10
(あれは?)
咲の目に止まったのは新任の教師だ。
田崎といったはずだが、咲のクラスは受け持っていないので詳しくは知らない。
その田崎が保健室から出てきた。
ないことではないのだろうが、教師が保健室を使うのは珍しい。
もしかして生徒を連れてきたのかもしれないと思い、
コンコン
「どうぞ」
中から返事がしたので入ると、
「あれ?」
養護教諭以外誰もいない。
「あら、西村さん。顔色がよくないけどどうしたの?」
「山里先生……」
養護教諭の山里はクラスを受け持っているわけでもないのに全校生徒の名前を覚えている。
前にどうしてそんなことができるのかと訊いた生徒がいたが、
「みんなのアレルギーとか把握しとかなきゃいけないじゃない? そういうのを見ているうちに覚えちゃうのよ」
と、なんでもないことのように答えた。
それだけでこの人数の顔と名前を覚えられるとは思えない。
が、この若い養護教諭は事実覚えているのだから驚くしかなかった。
そんなこともあって、"保健室の山里先生"は一目置かれ、一部の女子生徒からは恋愛相談までされている。
今もめったに保健室に来ない咲の顔を見て迷うことなくその名で問いかけた。
咲はその問いかけには応えず、
「先生、今新しい先生が……」
「ああ、田崎先生ね。なんだか頭が痛いからって、頭痛薬が欲しい、ってきたのよ。教員室のが切れちゃったんだって」
「そうだったんですね」
「それよりあなたよ。どうしたの? 具合が悪いんでしょ?」
「はい……なんだか気分が悪いんです」
「あら、気分が悪いの」
咲の額に手を当て熱のないことを確認した山里は、具体的な内容は分からないにせよ、咲の心境を察したようで、
「まあ、色々あるものね。良くなるまでベットで横になってていいわ。話す気があるのなら聞くわよ」
と咲へウィンクを飛ばした。
見透かされたと気付いた咲は顔を赤くし、しばらくもじもじしていたが、
「先生?」
「なぁに?」
「先生は……、ライバルが現れて、絶対に敵わない、ってこと……」
ありましたか? と訊こうとして口を噤んだ。
(そんなことあるわけないか……)
山里はどちらかというと花の側だ。
器量もよく話もうまい。
そんな山里が自分のような悩みを抱えたことなどあるはずはない。
ベットに腰掛け俯いたまま動かくなくなってしまった咲。
ややあって、山里が、
「西村さん。恋の悩み?」
その問いかけに咲が小さくうなずくと、
「悩むといいわ。"絶対にうまくいく方法"なんてないんだから」
突き放すような言葉かと思いきや、山里はこう続けた。
「上手くいってもいかなくても、悩んだぶんだけあなたは魅力的になれるわよ」
「せ、先生……」
「私もあなたくらいのときには上手くいかなくて苦しんだものよ」
「先生もですか?」
「もちろんよ。誰だって失恋の一つや二つあるはずよ」
ニコリと笑う山里の言葉に咲は胸の支えが少し取れたような心持ちになる。
「今思えば何であんなに苦しかったのかさっぱりわからないのよね。あのときはあれだけ辛かったのに、今となれば甘酸っぱい、いい思い出でしかないわ」
人生の先輩って言うほど年は離れていないけれどね、と前置きして、
「よく言うでしょ。やった後悔より、やらなかった後悔のほうが大きいって。どうせ後悔するならやったほうがいいって」
咲も聞いたことがあるということを頷いて示す。
が、だから後悔しないようにやれというのか?
その勇気がないから何もできずにいるというのに……
そんな咲の落胆に反して山里が続けたのは意外なものだった。
「あれ、嘘よ」
「え?」
「他の事には当てはまるかもしれないけれど、恋愛に関しては嘘」
「……ウソ?」
「そうよ。だってそうでしょ? 何でも行動に移せる人ばかりじゃない。いいえ、移せない人のほうが多いわ。思い通りに振る舞える人はそりゃ後悔も少ないでしょうけれど皆がそうできれば苦労しない」
その通りだと大きく首を縦に振る咲に山里は少し笑ってしまう。
「でね、少ない勇気を振り絞って行動したのに失敗、なんてことがほとんど。今までの関係すら崩れて、こんなことなら何もしないほうがよかった、って後悔すことになちゃう」
そう。
それが怖い。
そのせいで焦っているのに何もできなくて、こんなにも苦しいのだ。
「だからね、何もしない、と、行動する、の間をとればいいのよ」
「間?」
「"行動"っていうとすぐ、思い切って告白、みたいに極端なのを思い浮かべるでしょ? それって相手に対しての行動じゃない?」
確かにそうだ。
「それが失敗の原因なのだからそうしなければいいの」
「……じゃあ、どうすれば……?」
「相手じゃなくって自分に対して行動を起こすの。自分を変えるのよ」
「自分……ですか?」
「そうよ。人との関係を変えたいなら、どうにもならない相手を変えようとして失敗するんじゃなくって、いくらでも変えられる自分を変えればいいのよ」
簡単なことでしょ? と指を立てた山里は、
「あなたの場合、相手に満足に話しかけることも出来てない、とかが問題なんじゃない?」
ズバリ指摘する。
何の反論もできず小さく咲がうなずくと、山里は間髪入れず、
「だったらそこから変えなさい。いきなり親しく楽しくお話する必要なんてないわ。挨拶だけでもいいのよ。朝の、おはよう、帰り際の、じゃあね。こんな短い挨拶もしてないんじゃない?」
これにもうなずく咲に、
「じゃあ、何も進まなくて当然よ。挨拶もしない相手を好きになる?」
何から何まで山里の言うとおりだ。
「そっか……先生、わかりました。ちょっとずつでも声をかけるように頑張ってみます」
それだけでは神前さんに勝てないかもしれない。
いや、きっと勝てない。
だが、それでも、何もしなければ可能性はゼロだ。
ゼロのままよりは、1%でも可能性が増えるほうがいいに決まっている。
そう考えられるようになった咲から焦りが全くなくなったかというとそうではない。
それでもその焦りは新たに生まれた希望によって少し弱まった。
顔色が戻った咲に山里はニコリとしながら、
「案外、自分を変えよう、って決めた瞬間から世界は動くものよ」
「どういう意味ですか?」
「あなたが変われば周りも変わるってこと。さあ、顔色も良くなったのだからクラスに戻りなさい。お昼まだでしょ? ちゃんと食べて力をつけないとライバルにも勝てないわよ」
「はい。有難うございました」
「いいのよ。またいらっしゃい」
もう逃げない、と決めた咲は山里の声に送られ、しっかりとした足取りでクラスへと戻っていった。