第1章 ノイマンブレインズ 前編
この作品は、朱鷺谷明鏡が直面する謎を紐解いて行く、推理小説であります。
このR産業を舞台とする作品「朱鷺谷明鏡」は、このシリーズ本編である殺人事件を取り上げた作品「標的」につながる前置き的な位置付けになっています。
また、この作品は次の4章構成になっております。
読者の皆様の評価や感想がありますと、大変励みとなりますので、よろしくお願いします。
止水明鏡 より
「本日はお忙しい中、臨時株主総会にご参集賜りまして誠にありがとうございます。司会進行を務めさせていただきます、総務課長の富山と申します。よろしくお願い申し上げます。それでは開催に先立ちましてR産業株式会社代表取締役、一之瀬総司よりご挨拶申し上げます」
「ええ、代表取締役の一之瀬と申します。株主の皆様方におかれましては大変お忙しい中、この臨時株主総会にお集まりいただき、誠にありがとうございましす。
さて、皆様方におかれましてもご承知の事態と存じますが、ごらく堂という得体の知れぬ会社が、我が社に対し、敵対的TOBを開始しております。我々経営陣にとりましては、我々の血肉とも言える事業を、この企業に奪われる訳には参りません。よって、本日の議題にM&A防衛策の承認、並びに株価下落の責任を、代表取締役の解任及び選任という形でご審議承りたいと存じます」
この業界では、知らない人は非国民といって憚らない知名度を誇るゲーム業界の最大手『R産業』は、近年ゲームプログラムで培ったノウハウを生かし『新たなる社会の仕組み創り』をテーマに、スマホアプリの開発に力を注いでいた。
今や、スマートフォンやタブレットにおける革新的な通信システムである『ZETLINK』や、家計に優しいと評判の購入情報提供システム『COCOECO』は、我が社の代名詞と呼べるアプリであり、これらが社会の定番となるに連れ、R産業は、名実共に社会貢献度の高いIT企業として、世に知られるところとなっていた。
一方、スマホを媒体とした新たな社会構造変革を見越し、政府は「自動車運転免許取得等第一次スマホ利用計画」なる国家計画を発表した。
それは、これまで運転免許試験場で実施されてきた、自動車免許取得のための学科試験や免許更新時の安全講習から免許交付までを、スマホで手軽に行えるようにするための計画であった。
また、この計画には、マイナンバーを利用するマイナ免許証の普及促進を図る狙いも、副題として掲げられていた。
そして、計画に示された技術水準を唯一クリアできたAIシステムを保有するR産業が、「免許システム(仮)」の担い手として、システム開発を一手に請け負うところとなった。
本日、東京都港区に本社ビルを構えるR産業株式会社に一人の若者が赴任した。
彼の名は朱鷺谷明鏡、ミンタカ監査法人に所属する公認会計士で、契約により派遣された企業経営アドバイザーであった。
日差しを遮る指の隙間から覗く高層ビルを見上げながら、
「ここがR産業か……」
地下鉄五番出口から地上に上がると、真っ先に目に飛び込んできたのは、高級ホテルのようにゆったりとした正面玄関ロータリーを構えたR産業本社ビルと、緑豊かな景観であった。
緑に溢れたその景観は「タワー西オアシス」とスマホマップで表示される芝生公園のことであった。
明鏡にとっては初めて見る朝の光景ではあったが、この時間帯は子犬を散歩する人、ランニングやストレッチをする人たちの憩いの空間として街に潤いを与え、終日、このビル街に、緑の癒しを溢れさせるオアシスであることも、一目見て想像に至るものであった。
このゆったりと感じる空間は、新しい職場に向かうに連れ、高まる緊張にも似た鼓動を、次第に心地良い響きへと変化させながら、いつしか足取りは、弾むように軽やかにその歩みを進めていた。
気がつけば、明鏡はいつしかオアシスを潜り抜け、本社ビルへと辿り着いていた。
本社ビルの玄関ホールに立ち、周りを見渡すと、コンビニ、銀行ATM、少し離れてたところにオープンカフェスタイルのレストランが並んでいた。
「ん、あれはなんだろう? ゲームソフトの……販売カウンターなのかな? なるほど、ゲームブランドとして知られた、老舗らしきところかな」
少し視線を上に向けると吹き抜けニ階があり、そこが、R産業の受付窓口とラウンジであると案内看板が出ていた。そこへは、一階ホール中央部から延びるオープン階段と、これに併設されたエスカレーターで繋がっていた。
そこから少し壁側に目を向けると、三機のエレベーターがあり、上層階へのアクセスはこれを利用するようだ。
「おはようございます。ようこそR産業へ」
「おはようございます。今日からこちらにお世話になります朱鷺谷と申しますが、一之瀬代表にお取り次ぎ願えますか?」
受付窓口の女性はアポがあることを聞き受けるなり、手元にあった予約リストをチラリと見やった。
「……朱鷺谷さまでいらっしゃいますね。ありました。お待ちいたしておりました。しばらくお待ち下さい」
受付係が内線で連絡を取り、
「到着をお伝えいたしましたので、今しばらく、あちらのラウンジでお待ちいただけますか?」と案内をした。
明鏡はラウンジから受付周りが一望できるソファーに腰かけ「ふぅー」と一息ついた。
しばらくして、受付係が近づいてきたため、明鏡は「スクっ」と立ちあがった。
「朱鷺谷さま、お待たせしております。一之瀬から只今、緊急案件の対応中につき、もう暫くお待ちいただくよう連絡がありました」
「あぁ、そうですか。分かりました。それではこのまま待たせてもらいます」
再びソファーに腰かけ、手荷物を足元に置きながらチラリと腕時計を見やると、時計の針がちょうど十時をさしていた。
——今がちょうど約束の時間か……早め早めと思ううちに、社長を急かす結果となってしまったな。申し訳ないことをしてしまった——
「ねぇ……あの朱鷺谷さんてどういう人なのかしら」
「どういう人って?」
「だって社長が直々に出迎えるなんて、VIPな待遇じゃないの。それにルックスだって超いけてるじゃないの。私好みのタイプよ」
「こころ先輩! あの朱鷺谷さんのこと……私知ってます」
「え? はるなちゃん、彼を知ってるの? ちょっと、教えなさいよ」
「実はですね、数日前に人事にいる同期の子と女子会した時に、こっそり教えてもらったんです。確か名前は朱鷺谷明鏡、大企業相手に隠蔽された粉飾を次々と見破り、周りから一目置かれる公認会計士らしいんですよ」
「それでそれで」
「毎年うちの会社にも業務監査に来ている『シリウス監査法人』に所属していた経歴があり、凄い有名人らしいのです。それも独身だそうです」
「ちょっと待って! ねぇ……それって、前にテレビでやってた『情熱烈風』で紹介された……あの『鬼の明鏡』じゃないの?」
「先輩凄い! そうらしいんです。でも今は、その法定監査での徹底した粉飾暴きが仇となり、クライアントから敬遠され、監査法人上層部からも圧力がかかり、監査業務の最前線から退いているみたいなんですって」
「なるほど……監査法人とて客商売ってのは変わらないわけね。じゃあ、彼がこのR産業で『お世話になります』といったのは、どういうことかしら?」
「うちの監査部門に転職?」
「ん? よくわかんないけれど、ひょっとしたらこの会社……何かとんでもないことが起こってるのかも知れないわ!」
「そんなー、入社してまだ半年も経ってませんけど……」
「だからねぇ、はるなちゃん、今後も同期ちゃんと仲良くしときなさいよ! 世は情報がすべてなのよ。でも、なんだか面白くなりそうよ」
「分かりました。あっ先輩、社長が見えました」
受付係のこころは、一之瀬社長をラウンジで待つ朱鷺谷のところへ案内した。
社長は明鏡に手を差し出し、二人は堅い握手を交わした。
「君が朱鷺谷くんだね。初めまして。私が代表の一之瀬総司だ。R産業へようこそ。緊急対応の折りお待たせすることになり、すまなかったね」
「とんでもないです。お初にお目にかかります。ミンタカ監査法人の朱鷺谷明鏡と申します。この度は先代社長の一之瀬富士男さまからのご依頼により、こちらの企業経営アドバイザーをお引き受け致しました。よろしくお願いいたします」
「そうだったね。名ばかりの会長職に退かれてはいますが、依然、当社の筆頭株主でもある私の父の提案は、経営陣にとって、無視することなどできませんからね」
まるで明鏡を牽制するかの如く、総司はそう呟いた。
代表自ら出迎えに見えたとはいえ、「父の提案は無視することなどできませんからね」とあからさまな言葉の深層に「企業アドバイザーは仕方なしに受け入れたのだ」との思いが、にじみ出ていて、この軽率な発言に対し、正直「イラっ」とした明鏡であった。
その直後、着信に気付いた総司は、明鏡に断り、スマホを取り出し電話に受け応えた。
電話のやり取りで伺える礼節のある言葉遣いや表情から、なんとなく「イラっ」とした感情を抱いた自身の了見の狭さに、少しだけ自戒の念を持つ明鏡であった。
「失礼したね。朱鷺谷くんには早速仕事をお願いしたい。ここでは落ち着いて話ができないから、社長室まで来てもらいたい」
そう声をかけられ、二人はエレベーターに乗り込んだ。
本社十五階は取締役室が並ぶ役員フロアであり、エレベーターを降りるとまず正面に、役員室への出入りを管理する秘書室があり、ここで役員や来訪者の入退室を管理していると総司から説明がなされた。
「皆んな、ちょっといいかな。彼が今日から私の経営アドバイザーになった朱鷺谷くんだ。これから世話になる方だから、しっかり覚えといてね」
総司は秘書室職員にそう話した後、その中の一人の女性を手招きして、私に紹介をされた。
「彼女が秘書の桜田くんだ」
——うわっ、凄い美人だな……顔立ちやスタイルからして西洋人との日系ハーフなのか……吸い込まれそうだ——
「初めまして。社長秘書をしています桜田薫と申します。朱鷺谷さんについては、とても優秀な方でいてはると社長からお聞きしております。よろしくお願い致します」
「初めまして。ミンタカ監査法人から来ました朱鷺谷明鏡と申します。こちらこそよろしくお願いします。……ところで、桜田さんは関西出身の方ですか?」
「はい、分かりますか? 以前は京都に住んでいました。父が大阪出身の日本人で、母がアメリカ人ですから……私はハーフですね」
「それで京都弁ですか。響きがとても心地良いですね」
「ありがとうございます」
「いろいろお世話になります」
そう話し、明鏡は総司と社長室に入った。
社長室内は、まるで「作業場」のようであった。
会社のトップがドンと構えているそれとは、まったく異質で別世界だ。
壁一面に書棚が造作され、その中央には年代物のジュークボックス、その脇には大きな無垢天板のテーブルがあり、パソコン、書類や筆記用具が無造作に置かれていた。
総司はそんな作業場に似つかわしくない西海岸テイストの応接用ソファーに腰掛けるなり、大きく息を吸い、そして、ゆっくりと吐いた。
「まあ、かけてくれたまえ」
「はい」
総司はムクっと立ち上がり、入り口からは見えないデスクの影に忍ばせた冷蔵庫の扉を開けざまに、
「ブラックか微糖、どっち?」
「じゃあ、ブラックで」
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。あれっ、このキャラ、なんか見覚えが……」
「マグマン、ゲームキャラだよ」
「あっ、それでした。でもなぜ?」
「来年さ、R産業は創立四十周年を迎えるんだが、まぁこれを記念して飲料メーカーとコラボした、その試作品さ」
「どおりで、見たことない訳ですね」
二人は缶を開け、二口三口飲んだ後、総司から、
「……そうだな、朱鷺谷くん。着任早々あれなんだけれど、君にはこの会社、どう映ってる? 外から見た感じが、どんなものか興味があってね。ちょっと言ってみてよ?」
——またまた……唐突に振ってきますね、こちらの社長さん——
「そうですね……率直なところ、R産業といえば……」
「いえば……何よ?」
——むっ、その言い方、やっぱ引っかかる。この人ヤバっ、面倒い!——
総司は天井を見上げるようにソファーにもたれかかり、視線だけ朱鷺谷に向けながら、こう口にした。
「あーだめだな。猫っかぶりやめるわ」
「ええ?」
「あのさ。俺ね、人の顔色見たり、協調したりってあんま得意じゃないんだわ! 他に誰も聞いねーから、正直いっちゃってよ!」
「はっ、はい」
明鏡はハッとして、思いつくままを口にした。
「ウルブルナイツ、でしたか……タイトルがあやふやですが、確かこちらの代表作の。大学生の頃にハマっていました。ゲーム機持ってなかったから、友人宅に泊まり込んで徹夜でやり込んでいたなぁ……」
「まあ、ありぁ間違いなく誰もがハマりまくった、うちのヒット作だからな。しかも、爆発的に売れたからなぁ。ウルブルの大ヒットでうちの今があるって言っても過言じゃないしな」
——なんか社長に乗せられた気分ですな——
