【なろう限定】第36話 奈央の日記
「奈央は九年間、どんな過方をしたんだい?」
ソファに悠然と横たわる奈央に紅茶を差し出すと、愛しい妻の傍に自分も腰掛けてジュディドが訊ねた。
「そうね」
奈央は身体を起こして居住まいを正した。
「日本に帰った直後は地震で街が破壊されていたから、最初は生活を立て直すところから始まったの」
奈央は当時のことを振り返りながら、淡々と語り始めた。
「それから高校を卒業して、音楽を勉強するために大学と大学院に行って。卒業してからは少しずつ音楽で生計を立てていたわ。その間、ずっとジュディと交信できないか試していた。この国に戻る方法も探し続けたの」
「私もだ。奈央。愛しいおまえと会える方法を探して旅に出た」
「旅に?」
「ああ」
「ジュディも私を探してくれていたのね。ありがとう。嬉しい」
奈央はジュディドの首に腕を絡めた。
「私ね、ジュディと会えるのを何度も諦めてはまた思いだしを繰り返していたの。必ず会う方法を見つけるって約束したって。
そうして何度目かの諦めかけていた時、たまたま池に入ってそこで浮かんでみた。
風の凪いだ静かな夜だった。月も星も水面に鏡のように映し出された美しい風景。
その時、あなたの声が聞こえた。空耳だと思った。でも違った。
ねぇ、『陸のものは空に』って、凪いだ水面に浮かぶことだったのね。そうしたら宙を浮かんでいるように映るでしょう?こんな簡単な謎解きに九年もかかっちゃった」
奈央は泣き笑いをした。ジュディドに会えなかった期間のことを思い出したからだ。
「奈央」
ジュディドは奈央を抱き寄せた。
「私が交信魔法でもっと早くおまえを見つけ出してやれたらよかった」
「ジュディのせいじゃないわ」
奈央はジュディドの肩にもたれかけながら、彼の温もりをそっと噛み締める。
「あったかい」
「うん」
「肉体が傍にいてくれることがこんなに安心なんて、離れ離れにならなかったら分からなかったわ」
ジュディドもそれに頷く。むしろこの温もりを求めていたのは自分の方だ。何度、いく晩、奈央を求めたことか。忘れた日は一度としてない。この温もりを取り戻すために、自分の一生を賭けると決心した日々。
「奈央」
ジュディドは九年間埋められなかった空白を塗りつぶすが如く、奈央をきつく抱きしめる。奈央はジュディドの気持ちを察して自分の腕をジュディドの背中に回す。
「ジュディ、大好きよ」
「私もだ」
二人は目を瞑り、キスを交わした。
長いキスの時間が終わった後、二人はソファの上で軽い眠りに就いた。先に目を覚ましたのはジュディドの方だ。
健やかに自分の腕の中で眠る妻をジュディドはいっそう愛おしく感じた。一生手放すまいと心に誓う。奈央は安心し切って気持ちよさそうに眠っている。こんな妻をずっと見つめていたいと思った。
「ん、ジュディ…?」
眠りから覚めた奈央は寝ぼけ眼でジュディドにくっついて甘えてくる。
「奈央、風邪を引いてしまう前にベッドに移ろう」
そう言うとジュディドは奈央を抱き抱え、寝室のダブルベッドに奈央を運んだ。奈央は再び眠りに落ち始めていた。……そうはさせない。妻の寝顔を見つめながら、ジュディドはその唇に自分の唇をそっと重ねた。
翌日、ジュディドが仕事から帰ると、奈央は何やら書き物をしていた。分厚い原稿用紙が幾重にも重なっている。参考図書がないところを見ると奈央の個人的な日記の類なのだろうか。
「何をしているんだい?」
ジュディドは後ろから妻を抱きながら覗き込んだ。日本語で書かれたそれを魔法なしで読むことは不可能だ。
「読んでもいいわよ」
奈央が言う。翻訳魔法を使ってもいいらしい。
「どれ」
ジュディドは原稿用紙に手をかざし、翻訳魔法で奈央の文字を変換する。
中身はこの世界と日本を行き来する方法についてだった。
「こんなの書いてもきっと魔法省に発禁処分にされちょうでしょうけれど、いつかこれが必要な人が現れるかもしれないでしょう?私たちみたいに。未来の異邦人のために残しておいてあげたいの」
「そうだな」
魔法省に勤めるジュディドはこの日記が発禁処分になることは明白に分かっていた。この世界と別の世界を簡単に結んでしまえば、世界の平衡が保たれなくなってしまうからだ。もしかしたら日記の存在自体を消されるかもしれないーー。
だがジュディドはこの書き物を未来の異邦人に残してやりたいと思った。自分のような身の切れる思いをさせたくなかった。もしその異邦人が元の世界に帰りたいと望んだなら帰してやりたいし、自分と奈央のように離れ離れになりたくない人がいたなら、世界を繋ぐ方法を教えてやりたかった。
「奈央、この本に魔法をかけてもいいかい?」
「うん?なんの?」
「この日記が必要な者にしか見つけられない魔法。そうすれば魔法省に隠蔽される心配も少ないだろう」
「ええ、いいわよ」
ジュディドは日記に手をかざす。日記はするすると消えていった。
「あの日記はどこに行ったの?」
奈央が心配そうに問う。
「大丈夫、必要とする者が現れるまで姿を隠しただけだから。どこかでひっそりと隠れんぼをしているよ。三井千尋の日記のようにね」
「そう」
奈央はほっとした表情を見せた。嬉しそうに笑う妻の笑顔を見て、三井千尋が遺してくれた日記に感謝をする。
だが願わくば、奈央の日記のようにもっと分かりやすい方法を示して欲しかった。そうは言っても魔法省の検閲をすり抜けるためのギリギリの表現だったのだろう。仕方ないとは思う。それでも謎解きに九年間も要した身からは、もうこんな思いは誰にもして欲しくない。
「次にこの国を訪れるのはどんな人かしらね」
「さぁて」
奈央の日記が次の異邦人の手に渡るのはおよそ100年後のこと。奈央たちのひ孫の代のお話である。




