我思う故に
日本人の死生観に思い至る時
我を思う時
物理法則を思う時
矛盾と現実と
大学は心理学を学んでいた。いわゆるカウンセラーになりたいと思って選んだ学科だった。
いざ授業が始まってみて、心理学の本質に直面する事になった。
自分は自分に嘘を、つく。
深層心理という言葉の通り、自分の殻・自分という多くの仮面。相手によって異なる顔。
それらの底にあるこころは、自分では、怖くて解析ができない。
そうして、カウンセリングはひとときに置いても、人のこころの底を覗き込む事になる。気づかれたくないこころを引きずり出して、受け容れ、元の場所に戻して、蓋をしてあげないといけない。
自分のこころの暴発への対処もままならない自分が、人のこころを整理してあげることなど到底できない。きっとただ弄んでしまう。
そう思ってしまったから、カウンセリングには向かないと思った。
心理学は、結局のところ統計学でしかなく、不確定な要素を、質問形式で振り返り、発生機序を推測する。
遡って、その時、どう思って行動したか、その行動を発生させた想いについて推測する。
未来に向いている学問ではない。
過去の誰かの意思を具現化したとしても、同じ環境下で推移していくかどうかは、可能性でしか語れない。
そうして一気に心理学への興味は薄れると共に、哲学的な思考方法に興味は移った。
それが認知心理学。
認知の仕組み。記憶。結局のところAI。
人工知能の仕組みでいえば、いつでも可能だと思ったのだ。人が五感で感じるすべての情報をインプットしてしまえばいい。
ただ、理論だけの話で、この年代にそれだけのハード環境は存在せず、ただの空論でしかない。
ただ当時の認知心理学はコンピューターの発展とともに進展しており、人間の脳もコンピューターと似たような仕組みではないか、と考えられてもいた。
この時代は、2度目のAI発展期、もしくは盛り上がりをみせた時期でもあったと思う。
第一期ただのSFであり、今回は急激なパソコンの発達、インターネットの発展時期であったからだ。
当然、文化にも影響を与えたそれは、当時の日本のアニメを世界に知らしめる作品を創り出した。
監督名など出さなくても良い作品が同時期に2作。世界を席巻し『ジャパニメーション』という言葉を生み出す。
それはジブリ作品ではなかったと記憶している。
ひとつが『AKIRA』
そしてもうひとつが攻殻機動隊。
『GHOST IN THE SHELL』だった。
アニメの描写などの点は別にして、GHOST IN THE SHELLに関しての話をすれば、殻の中に入ったGHOST。いわゆる人工知能が人を支配してしまう未来を描いていた。
実際この映画の影響は『マトリックス』の根幹となっている。
当時、卒業論文に人工知能についての考察をしていた。実験など思いつきもしなかったから、結局は論文になど仕上げる事は出来ず、考察どころか、独りよがりな夢想でしかなかったが、この時期に、この考察を出来た事は、その後の人生に役に立っている。
この話の中で1番考えさせられた事は、『人は何故人足りえるのか』という事だった。
人として、個人として、自分が自分であるということを認識出来る方法とは何か。
哲学的手法で、全てを否定する、という考え方があり、突き詰めた結果生まれた言葉が『コギト・エルゴ・スム(我思う故に我在り』であって、これは自分がある事を意味するが、当然その頃に人工知能の存在を意識出来たわけもなかったが、あくまでこの『我思う我』自体が実存した実体と捉えていたわけでもない。
我を思っている我だけは否定する事が出来ないから、目の前の起こる事象を否定できない。だからおそらく目の前にあるもの全ても、実存するのだろう。という考え方になる。
花が見ている夢である事は否定できず、今もって、誰もがマトリックスの世界の住人である事を、否定できない。
そんな考え方の中で、少なくとも、継続する自分を継続させているものは何か、そう考えた時に浮かび上がったものが『記憶』であった。
遺伝子までにつながる記憶のすべてが、自分を自分らしくいさせている。
後に、認知症の専門施設で勤務するようになった時、『記憶を失っていくという事は、人ではなくなってしまう』
最初はそう考えたりもしたものの、ずっと一緒に過ごしていれば、考え方も変わり、人の強さを知ることにもなった。
認知症になって、日常の記憶が継続しなくなっても、自分という人格は消滅しない。
彼、彼女たちは、最後まで自分を生きている。
それが、自分だけの世界だと認識出来ていなかったとしても。
人と、人工知能の違いは、記憶容量の違いという事になる。肉体とは容れ物の様に考えたくもなるが、肉体の全てがセンサーであってモニターである限り、情報収集にはそれだけのポイントが必要となる。
肉体なしの人工知能は、人を凌駕するとは考えにくい。少なくとも今の状況では。
そうであれば、現状において、記憶を継続的に有している自分のこの人格の存在は否定できないはずだ。
人格は否定できない。確かにそうだ。人格は生きている。では、生きている。
本当か。
時間は進んでいるのに、明日が『昨日』になっている現状は、少なくとも僕という人格が知りうる日常にはなかった。