明鏡は咳払いを二度、深呼吸一回、我を取り戻し、経営アドバイザーとしての見解を語り始めた。
——ふふっ、やっと顔付き変わったな——
「R産業の躍進はいうなれば、新しい社会の仕組み創りに大きく貢献するツールを次々と生み出してきたところにあります。
ZETLINKは電波通信によるコミュニケーションツールとしての活用以外に、災害時にも力を発揮するZETAI(絶対)というサブ機能があります。これは、災害の発生した地域にあるアプリユーザーのスマホから、災害発生と同時にその位置情報が、各自治体災害対策本部に自動発砲されるのでしたね。確か電源が落ちる瞬間においても時刻表示を付帯した位置情報が自動発砲されることも、特徴の一つでしたね。そして自治体に設置義務化された被災状況確認用AIドローンがZETLINKとの自動連動により、自動発砲された位置まで自動飛行し、現場映像や音声を災害救助班に伝え、迅速で的確な被災者救助に活用されています」
「朱鷺谷くん。君はうちのアプリが伊達じゃないこと、よーく分かってるじゃないの」
——いちいち物いいが派手な人だ——
「因みに、ZETLINKの意味合いは、ZETはNETの頭文字の「N」が倒れ「Z」、つまり被災し人が倒れ、通信手段が途絶えた時にも誰かと繋がっている、でしたね」
「よく調べたもんだな。流石アドバイザー」
——本気でそう思ってくれてますか? 社長さん!——
「次に開発されたCOCOECOも社会の売買取引構造を変えたアプリで、物品購入の最適化を実現した、今や買い物には欠かせない情報提供が得られるようになりましたね。コンビニ、スーパー、デパートや専門店が続々と加盟し、巨大マーケットを新たに構築しましたね。私も利用したことがありますが、確か活用はこんな感じだったと思います。購入したい物品を選び、表示される価格と店舗に現在地からの距離と時間をかけ合わせて、最適な購入プランを提供してくれる優れものでしたね。電子広告もマップ上の店舗フラグと連動し、更に表示項目が標準化されているため、とても見やすいですね。
極最近では、配送業者と事業提携して、需要が増えつつある個別配達にも対応できるようになりましたよね。各ネットサイトが取り扱う商品を購入する時代から、日替わりの価格競争が行われる市場から最適な購入提案がなされる時代に変わりましたね。個別配送を取り入れたことで、単身高齢者の需要まで拾いあげることができることが、付加価値の高い社会貢献に繋がっていますね」
そして、実施が二年後に迫った自動車運転免許取得及び更新システムのDライセンス(仮)のシステム開発選任事業者にも決まっていますし……R産業はゲーム開発から新たなビジネスモデルを提供した革命的IT企業といえるのではないでしょうか」
少々気の抜けた拍手をしながら、明鏡にこう話した。
「君、本当お見事だよ。一流の仕事人って訳だ。まぁ、これからもアドバイザーとしてしっかり働いてくれたまえ」
——これは褒め言葉なのか? 本当に気分悪い!——
「ところで朱鷺谷くん」
——ん? なんか顔付き変わった——
「はい、何でしょうか?」
「我が社は今、事業拡大に伴う経営効率化を図るため、好調事業であるCOCOECOアプリ事業及びZETLINK通信事業を二つの新設子会社に振り分けたいと思っている。それに、時代の潮流に合わせ、事業転換をすべきアミューズメント施設事業を、子会社のEスポに事業譲渡し、Eスポーツ普及拠点として活用したいと考えている。
更には、R産業の経営を支えて来た家庭用ゲームソフト開発事業を、新たなオンライン系ゲーム機器に特化した『リアライン』事業と専用データソフト開発事業に転換するつもりだ。
また、ゲームアプリ開発事業を、リアライン事業から完全に独立化させ、スマホに特化したニーズに応えられる開発体制を確立し、拡大してきたシェアを維持し、R産業が老舗のゲームメーカーとして、今も健在であることを世に知らしめたいと考えている。前身はゲームメーカーだからね」
——これがこの人のガチなところ……か。なるほど——
明鏡は頷くように聞いていたかと思うと、いきなり合点がいったかのようなヤル気の表情に変わった。
「つまり、ホールディングス化ですね。私もこちらにお邪魔する前に財務諸表に目を通し、R産業に於ける経営の改善点を見つけていました。その一つがホールディングス化に着手することです」
——ほぅ。分かってるじゃない——
「節税効果がある他、決定の迅速化からの競争力向上は、企業の成長を促し、会社規模が小さくなる子会社化は、融資を受け易くします」
明鏡は、明確に明瞭なメリットを言い切った。
総司は少し間を空けた後、明鏡の気合いが入った顔付きに対し斜に構えながら話をした。
「これまで、我が社の業績が伸び続け、すべてが順調なのは、ヒット作に恵まれているとか、経営手腕や経営戦略が頭抜けている訳でもない。遇機を拾い続けているからだ。これができれば、真の経営者になれるって訳だ」
——遇機? 分かりにくい話だな——
「宜しければ、今話された『遇機を拾う』とは、どういうことなのか、お聞かせ願えませんか?」
「…… 聞きたいか? じゃあ教えてやるよ、遇機はだな……」
「遇機とは?」
「誰も予想できない領域に起こる、想定外の事態のことだ」
「想定外の事態?」
「ああ。更に、それが起こった瞬間、もう、どうにもならない、ただ、その場に立ち尽くすだけの絶望的状態とでも言おうか」
「その絶望的状態が遇機?」
「その通りだ。この状態をただ悲観するのではなく、むしろ千載一遇の好機と捉え直すことで、その想定外の事態が遇機に変わるのさ」
「なるほど」
「事業の損失回避が不能となった八方塞がりの場合なんかに、一般的にはセオリーに従って損失を最小限に食い止めるためのリスクマネジメントを行うだろ?」
「ええ、まあ」
「そのリスクマネジメントを敢えて回避するんだ」
「……それは経営者としてあり得ない判断になるのでは?」
「いや、そうではない」
「どういう事ですか?」
「俺の話すこの遇機を拾うとはな、言うなれば事業損失を出した原因を探り当て、次に、その原因が、利益を生み出せるように、社会の仕組みを再構築する、てな訳だ」
——そんな無茶苦茶な——
「やれるんですか?」
総司は一つ咳払いをして、
「ああ、やれるのさ」と。
「損失の正確な原因分析とニーズの再補正ができれば、後は損失を出した事業が社会で受け入れられる環境を作り上げればいい」
「その環境を作り上げることが、難しいと」
「そうでもないさ。例えば、新しい社会構造を作るために莫大な資金を投じて開発したシステムがあるとしよう。このシステム機器の導入費や維持費が高額であるため購入企業が増えず、損失回避が不能な状態になったら、どうする?」
「値下げして顧客を獲得するとか、でも、正規価格で購入された会社とのこともあるか」
「問題の本質が価格にあると考えて商売しているうちは、何の解決にもならんよ」
「……なるほど、まずは販売側が導入費を負担して……しかも、無料期間も含めたリース販売ですか?」
「おっ、いい感覚してるな。そう、システムの良さを実感して貰えば、その価値も理解されるのさ。後はリース購入費と一括買取購入費の価格調整を行い、ユーザー企業側に選択肢を提示することで、購入検討における自主性を損わせないようにすることができるのさ」
「なるほど」
「そして、このシステムの活用が企業のスタンダードになれば、損失どころか利益を生み出すドル箱にだってなるかも知れんからな」
「確かに」
「大きな金が動くから、誰もがリスクを少しでも減らそうとビクついた気持ちなりがちだが、所詮は会社の金だ。気にすることはない。会社ってのは、元々、損から学びて益を得て、益にまみれて損を出すもの。そう言った損得を超えたところに、究極の経営はあるんじゃないか?」
——大胆かつ巧妙な切り口、それ故に脱帽してしまう——
「ごもっともです」
「もちろん、この例えは分かりやすいものだが、実際に起こる遇機は、こんな単純なものではないのだよ」
——どんなだよ!——
「そうなんですね」
「故に、遇機こそ空前のチャンスに繋がる鍵なんだ。遇機を何度も拾っている経営者を超一流と呼ぶのさ」
総司は冷蔵庫からブラックコーヒー缶を二本取り出し、その内一本を明鏡に手渡した。そして立ち飲みをしながら話を続けた。
「伏せられたトランプ五十三枚の中からダイヤAを一度で引き当てる確率は二%以下であり、これを引くことがビジネスにおける大チャンスを掴むということになる。これは簡単に叶う確率ではないが、チャンスを引くということなら種類でダイヤ一三枚のいずれかを引く確率、つまりおよそ二五%……これは現実的に引き当てられそうなそこそこの確率になるんだが、ダイヤカードを続けて三回、つまりチャンスも三回続けて引けるようであれば、それは正に大チャンスに匹敵する確率である二%以下を引き当てたことになるのさ」
——ビジネスを確率で? ……無茶苦茶に聞こえるが、成功者の話には何故か頷いてしまう。まさに鬼才の域だ——
「逆に安定した売上で屋台骨となっている事業に内在し、足を掬われるかもしれないリスクの割合は、トランプでいうならダイヤカード以外の割合であるおよそ七五%であり、この七五%の中に常に注意を払うことが肝要になる。良く似た割合で言うと、人が一日の中で活動する時間割合も七五%で、その時間には大きく影が生まれる。影はリスクだ。そしてビジネスでは影は損失の兆しであり、ビジネスにおいて先の見通しが明るければ明るいほど、足下に色濃く影が現れる。
つまり、ビジネスを成り立たせる七五%部分には常に何らかのリスクが見え隠れするが、残る二五%にはそれが見当たらない。そんなマネジメントしきれない事態に際して、不測の事態を遇機と捉え、その遇機を拾い上げられるか否かが、ビジネスの勝敗を分けるんだ」
——まあ、イメージの世界観であろう。何の言葉遊びか、はたまた確率の話か、なんだかめためたな理屈にも聞こえる話だが、まぁ、サラッと流しておこう——
明鏡は逸れた話を強引に引き戻すように切り出した。
「成功も基盤があって初めてなし得るものであります。成功により社会からの注目度が上がり、事業が膨れ上がると、次には内部統制やM&A対策、更に知的財産の管理の見直しなどが急務になりますね。ホールディングスへの企業体移行と合わせたスキーム立案に、まず取り掛かるとしましょう」
明鏡は、総司の意図を汲み取ったかのようにビジョンを示した。
「流石は『鬼の明鏡』と呼ばれるだけはある。まぁ、よろしく頼むよ」
総司は明鏡の肩を叩いた後、明鏡と握手を交わした。
——掴みにくいが、まぁ熱意は伝わる——
そして総司は明鏡にこう話した。
「私の弟の一人で、今月からアメリカで開かれている学会に出席している副社長の一之瀬慶次、先代社長で現在は会長職にある筆頭株主の父一之瀬富士男と、創業時からゲーム開発で会社に貢献してきた現在専務の鷹山幸造、そして、私を含めたR産業の経営を左右し得る者たちの関係が悪化していてね……朱鷺谷くんにも何かと風当たりが強くなるから、心得といて下さい」
と総司は明鏡に軽く宣告をした。
——またまた意味深な発言だ——
「そうそう、君の案内を秘書室に手配しておいたから、執務室の確認と社内についてよく見ておいてくれ。案内担当は、ちょっとかわっているが、生き字引みたいによく知ってる人だから」
漸く一息吐きながら室内を見渡す余裕がでてきた。
「社長室にパソコンが三台、あれは何に使われているのですか?」
「そうか、気になるかね?」
「えぇまあ」
「左から株価用PC、財務会計システムPC、開発業務システムPC。経営を左右する情報は、人任せにできないからな」
——この人は、マジやり手だ!——
明鏡は社長室を退室し、秘書室カウンターで、
「案内役の方はお見えになりますか?」
受付職員に声をかけるや否や背後から
「私を……お呼びですか……」
年配の男性社員が現れた。明鏡は「うわぁ」とよろめき半歩身を引いた。
首からかけられた名札を見るなり明鏡はこういい放った。
「びっくりさせないで下さい! 金田一さん!」
「……えぇっとですが朱鷺谷さん、わたくし、金田一と申します。金田一と書かれた名札は、陰謀なんですよ。氏と名の間にスペースをわざと入れないんですから」
何やら訳ありそうな話しぶりに、
「まあ、名探偵の名にかけて、こうお呼びしましょう。金田一さんと」
金田は照れる素振りなくこういった。
「まぁいいことにしましょうか。名札もそう書いてありますし」
——思いの外、名前にこだわりないんだ。でも、柔和な人に見えて、眼光が鋭く、思慮深そうな印象だ——
「社長から金田一さんは会社の生き字引と聞いています。案内よろしくお願いしますね」
と明鏡は念を押すように伝えた。
金田一は頭を掻きながら案内を……
「では……」
「では朱鷺谷さんの執務室があります九階に参りましょう」
