったのですが、どうやら諜報活動が国家機密にまで及び公安に取り締まられ、組織の活動に制限かけられたらしく、その後は現実社会から離れて二次元の世界、つまり、小説の中の隠された謎解きをする作品を多く作られる止水明鏡を指令者、総帥と崇めるように組織が進化したらしいのです。
『地下会議室』とは、小説の謎解きをする第三会議室とは違い、アンダーグランドでかつてのような諜報活動を欲する者たちが覗く会議室になっています。私は地下の現状はよく知らないのですが、小林は倶楽部の代表として地下に出入りをしているため、その部屋の活動員らには馴染みがあるようです。
そんな訳ですから、今回の総帥指令は小林くんだからできたことなのでしょう」
小林がこの話を受けて解説した。
「私も地下会議室の活動実態は詳しく知りませんが、止水総帥を崇めている方々の集まりになっていることは間違いなく、昨晩も総帥指令を出しましたが、その指令書を開封した数は午前七時で十九名であり、添付した指示内容を読み受諾した者は十二名でした。つまり十二名が諜報活動を開始しているはずです」
——なんかスパイ小説でも書けそうだな——
「彼らは普段から金に困った人たちではなく、興味本位で他人の人生を覗き見したい人たちでもなく、ただ指令に従い目的を遂行し、この行為こそが社会を正す手段であると信じている集団であり、それが秘密結社なのです。地下会議室の活動員は、元々、作家の上沼右京先生に忠誠を尽くしていたのですが、一昨年死去されてからは明鏡のミステリー会議に登録し、地下会議室という居場所を勝手に作ったようです。僕の知る限り、止水先生は右京先生の生き写しと、彼らは評価しているようですから」
——それは喜べない話だな、まったく——
「私をどんな基準で評価したのかは気になるところですが、大丈夫のかな? 指令で社会的トラブルを起こしたらヤバくないですか? その辺りどうなのかな?」
「彼らは彼ら自身の社会的ステイタスを保持するため、絶対的安全を確保しながらも、手堅くターゲットに近寄り活動を全うします。かつて公安に取り締まりを受けた時にも右京先生には何もお咎めはなかったと聞いています。それは、活動員は取り調べを受けても、何一つ口を割らなかったからです。その一件以降、活動目的や組織について、更なる秘密主義が徹底されたと聞いています。彼らも表の世界では社会的地位を持つ者ばかりのため、秘密の活動が知られないように注意を払っているはずです。どんなことがあっても総帥も自分自身も守り抜く、という感じですね」
「それで私に心配はいらないといわれるのですね。恐るべき地下会議室ですね。まあ、かなり危ない感じの信者だと思いますが……」
小林が明鏡に伝えた。
「恐らく臨時株主総会のある前日深夜に報告内容が出揃います。会議が終わり次第、ゼットリンクですべて報告いたします」と。