それでは、夢を見ているのか。
この可能性に期待するしかなくなってしまったのか。
すでに、この結論に行き着くまでの言い訳だったり、無理矢理の遠回りをしていると、わかっている。
心理学を学んでいた頃、講義の中で、それは社会学だったか、よくは覚えていないが、『日本人のあの世観』という書籍にまとめられた、安藤猛による研究。
日本人の原始宗教について、死生観について記された内容によれば、死者の過ごす国は、この世とあの世で逆転しているらしい。
詳しくは覚えていない。ある一定時期を過ごすと、この世に戻る。
今、唯一過去に戻りつつある現象を、理解しようと思うなら、この考えしか、思いつかない。
僕は死んでしまっているのかもしれない。
お湯が噴き出して、火が止まっていた。
電気は元からついていたものの、部屋全体を暗く感じるのは陽が暮れてしまったからだ。
ピピッと音が聞こえた。炊飯器が炊き上がった時の音だから、55分ほど。こうやって頭を抱えていたわけだ。
かほりはまだ帰って来ていない。
弥生が帰って来るまでにはまだ時間があるにして、かほりがこの時間にいない理由がわからない。
時計を見る。7時が近い。スマートフォンを取って電話を入れようとしたら、ドアがガチャっと開いた。
『ただいま。ごはん作っててくれたん』
『おかえり、どこ言ってたん。えらい遅いやんか』そう伝えたら『昨日言ってたやんか、職場の会議で遅くなるって。大丈夫か?』
『いや、大丈夫じゃないけど』
『まあいつもの事か。晩ごはん何すんの?』
『いや、まだ』
『何してたん。おかしいんちゃう?』
『いや、だからおかしいって言ってるやん。』
『もういいわ、今日は昼が遅かったから鮭にしよ、味噌汁は作ってるんやろ』
『うん。』
『じゃあ早くして。』
そう言ってさっさと服を脱ぎ散らかして部屋着に着替えて横になっている。
掘り出したシャツを集めて洗濯機に掘り込み、冷凍庫から3切れの鮭を取り出して魚焼き器に入れ火をつける。強火に調整する事も手が勝ってに動き、レンジの上から乾燥わかめを取って味噌汁に足す。
不自由一つなくスムーズに進む。日常が確かにここにある証拠だった。
ただ、昨日の晩ごはんも、昨日したという約束の記憶もまったくない。
これは新しい1日だと、からだは物語っている。
僕はもう明日には進めず、知らない過去に進むしか道はなくなってしまったのかもしれない。
弥生も帰って来て3人でごはんを食べる。皐月は、好きなごはんを食べれているのだろう。
明日の事を思えば不安になる。このまま眠りに堕ちて目が覚めたら明日で、本当なら弥生の誕生日の28日だったら良いのにと思っている。
そうだ、本当なら今日は皐月の誕生日だった。
アニメなんかでは、繰り返しから飛び出せたら、それは繰り返した最後の翌日になっていた。
僕は今年の弥生の誕生日をお祝いしてあげることが出来るのだろうか。
いまの状況をかほりに説明したいと思うけれど、自分で自分を信じきれていないのに、かほりに相談したら、今度こそかほりの方が参ってしまうかもしれない。
いまの僕の社会からの脱線は、それ自体の大変さはともかく、周囲も医師も病気だと認めた症状だ。
この話をすれば、医師だけでなく周囲全体が整合性を取るべく錯話と判断し、症状の悪化を考えるだろう。まず誰も信じるわけがない。
ふ〜っと、静かにため息をついたつもりだったのに、弥生だけが『どうしたん?』と心配してくれた。普段はそんな気配も見せないくせに、かほりや皐月のことも、いざとなれば1番様子をよく見てくれている。
『おなかいっぱいと思って』そう告げておいた。ふ〜ん、あんまし食べてないのにと、言いながら、とりあえずはそのまま、部屋に上がっていった。
やんちゃだが、ふたりともかわいい息子たちだった。誕生日が来るように願いながら、洗い物をする。
『コーヒーか、紅茶』とリビングで寝そべりながら、かほりが食後のティータイムを要求してくる。
いつもと同じはずの日常。
記憶にはないが、きっと昨日もこうやって、食後の時間を要求してきたのだろう。
ふと、ここにある日常をぶち壊す様な事をすればどうなるのだろう、と思いついた。
例えば、ここに残っている紅茶とコーヒーを全部飲みきっておく。
ここには、明らかに3日くらい残るほどのコーヒーと紅茶がある。
それがいきなり明日なくなっていたとしたら。
そう思ったが、明日が来なければ、目が覚めたら昨日の日付にいたら、確認が取れないのだ。
日常を変えたところで、待っているのは、パラレルワールドだろう。
それでも、と思う反面、すでに過去に向かっている僕が、何か行動を起こした時、それらはすでに過去の改変につながっているのではないか、と思うのだ。
紅茶の量はきっと変化する。なんなら少しいつも飲まないくらいの量を飲めば、明日に何か影響するかもしれない。
とにかくやってみようと、コーヒーを飲み干しておいた。
その後、急にお腹が痛くなった。
すぐに治まるものなのだろうか、と考えてんみた。明日に持ち越されるかも。
結局、お腹の調子はしっかりとは改善されぬままに、眠りに堕ちていった。
明日が明日であれば良いのに