エレベーターを降りると正面に監査部があり、左の通路を進むと右手に監査法人室と印字された表札が見えてきた。
「こちらです」
金田一のいわれるまま部屋に入ると、明鏡は立派な執務室であることに驚いた。
「ここが私の執務室……ですか?」
と声を漏らしながら、室内を見渡した。
「役員待遇ですか。これって」
金田一に問いかけるように呟いた。
「朱鷺谷さんが、今回のアドバイザー契約をどのように捉えて見えるかは分かりませんが、少なくとも、私共の期待がこの執務室の広さとお考え頂ければ幸いです」
——あなたは言い方一つお上手だこと。何処かの社長とは大違いだね。まったく——
明鏡はこう答えた。
「……では感謝しつつ、会社のため、全身全霊取り組まねばならぬようですね」
——最初からそのつもりですがね——
明鏡は決意表明のように力強く答えた。
「そうそう、これが職員証です。秘書の桜田さんからお願いされていました」
金田一は明鏡に、紐の付いたケースに入った職員証を手渡した。
「因みに、この部屋は施錠ができます。職員証がキーになりますので、必要に応じて利用ください」
金田一からそんな説明がなされた。
明鏡は部屋のことはザックリと分かったとして、開発事業部に案内してもらうよう金田一に話しかけた。
「わかりました」
金田一は頷きながらこう話した。
「開発事業部は下階になりますので、エレベーター隣の階段を降りましょう」
そういって、二人は八階に下りて行った。
「おおー」
明鏡の口から思わず声が溢れた。目に飛び込んできたのは、開発事業部のフロアの広さと、スタッフの数の多さであり、想像を超えた規模の開発の舞台裏を目の当たりにしての驚きであった。
「ここがR産業の心臓部という訳ですね。頷けます!」
明鏡は金田一にそう語りかけた。
明鏡らの姿に気付いた若手の職員が近寄って来た。
「こんにちは。どちらにご用ですか? 朱鷺谷さん」
名札を見ながらそう声をかけられて、明鏡はこう切り返した。
「次々と生み出されるR産業の技術が、ここで生まれているんですね」
気がつくと、金田一が開発事業部の責任者の多々良課長を連れてきていた。
——うわっ、まさに神出鬼没、金田一——
「わたくし、今日からアドバイザーとして皆さんと一緒に働くことになりました、朱鷺谷明鏡と申します。不躾にすみませんが、多々良課長、アプリの開発から経営に至るまでの流れを教えて頂きたいのですが、お時間を少々頂けないでしょうか?」
明鏡は多々良にそうお願いをした。
これは、明鏡が総司から課せられた「内部統制やM&A対策、更に知的財産の管理の見直しなどを、ホールディングス化への企業体移行時に合わせて実施するためのスキーム立案」のためであった。
「分かりました。問題ありません。資料はありますので、さぁ奥へどうぞ」
多々良は明鏡と金田一をミーティングルームに招いた。そこで、明鏡は多々良から一枚の用紙を渡された。誓約書であった。
多々良はそれをこう説明した。
「我々が取り扱っている開発情報は、いうなれば会社に通う血液であります。その血液が三分の一でも盗まれようものであれば、会社は瀕死状態に陥り、それ以上の流出ともなれば絶命を迎えてしまいます。ですから内部の扱いであっても慎重に対応しているのです」
——凄い徹底ぶりだ——
R産業の命ともいえる情報の管理が、ここまで徹底されているこの現場に、明鏡は感心せずにはいられなかった。
更に多々良は、開発事業部を知る上で必要な技術者採用の根幹である「トレードオフ制度」について、一通り説明を行った。
明鏡は多々良の説明を聞き終えた後、確認するようにトレードオフについて語り始めた。
「技術者採用試験は年に三回あり、試験会場であるホテルでの三日間泊まり込みにより、試験課題のテーマに沿ったプログラミングと既存プログラムのカスタマイズを行わせる。結果、採用された者は、原則、アプリ開発から事業化までを個人又は数名で行う。作成したアプリが自社事業採用となれば、エンジニア責任者としての役職と歩合手当が保証される。また、アプリを譲渡することによる他社採用となれば、開発者は主任エンジニアとして譲渡先に一定期間出向し、譲渡額の〇・〇五%を報酬として得られる仕組みである。通常は半年、大掛かりなものなら一年間でアプリを事業化できなければ、身分は自由契約社員となり、多くは会社を去って行く。これが我が社のトレードオフなんですよね。こういった環境であるが故に、開発事業部の情報が外部に流れないよう平生から厳格な管理をして見えるのですね」と。
「その通りです」
多々良はそう頷いた。
明鏡は、もう一つ話を付け加えた。
「事業化に漕ぎ着けるためには、エンジニアは事業プランナーと共にスキームを作り、毎月実施される事業提案会で高評価を得なければなりません。その評価に於いて当社事業採用枠に推薦されれば、知的財産権の登録手続きや、事業実施に必要となるチーム編成、更には事業に関連する企業との調整なども必要になりますね。また、他社に譲渡することになれば、企業に売り込みのための準備と譲渡先募集などを進めることになるのですよね」
明鏡の問いかけに多々良は更に頷き返した。
多々良は開発技術者が常時五〇名いて、この者らがゲームや実用的アプリを開発する他、新規事業であるオンラインゲーム機器「リアライン」の開発に従事しており、年間で二〇本近くの事業を生み出していることも捕捉した。
多々良は、R産業には副社長がプログラムした超S級人工知能である通称「慶次AI」があり、このAIを利用した事業が「ZETLINK」「COCOECO」であり、「Dライセンス(仮)」も使用が予定されていると説明した。
金田一はAIの名前にもある開発者の慶次について、詳細を次のように語った。
「一之瀬慶次副社長は、一之瀬総司社長の弟さんで、アメリカのN工科を主席で卒業後、IBN本社でAI研究に取り組まれました。R産業に技術者として引き抜かれてからは、研究者としてAIの製作を行い、その後は開発事業部の顔として、数々の事業を成功させて来た立役者であり、副社長の肩書は、非凡なる慶次さんをR産業に留め置くための楔になっている、と噂されているくらいです」
続いて、総司についても金田一は語りだす。
「社長についても、侮れない経歴の持ち主です」
金田一が更に言葉を走らせる。
「三橋大学院を卒業後、ラップル本社のマーケティング部門で、Zフォンの販売普及に貢献した人物として、世界の百人に挙げられているんですよ。日本で父が経営するR産業に引き抜かれ入社。その後、既存事業の見直しや、新規事業の拡大に多大なる貢献をした実績を従え、若くして社長に抜擢された人なのです」
このように先代の二人の息子はエリートであると金田一は纏めた。
「彼らは二人兄弟なのですか?」
「そうです。二人兄弟ですが……何か?」
「いや、何でもないです」
——二人兄弟か……確か「弟の一人……」といってたから、三人兄弟かと——
R産業の経営陣はプロフェッショナルであるが故、これまで世の注目を集める事業を、次々と生み出している訳だ。
「身が引き締まりますね」
明鏡は表情を引き締めた。そして、多々良に幾つか情報を確認して、開発事業部を後にした。
金田一は明鏡に、この後、昼食を挟んで、取締役員会への出席が予定されていることを伝え、案内を終えた。
「短い時間でしたが、案内ありがとうございました」
と明鏡は頭を下げた。
「会社のことで何かお困りになられたら、いつでも声をかけてください」
と金田一は明鏡と握手を交わした。
本社十一階にある社員食堂は、「社員に愛される食堂」をもっとうに「値段」「味」「雰囲気」にこだわりを持つ飲食店が、数店舗出店している。いわゆる商業施設にあるフードコートに似た造りであるが、出店している店は、大衆向けのFC店ではなく、グルメ雑誌でも取り上げられているような、食通好みの店ばかりであった。
これは社長の方針によるもので、従業員の昼食に話題の飲食店をコラボすることで、昼食内容や昼食時間に付加価値を与え、結果、日々の仕事へのモチベーションを上げる、という狙いがあるようだ。
フロア全体は、テーマパークかと思える程の自由度の高い設計が施され、出店する店舗は社員利用が一定数を割ってしまった時点で、店舗を月単位で入れ替えるシステムを導入しており、その結果、常に選ばれた話題性のあり、かつ従業員に好まれる飲食店ばかりが軒を連ねる仕組みとなっていた。
価格面では、昼食代の補助として給与支払い時に一食あたり三百円がキャッシュバックされる。また、読み取り機に職員証をかざせば、給料天引きにもできるキャッシュフリーなところも、手軽さをアピールしている。
「たかが昼食、されど昼食」がR産業の思いである。ここが何より他社と比べて、力の入れようが大きく異なるところといえよう。
実は会社側は導入直前まで、従業員の食事代を全額補助する計画で進めていました。しかし、出店側が強くこれに抵抗したため、一部補助とすることで決着が着いたらしいです。出店側は実質無料である状況下では、お客である従業員に提供する食材の価値や調理技術など、提供する側のメッセージが伝わらないとして反発があったようです。
また、お金を払って食べることは双方にとって重要であり、提供側にとっては社員食堂であろうと無料になれば、ランチ戦争を生き残る知恵や努力を欠いてしまい、業界で生き残ることはできない。それで現在の仕組みは、食事ごと職員証をかざせば、毎食三百円の補助が給料日にキャッシュバックされるのである。
金田一から聞いたそんなエピソードを思い出しながら、食堂に足を踏み入れた。
社員食堂で一際賑わいを見せているこだわりハンバーグの店「表参道のキングジョン」の、一推しのバーグダブルを明鏡は頼んだ。
横丁に張り紙されたバーグダブルの写真を見ているうちに、本物のバーグダブルが目の前に出てきて、鉄板肉汁脂跳ねのその容姿に思わず「めちゃ美味そう」と明鏡は声を溢した。
比較的空いている席は、会話の弾んだ者達の中にある一席であるが、窓際にある何故かガランとした空気感のあるエリアが目に飛び込んできた。まさに役職席であるかのようなその席一角の空き席に明鏡は腰かけた。斜向かいで食事をしていた、名札から「経理部長浪川秀一」と知れたその男に明鏡は軽く会釈をすると、浪川も軽く会釈し明鏡に声をかけた。
「開発事業部の新入社員さんですか?」
「いいえ。まぁ開発事業部ではありませんが、新入社員みたいなところです。あっ、名札が、これ裏返しになってましたね。えっと、わたくし、本日から経営アドバイザーとしてお世話になります、朱鷺谷明鏡と申します。以後よろしくお願いします」
明鏡はこんな感じで挨拶した。
「というと、君が『鬼の明鏡さん』……か。こんなシチュエーションでお会いしたのも何かの縁ですかね」
——ん? 何の縁なの?——
「お手柔らかに頼みますよ」
声色を変えた意味深な一言を、被せてきた。
「こちら……こそ」
明鏡も変に警戒せざるを得ない気持ちのまま、食事を摂り始めた。
——うーん、肉汁凄過ぎだ——
その後はお互い一足一刀の間合いを保ち、特に踏み込んだ会話を交わすことなく時間をやり過ごし、各々は食事を済ませてた後、席を離れた。
明鏡は、浪川に対し初対面で何か引っかかる印象を受けた。
社長秘書の桜田から監査法人室に内線連絡が入り、一五階の取締役会室で今から三十分後に開かれる臨時役員会に出席するようにとの総司からの指示を受けた。
明鏡はその指示に従い、取締役員室前ロビーで待機していた。
定刻午後一時三十分を三分過ぎた頃、明鏡は入室するようにと会議担当者からの指示を受けた。
ネクタイを締め直し、大きく深呼吸をした後、明鏡は扉を開け、一礼をしてから入室した。そして総司の隣に立った。
総司は、明鏡が今後のR産業が進むべき道を示してくれるキーパーソンであると、役員らに宣誓をした。続けて明鏡という人物を紹介をする中で、監査法人に所属する通称「鬼の明鏡」であることを公表したことで役員らが騒ついた。
「朱鷺谷さんは、我が社の監査業務をお願いしておりますシリウス監査法人にかつて所属されていた公認会計士であり、現在はミンタカ監査法人に所属され、経営アドバイザーとして赴任されております。監査法人についてあまり知らずとも、大企業の粉飾を次々と見破り、時代の寵児とマスコミが取り上げた『鬼の明鏡』という名は、皆さんの記憶に新しいところでありましょう。そして彼こそがその人『鬼の明鏡』こと、朱鷺谷明鏡さんであります」
役員らは更に騒つきを増した。
——辞めてくれないだろうか。本当に。鬼の明鏡は法定監査人であり、企業アドバイザーではありませんから……残念だ——
「……私が紹介いただきました朱鷺谷と申します。シリウス監査法人の時代には、こちらに会社が移転する前でしたが法定監査でお邪魔したことがあり、これも何かのご縁と思い精一杯取り組みますので、ご指導、ご鞭撻の程、よろしくお願いします」
明鏡が抱負を述べると、出席者からは大きな拍手が贈られ、会場が揺れた。
担当者により明鏡は席まで案内をされる途中、昼食時に挨拶を交わした浪川経理部長と視線が合い、軽く会釈をしながら席に着いた。
総司は、続いて「Dライセンス(仮)」の進捗についての報告を、多々良開発事業課長に求めた。
多々良は、この事業に取り組むにあたり国が示した基準を超える企業が当社以外にないことから、独占事業になる見込みであると報告された。その理由は、他社が超えられなかった幾つもの基準を我が社は超えており、その中でもAI能力判定基準では我が社のAIが他社のそれに比べ評点の差が顕著であるとの補足がなされた。
その後も、導入迄のスケジュールなどの報告が一時間半かけて説明され、会議は午後二時に散会となった。
明鏡は、午後五時に港区麻布にある一之瀬富士男宅を訪問するようミンタカ監査法人代表から頼まれており、その詳細は知らされていない。
明鏡の出退勤は役員同様管理されていないため、監査法人室の表札を不在と変え、明鏡は富士男宅に向かった。
都会に浮かぶ一際下町風情の街並みにある富士男の自宅に、明鏡は到着していた。和風の門扉に飾られた呼鈴を押して暫く待っていると、女中が門扉まで迎えに現れた。
客間に通された明鏡は、その純和風建築の使われたる材料に目が留まった。外観は寄棟造で回廊屋根は銅板で柱は檜特一で節が少なく、屋内通路の天井は杉のハメ板張り。床は見渡す限り無垢材で、客間は書院造であり、見上げた上部は一際高いところに格天井が望め、障子の細工窓から広がる日本庭園はまるで桂離宮であった。
——桂離宮の石庭とは違うけど——
廊下の軋み音で誰かが歩み寄るのを感じた。
「お忙しい中、よぉーいらしてくれた」
作務衣を着たこの家の主で、R産業会長であり筆頭株主でもある一之瀬富士男が現れ挨拶をされた。
「お初にお目にかかります、ミンタカ監査法人の朱鷺谷明鏡と申します。今日はお招きいただきまして、ありがとうございます」
明鏡も挨拶を述べた。
「若いな! 君は見たところ二十代に見えるが、実際はいくつかね?」
「ご冗談がお好きなお方だ! 『実際』といわれてしまうと『見た目二〇代』が明らかに社交辞令と分かってしまいますから残念です。まぁ実際は三五歳ですから。せめて三十歳くらいかと聞いて下されば嬉しかったかも知れませんが……」
——歳のことはどうでも良いが、まぁ、くどいところが親子似ているな——
「きみも言うね……あっはっは、まぁ、かけてくれたまえ」
富士男にそう言われ、明鏡は座布団に腰を下ろした。
二人は向き合って座り、富士男からこんなことが語られた。
「なぜ儂が『鬼の明鏡』にR産業のアドバイザーをお願いしたのかじゃがの、その訳を話しておかにゃならんと思っての」
「訳、ですか?」
「そうじゃ。その訳じゃ……が、その前に、今日一日働いて、その訳に何か察しがついとるんなら、聞かせてもらいたいんじゃが、どうだね?」
富士男は、遊び心を持ってそう尋ねた。
「その訳、察しがつきました」
明鏡はあっさりと答えた。
富士男は明鏡が察した内容を聞き、その推理力に感嘆した。
「流石じゃ、儂の目に狂いはなかったようじゃ。そうかそうか、よろしく頼んじゃぞ!」
改まり、富士男は深々と頭を下げた。
そして、出された茶菓子を一口パクり、明鏡は言葉を失った。
——なんと柔らかで舌の上で溶けてしまうような食感、そして程良い甘さ、白い天使か? まさに絶品——
「これは……何という和菓子でありますか?」
「これはのう、羽二重餅といって、愛知の奇祭、裸祭りで有名な国府宮の銘菓なんじゃ。儂は国府宮の生まれでのう、幼い頃からこの羽二重が大好物で、祝い事のたんびに食べとったもんじゃ。時々取り寄せるのじゃが、数ヶ月待ちが当たり前の代物だけに、取り寄せたらまた注文を入れるようにしているんじゃ」
富士男は嬉しそうに語った後、続けてこんなことを話しだした。
「そうじゃ、朱鷺谷くんにはアドバイザーをお願いする上で知っておいて欲しい重要人物について伝えておかにゃならん」
——社長は、確か……筆頭株主の先代社長、次男である副社長と専務との関係が悪いといってたっけ——
「私には三人の息子がおっての、それぞれの能力を生かして外飯を食わせた後に、三十歳でR産業に転職入社させ、次期担い手として育て来たんじゃ。そして事情があって社長の総司と副社長の慶次にはもう一人の弟の存在は知らせていないんじゃ。その弟であるもう一人の息子は、私をとても恨んでおるようじゃ。息子は私との関係を周りに明かさないことを条件に、転職入社しているんじゃ。ここまでいうてあれじゃが、名前は明かせんのじゃ。がそういうことじゃ」
富士男は社内にいる三子についての事情を、そのように話された。
明鏡は、総司から「私の弟の一人で……」と兄弟関係を聞いていたため、その後に金田一から聞かされた、社長と副社長は二人兄弟であると説明されたことに対して、違和感を感じたことを思い出した。
更に今、二人の息子はもう一人の弟の存在を知らないと富士男から聞かされ、その違和感は今疑問へと変わった。総司の話を聞き違えてなければ、総司は、富士男が伏せておかねばならない事実を知っており、そのことにまだ誰も気づいていない、そんな状況が浮き彫りになってきた。
次に、富士男は専務と社外取締役について語り始めた。
「専務についてじゃが、創業時から開発者として活躍してきた鷹山幸造っていう漢じゃが、とても純粋な奴でのぉ。会社のイメージキャラクターの元になったゲームソフトを世に広めたプログラマーなんじゃ。今のR産業の経営を牽引するだけの才覚は持ち合わせてはおらんのじゃが、役員や部課長級には人望が厚いんでのう、専務のポストに据えとるじゃ」
富士男は一度、お茶で口を湿らせてから、
「次は社外取締役の秋山栄じゃ。あいつは社外取締役になる前は、倒産の危機に瀕していた何とかファンドっちゅう信託会社を僅か三年で立て直し、五年で上場まで押し上げよって、今や指折りのファンドに仕立て上げた再生屋でのぉ、その道のスーパーエリートじゃ。
秋山は鷹山が引き抜いてきた逸材じゃが、儂が聞き受けた噂じゃ、やり方はとても褒められたものじゃのーて。違法なやり口で、周りを罠に嵌めてのし上がったと噂されておるようじゃ。それ故に動向が気になる訳じゃ。他にも取締役の中には、鷹山を社長にと考えとる者もおるんじゃから、役員会が紛糾することもしばしばあるげだなも」
——名古屋弁、最後に、らしいのやっと出た——
明鏡は富士男の話を踏まえてこう切り出した。
「私がたかだかできることは、公認会計士の立ち位置からR産業を健全企業会計に導くことくらいなのです。その目線で経営助言や監査法人で身につけた多くの企業情報を戦略的に活用する。この延長上にない話は、私も太刀打ちしかねるところですから、是非お力添えをお願いします」と。
「勿論だとも、困ったことがあれば、ここへかけりゃええ」
富士男は携帯番号を差し出した。
「では、今後の進捗は、この電話でお知らせいたします」
明鏡は確かめるようにこう話し、富士男は了解された。
そして帰りしなに羽二重餅のお土産を渡しながらこう語った。
「人生も仕事も走馬灯の如しじゃ。今、この一時を、大事にせにゃならんぞ。朱鷺谷さんよ、頼んだぞ」
——走馬灯って、死に行く訳でもあるまいし。でもまあ、頑張りますか——
明鏡は、R産業での一日を振り返りながら地下鉄駅に向かう最中に、聞きなれた車のクラクションにハッとし車道を振り返えった。
そこには見慣れたモスグリーンのローバーミニが止まっていた。
「なんでここにミニがいるの!」
明鏡は助手席側からミニに乗り込んだ。
「お疲れさま、今日は逃げられないわよ」
乗り込んだ明鏡を見るなり、戦線布告をしてきたこの女性運転主。
彼女の名は神楽光月。
彼が言葉を返すや否や、車を発進させた。
「お前、また俺をGPSで張ってたな」
眉をひそめて神楽に対しそんな文句をいった。
「それと『俺のミニ』に勝手に乗るなっていったろ。なんで無断使用なのさ!」
——先週、左前のフェンダーぶつけてくれたおかげで、モールが外れやすくなっていて、修理するまで乗るなといったのに!——
明鏡は何だか不服そうに主張した。
「お言葉を返すようですが、明鏡くん。あなたが私との約束を守ってくれさえすれば、何も痛々しい姿のクーパーさんに鞭打ってここまで来なくても済んだのよ。私の失った貴重な時間をどう責任取ってくれるおつもりなのかしら?」
神楽は少し不満気に明鏡に詰め寄った。
「相済みませんでした」
と頭を軽く下げながらも、こう続けた。
「いつもお願いしているように、その格好辞めてくれないかなぁ。目のやり場に困るから」
神楽の少しタイト過ぎる着衣に不満を漏らした。
「あれこれいわない! とにかくしっかり仕事して貰うわよ」
神楽は明鏡にこういって、アクセルを踏み込んだ。
明鏡は神楽の運転中に仮眠を取っていたが、自宅付近で目を覚ました。
「神楽っ、顔近いんだけど。離れてくんないかな」
顔を赤らめながら神楽を押し戻した。
「相変わらず初心なのね。まぁいいわ。今日は仕事して貰わなきゃならないからね」
神楽は少し不満げに呟いた。
「夕飯は簡単に作っておいたから、それ食べて頑張りなさい」
そういって、マンション入り口で明鏡を降ろし、車ごと暗闇に消えて行った。
明鏡は品川区大井の高層マンションでルーフバルコニー付きのペントハウスに住んでおり、この空間こそ朱鷺谷明鏡のプライベート空間であると共に、売れっ子ミステリー小説家「止水明鏡」の仕事場でもあった。
ついでに神楽光月は「シリアス文庫」の編集部で明鏡の担当をしており、明鏡の控えめな性格につけ込み居候する、キャラクター的には脇役で使うに惜しいモデル風の才女であった。
「あいつの手料理は……」
いつも定番のケチャップメッセージ付きのオムライスを覗くと「しっかりたのむね!」と書いてあった。
明鏡は神楽のオムライスを食べながら、現在シリーズ連載中の人気ミステリー小説「女神の聖域」の第五作目「廃屋の悪魔」のクライマックスで精神異常者の「青髪」が 悪魔に祈りを捧げるシーンを考えてみたがどうにもまとまらず、気分を変えるためバルコニーに出て大きく伸びてみた。
「そういえば、社長も先代もなんか一癖あって気性も何となく似てる気もするが、まあ熱い人達だったな」
「それにしても、先代が僕にアドバイザーを依頼した理由を見事答えたみたいになったけれど、何か他にも意図が含まれているような……」
明鏡は夜空に浮かぶ星座を見ながら、ひとり思いに耽っていた。
夜空にはまだ夏の大三角が見える時間帯であり、こと座のベガは一等星の中でも一際強く輝いていた。
——うちの織姫同様に存在感申し分なし——
そして、財務部で問題が発覚したのは、明鏡がR産業にやって来てから一週間経った月曜の午後であった。
Dライセンス(仮)事業部門は専門チームを立ち上げており、開発事業部から財務部に対して特許の確認が入り、財務部管理担当が知的財産のデータを調べると、R産業のAI特許に「慶次AI」のデータがないことが発覚し、財務部内に激震が走った。
このことはいち早く総司の耳に入り、財務部職員には他言無用の命が出された。
総司は呼び付けた財務部長と課長に対し、「慶次AI」に特許が備わっていないことを、今の今までなぜ分からなかったのかと問い正した。
神妙な面持ちで倉田財務部長は申開きをした。
「あくまでも想定ですが、これまでは我が社との取引のある金融機関が、AI特許まで確認することなしに事業融資を進めていたことなどAI特許について掘り下げられることがなかったようです。一方、Dライセンス(仮)にかかる警察庁の審査は文字通り厳しく、事業実施上、適法性立証のための審査項目にAI特許も挙がっておりました。それら資料の提出準備をする中で、R産業にAI特許不在という実態が発覚したと報告を受けております」
「ならば慶次AIの特許権はどうなって……まさか慶次か。いや、会社発明品は会社に帰属するもの。ではR産業は特許権のない知的財産を、我が物顔で利用をしているだけとでもいうのか?」
総司はR産業の柱となる事業が「慶次AI」を利用していることから、社内は勿論、社外に情報が流出した場合に大きな波紋が広がることを懸念して、極秘に調査を行い、秘密裡にすべてを解決しようと考えた。
R産業の事業特性からホールディングス化を効果的に進めるためのスキーム策定のため、連日監査法人室に閉じ籠っていた明鏡であったが、この度の特許紛失事件により、総司から招集の知らせが入った。
「どうされましたか?」
と様子を伺うように問いかけた。
——社長は声色から、何か焦ってるように感じるが——
明鏡はスキームの仕上げ段階に入っており、大方説明ができる状態にあったため、取り敢えず掻き集めた資料をファイルに入れ社長室を訪れた。
「朱鷺谷入ります」
扉をノックし入室した。そこには、苛立ちを隠せずに部屋を歩き回る総司の姿があった。
総司は、明鏡に気付きざまにこう切り出した。
「おっ、来たか。……少々まずい状況が起こってな……」
このセリフに明鏡はスキームの話でないと分かり、総司の焦りにも取れる言動に対しこう投げかけた。
「宜しければ、お聞かせ願えますか? 差し障りなければ。お力になれるかも知れませんし」
——まぁ、そのために呼び付けたんでしょうがね——
「そうか。すまんな……うちの慶次AIなんだが、あるはずの特許がないんだ。俺にはどういうことか全く検討がつかんのだよ。今はまだ、このAIを特許申請して認可される状況にあるかどうかすら分からず、現状、様々な事業に利用しているだけに、不安が募るばかりだ」
総司は明鏡に、今現在確認できている「慶次AI」の情報について伝えた。そして、このAIの特許が存在しない場合に、AI依存事業が今後どう難局を迎え。どう乗り切って行くべきかの指南を仰いだ。
——頼られると応えたくなるのが心情だが、少し骨が折れる注文であるかも——
明鏡はまず、この事情を知る者を特定した。
「財務部長、同課長、係長、担当の四名と社長と私を加えた六名で間違いないですね。財務部職員に口止めをしたことも」
そしてこう話しを続けた。
「社長が私にこの件を任せて下されば、アドバイザーの立ち位置を利用し、周りに勘繰られることもなく調査を執行できるものかと……最善を尽くして難局を乗り切りましょう」
明鏡はこれといったビジョンは持っていなかったが、狼狽える総司を見兼ねて安心を与える言葉をかけた。また、明鏡は次のように述べた。
「まず、社長の命による知的財産を含めた業務把握の調査を進めます。これは各部署での情報開示というものは、アドバイザー如きの依頼で開示されるかどうか分かるませんから。社長マターの調査とするなら、比較的容易に各部門の情報開示が受けられると思ういますので」
次に、差し迫る状況について確認した。
「Dライセンス(仮)にかかる国への関係書類の提出期限は、国の定めたスケジュールによれば、二週間後ということで宜しかったですね?」
明鏡が総司にこの調査については十日を目処に実態の把握と対策を立てなければ、最悪の場合、Dライセンス(仮)事業を降りなくてはならなくなると言い切った。
R産業は特許侵害とマスコミに叩かれ社会的信用を著しく損なうかも知れず、既存事業においても法に抵触していたと判断されれば、無断で慶次AIを利用したことによる賠償責任を負う可能性があることも示唆した。
「まさか、そこまではないだろう。AIは我が社の所有に間違いはないはずだ!」
——なぜそこまでいい切れる?——
「特許法は二七年に改正されていて、業務による発明は会社に帰属するものと明確化されているため、慶次AIがいつ開発されたのか、業務発明にあたるかどうか、或いは情報漏洩により第三者に特許登録を先にされてしまってはいないかなど調査が必要になります。先程の話の特許の再申請についても、これらに左右されるところになります。それ故に現段階では真相究明が最優先とせざるを得ないことを、まずはご理解下さい。そして事態によっては経営方針を大きく変えなければならなくなる覚悟だけはお持ちください」
明鏡は総司にそう諫言した。
「助かるよ、朱鷺谷くん。君はこうなることを知っていて赴任してきたんだろ? 『鬼の明鏡』見参! ってな感じで」
——こんな事態になんてふざけた発言!——
「……まぁ、そんないい方はないよな……縛りなく自由に情報を集められる経営アドバイザーがいてくれて、それが君で良かったよ。頼むよ。朱鷺谷明鏡さん」
——いえるじゃん……初めからそういえよ……まったく——
明鏡は一瞬だが「こうなることを知っていて赴任し……」といった総司の言葉に、些か違和感を覚えた。
——確かに赴任早々に事件勃発なんて、話ができ過ぎではあるな。先代の仕業か……まさか——
「どうしても一つだけ聞きいておきたいことがあります。それは仮に慶次AIがR産業の知的財産でなかった場合ですが、社長はどうするおつもりなのですか?」
明鏡は、何故かこんな質問を投げかけた。
「そうなれば、R産業は地に堕ち、社長解任だろうね……だがそれはないな」
総司は、特許がR産業に必ずあることを知っていると言いたげな言い回しで答えた。
明鏡はこの総司の自信ありげな言い回しに、またまた違和感を持たずにはいられないものの、この極秘調査は経営アドバイザーの自分が適任者であることに異論はないとして、この依頼を正式に受け、社長室を退出した。
明鏡は真っ先に金田一に連絡を取り、監査法人室に参集いただいた。
「朱鷺谷さん、こんにちは」
金田一は頭を掻きながら部屋に入ってきた。
「金田一さん、実は知りたいことがありましてお呼び立てしました。知的財産についてまとめているのですが、いまいちこの会社での扱いが分からなくて」
ざっくりとした切り口で、明鏡は生き字引の金田一にそんな問いを投げかけた。
「そうですか……では私の知っている限りのことをお話しいたしましょうか?」
金田一は知的財産の取り扱いについてこう説明始だした。
「例えば特許調査というものは、発明品の開発設計時点においてしっかり行われます。この段階で開発情報の漏洩が起こらないよう慎重に管理が行われ、特許申請に向けた準備も行われます。また、特許の有無を調べるためには、特許庁の閲覧を最近はネットで確認しますが、これは非常に重要な作業で、発明品の一部または全部が特許侵害にならないよう確認することが、事業展開において必要不可欠な取り組みになります。発明品を知的財産として担保するため特許、登録商標、意匠、実用新案を特許庁に申請することになりますが、基本的には発明品ごとに開発事業部が起案し、人事部、総務部及び財務部に稟議をかけます。開発者に対しては知的財産権が会社に帰属することを周知し、R産業では特別手当が開発者に支払われることになります」
金田一はここまで話し、取り出した手帳をペラペラとめくり、また話しを続けた。
「特許登録はええっと……財務部主導で行われるようですね。
しかし、特許利用についての管理が財務部ではされていないようなんですね。となると開発事業部が管理しているのだろうか?」
明鏡は金田一の説明を受けこう話した。
「我が社のAIはどうなんですか?」
「どうなんですって……AIの特許ですか?」
「そうです」
「……AI……何かあるんですか?」
「あ……いや、ちょっとAIは注目されていますから……」
「そうそう……うちの慶次AIはR産業が開発したAIのニ世と呼ばれていた時代があったり、特許に関係するかどうかは分かりませんが、開発が中断していた時期があったようです。余談ですがね」
その直後、金田一は電話呼び出しを受け、明鏡に手を振り慌てて退席をした。
「ありがとうございました」
明鏡はそういった後、特許庁のサイトで思いつく限り検索を行い、発明品を「AI」または「慶次AI」で検索したが、まったく見当たらなかった。
午後七時四十分、明鏡は円筒の図面ケースを小脇に抱え帰宅した。神楽はソファーに置かれた図面ケースに興味深々で、明鏡がトイレに入るや否や図面ケースから嬉しそうに中身を取り出していた。それはA二サイズのプログラム設計図であった。
神楽はしばらく設計図を眺めてこういった。
「これって人工知能のプログラムじゃないの、しかもR産業のAIの設計図だよね」
トイレから出てきた明鏡は驚いた。神楽には設計図のことについて何も伝えていなかったのに、これをパッと見て状況把握ができてしまったことに、理系女子の凄さを感じた。
「あのさ。神楽。今回は開発部に保管されている図面の一部をコピーさせて貰えてさ。本来は持ち出し厳禁なんだけどね。そこで君に質問したいことがあるんだが、人工知能の開発を取り巻くルールがどうなってるのか知っているかい?」
「それは、開発のコピーや改良による成果物の評価に関することなのか?」
神楽は聞き返した。
——神楽さん、いきなり無機質。怖いよホント——
「そうなんだ。工学系理系女の君の見解を聞いておきたいのだが?」
神楽の両肩を掴み明鏡は神楽を見つめた。
「肩痛いんですが」
神楽は頬を赤らめ横を向いた。
「すまない」
明鏡は興奮してしまったことを詫びた。
「それは一言でいえば『背徳行為』と言ったら良いのかな、他人の発明を真似た物に評価はないのです。しかしながら、『改良による評価』が与えられる場合もあります。ところが特許という知的財産権の観点では、特許侵害にあたる可能性が高く、技術者としての成果と権利関係は単純な構図にはならないのです」
神楽は、こんな感じで開発者の世界観を説明した。
「ところで明鏡先生。本日シリアス文庫の編集長から企画のお知らせがありまして、私の独断でOKしておきました。つきましては次の日曜日に、明鏡先生が映画のシナリオを書かれた作品で『名探偵リゲル』のプレミアム試写会でトークショーにご出演下さい」
と神楽からお願いがあった。
「忙しいけどそれも仕事だもんね。引き受けますよ。担当の顔に泥は塗れませんからね」
そんないい方で神楽のご機嫌を取った。
「では、食事にしましょう。晩御飯はシチリア風ボンゴレ、ナポリ風マルゲリータに白ワインを用意しました。こちらで召し上がれ」
ミュージカル風に神楽は舞った。
「やけにご機嫌ではないですか?」
明鏡が突っついた。
「分かります?」
嬉しそうに、何かを話したそうに見えたため、神楽にその訳を聞き出した。
「来週来日する予定のアメリカのアクション俳優のジェイソンが、シリアス文庫に訪問されることになったのよ。その訳を聞きたい?」
——プレミアム試写会のトークショーに、私が一つ返事で参加を決めたことの嬉しさではなかったのね。まぁいいけど——
神楽は「聞きたい?」と聞いたにもかかわらず勝手に語り出した。
「ジェイソンはね、『止水明鏡』のミステリー小説の大ファンらしく、シリアス文庫社内で二人の対談が決まったのです。勿論、先生は対談されるのですよね?」
——これも私絡みのお仕事ですか。人気小説の泣きどころといいますか、いや、感謝感謝——
神楽は目を輝かせて明鏡を見つめる中、
「最近忙しくなって来たからな」
と明鏡は神楽に打診した。
「先生は対談すべきです」
と神楽が強く訴えたため、
「分かった。引き受けましょう」
といい切ると、一時停止していた神楽歌劇団のミュージカルは再演し始めた。
——それにしても本業は火だるま、副業はだるまの目入れ、この落差は一体なんなのか?——
明鏡は、出勤して直ぐに内線電話で浪川経理部長にアポを取り、経理部を尋ねた。
そして、経理帳簿の閲覧を申しで、その理由について、社長命による業務把握であると伝えた。
浪川は眉を顰め、右手に持っていた万年筆を額辺りで左右に揺らしながら、こう呟いた。
「この閲覧についてどうこう疑うつもりじゃないが、社長の命だからと言われたからって、はいどうぞっ、て子どもの遣いと訳が違うのだよ」
浪川は愚痴を呟いた後、重い腰を上げるかのように、社長に内線電話で確認を行った。
——愚痴っぽい言い方だけど、子どもの遣い? まぁ、そりゃそうだな……正しい判断だ——
「……経理部長の浪川です。アドバイザーの朱鷺谷さんが、社長の命を受けて帳簿を調べにお見えですが、どこまでお見せしましょうか?」
「浪川くん……帳簿は、どこまで残してあるのかね?」
「保存期間の話でなく、現存簿冊についてですかね?」
「そうだ」
「そうですね……ざっと二十年分は残してありますが、この時期なら七年前の帳簿が保存期限内といったところでしょうか?」
「七年分ではな……十年分もあれば、問題なかろう。そこまで閲覧させなさい。それ以前の帳簿は本来存在しない物であるから、閲覧をさせる必要はない。それと、保存期限外になるものは、速やかに処分しなさい」
「分かりました」
総司は、調査の目的を浪川に明かすことなく、敢えて古い帳簿を明鏡に触れさせないようにと指示を出した。
浪川は、総司が何かを伏せながら明鏡に調査をさせようとしていることを察知し、何かを悟ったかのように不敵な笑みを浮かべた。
「社長から、朱鷺谷さんの調査目的の本当のところ、何となく掴めましたから。極秘なんですね。まぁ会社のためということですから、是非とも協力するようにと指示を受けました。ですから、朱鷺谷さんが調査しやすいように、情報開示させてもらいますよ」
そう話し、浪川は全面協力を約束した。
明鏡は「調査目的をなんとなく掴めましたから」と不気味な笑みを浮かべる浪川の言葉を鵜呑みにせず、あくまで業務把握を大義とするスタンスのまま帳簿閲覧に臨もうと考えた。
「そうですね、知的財産権は見えないトラップとなり、賠償問題や事業損失を引き起こしますからね」
と浪川が知った物いいをしたため、明鏡は、総司と浪川それぞれに対し違和感を持たざるを得なかったのは事実であった。
——社長は理由を話したのか? 極秘だとしたのはあなたなのに?
浪川のいい方が、知った物言いな感じなのも引っかかる、やい!——
そして浪川から、作業時間効率のため経理部の職員に作業させる提案がなされた。
明鏡はその提案に対し、
「なるべく早く済ませたいので、無理ない範囲でご協力いただけると助かるのですが。それとですね、くれぐれもこの調査目的や作業については、他言無用でお願いします」
浪川は「当然だ」として、これを承知された。
この調査のため経理内容に詳しい経理審査係長と雑務担当が駆り出された。
そして、帳簿管理室からは、ニ十年分の経理簿冊がミーティングルームへ運び出された。
また、処理効率を上げるためコピー機が二台、浪川の指示で運び込まれた。
浪川は過去二十年間の知的財産権の登録料、利用に関かかる請求書や譲渡取得に関する経理資料を抜き出すことを明鏡に提案した。
その上で、明鏡と係長は直近十年の帳簿を、浪川と雑務担当者で残りの帳簿を確認する提案をした。
直近の帳簿を明鏡に振り分けた理由について、課税根拠としての保存期間内の資料が多くを閉めていること、また、特許法改正の二十七年の前後を直接確認できるため、と浪川は説明した。残りの帳簿の期間は、浪川が係長であった期間を含んでおり、明鏡よりは手早く的確に作業を進められると付け加えた。
作業は終日二日間で行われ、資料コピーはバインダーファイル七冊に閉じられた。浪川は帳簿管理の責任者であるため、明鏡が扱った直近十年間の帳簿とコピーされた内容について目を通してから、バインダーファイルを引き渡さねばならないと明鏡に説明をした。
明鏡はこれを了承し、資料は明日の午後に監査法人室に運び込まれるよう浪川と約束が交わされた。
本日午後の経理資料到着迄の時間を利用して、R産業が所有する特許を確認するため、明鏡は財務部管理担当に社長命であるとしてR産業の知的財産の中でも、特許にかかる情報リストを提供するよう依頼をかけた。十五分で用意できるとの回答に合わせ、明鏡は財務部を訪問した。管理担当は上席経由で社長命であることは確認済みであるとして、特許にかかるリストを手渡した。
明鏡は礼をいいながら受け取り、リストの見方を担当に確認した。
自席に戻った明鏡は、冷たい缶コーヒーを「パカッ」と開け、ゴクゴクと飲み干した。
そして「慶次AI」の極秘調査について、ふと、こんな事を思い始めた。
「調査を進める先々で、毎回社長に資料の開示許可を取るのって、私が信用されていないためなのか、それとも、会社の体質なのか、はたまた社長の指示で私の行動はすべて社長に報告されることになっているのか……」と、何か消化不良に陥ったような釈然としない感覚に囚われ、コーヒー缶を強く握り締めた。
――私は公認会計士なのだから……だからなのか?——
机に広げた「知的財産リスト」を眺める中で目に付いたのは、その多くが慶次AIと連動したビジネスモデル特許であることだ。そのため、慶次AIの特許の有無は、R産業に取って死活問題になると容易に判断できた。
チェアーをグッと倒し仰向けになりながら、目を瞑り明鏡は物思いに耽った。
「そもそも、あるはずの特許がなくなるなんてあり得ないし、慶次AIの特許権が何らかの形で譲渡、或いは横領されたと考えるのが自然ではないか」
明鏡はそう自問自答した。
午前十時半、浪川経理部長と経理係長が何やら密談に耽っていた。
「朱鷺谷の奴、知的財産の全般調査といいながらも、明らかに何かを探している感じで、特に二十五年から二十七年の帳簿は特に念入りに見ていましたよ」
係長はその時の様子を見たままに伝えた。
「朱鷺谷の調査目的は『あの取引』についてではなく、『別の何か』なのだろう」
浪川はそう確信して胸を撫で下ろした。
そして『別の何か』について考えた。
「二十七年は特許法改正があり、これ以降の職業発明については会社が特許権を有することになったが、それ以前は確か社則で『業務にかかる発明品などの知的財産は、別に定める報酬額による権利交渉が成立する迄の間、発明者及び会社は特許等の手続きを実施してはならない。ただし、発明者が会社からの報酬交渉に応じない、或いは交渉が不成立となった場合、発明者は別に定める金額を発明品開発環境提供費として会社に納め、その職については取締役員会の決定に従うものとする』となっていたはず」
以前財務部にいた時の記憶をそのように辿った。
「部長は、奴が『特許の何か』を調べているかを知りたいんですよね? それなら多分ですが、特許権者ではないかと思います。この二日間の調査で奴は、金額をあまり気にしておらず、むしろ特許権者欄をチェックしていたように思えます。計算機を使うことなく、主に概要書の権利者欄あたりを指で擦っていましたから」
係長は的を得た回答をしていた。
「なるほど」
浪川は腑に落ちた。
浪川は明鏡が総司から指示を受け「慶次AI」の特許権がどうなっているかを調べにきたと理解できたのだった。この特許権がないにも関わらず、R産業で使用されるカラクリは、先代からの機密事項にあたり、この秘密を握る当事者の一人が、後ろ盾のない浪川を今日に至まで気にかけ、経理部長まで引き上げてくれた恩人である羽島常務であった。
しかし、浪川に取って羽島常務は親も同然の存在ではあったが、心に渦巻く一之瀬一族への憎しみはそれ以上の物であった。
このカラクリを探り始めた明鏡に対し、浪川は調査解決の糸口になる、ある会社からの委託料請求資料を帳簿から抜き出し、しばし見つめていた。
最近の昼食は神楽の手弁当をありがたく食べていた明鏡であったが、彼女が大阪の実家に昨晩から戻っていたため、明鏡はまた「キングジョン」ハンバーグを食べようと朝から決め、食堂へとやって来た。
「バーグダブル下さい」と店員に注文すると、ほんの数秒で注文したハンバーグ定食が用意された。
「レンジででき合い品をチンしている訳でなく、よくこのスピード感で提供できますね」
と店員に尋ねると、
「天下のR産業の食堂ですから、客の見込みも注文具合もすべてスマホアプリですよ。多くは職員証で後払いのため、事前注文と実際の注文が一致し、かつ十分刻みの来店見込み時間を指定すれば、会社から料金の半額が補助されるという仕組みになっていますから、店側も最高のパフォーマンスが可能になるのです。もちろんその場注文のお客さんがいることで、十分という刻みが上手く機能するのです。事前予約と季節、天候、曜日などのこれまでのデータから、AIが調理開始時間を指示してくれるため、提供側も無駄なく作業が進められています」
と店員がそう説明してくれた。
明鏡は感心して料理を受け取り、かつて座ったテーブルに料理を置いた。斜向かいには、何の因果かまた浪川が食事をしていた。
「昨日はありがとうございました。午後の資料よろしくお願いします」
明鏡は浪川に頭を下げた。
「朱鷺谷さん、ちょっと気になる情報がありまして」
と浪川は明鏡にメモを渡した。
「きっと役立つ情報だと思いますよ」
そういって席を離れた。
——役立つ? あんたは何を知っているんだ?——
渡されたメモには「SSE」と書かれており、このアルファベットの意味は分からないものの、浪川がこの極秘調査の目的を真に理解しているとしたら、慶次AIの特許に関する重要な手掛かりになるかも知れない。そう思えた。
しかしながら、浪川が「SSE」という手掛かりをわざわざメモにして渡してきた行為に対して、感謝というより懐疑心を植え付ける結果となった。
そう思いながら、一口パクリと。
「うん、ハンバーグ、やっぱうまい」
明鏡の執務室である監査法人室は監査部門のフロアにあり、エレベーターが監査室の出入口前にあるため、出退勤時或いは昼食時に監査職員と顔を合わす機会も必然的に多くなる。
たった今、食事を終えてエレベーターを降りたところで目が合った役員らしき男性に、
「コーヒーでもどうですか?、朱鷺谷明鏡さん」
そう声をかけられてた。
「あっ、私……ですかね?」
「お忙しかったですか?」
「いや……喜んでいただきます」
「それではこちらへどうぞ」
明鏡は監査役室に通された。
「初めまして、監査役の明智と申します」
そんな紹介があり明鏡もお返しに
「監査役とはつゆ知らず、とんだご無礼を。わたくし、アドバイザーの朱鷺谷明鏡と申します」
と改まり自己紹介をした。明鏡は名札の苗字「明智」を見るなり洒落てこう聞いた。
「ひょっとして、下の名前は……小五郎では?」
金田一のことを一人思い返して、明鏡は失礼を覚悟して聞いてみた。
明智はそれまで柔和な顔付きでいたが、急に眉を顰めて、低い声でこういった。
「明鏡さん、貴方は本当におかしな人だ。名探偵明智小五郎とでもいわせたいのかな?」
と明鏡に詰め寄った。
「いえ、実はこの会社には名探偵とも呼べる生き字引の金田一こと金田一さんという方が見えまして……」
明鏡が語り出すと明智は、
「わたくしこそ『名探偵明智大五郎』と申します」
そう聞かされた明鏡は、ニヤリと笑い、こう切り返した。
「まさかのまさかですが、予感はしていました。監査役が名探偵であるということは。また、こんな気さくな方だったのには驚かされましたけれど」
こんな感じで二人は笑いあいながら、次第に打ち解け始めた。
その直後、ノックをして入室してきた若手の男性職員が、運んできたコーヒーをテーブルに置くなりこう切りだした。
「うわ、あなたが明鏡先生なんですね」
この若手が明智と目を合わせ、
「先生にお会いできるなんてとても光栄です。握手してもらってもいいですか?」
明鏡の目を見つめながら若手は詰め寄った。
「あはは、何の事だろうか? 『鬼の明鏡』ってそんなに有名人でしたっけ?」
と場の奇妙な雰囲気を感じ取った明鏡は、必死にとぼけて見せた。
「これ、シリーズ最新の『廃屋の悪魔の上巻』です。サインもらえますか?」
——えっ、なんで? ばれてる?——
若手はいきなりポケットから出した文庫本を明鏡に差し出した。
——何でこの小説を? 私の正体知ってるのか?——
明智もこう話した。
「あなたにお会いできて、私も嬉しくて仕方ありません。先生!」
——ばれてますね。どうなっているのか?——
「……名推理、恐れ入りました。私は『ミステリー小説家の止水明鏡』と申します」
明鏡はあっさりと裏の顔を明かした。
「でも、どうして私のことを知られたのですか。確かに『明鏡』っていうは名前は珍しいから、何となく連想しやすいのでしょうか?」
と疑問を二人に投げかけた。
「実は私らは数名で、ミステリー作品の読書愛好会を立ち上げておりまして、明鏡先生の作品は中でも素晴らしいものばかりです。
今回アドバイザーとして我が社に見えた方が『鬼の明鏡』さんであったと聞き、止水明鏡先生の作品の『鬼の名』が想像されました。それで『鬼の明鏡』が止水明鏡かもしれないと仲間内で仮説を立てました。まぁ着想というよりは、連想、思いつき程度のものでしたが。『鬼の名』の主人公の設定が公認会計士ですからね。『朱鷺谷明鏡』と『止水明鏡』は同一人物とこの若手職員小林君が間違いないと譲らなかったため、明智小五郎の怪人二十面相に准え、鎌をかけたという訳でした」
「なるほど、お見事です。がしかしこのことは、明智さん小林さん以外に知らないのなら、口外をしないでいただきたい」
明鏡は二人にそうお願いをした。
「僕らの『神』的存在である先生の頼みですから、絶対に口外は致しません。がしかし、お願いがあります」
明鏡は明智にその話を聞き返すと、
「アドバイザーとしての朱鷺谷さんの仕事を、手伝わせて欲しいのです」
明智は監査役にも関わらず、何ともぶっ飛んだ提案をされたのだ。
明鏡は考えた。監査役は業務の適正をチェックする立場であるため、必然的に業務全般の情報を把握されている。その情報力はアドバイザーを進める上でプラス材料となるため、協力を求めたいところではある。
しかし、今取り組んでいる極秘調査に関してはどうだろう。調査目的を聞かれたら、業務上看過されない事態として扱われる可能性が高い。
そのため、極秘調査の目的を伏せて上手く情報開示をお願いできるのであれば、協力者としての監査役は心強いところになると考え明鏡はこう話した。
「この先、監査役が把握されている情報を教えて頂く機会はあると思いますので、その時はよろしくお願い申し上げます。そしてくれぐれも私の正体は内密にということで」
「まぁ大丈夫ですから」
明智は軽く返事をした。
「繰り返しますが、このことは、本当に……本当に内密にお願いしますね。小林さんも頼みましたよ」
そう明鏡は何度も振り返りながら、二人に対し念を押しながら、監査役室を退室をして行った。
衝撃の監査役室での昼休憩を乗り越え、明鏡は現在調査を進める「慶次AIの特許」にかかる手掛かりを得るため、経理帳簿の到着を待っていた。
しばらくして、経理部係長が台車で資料を運んできた。
「こちらが昨日の抜き出した資料のコピーになります。資料の処分はこちらで行いますので、不要になりましたら引き上げますので、経理部までご連絡下さい」
そういい残し、足早に立ち去って行った。
明鏡は財務部で手に入れた「知的財産リスト」の中から「慶次AIを利用したビジネスモデル特許」にあたるものを数件選び、「経理資料」を基に、手続き準備段階から運用開始後までの期間や金の流れの洗い出しを始めた。
その後、リストに添え書きされた予備情報から、「慶次AI」が導入される二十五年以前に使用されていた「RAI」について調べ始めた。
「RAI」の特許登録料にかかる経理資料等から、次の事が読み取れた。
二十年六月五日、R産業と佐久田弘との間で発明品AI特許について、社則規定に基づく特別報酬交渉が行われた。報酬額とAI名称の交渉成立後、佐久田氏からAIの名称を「佐久田AI」とするよう申入れがなされたが、R産業側はこれを認めず、交渉時に決まった「RAI」として特許登録を行ったようだ。そして二十七年頃から「慶次AI」が登場し、「RAI」は姿を消したとのこと。
また、「慶次AI」に関する特許登録がないこと、加えて特許利用に関する資料もないのに、「ビジネスモデル特許」には「慶次AI」が普通に使われてきたという摩訶不思議な、ねじれた状況を明鏡は認識した。
明鏡はこの調査を進める中で三点程気になったところがあった。
一点目、「慶次AI」は一体何なのかということ。特許を持たない理由は何なのか?
二点目は「慶次AI」と佐久田の「RAI」の位置関係だ。RAIの改良型が慶次AIなんだろうか?
三点目は浪川が渡したメモに書かれた「SSE」とは何なのか?
「SSE」とは何かと経理部を訪れ浪川に聞こうとしたが、午後から出張に出ており、数日不在と聞き受けた。浪川の携帯番号に電話をかけてもらったが、電話は繋がらなかった。
――仕事中なのか分からんが、まぁ仕方ない――
結果、「SSE」が何なのか分からないまま退社時刻を迎えることになった。
自宅に帰るといつもの賑やかしい声は何処にもなく、明鏡は一人、何だか振らついた足取りでリビングに辿り着き、ソファーに倒れ込んだ。
身体を捩り、仰向けになりスマホを見上げながら「SSE」は何なのかをネットで検索し始めた。
SSEは検索したら出てきたが、これは最近使われ始めたゼロトラスト(通信等のアクセスを一切信用しないクラウド)であり、見当が違うようだ。
「浪川はこの事を探るよう仕向けたのか?、それとも他の何かなのか?」
と明鏡は思い耽り眠ってしまった。
「明鏡くん、起きてよ!」
ぼんやりした感覚の中で聞こえてきた賑やかしい聞き覚えのある女性の声、何か甘い嗅ぎ慣れた髪の香り、目を開くとそこにはいるはずのない神楽の横顔が五センチと離れないところに見えた。
「うわぁ、何……」
と明鏡は飛び起きた。
「……昨日遅くに帰ったらね、ソファーでよだれ垂らして寝ている人がいたから、お口拭き拭きして、ついでに着替えさせてあげたのよ。寝ぼけてないで感謝しなさい!」
神楽は、明鏡の頬を両手で挟みながらそういった。
明鏡にとって神楽の存在は、出版社の担当であると同時に、一つ歳上の姉のような存在であり、不思議と心地よいフィーリングを与えてくれる女性である。
神楽は通りすがりの人達が振り返るほどの美形でモデルのように手足が長く、ちょっとした仕草も絵になる女性だと思う。その容姿を鼻にかけることもなく、いつも何かに直向きな彼女の姿勢には、見る人すべてが好感を持つだろう。
——こんな思いは決して口にはしないが、見た目が重要な時代だけに、神楽はいつも徳をする存在だよね——
そんな彼女は、自身の存在を特別視しない明鏡であるからこそ、接していて心地良いと感じているのだろうし、明鏡の知的でちょっと生意気なところも、きっと母性をくすぐるチャームポイントなのであろう。
「さぁ、朝ごはん食べて、今日も頑張るよ」
神楽は合掌して、手料理を食べ始めた。明鏡も遅れて座り、神楽をチラッと見た後、彼女の作った朝食を駆け込むように食べ始めた。
「そうそう、神楽さぁ、神戸の実家はもう良かったの?」
明鏡はそれとなく神楽に聞いてみた。
「まあねぇ、良くはないけどね、大丈夫」
と神楽は内容を伝えることなくそう答えた。
「そっか、また話してよ」
「……うん」
明鏡は、神楽の何か不安げな顔つきが心に残ったまま出勤することになった。
「行ってきます!」
始業前の監査法人室で一人コーヒーの香りを楽しんでいる明鏡のスマホのゼットリンクに着信が入った。
「最近、ご無沙汰じゃない、時間作って顔を出しに来なさい!」
と命令めいた招待状が届いた。
明鏡は画面を確認するなり間髪入れず、この送り主である鬼怒川に電話をかけた。
「もしもし、ご無沙汰しています」
「あら嬉しいじゃない。朱鷺谷さんから即電話が掛かってくるなんて」
「いやいや、他でもないのですが、知って見えたら教えて欲しい事がありまして……」
「何のことかしら……仕事のことね。相変わらずの熱量だこと……まぁ、いいわ、言ってご覧なさい」
「霧香さんは『SSE』ってご存じですか。一体これがなんなのか分からなくて」
「……返信速かったから特別料金で教えましょう!」
——料金掛かるんかい!——
「私が知ってる『SSE』は確か横浜市中区馬車道にあるIT会社だったはずよ。誰かと話している時に、そのIT会社の話が話題になったのを覚えているわ」
「そうですか。今並行して会社検索しているのですが、『桜咲エンジニアリング』ですね」
「それよ」
「感謝です、霧香さん」
明鏡はコーヒーをゴクっと飲み、横浜市の「SSE」に向かった。
明鏡は横浜駅からみなとみらい線でニ区先の馬車道駅までやって来た。ZETLINKの地図を見ながら、明鏡は目的の位置まで徒歩で向かった。
歴史博物館を右手に見ながら馬車道通りを進み、相生町通りを横切ったあたりまで来て、再度地図を確認し、少し行った左側のビルが「SSE」の所在地になっていることを目視した。
右側にコンビニがあり、そこから見たことのある女性がコーヒー片手に出てきたのが見えた。そして車道を横切り、目的地らしきビルディングに入って行った。横顔を見ただけであるが、髪型やスタイルから社長秘書の桜田薫であることを明鏡は確信した。
入って行ったビルディングの前で「桜咲エンジニアリング株式会社」の看板を確認した。
再度スマホで「桜咲エンジニアリング株式会社」を検索すると驚きの事実が浮かび上がった。二十六年に設立されたIT企業で、代表取締役が一之瀬慶次と表示されていたのだ。
——なんで副社長が、SSEの代表なのか?——
慶次と総司の秘書桜田がこの会社で繋がっている謎と、明鏡の極秘調査目的が慶次AIにかかることだとおそらく浪川が知っていて、『桜咲エンジニアリング株式会社』を探すよう仕向けた謎に、明鏡はぶち当たった。
そしてこの謎解きにおいて、浪川が秘密を握る存在に違いないことを、明鏡は自覚することになる。
SSEとの特許にかかる取り引き情報は見つからないが、間違いないのは浪川は何かを知っていること。
午後の監査法人室で、明鏡はこれまでの事実関係から現状を整理してみた。
慶次が開発した慶次AIは、佐久田が開発したRAIの後継AIであり、いくつもの事業の柱として利用されているにも関わらず、R産業は特許を所有しない上に、特許利用料を権利者に支払っている記録は、一切見当たらない。
そんな行き詰まりを知ってか、AIについて何かを知っているだろう浪川は、社長からの極秘調査を見透かしたように、SSEを調べるよう私に仕掛けてきた。
しかし、慶次が代表を務める「SSE」と「R産業」との間に隠された特許に纏わる真実は、まだ何一つ明らかになってはいない。
ただ、浪川の仕掛けた心理を素直に読み解くのであれば、隠された真実はこういうことなのだろう。
浪川が「SSE」を調べるようメモを渡したのは、特許を持たない慶次AIの実質的使用権を「SSE」が握っていると知らしめるためであろう。
つまり、「SSE」または「桜咲エンジニアリング」をキーワードにネットでAIの特許検索を行えば、慶次AIに繋がる真実に辿り着くと。
特許の出願方式は国内出願でも国際出願でも、日本で登録された特許ならば閲覧はできるため、明鏡は取り急ぎ検索を開始した。
検索開始からおよそ一時間で、「SSE」の特許の中で以前、開発事業部からもらった設計図に似た発明品に辿り着いた。名称は登録商標にもなっていた「Neumann’sB」というAIであった。
それは明鏡が考えるに、慶次AIがノイマンブレイン(Bタイプ)の姉妹AIであるという事ではないか?。
そしてプログラムが似通った二つのAIがなぜR産業とSSEに存在しているのか?
また、ノイマンブレインに特許があるため、構造がよく似た慶次AIは特許が取れなかったとしたら、R産業は慶次AIの使用料をSSEに支払っていてもおかしくないのだが、経理簿閲覧ではそれらしき資料は確認できなかった。
この辺りが肝となった。
R産業が事業発明品の特許を持たないこと、他社に特許があるAIを使用料を払わず事業に使用していることが問題にならないはずがない。
そしてこのAI事情に利害関係を持たないからこそ、浪川は私ににSSEを調べさせたのだ。AI事情の当事者にあたる人物らが行っている取引が隠蔽されている。その取引きを看過できないとして、私に謎解きをさせたと言うことになる。
今回の調査すべきポイントは、その事実を知り得る当事者が誰であり、その取引きが成立する前提に何があったのか、そして取引きがどのように行われたのかを解明することが重要であると私は再認識をしのだ。
現時点で明らかなのは、取引相手のSSEがR産業の副社長慶次の経営する会社であること。慶次AIの使用についてSSEと契約を交わすためには、慶次は双方の当事者にはなれないため、R産業内には少なくとも、もう一人これに関与するものがいるに違いない。そう思えた。
翌朝、社長室で明鏡は総司に調査の進捗を報告した。
報告を聞き終えた総司は、こんな事を明鏡に話した。
「慶次のAIはR産業の発明品でなければならない。何故なら利用発明品だからだ。朱鷺谷くんも知ってのとおり慶次AIはRAIに代わり使われるようになった人工知能であったが、まったく別物ではなく、RAIのプログラムを改良してできたのが慶次AIであり、R産業が慶次AIの利用発明を承諾し、特許出願したことを知っているのだから」と。
「そうであるなら何故、慶次AIの特許がなく、同一設計を持つSSEの『Neumann’sB』が特許登録されているのか?」
と明鏡は自問自答した。
「来週、慶次が帰国し出勤したら、問い正したい。朱鷺谷くんにも立ち会いをお願いしたい」
と総司から頼まれた。
また、総司は当初明鏡に頼んだ「ホールディングスに向けたスキーム」の策定進捗について明鏡に確認した。
明鏡は予防的M&A対策を設定するのみと話し、総司に対して、株主総会と取締役員会の議事録に目を通したいと閲覧の許可を求めた。
合わせて特許調査で気になる人物の職務経歴等を閲覧したいと明鏡は総司に配慮を併願した。
総司は閲覧許可を出し、関係部署責任者には秘書から連絡が行くように手配すると伝えた。
明鏡はまず、総務課で役員会議事録を閲覧することから始めた。
今年五月に行われた株主総会直前の役員会で取り挙げられていた議題に「買収防衛策の撤廃」が討議されていた。これは株主総会から検討を求められた議題であり、役員会では意見が分かれていた。
買収防衛策を支持する総司社長に対し、鷹山専務と秋山栄社外は撤廃が大局であると解き、慶次副社長と羽島常務はどちらにも着かず静観の立場を取る構図になっていた。
総司の買収防衛策を支持する理由は、R産業の体質が他の企業に比べ収益を最優先とせず、社員のポテンシャルを最大限に引き出し、誰もが仕事に誇りを持てる職場作りを基盤として、質の高い事業を生み出して行く体制を貫いてきたことにあったが、M&Aを受けて終えばひとたまりもないだろう。
R産業が買収を受けた場合は、更なる収益向上を図るため、現状の体制は再編成されるでしょう。
具体的には有益事業とノウハウだけが残され、増収につながらない仕組みは改修される。それは会社負担率が他社よりも高い社員の優遇体制の廃止や、リストラなどにより、収益至上主義への体制移行がなれると総司は読んでいた。
一方、買収防衛策の撤廃を支持する高山専務は、自身も大株主であるため、株主総会の意向を踏まえた立場に立っていて、これまでの会社の成長は認めつつ、収益至上主義ではない総司の独創的経営方針を否定するところであった。
買収されることで収益増が見込まれる場合も想定して、経営陣ないしは経営方針の変更を必至とする立ち位置を示している。その上で買収防衛策の撤廃を行い、株主の利益を尊重すべきとの主張であった。
慶次副社長と羽島常務はなぜ静観を続けているのか、発言は見当たらなかった。
R産業の経営陣が一枚岩になっていないのは、総司が周りに頼らないからなのか、或いは、総司に頼れないから経営陣がまとまらないのか、よく分からぬところではあるが、明鏡はふと、先代富士男が心配していた鷹山と秋山の話を思い出していた。
また、株主総会での議事録でもファンド系アクティビスト(もの言う株主)が第一四半期決算報告直後の臨時総会で、議題以外に買収防衛策の撤廃を経営陣に要望する場面があり、周りの株主もこれを支持したとの記事を見つけた。
総司から株主に向けた買収防衛策の必要性における説明では、買収先が更なる売上や純益を求めようとする時、これまで実施してきた社員の発想や仕事に対するモチベーションを高める仕組み作りや、昼食代の補助を始めとする大幅な福利厚生の継続は、短期増収とって不要なもの。故にそれらのコストカットは額が他社に比べ大きいため、即効性が期待できる方針に傾いてしまいかねないと。
それは買収における理であり、大金を注ぎ込み会社を買うからには、常に儲け勘定なしで事業を進めることはできないためである。
しかし、R産業は儲け優先としない経営理念を貫いてきたが故に、今の成功があることを忘れてはならないと。
近年、R産業が大きな飛躍を遂げていることは周知の事実であり、この先も会社を躍進させ、株主様の期待に答えていくためには、これまで拘ってきた経営方針を貫いていく必要があると総司は訴えていた。
議事録を読み終えた明鏡は、大きく息を吐きいた後、M&Aの在り方について、次のような結論に至った。
「いずれの買収防衛策せよ、R産業に関わるすべての人のために、備えなければならない」と。
職務経歴書など個人情報に関しては人事課長の管理下にあり、社長命とはいえ閲覧にかかる誓約書に署名を行い、課長席の後ろにある管理室に明鏡は案内された。
人事課長は明鏡に、保管される原本の閲覧と、PCデータによる閲覧の二種類の方法があることを伝えた。
PCデータでは通常、個人情報の職歴部分を中心にまとめて管理し、人事異動時に参考的使用をしているが、指定項目のデータしか登録されていない。
また、原本の確認は時間がかかるが個人情報すべてが分かるため、おおよその内容をPCで検索して必要に応じて原本を確認する流れを人事課長は推奨された。
明鏡は「ご丁寧にどうも」と頭を下げた。
人事課長はこう言った。
「社運がかかった調査と聞いてます。『鬼の明鏡』さん、よろしくお願いしますね」
そういい、人事課長は管理室に明鏡を一人残し退室していった。
まず明鏡が調査対象に上げたのは、慶次副社長、桜田薫秘書、浪川経理部長、佐久田弘元開発部主任、高山専務、秋山社外、そして総司社長の七名であった。
データベースから指定年度をキーにして職員配置を確認したり、事業をキーにして関係職員を抽出したりして調査を進め、最終的に原本を確認し、こっそりスマホで写真を撮った。
明鏡は必要と考えたデータ収集を終え、人事課長に一声かけて管理室を退席した。
監査法人室に戻った明鏡は、人事課でプリントアウトした職務経歴書の情報や、接写した経歴書の原本を静止画で見返していた。
慶次副社長はかつて、開発事業部のエンジニア時代に、佐久田AIプロジェクトに参加していたようだ。
この佐久田という人物は、経歴から察するに天才的プログラマーの域にあり、中学生の頃には、R産業を始めとするいくつかのゲームメーカーが主催する「ゲームプログラムコンテスト」の一般部門で最優秀賞を二年連続で受賞し、高校一年の時からR産業の専属プログラムマーとして当時の開発研究室、現在の開発事業部で、既に人工知能の開発を始めていた。高校二年で情報処理研究所主催の「世界人工知能プログラミングコンテスト」では金賞を受賞し、R産業のサポートによりアメリカでAI研究の先駆けとなったT大学に進学しAI創始者のヒルトン教授に学んだ。大学卒業後は、R産業開発事業部の主任エンジニアとしてAIの研究開発に務めていた。
三年後、「佐久田七号」と呼ばれるAIが完成する直前にR産業に入社したのが、一之瀬慶次であった。
慶次もまた優秀なプログラマーであり、何者入りで開発事業部に迎えられた。しかし、慶次はIBNの研究者であった肩書きを振りかざすことなく佐久田の下につき、AI製作の協力を行った。
佐久田の活躍は世に知れるところであり、おそらく慶次は「佐久田AI」を知るため、佐久田についたと明鏡は認識した。
佐久田は完成した「佐久田AI」の特許を報酬と引き換えに会社に奪われ、名称も「RAI」として登録されていた。佐久田はその後会社を辞めている。
その二年後、慶次は「慶次AI」の製作に取り掛かり始めていた。
この頃、総司社長はマーケティング部門の本部長をしており、R産業の根幹であるゲームの普及や、AIを利用した市場ニーズを事業化する計画を立て、ゲームメーカーから総合IT企業への移行を進めていた。「RAI」や「慶次AI」をベースにしたシステム計画を進めていたため、当時のAI事情にはおそらく詳しい。
桜田薫は日系アメリカ人で、慶次がアメリカ時代知り合ったビリヤード仲間であり、幼少期に日本人父とアメリカ人母が離婚したことで親権者の母と共にアメリカに渡り暮らしていた。父の故郷である日本での生活を希望し来日、堪能な語学力を活かし、慶次の伝手でR産業に就職し社長秘書をしている。
一方、取締役の中で総司と対局にあるのが高山専務であり、先代と共同経営を進める中で、開発エンジニアとしてR産業を支えてきた人物。青森県弘前市出身で芝原電気製作所に就職、パソコンのソフト開発を手がけており、先代と二人で現在のR産業を立ち上げるため芝原を退社している。数々のゲームを世に出し、R産業を成長させた創始者の一人である。
秋山栄社外は北東銀行を退社後、融資部門の経験を生かし企業再生アドバイザーに転身し、多くの企業救済を実現してきた。
では、なぜM&A予防策の撤廃を主張する高山専務と秋山社外は株主側ではなく経営側に立っているにも関わらず、R産業をM&Aという危険に晒そうとするのか?
矛盾した行為の裏側に何があるのか、明鏡は気になっていた。
また、浪川経理部長の身上調書に息を詰まらせた。身元保証人欄に一之瀬富士男と署名されており、更に、続柄が父になっていたことだ。明鏡は富士男から聞かされていた三人の息子の最後の一人が浪川である事を知った。
慶次が代表を務める会社SSEについて何も知らない明鏡に探るように投げかけたり、そもそも調査を明かしていない中で、浪川は調査目的を分かっているかの如く明鏡に情報を流したりしたことは、明鏡に対して「慶次AIの秘密を知っていると発言したのと同じ」といったに等しい。
R産業内の人物相関図が、漸く頭の中にイメージ化されたが、ただ、それだけのことでしかなかった。
翌日、慶次副社長が帰国したため社長室に呼ばれた明鏡は、ドアを開けた瞬間、テーブルを挟み総司と慶次が向き合う沈黙の時間に飛び込んだ。
総司は明鏡の顔を見るなり、自分の隣に座るよう指示した。
「社長、彼は……」
慶次が総司に尋ねた。
明鏡は総司の目を一瞬見てから
「私はミンタカ監査法人から経営アドバイザーとして赴任しております、朱鷺谷明鏡と申します」
とさらりと自己紹介をした。
「分かったぞ! 君って元シリウスの鬼明鏡さんだよね。大手企業の粉飾を次々と厳格な監査で締め上げ、それが元で監査法人チームの主査を外されたって噂の」
慶次は、初対面で失礼極まりない言葉を放った。
「私の武勇伝を語って頂けて、光栄に預かります。無知蒙昧な会社は、高い監査報酬を払えば粉飾まみれの財務書類でも承認が得られるものと勘違いしているようですが、それがまかり通るなら、世に信用できる取引きなんて無くなりますよ」
明鏡はさらりと切り返した。
少し間の空いた時間に総司が飛び込んできた。
「慶次、そう朱鷺谷くんをひりつかせるなよ」
「どういう意味かね? 『鬼の明鏡』がここにいる意味がまったく分からんね。うちの会社やばいのか?」
「親父からのエールだよ」
「親父のやりそうなこった」
総司の顔から笑みが消え、口調が変わった。
「ところで慶次、率直に聞くが慶次AIについてだが、会社に特許権が見当たらないんだが、お前何か知ってるだろ?」
と直球を投げた。
「知らねーなー、俺の名前のAIなんて」と慶次がいなした。
明鏡が水を刺すかのように言葉を発した。
「私の調べでは『SSE』正式には『桜咲エンジニアリング』ですが、この会社の申請したAI特許の設計が、慶次AIとうり二つでして、確か『Neumann’sB』っていうんですけれど、勿論知って見えますよね、副社長さん」
と慶次に詰め寄った。
慶次は一瞬驚いたかのように見えたが、冷ややかな目でこう語った。
「これは聞き捨てならんね。うちの『Neumann’sB』は混じり気なしのオリジナルよ。仮に特許を拝借したとでも疑われるなら、まずはその慶次AIに特許が備わっていたという証拠はありますか? 見せて下さいな」
と明鏡を挑発した。
「確かに、副社長のいわれる通り、R産業の特許に慶次AIはありません。では、なぜないのでしょうか?」
明鏡は慶次と総司に問いかけた。
「随分と探偵気取りやないか。ないのは事実がないだけのことや。謎かけなんぞアホにしとんか、こら、鬼明鏡!」
と歌舞伎のごとく啖呵を切った。
「どんなカラクリがあったとしても同じこと。まぁお待ち下さい。真実は透けて出てくるでしょう」
と真相があり、これを明らかにするといった明鏡の目に、一点の曇りもなかった。
総司は慶次に向かい、
「お前、これで良いんだな」
と慶次に警告をした。
「嫌だな、良いも悪いもないよ。慶次AIはR産業の発明品じゃないの?」
慶次はこう告げて、席を立ち社長室から出て行った。
R産業の展開する事業の根幹には、通称「慶次AI」と呼ばれる人工知能の役割が不可欠だった。
それ故に現場に残された「慶次AI」に関する手掛かり、つまりこのAIに対する現場での利用方法や認識を探れば、この謎が解けると明鏡は考えた。
明鏡は開発現場での「慶次AI」が、どういった状態で存在し、どう利用されているのかを確認するために「Dライセンス(仮)」チームの開発担当者に話しを伺った。
「慶次AIをどのように活用しているのかお聞かせ願えないでしょうか」と。
「そうですね。慶次AIを利用するという工程は、既にプログラムソフト化されたこのAIを、『免許システム』に連結させるという作業であります。わかりやすくいえば、事業システムという司令室にAIという人を配置することであり、つまりは情報網から上がってきた条件を判断して司令を出す人がAIの役割なので、事業特性に合わせてAIに組み込まれたいくつかの設定を調整し、システム稼働の最適化を計ります」
と説明を受けた。
「それはつまり、AIという既存ソフトが開発事業部に備わっていて、いつでも普通に利用できるAIという認識であるのですね」
と明鏡は聞き返した。
「そうです、AIソフトのプログラム管理は社内で行っていますし、我が社の宝でありますから」
と話された。
「ではもう一つお聞かせ願いたいのですが、SSEという会社はご存知ですか」
と明鏡は尋ねた。
「『SSE』ですか……それって『桜咲く……』っていうIT系の会社のことですか?」
「良くお分かりですね」
「ええ、半年くらい前に見た専門誌にAIの記事があり、確か超人工知能ノイマンブレインの特集でした」
「その専門誌はどこにありますか」
「何処といわれますと……アメリカですが、そうだ、その専門誌、ZETLINKのスポンサー提携してるのでサーバーから直接出版元へアクセスして、記事の提供を依頼しましょう」
そんな頼もしい話を担当者が口に出した。
「世話になります。これが私のアドレスになりますので、記事が手に入ったら送ってもらえますか」
明鏡はスマホをかざした。
「登録完了です」と担当者は答えた。
明鏡は一旦、監査法人室に戻り、情報を整理した。
ここまで進めてきた調査では、R産業内で使用されて来た所謂「慶次AI」に対する認識は、誰もが我が社の唯一無二のAIと信じており、まさか他社の発明品の姉妹版であるとは思いもしないところである。
オリジナルでもないAIが、これまでオリジナルであると誰もが信じてきた理由は何か?
「やはりAIの製作者が慶次副社長であるからだろう」
明鏡はAI使用のカラクリについても、おおよそ検討が付いていた。
それはSSEとR産業は何らかの契約により、AI使用を認めているというものだ。
これまで慶次AIは、慶次が製作したR産業の発明品であると誰もが信じてきた故に、開発事業部では慶次AIのプログラムを何のためらいもなく使用してきたのが実際であろうと考えた。
となれば、このカラクリを作った当事者たちは、何らかの意図があり、慶次AIをノイマンブレインのR産業版と認めた上で、R産業とSSEの両者間にて使用契約を結んでいたと考えが及ぶ。
思案に耽る明鏡の元に、開発担当者にお願いしていたノイマンブレインの記事がZETLINKに送られてきた。
この記事には、ノイマンブレインが人工知能としていかに優れているかについて書かれていた。その優れた特長の一つに合理性のない判断、つまり『感覚的判断』が挙げられていた。通常のAIは指示を受けて作業する『特化型』であり、与えられた単語、文章や選択肢の情報に対しる適否を判断したり、これらの情報が加わる毎に論理的回答を導く総合判断が標準的能力である。
一方、ノイマンブレインにあっては、手書き文字や絵画や写真の情報を読み取り、チャットやショートメールなどのやり取りから、目的にフィットする合理的にも非合理的にも取れる判断ができるまさに『汎用型』であるところが優れている。
意志を持たないはずのAIが、条件下においては通常非合理的となる判断さえも、最適な判断として選び取れるところが抜けていると評価されている。
また、慶次が発明者と掲載されているが、R産業の副社長ではなく、SSEの代表取締役として紹介されていた。
そのことから、世間的にはノイマンブレインが慶次の発明品AIであり、SSEに帰属しているものとされている。そしてR産業にも慶次AIがあり、これも慶次が製作したAIであるが、R産業内で設計や管理がすべて行われていることの矛盾に、解決の糸口があると明鏡は直感した。